七章 誘拐事件 その1
一
午後になって日差しが強くなってきた。薄着で出歩くようになったが、あまりの温かさに肌にジワッと汗をかいていた。
起きてお父さんにお弁当を渡し、午前中に洗濯を終えて図書館に来た。借りている警察の本を二冊、大切に抱えるようにして持っていた。
一階の受付に本を置いて返却を済ませると、二階に上がって周囲を見渡した。
(居ないのかな・・・・・・)
僕は、髪の長い女の子を探していた。肩を触れられ、振り向くと、里奈ちゃんが立っていた。
「こんにちは。誰を探してるの?」
不意を突かれた僕は、半歩後ずさった。こちらから声を掛けないと、自然な対応などとてもできない。好きな子の前だと、ドキドキばかりで何を話していいのか分からなくなる。
輝くような笑顔に促され、言葉を発した。
「久しぶり。どうしてたの?」
何気ない質問をすると、彼女は暗い表情になった。
「私、引っ越すかも知れないの」
「え?」
「私を引き取ってくれた人が死んだの。私を無視してた人で、冷たい人だったんだけど、部屋を用意してくれたり、勉強させてくれたりしてくれた。感謝してるの。でも、その人の奥さんは私の事が嫌いで、旦那さんが亡くなってもっとキツく当たるようになったの。で、先週言われたの。新しい引き取り先が決まったって」
「どこ?近くなの?」
「まだ分からないけど、海外だって言ってた」
「そのオバサンに、いじめられているからなの?」
「私も、そう思ったんだけど違うみたい。引き取った頃から決まっていたらしいの。オジサンが決めていたみたい。話は先方と着いていたらしくて、オジサンが死んで一日でも早く厄介払いしたいんじゃないかな」
「そうなんだ」
僕は、そんな事しか言えなかった。
「でも、良かった。あの人、私に行き先を作って置いてくれて。明日、その人に逢うことになってるの」
「そうなんだ。大変そうだね」
「そうでもないよ。最初に入れられた施設では、すごく虐められたから………。それにくらべれば、何でもないよ」
里奈ちゃんは、そう言って笑顔を向けてくれた。
「いつ行くの?」
「わからない。でも、オバサンは早く追い出したいみたいだから、半月もないと思う」
あまりに唐突な話で僕は動揺を隠せなかったが、少しでも元気付けたかった。
「だったら、まだ会えるよね」
「うん。もう一度くらいなら会えるかも」
「良かった。引っ越し先が判ったら教えてね」
「うん」
僕は、嬉しくなって公園に誘った。
外の日差しは強いが、ベンチの上には屋根が付いていて日の光を遮ってくれる。
僕は、作ってきたお弁当を出した。
「すごいね」
里奈ちゃんが、感心したように言ってくれた。弁当の中身は生鮭に塩、コショウを振って、フライパンでこんがりと焼いたモノと、卵焼き、プチトマト、炒めたアスパラにおむすびを入れていた。
まったく豪華さからはかけ離れたモノだが、里奈ちゃんは美味しそうに食べてくれた。
「翔一君、すごいんだね」
そう言って、僕の作った美味しくもない卵焼きを口に運んでいる。
陽の匂いを含んだ柔らかな風が、僕と里奈ちゃんの間を吹き抜けた。数秒の沈黙の後、里奈ちゃんがうつ向いている。
僕は、彼女の顔を覗き込んだ。息を呑むほど綺麗な顔がそこにあった。
「ごめん。やっぱり、美味しくなかったかな?」
「違うの。久しぶりに、温かいモノ食べたから。なんか泣きそうになっちゃって」
食べているのは、冷えているお弁当なのに、それ以上に冷たい食べ物ってなんだろうと考えた。
「私が食べているモノと言ったら、心の籠らない物ばかりなの。今の家では、冷凍食品やインスタント
ばっかりだから。台所は使わせて貰えないし、お金もないから何も買えない。食べ物がどうこうよりも、誰も私の為に作ってくれてない」
彼女は捲し立てるように言うと深呼吸をした。
「私、何言ってんだろ。ごめんね」
僕は、首を左右に振った。
「何でも聞くから・・・・・・」
僕も経験がある。お母さんが死んで、優しくしてくれた人、冷たくなった人、僕には父さんがいたから大丈夫だった。父さんも死んでいたら、みんな冷たくなっているんだろうかと考えさせられた。
里奈ちゃんは、堰を切ったように話し始めた。
「私、これからどうなるのかな?」
いつも明るく振舞っている里奈ちゃんが、初めて目に涙を溜めていた。
彼女は少し俯いてから、虚空を見つめる様に話し始めた。
「私ね。お父さんのこと、そんなに憶えてないの。でもね、私が寝たフリをしていたら、抱えてくれて布団まで運んでくれたの。その大きな手に力強い腕だけが記憶に残っているの」
彼女は追憶に耽り、続ける。
「事件のことは、良く覚えてないの。怖いほど、お母さんが思いつめた顔が印象的だった。旅行から帰って来て、家には恐そうな人がいっぱいで、それからお母さんは喋らなくなったの」
里奈は、心に溜まった澱のようなモノを吐き出している。
「それから、どうしたの?」
僕は意識してではなかったが、ちゃんと話を聞く事が、彼女の一番して欲しいことだと思えた。
彼女は、また遠くを見るように話し始めた。
「お母さんは、警察にいつも呼び出されていたの。お父さんがいなくなって大変だったのに・・・・・・。お母さんが言ってた。お父さんが、私たちの事を考えて苦労しないようにと保険を掛けてくれていたのが仇になったって・・・・・・・。警察が近所の人とかに言ったから、お金を貸してくれって言う人ばかり来て、まだ小さかった私にも言ってくる人がいて、すごく怖かった。そんな事があってから、二人で隠れるように暮らしたの。お母さんはお金があるのに、人目につくのを恐れて質素に生活していたの。いつもお母さんが言ってた。生活に苦労しなくなったけど、寂しくなったって・・・・・・。でも、私はお母さんと一緒で楽しかった」
そう言って、次々と過去を話している。僕は無言で聴くだけだった。親子二人で暮らした時期が一番楽しい時期だったと、里奈ちゃんは言う。
それから、彼女の表情が暗く変わった。
「お母さんが体調を崩してから、生活が変わったの。弁護士さんの紹介で、下宿先を探して、そこから通うようになったの。学校とお母さんの入院している病院へ。お母さん、三ヶ月もすると、すごく痩せちゃって。病気が酷くなるのに、話はいつも私の事ばかりで。死ぬ前なんか、謝ってばかりで・・・・・・」
目に溢れんばかりの涙を溜めた彼女は、最も辛い経験を話し始めた。
「お母さんが死んで、親戚の人が集まって来たの。みんな、こう言うの『おじさん、おばさんに任せて。里奈ちゃんの面倒は看るから』って、でも、みんなお金目当てで、お母さんが弁護士さんに頼んで、ちゃんとしている事が判るとみんな私から離れていった。特に、すぐにお金が必要な人からは、ヒドイこと言われたわ。結局、お金がないと私は引き取る価値はないらしくて、施設に入れさせられたの」
それから、施設でも学校でも、嫌がらせを受けたらしい。なぜか、お金持ちだと情報が漏れていて、散々な事を言われ、虐められていたという。辛い記憶が蘇ったのか、涙がこぼれて彼女の白い手の甲に落ちていた。
僕は、どうして良いか分からずに、固まっていることしか出来なかった。
彼女が今まであったことを話してくれた。
それから半年して、今のオジサンが引き取ってくれた。
当初は、なぜ引き取ってくれたのか分からなかったが、私の持っているお金が目当てだろうと云うのは、容易に想像できたらしい。僕でもそう思う。でも、引き取ってくれたオジサンは、お金の事に全く触れることは無かった。その代わり、里奈ちゃんに関心を抱くこともなく、放任というよりも放置されていたというのが適切だったと教えてくれた。
その家では、環境も待遇も決して良くなかった。特に、オバサンの話しかけても全く反応しないという地味な嫌がらせは、実生活では支障があったが、自由時間と個室があるだけマシだった。私を引き取ることに、奥さんが反対だったのに、強引に納得させて、引き取ったらしい。それは、オバサンから直接言われたそうだ。
「オバサンは、私のことをオジサンの隠し子だと思っていたと思うの。病院で血液検査のようなものをさせられたから・・・・・・」
こう聞かされると、僕たちは色々と邪推の原因を推し量っていた。
僕はいつも感じていることだが、大人たちは子供を見下している。子供だからと言って、何も解らないと思っている。少ない情報でも、動作や口調から何を言いたいのか推察できるし、僕たちの様に、大人の中で揉まれている子供は、機を見るに敏で、知恵を恐ろしく働かせる。大人がどれだけ汚いか知っているし、都合の良い事しか言わないのも知っている。
大方の大人は、親のいる子より、居ない子の方が知能が遅れていると思っている。親の教育が不十分だと考えているのかも知れないが、そんな子は嫌でも社会を直視させられる。そして、強制的に大人にさせられるんだ。
それはすごく辛い思いはするが、いずれ理解することだ。全て知った上で、子供のフリをすれば効率的に物事が運ぶのだ。大人なんて、『使って信じず』の姿勢で接していないと心が潰されてしまう。
里奈ちゃんは、さらに酷い環境にいるだろうから、僕なんかよりも数倍処世術などには長けている筈だ。
里奈ちゃんの気持ちをただ受け止める。それが大変でも、彼女の顔を見るだけで幸せな気分になった。
お弁当を食べ終わると、里奈ちゃんは立ち上がった。
「ごちそうさま。すごく美味しくて、心が温まった。ありがとう」
彼女は、清々しい顔を向けて歩き出した。遠ざかる後姿を呼びとめた。
「里奈ちゃん」
里奈ちゃんが立ち止まって振り向く。
「今度、いつ会えるかな?」
「明後日、ここに来るね」
手を振る里奈ちゃんにときめきながら、僕も大きく手を振り返した。
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