捜査開始
またしても、変な事案に巻き込まれてしまった。四月の密室イチャイチャ事件から始まり、今回で四度目である。中学では身近にこんなこに遭遇したことすらなかったのに、高校に入った直後に立て続けにこんなことが起こるなんて。いったいおれの身に何が起こったというのか。
いや、愚痴るのはここまでにしよう。おれは白本さんに助けを求めたが、それ=おれが何もしなくていい、ということにはならないだろう。当事者なのだから頼りっぱなしではなく、自分の知恵も使わなくてはならないだろう。
「質問があるんですけど、いいですか?」
「おっ、なになに?」
皆口さんが気前の良い返事をくれた。
「みなさんがここにどうやってきたのかとか、濡れたスケッチブックを発見したときの状況とか、教えてもらっていいですか?」
「オーケー。私と大塚は同じクラスなんだけど、ホームルームが終わった直後に私はすぐ職員室に美術室の鍵を取りに向かった。これはいつものことよ。ただ、ホームルーム自体が少し長引いたから、他クラスより放課後になるのが遅くなったのよね」
だからおれと白本さんの方が早くここに着いてしまったので、まだ鍵が閉まっていたのか。
「んで、鍵借りて急いで美術室に向かう途中の渡り廊下で大塚、エリと合流した」
「俺は皆口が追いつけるよう気持ち遅めに歩いてたからな」
「私はホームルームが終わった後、少しの間友達と喋ってからこっちにきました。その途中で大塚さんと一緒になったんです」
大塚さん、日高さんと話してくれた。鍵を借りに職員室へ向かった白本さんはどうなったのだ?
「わたしは生野くんとこの部屋の前で別れて職員室に向かったんだけど、先輩たちと違うルートを通っちゃったから入れ違いになっちゃったの。職員室に入る寸前に、皆口さんから『大変なことになったから美術室にきて』という連絡があって、きてみたら……」
白本さんは不快な色に染まった水溜まりに視線を落とした。こうなっていた、というわけか。
おれはおずおずと手を挙げた。
「あの、鍵の貸し借りの話で思いついたんですけど、この部屋って合い鍵はないんですか?」
「ないね。授業でも使う部屋だから、長時間鍵を持ち出しておくことはできないから」
「ですよね……」
元より期待はしていなかった。
白本さんが皆口さんに視線を上げた。
「スケッチブック発見時はどんな感じだったんですか? わたしもいなかったので気になります」
「んーとね、普通に鍵開けて中に入ったら、イーゼルの上にあるはずのスケッチブックが床に落ちてて、大塚がそれを拾おうとしたら水で濡らされてるのに気づいて絶叫した、って感じかな」
アナログゲーム部の部室で聞いた悲痛な声はそれか。
「その後、大塚が職員室で鍵の貸し出し名簿を見て、私の前に『生野亨』って生徒が鍵を借りていることを知り、ちょうど由姫ちゃんがいたからあなたが呼ばれたってわけ」
「なるほど……」
白本さんが素早く手を挙げた。
「そのスケッチブックはどんな風に濡らされてました?」
皆口さんは普段とは表情が違う白本さんに驚きつつ、大塚さんからスケッチブックを引ったくった。問題となっているページを下にし、ページをまとめている螺旋状の金具を間仕切り壁に向けて、水溜まりに浸けた。その衝撃で波紋が広がる。
「こんな感じだったけど?」
これが何なの? と言いたげなきょとんとした顔で皆口さんは言った。おれも言いたい。けれど白本さんはかつてないほど真剣な眼差しでスケッチブックを凝視している。
白本さんに習い、おれもスケッチブックを観察してみた。スケッチブック自体は螺旋状の金具でまとめられた、どこにでもある普通のものだ。そして問題のページは床を向いてしまっているので、いま見えるのは折り返された綺麗な白紙のページである。これを見て白本さんは何を考えているのだろう。
わからないので、少し視野を広げてみる。青緑っぽい色に染まった水溜まりはイーゼルの足元から壁にまで浸食している。といっても、イーゼルと壁の距離は精々一歩程度なので、そこまで大きなものではない。周りに水が飛び散ったような水滴などはなく、非常に綺麗な水溜まりである。
イーゼルはお馴染みの三脚スタイルで、カンバスやらスケッチブックやらを水平にも固定できるものだ。他のものと微妙に違うのは、絵を固定するために乗せる部分の面積が広く、簡易的なテーブルとしても利用できる点といったところであろうか。特に手掛かりはなさそうである。
白本さんが考え込んでいるのを尻目に、おれは新たな質問を飛ばす。
「そもそも、スケッチブックにはどういう絵が描かれていたんですか?」
「風景画だよ。青い空、白い雲の下、緑の丘を赤色の汽車が走ってる絵だ」
大塚さんがぶっきらぼうに言った。おれは昼間の記憶を呼び起こす。イーゼルにスケッチブックが置かれていたのは憶えているが、どういう絵だったかは憶えていない。けど何となく絵のイメージは湧いた。
大塚さんはため息を吐いた。
「まったく……。ようやく昨日完成したってのに」
「あ、昨日完成したんですね」
白本さんが水溜まりから視線を戻して言った。すると日高さんが肩をすくめながら、
「そうなんです。完成直後、発狂したかのように『できたぁぁぁぁぁ!』って叫んだんですよ。びっくりしたのなんのって」
「わ、悪かったな。けどしょうがないだろ。昨日まで何枚も描き直してたんだから」
「何枚も?」
皆口さんがいまだ水に浸かっていたスケッチブックを取り上げ、適当なページを開いて見せてくれた。
水が染みたからか微妙に滲んだ箇所があるが、イメージしていた絵と同じような感じだ。ただこの絵では丘を走っているのは赤い汽車ではなく、赤いバイソンであった。それから別のページ、また次のページと捲られていく。どれも同じようなデザインの絵が続いていた。
「こんな感じで、似た絵を乱立してたのよね。それでようやく昨日、大塚の頭にピンとくるものができたんだよねぇ」
「その絵を油絵として模写して、コンクールに出す予定だったんですね?」
「ああ……。過去最高の傑作だったのに……」
大塚さんが苦い顔で頷き、悔しそうに呻いた。
「コンクールにはもう間に合わないんですか?」
「微妙なラインだ。昨日とまったく同じ絵を一日二日で描けるとは思えないからな」
「まあ、絵画に疎い私でも良いと思える絵だったしね」
先ほどはどうでもいいと言っていた皆口さんだが、絵に対して好感情は抱いていたらしい。ため息を吐く大塚さんを見て、おれがやったわけじゃないのに申し訳なってくる。
「その絵が完成したことを知ってるのって誰がいますか?」
白本さんが尋ねた。大塚さんは天井を仰ぎ、
「昨日この部屋にいた奴だけだよ。俺、皆口、日高、それから我妻先生」
「そうですか……。皆口先輩と日高先輩はそのことを誰かにいいましたか?」
首を左右に振るお二人。皆口さんはキョトンとした顔で言う。
「別に言う必要もないしね。我妻先生も言ってないと思うわよ。基本的に他人の作品に興味ないみたいだし」
白本さんは再び考え込んだ。おれも何か訊いておこうか。
「皆口さんと日高さんはコンクールに作品を出すんですか?」
「私は出すよ。絵じゃなくて彫刻だけどね。けど、ここじゃなくて家に置いてあるよ。今日みたいなことがあるかもしれないしさ」
なるほど。それは英断だったかもしれない。
「日高さんは?」
「私は出しません。水彩も油彩も彫刻もやらないので」
「え、じゃあ何やってるんですか?」
皆口さんがうっふっふ、と笑った。
「エリは漫画を描いてるのよ」
「漫画!? じゃあ何で美術部に入部してるんですか? 漫画研究会だってあるのに」
「漫研にはよく出入りさせてもらってます。ただ、私はどうしても美術部に入部したかったのです」
「どうしてですか?」
「漫画こそ至高の芸術だからです! その考えを広めるため、私はここに入部したのです!」
よかったですね的場さん。すぐお隣に仲間がいましたよ。
どこか張り詰めていた空気だったのが、彼女の壮大な発言により幾分か緩んだ。ただいまは緊張感を持っていたいので、気を引き締める意味を込めて咳払いをした。ええと、他に訊くべきことは、と……そうだ。
「美術部員ってこの四人だけなんですか?」
何のことはない質問のはずだったのだが、白本さんを除いた三人に気まずそうな空気が走った。
「もう一人、いるんだけどね……」
「幽霊部員なんですか?」
三人のまとう空気から察するに違うのだろうが。案の定、皆口さんは首を左右に振った。
「ううん。誰よりも真面目に部活に取り組んでる子なんだけどね……。二年生の井上菊乃って子、知ってる?」
「いえ……」
「色んなコンクールで賞を取ってる凄い子なんですよ」
日高さんが教えてくれた。けど、と大塚さんが続ける。
「俺は井上と同じ中学だったんだけど、その当時から身体弱くって、学校を休みがちだったんだよ。高校に入ってからもあんまり調子がよくなかったみたいでな。進級はできたんだけど……」
「四月から療養のために入院、休学してるのよ。復帰の目処はまだ立ってない」
一番言いづらい部分を部長の皆口さんが説明した。デリケートなことを尋ねてしまい、申し訳なく思った。
とりあえず、事件の考察に戻った方がいいかもな。といっても、他に訊くべきことは思いつかない。頼みの綱の白本さんを見る。彼女は真剣な顔で顎に手を添えて何かを考えている様子だ。そして若干うつらうつらしているようでもある。これはもうすぐ寝るのではないか。と思っていたが、白本さんは両手で自分の両頬を叩いた。どうしたのだろう。
心配になったおれは白本さんに小声で尋ねる。
「眠いなら寝た方がいいんじゃない?」
というか眠って、早く解決してほしい。しかし白本さんはゆっくりと首を左右に振り、
「寝る前に、少しでも多くの情報がほしいの。寝ても解決に必要な情報が欠落してたら意味ないから」
へぇ、そういうものなんだ。少しでも多くの情報、か……。
「だったらアナログゲーム部の先輩の話を訊く? 四時限目に美術の授業でここを使ってるから……って、日高先輩も二年生でしたね」
彼女が美術の授業を受けていたら的場さんに話を訊きにいかなくてもいい。
「そうですけど、美術ではなく音楽を選択してますから、四時限目の美術室のことは知りません」
「そうですか。それなら的場先輩の話を訊いておく?」
白本さんはこくりと頷いた。




