その3
三
朝起きて最初にすることは、父親の為に作った食事が片付いているかどうかの確認だった。
お父さんが帰宅すれば、僕の作った料理を必ず食べてくれた。
深夜に帰宅して、早朝に出ていくこともあって、言葉を交わさない日も少なくない。それでも、お父さんとの対話はあった。
僕の作った物を食べてくれて、用意したお弁当を持っていてくれていたりする。それが、会話になっていた。
お父さんは、いつも時間の取れない事を詫びてくれるが、寂しくなかった。この生活にも慣れて街にも詳しくなったし、それに大好きな友達ができた。とくに今日は、里奈ちゃんと、図書館で待ち合わせをしていた。
偶然会って、長く話す事はあるけど、待ち合わせをするのは初めてだった。僕は、お気に入りの服を着ると返却の本を持って家を出た。
二十分ほどのいつもの道が、今日はあっと云う間に過ぎ去った。頭の中で、里奈ちゃんと何を話せばいいか考えたが、頭の中でも無言になってしまう。
区の古い図書館が、今日は明るく見えた。受付に掛けられている時計を見ると、思ったよりも早く到着していた。
二階のいつもの場所に行くと、里奈ちゃんの姿は無い。読書でもして待っていようと、社会のコーナーの棚で警察関係の本を手に取った。カラー写真が多く載っている警察に関する本だった。車やバイク、建物や装備、訓練風景などが細かく写っていた。
写真を見ていると、格好良かった。刑事課は載ってないが、警察の仕事がどれだけ大変なのかは分かった。ますます父さんのような刑事になりたいと思った。
掲載されている写真を全て見終わると、翔一は次の本を見ようと席を立ったその時、自分の名を呼ぶ声が聞こえた。
声の方を向くと、白のワイシャツに薄い桜色の上着とスカートを履いた里奈ちゃんが立っていた。こんなにオシャレをした里奈ちゃんは、始めて見る。いつも以上にドキドキして、合った目を反らせてしまった。
「どうしたの?翔一君」
里奈ちゃんが不思議そうな顔をしたが、その疑問に僕は答えることが出来なかった。
「変な翔一君・・・・・・」
僕は顔を赤くして、愛想笑いをするだけだった。
里奈ちゃんが身に着けた短く淡いピンクのスカートと黒いオーバーニーソックスは、細い脚だけでなく、雰囲気も健全に彩っていた。上品で洗練された服装は、イイ所の子供のように思わせる。すれ違う人たちは、子役タレントと見紛うばかりの美少女に普段と違う視線を向けていた。
「この服、昨日、買って貰ったんだ」
里奈ちゃんが、嬉しそうに教えてくれた。
「前に言ってた、引き取ってくれた人?」
「ちがうよ。今度、引き取ってくれる人に会ったの。昨日会ったんだよ。すごく優しそうな人だった。いつもニコニコしていて、私を受け入れてくれるんだって一瞬で解ったの。もし、お父さんが生きていれば、こんな人だったのかも知れないって」
昨日の事を話す里奈ちゃんは、すごく楽しそう。いつもの里奈ちゃんは暗いというよりも無表情に近かった。それが、自然に表情が変化している。
階段の踊り場に設置されているベンチに腰掛けると、普段より大人たちの視線が気になった。
「翔一君」
「ん?」
間抜けな返事をすると、里奈ちゃんは僕の手を握って立ち上がった。
「場所、変えよッ」
「う、うん」
僕の手をグイグイと引っ張って行く里奈ちゃんの手は、柔らかくてドキドキした。
里奈ちゃんも周囲の視線が気になったのか、建物を出ると隣の公園へと向かう。
公園には入らず、公園の花壇とビルの間にある細い通路にしゃがみ込んだ。
大人が身を細めて通れる程の通路は、子供にとっては丁度いい幅だった。
「私、アメリカに行く事になったの」
「アメリカ?」
「そう」
「アメリカって遠い?」
「遠いよ。すごく」
聞いた瞬間、里奈ちゃんと何かに隔てられた感じがして、焦って質問が口から飛び出した。
「アメリカのどこに住むの?」
聞いても分からない。でも、口が開いていた。
「まだ知らないの。分かったら、お手紙書くね」
里奈ちゃんが芯のある声で言ってくれた。
「だったら、僕の住所」
僕は、急いで紙と書く物を取り出そうとしたが、そんなモノは持っていない事に気がついた。里奈ちゃんは、小さなポーチからシャーペンと紙を取り出した。
僕は住所を口にして、彼女が書き取った。
お母さんと遊んでいる子の声が公園から聞こえる。その声で動きが止まり、公園の方をしばらく見た。
数秒の沈黙の後、彼女を放っていたと感じ、すぐに里奈ちゃんの顔を見ると彼女も公園の方を見ていた。
自分は、お母さんという存在を想像するしかないが、里奈ちゃんは思い出しているのかも知れない。
僕の視線に気付いた里奈ちゃんは、はにかんだ様に微笑んでくれた。
空気を変えたかったのか、図書館の方へ歩き始めると自動販売機の前で止まり、僕にジュースを買ってくれた。お姉さんぶりたかったのかどうかは分からないが、素直にありがとうと言葉にして伝えた。
貰ったリンゴジュースを飲みながら、里奈ちゃんの話を聞いた。普段話さない彼女が、こんなに喋っている事が珍しい。僕たちは公園に行って日陰のベンチに座って話し始めた。話といっても、僕が聴くばかりだけど。
里奈ちゃんは昨日あったことを教えてくれた。おじさんを初めて見た時は怖かったけど、喋ると優しい口調だったとか。ふわふわのオムライスを食べさせてくれて、今着ている服も買って貰って、すごく気に入っている事。つま先立ちで一回転をして、服を見せてくれた。
「私ね。大人が大っ嫌い。でも、あの外人さんは好きになれそう」
「外人さんなの?」
「言ってなかった?アメリカに住んでいる日系アメリカ人だって。日本人なんだけど、アメリカの人間なんだって教えて貰ったよ。だから、日本語も喋れるんだって」
僕には良く解らなかった。それでも、こんなに嬉しそうに話しているのを見ると、僕も心から楽しくなる。
どれくらい時間がたったのか分からないけど、さっきの親子の姿は無かった。
「里奈ちゃん」
公園の入口でオジサンが呼んでいた。そのオジサンが、ゆっくりとした動きでこちらに来た。
「ここに居たのかい?」
「うん」
顔に深い皺が刻まれたオジサンに、里奈ちゃんは返事をした。
オジサンの姿は、お父さんとは比べられないほど良い服を着ていたが、その顔は病んでいるように疲れているように見えた。お父さんも仕事から疲れて帰ってくるけど、こんなに疲れた感じは出ていない。
「約束通り、迎えに来たよ」
オジサンが優しい笑顔で言った。
「翔一君。さっき話した、今度お世話になる沢さん」
「初めまして。デイビット・沢といいます」
オジサンが僕の目線までしゃがんで、丁寧に自己紹介をしてくれた。沢と呼んでくれと言われたから、沢オジサンと呼ぶことにした。
オジサンは僕の肩に手を置いて微笑んだ。
「里奈ちゃんから聞いているよ。すごく仲良くしてくれてるんだって?」
「はい」
元気良く答えると、沢オジサンは顔をくしゃくしゃにして僕への感想を口にした。
「礼儀正しくて、元気な返事だ」
「翔一君のお父さんは、刑事さんなんだって」
「ほう。だったら、お母さんも大変だね~」
里奈ちゃんが説明すると、沢オジサンが深く頷き同情してくれた。
「お母さんは、死んでいないです」
「そっか、悪いこと言ったね」
「いえ、いつものことですので」
僕は、笑顔で答えた。
オジサンは頭を掻いて詫びた。
「今も翔一くんのお父さんは、赤羽の事件の捜査をしていて、帰ってくるのが遅いんだって。家の事は、翔一君が全部やってるんだって。すごいでしょう」
「そっか、お父さんも助かるね~」
今度は褒めてくれたが、僕の中では当然のことをしているだけで、なぜ褒められるのか分からなかった。皆がそう言ってくれるが、いつも褒められた気分にはなれなかった。
「里奈ちゃん、そろそろ帰ろうか。別れの挨拶をしようか」
沢オジサンが、里奈ちゃんに優しく言った。里奈ちゃんが頷くと、僕の正面に立った。
「翔一君。住所が分かったら連絡するね」
「うん」
オジサンが、背広のポケットから封筒を取り出して手渡してくれた。
「翔一君。これ、遊園地の券なんだが、お父さんや友達と使ってくれないか?昨日、行けなかったんだ」
貰うべきかどうか迷っていると、里奈ちゃんが声を掛けてくれた。
「どうだったか、お手紙で教えてね」
その言葉で受け取った。
「ありがとう。里奈ちゃん、お手紙待ってるから」
「すぐに書くからね」
里奈ちゃんは僕の手を取って微笑んで言うと、親子のように手をつなぎ歩きだした。
「バイバイ」
僕が叫ぶように言うと、里奈ちゃんが振り返り手を振った。
「バイバイ」
二人は、角を曲がって姿が見えなくなると、急に寂しさが湧き上がった。
ベンチに座って、楽しい時間を思い返していると、
足元に落し物を見つけた。黒い手帳で、手に取ると中から写真が一枚落ちた。見ると、顔に皺の無い沢オジサンが写って、そのオジサンの膝の上には小さな女の子がいた。
沢オジサンの手帳だと判り、僕は走って駅へ向かった。だが、駅にオジサンの姿も里奈ちゃんの姿も見えなかった。
駅の交番に持って行こうとしたが、駅の喫茶店の中の時計を見ると、お父さんから電話が入ってくる時間だった。夕食の準備もしないといけないから、いったん帰ることにした。
里奈ちゃんには住所と連絡先を教えているし、電話がかかってくるかも知れないと考え、今晩、お父さんに渡しても問題ないとも思えた。
大人たちが忙しなく歩く街中を、翔一は早足で歩きだした。




