その3
三
午前九時三十分。僕は、警察関係者に交じって病院に居た。
場所は。都内の中心部にある大学病院で、循環器外科に定評のある病院だ。建物は酷く老朽化していて、天井を見ると、雨漏りの痕が柄のように四方八方に走っている。
隣に屈強な古島さんが居るせいか、熱気に含まれた圧も感じる。もっとも、ここに来たのは、滝さんと古島さん。そして、僕の三人だ。御堂も同行したそうだったが、立場と他の仕事も抱えていて現場の捜査には乗り出せないらしい。
警視庁刑事部から大学病院に協力を申し入れ、忙しい朝一番に時間を割いて頂いた。
「奴は?」
突然、古島さんが話しかけてきた。
「それが・・・・・・。四法院は、朝がまったくダメで。起こしに行ったんですが・・・・・・君の推理だから君さえ行けばいい、睡眠の邪魔をするなと、すごい剣幕で・・・・・・」
「本当に、・・・・・・。いや、もういい・・・・・・」
抑えた声で吐き捨てると、小声で耳打ちした。
「次、行く時は言ってくれ。俺が、引き摺り出してやる」
僕は苦笑いで頷くと、古島さんを連れて行った場合の仮定をしてみた。だが、何度考えても、大惨事の結末しか予想できなかった。
滝さんが、循環器外科の受付の女性に向かい用件を伝えると、担当医師の元へ案内して頂いた。
個室に案内されると、そこには既に担当した医師の姿があった。
中年の男性で、丸々とした体型。肌は浅黒く、髪は乱れている。眼光が鋭く、神経質そうな雰囲気を醸し出していた。典型的な職人気質の医師に見える。
人間性としては微妙な感じだが、仕事はこの上なく出来そうだ。
警察関係者を前にして、医師は不快な表情を露骨に向ける。
滝さんが頭を下げ、時間を割いてくれたことに礼を述べた。
その言葉に対して、医師の反応は薄く、迷惑そうな顔をした。
「また、敷島さんの件ですか・・・・・・。いい加減にしてくれませんか。私は、一人でも多くの患者さんを診察しなきゃいけないんですよ。それに、埼玉県警さんの方に全てお話していますので、そちらで聞いて頂きたい。これ以上、話す事はありません」
正論の上に、インテリの頑なさが加わり、どう話を切り出せば良いか分からない。
老練な滝さんには手慣れたもので、怒りを受け止めた上で、いなすように軽い口調で話し始めた。
「誠に申し訳ありません。埼玉県警さんも充分に調べているのですが、どうしても気になる点などありまして」
滝さんは笑顔で、申し訳なさそうな雰囲気を醸し出しつつも、引く気はないようだ。そんな対応は刑事として、抱負な経験と人格的な円熟さの為せる技であった。
医師と目が合い、僕は深々と頭を下げた。
幾分、医師の雰囲気が良くなり、急かすような態度だが、話をする気にはなってくれたようだ。
「何が訊きたいんですか?」
そう言って、前傾姿勢になった。
滝さんが再び頭を下げ、再度お礼を口にした上で話し始めた。
「実は、敷島さんの標本を見せて欲しいんです」
医師は眉をひそめた。
「どういうことでしょう?」
「敷島氏の巻き込まれた事件は御存知ですか?」
「ええ、よく知ってますよ。誘拐され、殺害されたと教えて頂きました」
「その通りです。ですが、事件を調べているうちに、色々と不可解な点がありましてね。捜査情報を詳しくは話せませんが」
「それが、標本と関係があるということですな」
何故か僕に視線を送った医師に、柔らかく頷いた。
古島さんが答える。
「はい。保管状況と会わせて見せて頂きたいのですが・・・・・・」
「わかりました」
さっさと終わらせたいという雰囲気を漂わせ、立ち上がって案内してくれた。
入口には病理という札が掲げられ、その室内に入って行った。
室内では、七、八人の職員が落ち着いた雰囲気で働いていた。手に薄手の使い捨て用のゴム手袋を着け、臓器のような肉の塊をスライスしている人が僕の目を惹いた。
「すまないが、敷島さんの標本を出してくれないか」
医師が職員に指示する。
四十代の男性が慌ただしく動くと、奥の部屋から白いフィルムケースを三つ持って現れた。
「え~、こちらですね」
円柱のプラスチックケース内にはホルマリン液に浸された心筋と大動脈の欠片が入っている。
「こちらです。どうですか?捜査の参考になりましたか?」
医師はキャップを外し、小さなトレイに取り出して中を見せてくれた。一個目ボトルをひっくり返すと、トレイにくすんだ白い物質が転がり出た。
僕は、予想外の事態に言葉を失っていた。予想では、標本は無くなっている筈だった。そうでなければ、現場に残されていた組織は体内から取り出されたモノと云う事になってしまう。
二人の顔にも落胆の影が差していた。
「違ったな」
言ったのは、古島さんだった。僕は、推理の破綻を目の当たりにして動揺したが、それでも思考回路は停止させなかった。
僕は医師と職員さんに質問した。
「この標本は、敷島さん本人の物なのでしょうか?他人の組織と入れ替わったりという事はないのでしょうか?」
「それはありません。標本というのは、摘出してすぐ保管用の標本ボトルに入れられます。その後、標本が混ざることなどありませんな。何よりも標本と云うのは、保管する意味があるから保管しているんです。それは主に、病変した組織を保管していますので、それ以外では意味も無く、たとえ入れ替えたとしても違いなどすぐに判ります」
言われればそうだと思う。仮に、他人の体の同じ臓器に同じ病気が発症したとしても、一般人に摘出は不可能だ。
ともかく、僕は推理の間違いを認めざるを得なかった。滝・古島、両氏にも落胆の色が濃く浮かんでいた。
僕は、医師に質問した。
「先生。民家で、心臓の手術をするのは可能でしょうか?」
自分でも、あまりにも突拍子の無い事を言っている自覚はある。それでも、専門家の意見を聞いてみたかった。
医師は僕に呆れ顔を向けた。
「どの様な意図で仰っているのか分かりません。ですが、心臓の手術を民家でするとすれば、外科医二名と麻酔科医、人工心肺の技師、看護師、麻酔器や手術器具や機材などの諸々の医材など必要ですな。無論、それだけに留まらず、基本的な電力など設備に加え、大量の薬剤なども必要になります」
それだけ聞いて、多くの人や機材だけでなく、機材の使える環境の整備も必要だと思い知らされた。考えれば、当たり前のことだが、それでも専門家ならば何かの抜け穴が見つかると考えていたが、あまりに甘かった。
落胆するも、念の為にオペ室の見学をさせて貰った。
ここで医師と別れ、病院内はベテランの看護師さんに案内されることになった。
連れてこられたのは更衣室で、オペ室エリアに入るために術衣に着替える。入口で、マスクと帽子を付ける。鏡に映る自分を見るとそれらしく見えるものだ。廊下を歩いていると、オペ室がズラリと並んでいる。
廊下を奥に進んでいくと、看護師さんが部屋の前で止まった。
「こちらです」
この部屋で敷島さんは手術をしたようだ。オペ室の入口は横スライド式の自動ドア。前室に二人用の手洗い場があり、オペ室は二十畳ほどの広さがある。中央に手術台が置かれ、患者に対して右頭部近くに大きな麻酔器や吸引ポンプなどが置かれている。
これから手術が始まるのか、周辺にオペ器具が整然と並べられ、数人が忙しなく動いていた。
見慣れない空間にいる為か、どこに立ち、どう振舞えば良いのか分からない。医師や看護師の仕事の邪魔にならないように、隅に立って見ていた。案内をしてくれている看護師さんから、当時の説明を詳しく聞くが、専門用語が多分に含まれていてよく解らない。
僕は、このエリア全体が気に掛かり、他の室内を覗いて回った。別の一室では、医師が腹を大きく開いて、赤黒い臓器を掴んでた。位置から考えて肝臓だろう。
初めて観た光景に目を奪われていると、後ろから声を掛けられた。
「無駄足だったな。帰ろう」
古島さんに言われ、この場を動いた。途中、部屋の扉が開いているオペ室があったので覗き見た。この部屋は手術が終了したばかりなのか、血液の散った部屋を男性二人が片付けたり、掃除していた。
室内は、血が飛び散り、壁際にはオペ器具が台に雑然と置かれ、器具は血まみれになっていた。その手術台の上を良く見ると、小さな肉片がいくつも濃盆に入っていた。弾力性のある黄色味の組織片は、おそらく人間の脂肪だろう。
「永都君、もう行くぞ」
滝さんが言った。僕は急いで二人の元に急いだ。
結局、無駄足で終わったことで、僕は滝さんと古島さんに申し訳なかった。
「と、言うことだ」
昼過ぎて特捜本部に顔を出した四法院に向かって説明した。
四法院は眠そうに目を擦り、大きな欠伸をした。
「何とか言ったらどうだい?」
「何とかって、何もないよ。それでも敢えていうなら、残念だったな」
僕は四法院の仕草を見て、これまで何を考えていたか感じ取った。
「知ってたな。君は」
僕が言うと、四法院は買ってきていた無糖紅茶を口にした。
「どうなんだ?」
「俺も確証は無かったがね。それでも、死体を見ていない以上疑う気持ちはあった。しかし、一つだけどうしても口にするには引っ掛かる所があった」
「なんだい?」
「グラフトだ」
「あぁ、道路脇に落ちていた人工血管か。それがなんだ?医材なら手に入るだろう?大学病院から盗むなり、他の病院から取り寄せる手もあるだろう?」
「グラフトは、盗めるほどずさんな管理はされてないよ。それに、一般人が医材を買うと云っても、メーカーは売ってくれない。何しろ厚生労働省に目をつけられればエライ目にあうからな。それに、落ちていたグラフトは、敷島の血が付いていた上に、オペ記録とグラフトの種類が一致していただろう」
四法院が眉間を指の側面で抑える仕草をする。何か考えているのだろう。
「そのことが判っていながら、僕に間違った推理を言わせたのかい?」
「いや、合っていればそれでいいし、間違っていても正確な情報が入って解決に近づくじゃないか」
そう言って、首を左右に曲げて思考し続けている。
「と、なれば・・・・・・」
四法院が言った。消去法で、調べる方向を絞っているのだろうか、久しく見ていない渋い表情をしている。
僕は、四法院に呼びかけたが、完全に自分の世界に入っているのか反応はない。こうなると、長いので気長に待つことにした。
そう言えば、四法院はオペ室での勤務経験があることを思い出した。だからこそ、あれ程、詳しいのだろう。
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