何のダジャレだ?
ゴールデンウイークが終わって、何日かが経った。高校に入学してから一ヶ月以上が過ぎたと思うと、時間が流れるのは早いのだなあと実感する。登校しながらそんなことを考える朝である。
ゴールデンウイークの最終日に行われた『白雪姫』の劇はつつがなく終了した。白本さんは案の定途中で眠ってしまったが、ラストシーン前に目を覚まし、バッドエンドにはならなかった。
あくびをしながら歩いていると、校門へと続く坂で剣也を発見した。背後から声をかける。
「よう」
「ん? ……亨か。どうした?」
「いや挨拶をしただけだよ」
どんだけとんちんかんな返しなんだ。
おれは剣也の隣に付いた。
「昨日学校でなんか面白いことあったか?」
この問いに剣也は、くっくっく、と笑った。
「この間の俺みたいなことを訊くじゃねえか」
「しょうがないだろ。昨日は休んじまったんだから」
「お前も大変だよな。わざわざ名古屋まで看病しに行かなきゃいけないなんてよ」
おれは昨日、熱を出してしまった姉ちゃんを看病するために、学校を休んで名古屋に繰り出していたのだ。ここから名古屋までは電車で一時間ちょっとなので、長旅というわけではない。ちなみに、姉ちゃんの年齢は二十歳です。大学二年生です。その歳なら一人で何とかしろよという話だが、うちの姉は特殊なのである。
宙を仰ぎながら剣也がどこか悔しげな声を上げる。
「ああクソッ! 病床に伏せた姉をたった一人で看病するとか、羨ましいシチュエーションだなぁおい!」
「大変そうなのか羨ましいのかどっちなんだよ」
「羨ましい! 美人の姉がいるとか羨ましいよ!」
「それもう百回くらい聞いたわ」
地団駄を踏まんばかりの剣也に冷ややかにつっこむ。
「そういうのはいいから、質問に答えろよ。おれが休んでいる間に学校で起こった面白エピソードを話せよ」
「なんだその無茶振りわよ……」
校門の目の前で剣也が立ち止まったので、おれも合わせて足を止めた。剣也は腕を組んで考える。考えるということは、これといって特にないのだろう。
もういいぞ、と言おうとしたところで、剣也が口を開いた。
「面白いかどうかは別だが、晴乃徹がまた女子に告白したらしい。その相手はなんと山本澪と来たもんだ」
「晴乃は知ってるけど山本の方は知らないな」
晴乃は同じ中学の同級生である。話したことはないが、有名人だったから名前と顔は知っている。長身でイケメンで運動神経がいいという、剣也の嫌いな人種だ。確かD組だったか。
「山本澪を知らねえのか。一年生の中で上位の可愛さを誇っている子だ。ちなみにA組な。髪が長くて清楚な感じで、年上だったら最高の女子だよ」
「力説されても知らないって」
「ま、中学別だからな」
「そうなのか。……けど、晴乃が女子と付き合うのって何回目だ?」
「俺が把握してる限り、中学から十四回目だ」
中学時代から、晴乃は女ったらしで悪名高かった。平気で二股以上かけたり、金持ちの家の彼女にたっぷりと貢がせて捨てたりと、どこのホストだよとつっこみたくなる男である。噂では、他校の中学の女子生徒にも手を出して、とてつもない振り方をしたため、その中学の女子たちからは異様に嫌われているらしい。
剣也は憎き男の顔を思い浮かべているのか、忌々しそうに頭を掻きながら、
「つってもまだ付き合い始めたわけでもないみたいだけどな。晴乃がラブレターを山本澪に手渡したってだけで」
「ラブレター? あの晴乃がか?」
あいつは、そんなシャイでウブな男などではないだろう。
剣也はため息を吐いた。
「どうやら山本澪はラブレターを渡されたらぐっと来る、という情報をどこかから仕入れたらしい。成功率を少しでも高めようという魂胆だな」
「中学の卒業式で委員長に振られたのが堪えてんのかもな」
晴乃は中学の卒業式の日に我らが委員長に告白し玉砕した。卒業式という舞台で振られ、しかも告白したのが同じ高校に進学する生徒だったので、彼は随分と笑い物にされたのである。おそらく初めて女子に振られたのであろう晴乃は某ボクサーのように燃え尽きてしまっていた。その『敗北』の悔しさが『勝利』への執着に変わったのかもしれない。とかかっこよく美化してみるが、やってることはしょうもないことだ。
「というか、何でお前そんなこと知ってるんだ?」
「晴乃が自分で言いふらしてた。山本澪に昨日の放課後――つまり一昨日――にラブレターを渡したとかなんとかって」
「あいつって、凄い浅はかだな」
登校してくる生徒が増えてきた。校門前で立ち止まって話すのはいい加減邪魔になるので、さっさと昇降口へ向かうことにする。
「でも、晴乃が書いたラブレターって見てみたい気がするな。果たしてどんな甘い言葉を並べてるのか」
おれがそう言うと、剣也は鼻で笑った。
「ラブレターってのはな、地味だったりシャイだったりする子が書くからいいんだよ。あんなちゃらんぽらんが書いたラブレターなんざ、何の価値もねえよ。見るだけ無駄だね」
辛辣だな。まあ、晴乃関してはおれも好きではないが。
昇降口の目の前で後ろから肩を叩かれた。何事かと振り返ると、ジャージを着た見覚えのない顔の女子が水色のハンカチを差し出してきた。
「これ、あなたの?」
おれのだった。角の方に油性ペンで小さくおれのフルネームが漢字で書かれているからすぐにわかった。
「はい。ありがとうございます」
「亨、お前ハンカチを常備してるのか。凄えな」
「いや当たり前のことだろ」
名も知らぬ女子からハンカチを受け取りつつ答えた。彼女は、じゃ、と言って走り去っていった。先ほど陸上部の面々が集団でジョギングをしていたから、おそらく彼女は陸上部なのだろう。
「やっぱり一度でいいから、ラブレターは欲しいよなあ」
剣也が頭の後ろで手を組んで言った。
「いまどきラブレターを書く人なんて滅多にいないんじゃないか。LINEとかメールで告白するパターンが多いみたいだし」
「そんなときめきもドキドキもないクソみたいな告白されて、OKする人間の気が知れねえな」
「まあそうだな」
「やっぱり告白は手紙で呼び出して真正面からするのが一番だ」
「じゃあお前は好きな子ができたらそうするんだな?」
訊くと少し口ごもり、
「……いや、俺は告白するよりされたい側の人間だから。振られたりしたらめっちゃ怖えじゃん?」
「ヘタレかよ」
思わずため息を吐いてしまった。
「亨はラブレター貰ったことあるか?」
「あったらお前に話してるよ」
「それもそうか」
おれたちは昇降口に入り、各々下足箱の前に立った。
「おれたちにはラブレターなんて、縁遠いものなんだよ」
と、この瞬間までは思っていた。
下足箱の扉を開けると明らかに異質な物体が入っていた。一瞬だけ硬直した後、勢いよく扉を閉める。
「どうした?」
剣也が口を履き替えながらきょとんとした顔で尋ねてきた。
「え? いや、何でもねえよ」
おそるおそる、ゆっくりと、再び扉を上げた。やはり幻などではなかったようで、頭がぐるぐると混乱してくる。何だよこれ。どういう状況だよこれ。どうなってんだよこれ。剣也の悪戯か? いや、あいつはこういうくだらない悪戯はしない。じゃあ別の人間の仕業ということになる。そうだとしたら質が悪いが。
「どうしたよ亨」
反射的に扉を閉めた。
「どうしたって、何が?」
「さっきから下足箱を開け閉めしてるじゃねえか。さっさと教室行こうぜ」
「あ、ああ。先に行っててくれ」
「何で?」
「何で……って、下足箱を観賞したい気分なんだ」
「どんな気分だそれは」
「いやほら、昨日おれ休んだだろ? もうさ、ずっと下足箱が恋しかったんだよ。だから昨日見れなかった分をいまね」
剣也は可哀想なものを見る目でおれに視線を投げかけ「とうとう亨がおかしくなったか」と呟きながら去っていった。そう思われても仕方のない誤魔化し方であるため何も言えない。
おれは周りに他の生徒がいなくなるのを待ってから、三度下足箱の中を確認した。やはりある。何なんだよ、これは。何でこんなものがおれの下足箱に入ってんだよ。何で……破れたラブレターがおれの下足箱に入ってんだよ。ダジャレか!? つまんねえよ!
おれはじっくりとそれを観察する。下足箱の下段、外履きを収納するスペースに、ビリビ
リに裂かれた白い封筒が撒かれている。なぜその封筒がラブレターだとわかったのかというと、封筒を接着しているハート型のシールがくっきりと残っているからだ。
何十に分断された紙片の一つを摘まんで、よく確認してみた。層が三重になっている。どうやらこれで封筒だけ破いたのではない、ということが決定したようだ。便箋が入ったままのものを破いて入れたのだろう。
おれは無残な残骸を下足箱の奥へと押し込み、外履きと上履きを交換した。扉は閉めてため息を吐く。
「くそ……全然嬉しくねえ。ここまで嬉しくないラブレターがあるのか。どうすりゃいいんだこれ」
一体全体、誰が何の目的を持ってこんなものを入れたのだろう。正式なラブレターではないことは明らかだ。なぜなら破られてるから。破れたラブレターなんて、もうラブレターではないだろう。あれ? そう考えると、これはもうただ単に嫌がらせなのではないか? ゴミを下足箱に入れられただけなのではないか? いじめ? まだ入学して一ヶ月ちょっとしか経ってない。人に恨みを買ったり舐められたりするようなイベントは経験してないぞ。
わからない。どうしよう。どうすればいいんだ。とりあえず昼休みか放課後にでも剣也に相談しよう。おれにはもうどうしようもない。
◇◆◇
おれのクラスたる一年B組の前でクラスメイトの女子生徒と目が合った。小柄で眼鏡を掛けた地味目の子である。申し訳ないが名前は知らない。彼女はおれに微かに笑いかけてきた。
「生野君……おはよう」
「あ、うん」
「風邪、大丈夫? マスクとかしてないみたいだけど……」
しまったと思った。おれは昨日、仮病を使って欠席したのである。マスクくらいしてくればよかった。
「うん。一日じっとしてたらすっかり治ったよ」
「そうなんだ。よかったね」
彼女は恥ずかしそうに言って教室に入っていった。
その姿を見たおれに、非常に安直な直感がよぎった。――まさか彼女が差出人か!?
いや、いくら何でもそれはないだろう。根拠はないけれど、全校生徒六百人のうち、一番最初に話した女子生徒が都合よく差出人だなんてことがあるはずがない。でもとりあえず彼女の名前は確認しておこう。
素早く教室に入り、自分の席に行くんだよという何気ない風を装って黒板前を通る直前、目だけを動かして黒板の右端を見た。うちの学校は黒板の隅にクラスの生徒のマグネット付きネームプレートが席順に貼られているのである。彼女の席に位置するネームプレートには『8 伊藤尚子』と書かれている。8は出席番号である。頭文字が『い』なのに八番なのは、このクラスは異常に母音が頭文字の生徒が多いからだ。ちなみにおれは生野で『う』なのに十二番目である。
下の名前が『なおこ』なのか『しょうこ』なのかはわからないが、とりあえず苗字さえ知っていればいいだろう。
すぐ黒板から離れるつもりだったのだが、ネームプレートに見入ってしまっていた。これはまずいと思って――なぜ思った?――慌てて席に向かう。
平静を装いつつバッグから教科書を出していると委員長が話しかけてきた。
「生野くんおはよう。風邪、大丈夫?」
果たして委員長はあのラブレターの差出人だろうか? 違うと考える。委員長ならおそらくラブレターなぞしたためず、自分の口ではっきりと気持ちを伝えてくるはずだし、そもそもおれと委員長はただの友達だ。それ以上でもそれ以下でもない。委員長もそう思っているはずだ。話していて何となくわかる。だからきっとラブレターを入れたのは委員長ではない。
――おれは〇・二秒でそう結論付けて返事を返した。
「うん。大丈夫。というか――」
おれは小声になり、
「実は風邪ひいたのは姉ちゃんで、おれはその看病をしに行ってただけなんだ」
委員長は苦笑した。
「相変わらずのお姉さんだね。……お姉さんは治ったの?」
「まだ熱が下がらないってさ」
「じゃあ、今日は誰が看病に? もしかして響ちゃん?」
響とは妹の名前だ。おれはかぶりを振った。
「いや、本人は行く気だったけど、あいつが学校のある時間にうろついてたら警察の御厄介になりかねないからとめたよ。今日は友達が看病してくれるって言ってた」
「そうなんだ。お大事に、って言っておいて」
「うん。ありがとう」
委員長は教室に入ってきた伶門さんのもとへ駆けていった。……少なくとも、おれより後に来た伶門さんは差出人ではないだろう。ダメだ。頭が勝手にラブレターの主を捜そうと働いてしまう。もしかしておれは破れていてもラブレターはラブレターだ、とか思って、実際は内心凄く嬉しくって舞い上がっているのではあるまいな。
胸に手を当てて心の声に問うてみる。手を当てた感じ、特に動悸などは激しくなっていないので、やはりただ混乱して困惑して当惑しているのだろう。この謎の三段活用がおれの精神状態を端的に示している。
おれは白本さんを見た。自分の席に突っ伏して熟睡している様子だ。彼女に相談するか? いや、なんか恥ずかしい。うん。さっきも思ったが、やっぱりこういうのは一番話しやすい剣也にするのがいいだろう。