その4
四
いつの間にか、空が白んでいる。窓から空を見上げた。天候は曇っているが、空気は澄んでいて湿気は無い。天気予報は観ていないが、雨の心配はなさそうだ。
早朝の病院内は、異様な静けさに加えて空気が静止している。自分が歩く度に、廊下の空気を掻き交ぜている感覚を知覚できた。手に冷たい感覚が眠気を微量だが奪い去ってくれる。
現実感の無い空間を歩きながら、五時間ほど前の出来事を思い出していた。
僕と四法院は、沢が病院へ向かう車に乗り込んだ姿を見た後、自宅まで送って貰った。お互いに病院へ向かう事で一致した。すぐに向かったとしても、手術中であれば古島さんの気を遣わせるだけかも知れない。何より、四法院がシャワーを浴びたいらしく、一度、自宅へ帰る主張を曲げることはなかった。そうなれば、自分も自宅でやりたい事はある。
その後、始発の電車に乗り、病院へ到着した。手には先程買った緑茶が握られている。
病院内のオペ室の入口に向かうと、古島さんが痛みに耐えるように座っていた。
僕は、何て声を掛けたら良いのか分からないまま立ち竦んでいると、古島さんがこちらに気付き声を掛けてくれた。
「永都君、来てくれたのか」
古島さんは横を叩き、椅子を促してくれた。
「すみません。気になりまして、ご迷惑でしたか?」
「いや、ありがたいよ。一人で待っていると、色々考えてしまってね。時に、悪い方に考えがいくことがあって、どうしようもなく辛くなる」
「それは、仕方ないですよ。理知的な成人であれば、様々な未来を予測してしまいますよ。親であれば尚の事でしょう」
ため息を吐いた古島さんは、僕の気休めにお礼を言ってくれた。
しばらく沈黙が続き、重い空気が漂い始める。その空気を一変させたのは挨拶の言葉だった。
「よ~。二人とも早いなぁ~」
現れたのは四法院だった。相変わらずのラフな服装に、手にはコンビニのビニール袋を下げていた。
「その様子だとまだやってるようだな」
無神経な言葉を吐き、ドカッと椅子に座った。そして、ビニール袋からフランクフルトとマスタードを取り出して食べ始めた。
「四法院………」
僕は、古島さんを気遣い名前を呼ぶことで注意したが、相手には理解されなかった。いや、意図は汲んでいるのだろうが、行動に表されなかった。
手術エリア入口にはフランクフルトの匂いが充満し、場の悲壮感を打ち消した。
「しっかし、朝は、まだ、寒いな~ぁ。寝て、ないからかな?」
「四法院。食うか喋るかどっちかにしなよ。それに、この場で食べるのに、なんで匂いの強い食べ物を選んだんだ?それに、古島さんの気持ちを推し量れよ………」
「選んだ理由は、食べたいからだ。あと、推し量れって、匂いの無い食べ物で、コンビニにある物って何だよ。アイスや乳製品くらいだろう。パンだって温めれば匂いが出る。それに、それらを買ったら買ったで、また何かしら言うんだろう?正直、面倒くさいし、不毛な配慮で断食する訳にもいかんだろう。バカバカしい」
そう言うと、袋の中からおにぎりを取り出して食べ始めた。
もう言っても仕方ないことだが、もう少し言葉を選べば、柔らかく配慮のあるものになる。それが、なぜ出来ないのかいつも不思議だった。頭は回り、知恵もあるが、生きるのは酷く不器用だった。学生時代の記憶を振り返ったが、進歩はしているが、世間の水準には達していない。親の気持ちくらい察してやれるだろうに、と思う。
四法院は、四口でおにぎりを食べ終えると、僕の緑茶を奪い取って飲み干した。
ガラスの出入り口から医師が出て来た。その姿を見て、古島さんが迎えるように駆け寄った。
「先生。翔一は?」
医師は、術衣の姿で着けていたマスクを外し、説明を始めた。
「お父様ですか?」
「はい」
「再接着手術は成功しました。応急処置が的確で、移送も早く、的確な連絡を受けられたのが何より大きかった。骨、血管、神経、健など全てを繋ぎ終えましたが、動くかどうかは、経過やリハビリなどもあり、完全に元通りになるかどうかは確約できません。希望的観測ではありますが、子供は回復が早いのでリハビリ次第では、かなりの回復が見込めます。つらいでしょうが、頑張らせて下さい」
「わかりました。先生、ありがとうございます」
「お父さん。お礼は、権田へ言ってやってください」
医師はそう言って、オペ室へ入って行く。古島さんは頭を下げて見送った。
看護師に、翔一君が運ばれた個室を教えて貰い、その部屋へ向かった。
速足で歩く古島さんだったが、個室の入口の前で止まり、深呼吸を二度した後に入った。
翔一君は、体に不釣り合いなほどの大きなベッドに寝かされ、両腕が肘から指の先まで、包帯を厚く巻かれていた。
古島さんが横に立ち、翔一君の頭を撫でた。
「翔一………」
息子の名前を呟いたが、その後の言葉は聞き取れなかった。
翔一君の顔には、まだ血の跡が残っている。体に目を移すと、白シーツが掛けられているが、薄いシーツでは体のラインがしっかりと見え、全裸にされているのが分かる。ベッド脇には導尿バッグが下げられていることから、尿道カテーテルを入れられているのだろう。その姿は見るからに痛々しく、事件現場の光景を思い起こさせ、表情を歪めるしかなかった。
古島さんは、若い看護師さんから注意事項などの説明を受けていると、四法院が入口付近の丸い椅子に座り、背伸びをして呻き声を上げた。
無神経な声に、古島さんと看護師さんの顔が向けられると、四法院は『何だ?』といわんばかりの顔で受けた。
「何をしている?」
その時、御堂が現れ言った。四法院と目が合ったらしく、瞬時にその言葉に噛みついた。
「警察官僚が、何の用だ?金なら、振り込みで構わないぞ」
御堂は、発言者を無視して、病室奥へ入ると看護師さんへ席を外して貰った。
四法院が扉を閉じると、御堂が僕らの顔を見回した。
「御堂、何かあったのかい?」
僕が訊いた。
「様々な事が分かった」
「一晩で、何が判ったんだ?精密なDNA鑑定するなら二~三週間はかかるだろう」
「ああ、DNAはまだだが、病院での検査と治療の間に指紋の採取をした。その結果、埼玉県警の捜査資料にあった故敷島の指紋と一致した」
「御堂。一致しても、本人に了承を取っていないんだったら、問題にならないのか?」
「その点は考えてある。公表できないとはいえ、指紋が一致している。であれば、パスポートは偽造してあるか、そこに写っている人物は似ているが別人と云う事になる」
御堂は、まずは旅券の問題で拘束するつもりのようだ。確かに、その方が万人に判り易く、難解な推理の説明は不要になる。その上で、遺伝子に指紋、デイビット・沢についての情報を集めれば良いと踏んでいるのはわかった。
古島さんも同じ思考をしていたのだろう。御堂へ刑事らしい質問をした。
「警視正、パスポートの沢という人物については?」
「実在することは判明した。所在については不明だ」
「そうですか、パスポートが本物だったら、入国していることは確かでしょう。それを敷島が持っているということは、殺害されている可能性もありますね」
「そうだ」
「敷島の反応は?」
僕が訊いた。
「否認している」
「妥当な判断だな」
四法院が呟き会話に割って入った。
「敷島は、娘の為に完全犯罪を放棄して、身受けする為に危険を冒したんだ。最低でも三人は殺している。認めれば、死刑は免れないだろう。娘の為にも、自分の為にも認められないだろう」
四法院は、敷島の採るであろうと思われる現実論を口にした。どれだけ否認をしようと、御堂ならば物証を揃えられるだろう。
「ところで、古島さん。息子さんの容体は?」
御堂はベッドで横たわっている翔一君を見ながら言った。
「手術は成功したそうです。一刻も早く病院へ到着するように配慮をして下さり、ありがとうございました」
「いや、翔一君の証言を得ることが極めて重要だ。その為に全力を尽くしたに過ぎない」
御堂は如何にも官僚らしく言ったが、優しさは感じる事が出来た。その優しさも、父親の暗い表情を晴らすまではいかない。
「翔一は警官になりたかったんです。指は着いた様ですが、酷い後遺症が残れば刑事はおろか、警官にもなれないでしょう。今から、どう説明すれば良いのか分かりません」
慈愛の目を翔一君に向ける古島さんは、独り言を呟くようでもあり、御堂に向かって話しかけているようでもあった。
「大丈夫ですよ。翔一君の熱意なら、懸命にリハビリをして、元通りになりますよ」
気休めかもしれないが、僕の台詞は翔一君と話した時に得た感想だ。小学校低学年で、警察資料に興味を惹かれ、学んでいる姿からは単なる子供の夢とは違うものを感じた。その事を伝えると古島さんは反省した。
「ダメだな。傷を負った息子よりも、父親が諦めるなんてな。励ましてやらなければいけないのに………」
反省している古島さんに、御堂が告げた。
「古島さん。事件の山は越えました。少し休んで、息子さんの傍に居てあげてください」
「御堂警視正。取り調べはさせて貰えないんですか?」
「取り調べは、滝刑事に任せます。今は、翔一君を看てあげた方がいい」
「わかりました。お気遣い、ありがとうございます」
古島さんは、薬で寝ている息子の顔を優しく撫でていた。
おもむろに、四法院が立ち上がって言った。
「さて、行くか………」
「どこへだい?」
僕が訊くと、御堂も視線を向けた。
「美少女の所へ」
その言葉に、里奈ちゃんの姿が浮かんだ。その言葉に、御堂がその点について口にした。
「篠山里奈、いや、敷島里奈には女性警官を付けている。まだ、ホテルには居る筈だ」
御堂の台詞に、四法院が反応した。
「御堂」
「なんだ?」
「カネは、帰りに取りに来る。用意しておけ」
四法院は、御堂の返事を聞くことなく、部屋を後にした。
僕は、御堂と古島さんに視線を送り、後に付いていくように早足で追った。
窓からは、初夏の日差しが差し込んでいた。




