傘のロジック【解決編】
「うーん……亨が見たはずの二種類の黒い傘は何なんだろうな。白本ちゃん曰わく黒い傘は一本しかないんだろ?」
剣也の呟きに委員長が応じる。
「考えられるのは生野くんか白本さん、どちらかの見間違いだよね」
「おれは見間違えてないよ。絶対に今朝見た安住君の傘とさっき見た黒い傘は別だった」
「由姫も見間違えるなんて有り得ないわ。だって由姫だもの」
おれと萩原さんが自信を持って言う。力強い返事に委員長は一瞬面食らうもすぐに思案する表情に戻った。
「それじゃあ、もう一つの可能性かな……」
「もう一つの可能性?」
丈二がオウム返しする。
「早退した生徒がいたのかなって。白本さんが傘立てを見たのは五限目の後でしょ? だからその前に早退した生徒が生野くんの見た安住くんの真っ黒な傘を持っていってしまった。これなら筋が通るよね」
おお、確かにそうだ。それならば。
「それなら学年主任の先生に訊きにいこうか。早退者がいたかどうか」
この昇降口を使うのは一年生だけだから、一年生の学年主任に尋ねるだけでいい。
異論はなかったのですぐさま五人でジャンケンする。負けた丈二が職員室にダッシュで向かっていった。
二分後、帰ってきた丈二は息を切らし気味に言う。
「今日、はぁ、早退した生徒は……一人も、いないとさ。上級生も……ぜぇ、含めてな」
「本当かよ丈二?」
剣也が眉をひそめた。
「嘘つく必要は、ない、だろ……ぜぇぜぇ」
お疲れさん。
しかしこれで委員長の案は否定されてしまった。みんなから、そしておれからため息が漏れた。もうどうしようもない。
何度目になるかわからないが、ぶつかっている問題を整理してみよう。安住を犯人とした場合、麗川君が盗んだ黒い傘の持ち主がいなくなり、安住君が自分の傘と同色のものを盗んだ理由がわからなくなる。安藤さんを犯人とした場合、安住君の帰宅手段がわからなくなる。そしておれが目撃した二種類の黒い傘は、白本さん曰わく一本しかなかったという。
口に出してこれらを言うと、周囲に諦めムードが漂ってしまった。そりゃそうだ。
すやすや眠る白本さんを見る。やっぱり最終的には、彼女頼みというわけだ。
◇◆◇
十五分後、萩原さんが白本さんの身体を揺すって起こした。いつもはすぐに起きるのに、今回はやけに時間がかかったように思う。ひょっとしたら、萩原さんが危惧していたように半分くらい気絶していたのかもしれない。というか気絶ってなんだよ。
白本さんは、ふぁあ、と目を擦りながら欠伸をすると伸びをして立ち上がった。敷かれていたハンカチを目にすると、
「あ、ハンカチ敷いてくれてたんだ。ありがとね、なっちゃん」
「これくらいは当然よ」
ハンカチを拾いつつクールに返す萩原さん。……盗撮紛いのことをしていなければ格好いいのだが。
「それで、白本さん。事件の謎は解けたの?」
委員長が期待の籠もった眼差しを向ける。
「うん、解けたよ。だけどいまある情報からの推察になっちゃうから、また新しい情報が出てきたらどうなるかわからないけど」
流石は白本さんである。おれたちは黙り込んで推理を拝聴する体制を取った。
白本さんはおれたちを見回し、口を開いた。
「とりあえず、生野くんが見た二種類の黒い傘に関しては後に回して、誰が委員長の傘を盗んだのかを話していくね」
白本さんが説明を開始した。
「単刀直入に言うと、犯人は安住くんだよ」
犯人が安住君だとすると、麗川君がさしていた黒い傘の真の持ち主、それから自分の傘と同色の傘を盗まなかったのかという謎が残る。当然その理由も話してくれるだろうから訊くのは野暮だ。
「まず麗川くんがさしていたっていう黒い傘に持ち主について。いま学校に居残っている生徒のものとも、安藤さんのものとも考えられない。だったら単純に、その黒い傘は麗川くんのものだったんだよ」
「いや待って! 今朝麗川君の身体は濡れていたんだよ? だから傘は忘れたはずなんだけど……。それとも、麗川君の身体が濡れていたのは雨じゃなくて別の要因だっていうこと?」
先ほど野暮だと思ったばかりなのに、びっくりしてついつっこんでしまった。
例によって白本さんはちゃんと教えてくれた。
「ううん。身体が濡れた要因は流石に雨以外に考えられないよ。傘はしっかりと忘れていたじゃないかな」
しっかりと忘れる、という日本語はなんだか変だ。
「だったら、麗川くんの傘はどこからきたの?」
委員長がもっともな疑問を呈した。雨に濡れていた=傘を忘れた。この図式に間違いはないはずなのに、あの黒い傘は麗川君のものだという。これはいったい……?
「それは――」
「ああ! そういうことか!」
白本さんの声に丈二の叫びが被さった。それを聞いて、やっぱこいつ推理力と理解力あるんだな、と思う。
興奮したように丈二は言う。
「確かに麗川は傘を忘れていたんだなあ! そうかそうか、そういうことか」
「わかってみると大した謎じゃないでしょ?」
「そうだね。単純明快だ」
「で、結局どういう理由なわけ?」
痺れを切らしたように萩原さんが聞いた。白本さんは――焦らしていたわけではないだろうが――ようやく説明してくれた。
「麗川くんは今朝家に傘を忘れたんじゃなくて、昨日学校に忘れたってことだよ」
昨日学校に……って、そういうことか!
「麗川くんは昨日傘をさして学校に登校したけど、昨日は夕方には雨がやんでいたから、その傘を学校に忘れちゃったんだと思う。そして今日、代わりの傘がなかったから仕方なく手ぶらで登校した。だけど下校するときには昨日忘れた自分の傘があったからそれを使って帰った。黒い傘の持ち主の謎はこんな感じじゃないかな」
「それじゃあ、安住が黒い傘じゃなくて委員長の濃緑の傘を盗んだ理由は何でなんだ?」
「それとおれが見た二種類の傘の謎は?」
剣也と共に矢継ぎ早に質問する。白本さんは落ち着いたまま答えてくれた。
「それらの謎は一遍に解決できるよ。今朝生野くんが見た安住くんの傘は真っ黒だったんだよね?」
「うん」
「だったら話は簡単。生野くんが見たその傘は実は黒くなかったの。見間違いだったってことだね」
「いや、そんなはずはないけど……。真っ黒なんて別の色と見間違えようがないし」
「それがあるの。……今朝生野くんが昇降口にきたとき、いまみたいに電灯の明かりは点いていた?」
「え? 確か点いてなかったけど……」
この言葉で丈二と萩原さんが悟ったようだった。
「なるほど。つまり生野君は黒いじゃない、別の濃い色の傘を黒と見間違えてしまったってわけね」
萩原さんの呟きに白本さんが首肯した。
おれも納得した。色というものは暗い場所で見ると濃く見えてしまう。あのとき昇降口は薄暗かった。そんな中では――例えば紺色や藍色の傘は黒い傘になってしまうだろう。しかし白本さんがここの前を通った五限目の休み時間には既に電灯が点けられていたのだろう。だから彼女の記憶には黒い傘が一本しかなかったわけだ。
委員長が深く頷く。
「なるほどお。じゃあ安住くんが黒い傘じゃなくてわたしの傘を盗んだのは、彼自身の傘が濃緑に近い色だったからなんだね」
「もしくは自分の持ってる傘と似た色のものがなかったからどっちでもよかった、ってところだな。……事件をまとめるとこうなるわけだ」
剣也が今回の件の総括を行う。
「まず安住が最初にやってきて、自分の傘を探すがなかったので委員長の傘を盗んで帰った。次に麗川がやってきて、昨日学校に忘れた自分の黒い傘を使って帰った。最後に安藤さんがやってきて彼氏と相合い傘をして帰った。こんなところかな……」
「ううん。わたしは違うと思ってる」
正確に思えた剣也のまとめを白本さんは否定した。これには剣也も困惑の表情を浮かべる。
「え? どっかおかしなところがあんのか?」
「大方はあってると思うけど、わたしは安住くんの傘が盗まれていたとは考えてないんだ。彼はむしろ、雨が降る前に傘を持たずにやってきたんじゃないかな」
「はあ!? なんでそうなるんだ!?」
「生野くんは普段安住くんとは喋らないし挨拶もしないんだよね?」
「うん、しないよ。仲が悪いんじゃなくてお互いに無関心なだけだけど」
「それなのに今日に限っては挨拶をしてきたんだよね? 手にしていた傘を傘立てにさしながら」
「う、うん。……まさか」
彼女が何を言いたいのかわかった。白本さんはおれの考えを汲み取ったのかこくりと頷く。
「安住くんは知り合いである生野くんにわざと自分の傘を見せつけたんだよ。自分が傘を持ってきたと、そう思ってもらうために」
「何のためにそんなことを?」
「下校時に傘を盗むに当たって、不安だったんじゃないかな。安住くんは朝早くきたから傘を持ってないんじゃないかって思われて疑われるのが。だから誰でもいいから――できれば知り合い――自分を無実だと思ってくれる人がほしかった。そのために昇降口の近くで顔見知りがくるのを待っていたんだよ」
「そこにおれがやってきたから、安住くんは傘立てから傘を一本抜いて、おれに声をかけたわけだね。さも自分はたったいま傘をさして登校してきたばかりですよ、とアピールしつつ」
「そう。……たぶんだけど、そのアピールに使われたのが委員長の傘なんだと思う。傘をさした位置が麗川くんの黒い傘と離れていたら生野くんが違和感を覚えただろうし、濃緑で赤いネームバンド、黒い柄の傘なら薄暗いところじゃ真っ黒に見えるだろうからね」
今回の事件を整理するとこうなる。安住君は今朝、雨が振る前に愚かにも傘を持たずに学校へやってきた。そしたら雨が降ってきたので、下校するときまでにやまなかったら傘を盗もうと画策した。しかし画策したはいいけれど、いざ実行に移すとなると朝早くやってきた自分に疑いがかかるのではと不安になったので、おそらくトイレにでも隠れて、人が集まって傘立てに傘が増えるのを待った。そして昇降口で顔見知りがくるのを待ち、その人物――おれ――に声をかけつつ、委員長の傘を利用していま傘をさして登校したとアピールした。それから帰り、部活で遅くなったのだろう安住君は奇しくも残っていた委員長の傘を盗んで帰宅。続いて麗川君が昨日忘れた自身の傘で帰宅。そして安藤さんが彼氏と相合い傘をして帰宅した。こういうことだろう。
推理通りなら安住君は相当な小心者のようだ。傘を盗むのにそこまでする人はなかなかいないだろう。
「安住が犯人ってわかったのはいいけど、傘を返してもらおうにもあいつの連絡先知らねえからなあ」
剣也が残念そうに言うと白本さんは首を横に振った。
「連絡網を憶えてるから、安住くんの家の電話番号ならわたしが知ってるよ。もうこの時間なら家に帰ってると思うから連絡はつくんじゃないかな」
これには萩原さんを除いた全員が絶句した。白本さんの記憶力、マジですごいな……。
早速剣也が電話した。安住君に対して「濃緑の傘を盗んだのはお前か?」と直球に尋ねると、彼はあっさりと認め、学校まで返しにきてくれた。そして話を聞いたところ、白本さんの推理したことは完全に当たっていた。
委員長は注意だけして安住君を許すという大人の対応を見せた。こうして、随分と複雑で風変わりな傘の盗難事件は、何とか一件落着したのだった。




