おれじゃねぇ!
ホームルームが終わり放課後が訪れた。おれは剣也に部室に顔を出すことを伝えて教室で別れると、部室がある北棟二階へと向かう。あんまり早くいっても的場さんがいないかもしないので、のろのろと進むことにした。
その結果というのかどうかはわからないが、美術部故に美術室へ向かう白本さんと横並びになっていた。彼女は歩行速度がかなり遅いのである。せっかくなので雑談でもしようかと思っていたら、白本さんが話しかけてきた。どこにいくのかという問いだったので、アナログゲーム部のことをかいつまんで説明した。
「へぇ、美術室の隣りって部室になってたんだね。アナログゲーム部なんて部活があること自体、知らなかったよ……」
相変わらずのふわふわ声に驚きが混じっていたのがわかった。
「おれも中学が一緒だった先輩から聞くまで知らなかったよ。何でも、新入生に配られる部活一覧表に載せるのを事務の人が忘れちゃったらしいよ」
「それは……不運だね」
「そうだね。でも、それだけじゃなくて、生徒会にも忘れ去られたのか、部費までストップしちゃっているみたいなんだ」
白本さんが目を見開いた。
「それって、もう同好会なんじゃ……」
「事実上そんな感じかもね。けど部員は十人ほどいるんだ。まあ、その殆どが幽霊部員なんだけど……」
「生野くんも?」
「おれは半幽霊部員かな。たまに顔を出す程度だよ。毎日活動してるのは部長の的場先輩だけだと思う。そんな部活だから、通称幽霊部って呼ばれるんだ」
そのあんまりな呼称に、白本さんは苦笑した。彼女には言わないが、アナログゲーム部が幽霊部と呼ばれるのには実はもう一つ理由があったりする。
「どうして生野くんはアナログゲーム部に入部したの?」
小首を傾げながら白本さんが尋ねてきた。その質問にどう答えようかおれは一瞬詰まった。録な理由ではないからだ。
「おれは、何やっても続きそうにないからさ。幽霊部員の多い部活に入って、その中の一人に紛れちゃおうと思ったんだ」
「じゃあどうしてたまに顔を出してるの?」
「いや、部長が一人だけで毎日活動してるって聞いて、幽霊部員のままでいるのが忍びなくなったっていうか……」
頭を掻きながら言うと、白本さんはくすくすと微笑んだ。
「生野くんって、優しいんだね」
思いがけない言葉に首を捻ってしまう。
「優しいかなあ。本当に優しかったら毎日参加するんじゃない?」
「ううん。そういうのは優しいんじゃなくて、自分の気持ちを抑えて相手に気を遣ってるだけでしょ? それは接待であって優しさとは違うと思うんだ。生野くんみたいに、適度に自分の意志が混じってた方が相手側も恐縮しないと思う。……気を遣われ続けると、相手の本音がわからなくなって怖くなっちゃうもん」
妙にリアリティありげな言葉だった。それは彼女の実体験だったりするのだろうか……。
とりあえず、褒められたことへの照れ隠しと微妙に暗くなった空気を戻す意味を込めて咳払いをした。こっちからも質問してみる。
「白本さんはどうして美術部に入ったの?」
「……美術部って殆ど個人活動でしょ? それなら寝ちゃっても誰にも迷惑かけないと思って。絵を描くのもけっこう好きだしね」
寝ちゃっても、か……。彼女の睡眠欲は部活選びにまで影響を及ぼしているのか。この機会にどうしてそんなに眠るのか、ということについて訊いておくべきだろうか。……と思っていたところで美術室とアナログゲーム部の部室に到着してしまった。
白本さんが美術室の引き戸に手をかけた。しかし鍵が掛かっているのか、彼女が力を込めても動くことはなかった。
「まだ先輩たちがきてなかったみたい。鍵取りにいってくるね」
と言って彼女はやや小走りで駆けていった。
タイミングを逃したおれは一つため息を吐いてアナログゲーム部の引き戸を開ける。中には女子生徒が一人、テーブルで何枚かのカードを広げて座っていた。
突然開いた戸にびっくりしたのかその女子生徒――的場凪子さんの頭がさっと上がった。しかしそのせいで長い髪の毛で顔が隠れ、更に白本さんのような綺麗な色白ではなく不健康そうな青白い肌と相まって、貞子のような風貌になってしまっている。思わず喉の奥で呻いてしまう。
「生野……きてくれたんだね……」
「はい……。お久しぶりです。的場先輩……」
的場さんのかすれたような、それでいて唸るような低い声にぞっとしつつ答えた。背筋から何かが這い上がってくるような錯覚を覚える。怖い。しかし地声がこれなのだからしょうがない。白本さんのふわふわボイスは聞いていて心地いいけれど、こちらは人の恐怖を煽ってくる。
このアナログゲーム部が幽霊部と呼ばれているのは、幽霊部員が多いからというのは先ほど白本さんにしたばかりであるが、その他に部長の的場さんが幽霊みたいだから、という理由もあるのだ。
おれは後ろ手で引き戸を閉め、近くにあった椅子に座った。テーブルに裏向きで並べられたカードを見て、一抹の不安を感じたおれは口を開く。
「あの、的場先輩……。何をしてたんですか?」
目の前の幽霊チックな先輩は自嘲する笑みを作った。
「……ん? 誰もこないから、独り人狼をやろうと思っていただけよ……」
ここまで悲しい遊びがあるのだろうか。というかどうやってやるのだ。
あまりの申し訳なさに謝りたい衝動を抱えていると、的場さんはほっとしたように息を吐いた。
「でもよかった。生野がきてくれて……。独り人狼、もう飽きちゃってたから……」
本当にごめんなさい。
「これで二人人狼ができるね……」
「いやできませんから! そしてやりませんから! 普通に二人で遊べるゲームをしましょうよ」
たまらずつっこんでしまった。的場さんは口を弓なりに曲げ微笑み(失礼だけど取り憑く相手を見つけた悪霊にしか見えない)、
「生野はつっこむのが大好きだよね……。まあ、私って変だもんね。つっこみたくもなるよね……」
凄まじいほどネガティブなエネルギーが彼女から放出されているのを感じる。ほっとけばそのうち黒いオーラとして視覚化されるのではないか。
「別に的場先輩だけにつっこんでるわけじゃないですから! おれの周りには他にもつっこみがいのある人はたくさんいますから!」
「そう……。私、つっこみがいがあるんだね。やっぱり変人だと思ってるんだね。ううん。気にしないで。とっくに知ってたから……」
めんどくせえ。この人を変人と思わない人はまずいないだろう。
ため息を吐く。
「別に変人なのは悪いことじゃありません。姉と妹、それから男友達はみんな変だけど、いい奴らばかりなのでそれは断言できます。ですから、そう気を落とさないでください」
「生野……」
蒼白な顔に僅かな光が差したのが見て取れた。はあ。部活にきて五分も経ってないのにどっと疲れた。授業を受けていた半日よりエネルギーを消費する文化部ってなんだよ。
「それにしても生野って大変なんだね。そんなに沢山の変人に囲まれてるなんて……」
「いえ、それほどでもないですよ。人に迷惑をかけるパターンの変人じゃないし、みんな先輩みたいにめんど――」
面倒くさい人たちではないので、言いかけてはっとした。まずい! と思ったそのとき、天の助けが到来した。
この部屋と美術室を仕切っている壁の向こうから男の悲痛な叫び声が上がったからだ。おれはそれに乗じて言葉を切った。
「何でしょうかね?」
「さあ……」
興味なさげに的場さんが返してきた。がやがやと人の声が重なり合い、何やら騒がしい様子だ。白本さんは大丈夫だろうか。
突然、的場さんが思い出したかのように「あっ」と呟き、バックを漁り始めた。茶色の長財布を取り出し、それを差し出してくる。
「この財布って生野のじゃない? 見覚えがあったんだけど……」
外見はおれの持っていたもので間違いない。して中身は……五百円玉が入っているだけ!
「おれのですね、完璧に。ありがとうございます。どこでこれを?」
「美術室……。四時限目が美術の授業だったんだけど、座った机の中に入ってたんだ……。生野もあんな片隅に座ってるんだね……。同志」
お願いだから一緒にしないでもらいたい。おれは何となく座っただけである。
「もっと早く渡してくれれば更にありがたかったんですけど」
「昼休みにご飯食べた後生野のクラスにいったんだけどいなかったのよ……」
おれが美術室にいったときにきたのかもしれない。お互いタイミングが悪かったようだ。
「五時限目の後の休み時間は用事があったし、だからいまになったの……。職員室に預けてもよかったのだけど、手渡しした方が早いと思って……」
「スマホに連絡してくれればよかったのに」
「連絡先知らないし……」
「す、すいません。いま教えますね」
LINEはやっていないようなので、メールアドレスと電話番号を交換した。
「うふふ……。家族以外の人間と連絡先を交換したのは二回目だなあ。最初に交換した子は最近連絡取れにくくなっちゃったから……」
悲しそうに言う的場さんに、おれも悲しくなっている。
財布をバッグにしまって一息つく。さっきまで騒がしかった美術室が静かになっていることに気づく。何だったんだろうか……。
なぜか胸騒ぎを感じていると部室のドアがノックされた。めったに来客などこないからか的場さんがびくびくと肩を震わせる。仕方がないのでおれが返事をした。
引き戸が四分の一ほど開き、白本さんが不安そうな顔を覗かせた。
「白本さん? どうかしたの?」
「うん……。生野くん、いま大丈夫?」
「まだ何もしてないからいいけど……」
白本さんに手招きされ廊下に出た。そのまま美術室に連れていかれる。
「あの、連れてきました……」
美術室の引き戸を開けるなり、白本さんが声を抑えて言った。室内には三人の生徒たちがいた。ボブカットで黒のフレームの眼鏡をかけた女子。ひょろっとした身体に天然パーマが特徴的な男子。小柄で黄色いカチューシャをつけた女子。全員イーゼルや彫刻などと共にアナログゲーム部との間仕切り壁の前に集まっている。
「君が、生野亨か?」
天パの男子生徒が険しい声で尋ねてきた。
「そうですけど……どうかしましたか?」
どうしておれはここに連れてこられたのだろうか。美術部だった姉ちゃんの関係か?
訝りながらもおそるおそる三人に近づく。天パさんは険しい表情を、眼鏡さんは困惑気味な表情をそれぞれ浮かべている。カチューシャさんは興味なさげにスマホをいじっていた。
天パさんは近くにあったイーゼルに乗せられていたスケッチブックを手に取ると、おれに突き出してきた。
「どういうことか、わかるよな?」
声に怒気が含まれているのを感じ取った。何なんだよ……。
おれは突き出されたスケッチブックを観察する。向けられているのはちょうど中間辺りページだった。何が描かれているのかというと、緑や青や黄色など様々な色が混濁してぐちゃぐちゃになり、髪全体に広がっている意味不明極まりない絵だった。いや、これは絵と呼んでいいのだろうか。まだ乾いていない……というかむしろびしょびしょに濡れているような気さえする。
「ち、抽象画ですか?」
「違う。……これを見ろ」
そう言って天パさんはスケッチブックがあったイーゼルと間仕切り壁の間を指さした。そこには例の絵(?)と同色の液体が広がっていた。
「どういうことか、わかるよな?」
状況的に考えられることは一つだろう。
「その絵は元ははっきりとしたものが描かれていた水彩画で、それが水に濡れてそうなってしまったんですね? そしてその絵を消し去った水がそこの濁った水溜まり、というわけですね」
「違う!」
急に声を荒げられ、びくりと肩を震わせてしまう。
「ち、違うんですか?」
「いや合ってる。違うというのは『そういうことを訊いたんじゃない』という意味での違うだ!」
「じゃあ、どういうことを訊きたかったんですか?」
「お前がやったんだろ? ってことをだよ」
「……は?」
言葉の意味がよくわからず、つい聞き返してしまった。おれが何だって?
「だから! お前がこの水で俺の絵で消したんだろ!? とぼけるな!」
一瞬、わけがわからずおれは呆然としてしまった。
おれが水彩画を消しただあ? そんなことしてないぞ。おれじゃねぇ!