その3
三
夕焼けに染まった街。
朱色に染まるように、少年が歩いていた。身長は百センチ程だろうか、痩せ形だが骨太の体型をしている。手には買い物袋、引き摺りそうになりながら運んでいる。
中年のオバサンが、見るに見かねて声をかけた。
「翔一くん。大丈夫かい?」
「大丈夫。ありがとう」
翔一は笑顔を作り、元気に答えた。うんしょっと、再び肩の位置まで持ち上げて歩き出した。
「気を付けて帰るんだよ」
「うん」
翔一は、オバサンを気に掛けることなく先を急いだ。
オバサンは、連れのオバサンに話しかけられた。
「奥さん。あの子は?」
「あの子は、去年、近所のアパートに引っ越してきた子なんだけどね。父子家庭で、いつもああして、買い物や洗濯をしてるんだよ」
手首をしならせ言った。
「父親は何してんだろうね~」
「あの子が言うには、警察官らしいけどね。あんな子に、家事を任せっきりだなんてね」
頭を振って、ため息をついた。
「苦労してるんだね。家庭の事情は色々あるからねェ、何ともいえないけど、ウチの子はゲームばかりで幸せだろうね」
オバサン二人は頷き合った。二人の視線の先には、少年の後姿が映っている。
翔一には、その会話が聞こえていた。
いつもこうだ。僕は、すごく可哀想にみえるらしく、よく同情され、可哀想がられる。
たしかに母さんはいないけど、父さんがいるし、父さんとの暮らしは幸せだ。
喩えそれが不幸だとしても、母さんがいないだけで、僕は父さんが大好きだ。
父さんが刑事をしていることも好きだった。いつも母さんが、父さんに感謝していた事は憶えている。
父さんは、朝早く出て夜遅くに帰る。それに、深夜に呼び出されて大変そうだけど、僕も刑事になりたいと思った。父さんのような刑事に。
そんな僕は、自分で不幸なんて思ったことすらなかった。
大人の勝手な思い込みは、いつも悲しい気持ちにさせるが、今日はそんな事に興味はなかった。
ささやかだが、これまでに体験したことのない幸福感を味わえたから。
僕は、学校帰りによく図書館に立ち寄る。目的は本と、もう一つ。最近、仲良くなった女の子と話すためだ。
出会ったきっかけは憶えているが、仲良くなったきっかけはよく憶えていない。
本を探していると二階の窓際の椅子に一人の女の子が座っていた。僕は、その子に目を奪われた。
綺麗な顔の女の子で、腰のあたりまである長い黒髪と白い肌、手脚もすごく長く、ドキリとさせられた。その光景は、いまも心に焼きついている。
仲良くなったきっかけは、彼女の手元に積んである本だったと思う。
宿題で、その本をたまたま探していた。お願いして見せて貰った。
それから、少しだけど話をした。話の内容は憶えていない。それでも、すごく楽しかったことは覚えている。
名前は篠山里奈。二歳年上で九歳だと知った。
僕よりも背が高く、すごく優しい。
彼女との想い出ですぐに思い出すのは、僕の境遇を知っている近所のオバサンに、哀れみが籠った視線を向けられ、話しかけられたときだった。
いつものことで気にならなかったが、その時は彼女が過剰に反応した。
「あの人、何なの。スゴく感じ悪い」
彼女の何かに触れたのか、眉をひそめ、目を細めて言った。その表情からは、怒りしか感じ取れない。
僕は、仲が悪くなるのを恐れて、謝った。
「ごめんね。何か、気に障ったかな………」
彼女は、ふと我に返ったのか、普段の優しい顔に戻った。白い指先で、やさしく髪を掻きあげ、息を吐くと僕の目を見つめた。
「ごめんなさい。翔一くんが悪い訳じゃないのに………。私、あの目が嫌い。あの目をする人って、絶対、馬鹿にしてるもん」
そう言い終わると、一瞬、沈黙が場を支配した。僕は、その眼を向けられる訳を話すことにした。
「ボク、お母さんがいないんだ。お父さんは、仕事で帰りが遅いから、洗濯も買い物も料理も、僕がやってるんだ。だから、近所の人は可哀想がってあんな感じになるんだ」
「お母さんいないの?」
少しだけ驚いた表情を向けられ聞かれた。その言葉に、僕は静かに頷いた。
「そう。私も、両親がいないの」
「お父さんも、お母さんも?」
「うん。私、ひとりなの。二年前、お母さんが病気で死んだの。それから半年間は、施設で暮らしたの。篠山さんって夫婦が、一年半前に里親として私を引き取ってくれたんだけど、部屋と食事を与えてくれるだけで、会話は無いわ。一体、何がしたいのか、わからないの。でも、施設よりも遥かに自由があるし、干渉もされないから楽だけど」
「だけど?」
「あの眼。みんな、あの眼をするの。可哀想な奴っていう」
その話を聞いて、自分はどれだけ幸せなのか思い知る。他人の中で暮らす大変さは知っている。
僕も父親の仕事の都合で親戚に預けられた。一日、二日はお客様扱いだが、一ヶ月も過ぎると途端に煙たがる。
まさに異物扱いで、露骨に厄介者をみる視線を向けられる。
二ヶ月間、よく耐えていたと思う。
あの体験を毎日しているのかと思うと、彼女に励ましの言葉なども出てこなかった。
「お父さんは?」
「私は憶えてないんだけど、お父さんは殺されたらしいの………」
「えっ」
予想外の答えに驚いた。
「でも、もう私には関係ないことだから………」
里奈ちゃんは、左手を軽く振って、気にしていないことを強調した。
その為、僕もそれ以上は聞けなかった。でも、それをきっかけに仲良くなれた。
僕と同様、里奈ちゃんも学校では浮いているらしく、会えば色々な話をした。
学校の出来事が主だったでど、里奈ちゃんは、僕と父さんの話に興味があるらしく、しきりに聞きたがった。
一般的に、そんなに羨ましい生活ではないと思うんだけど、彼女の笑顔にありのままを話す。それに、一喜一憂する仕草が、僕はたまらなくうれしかった。
そんな彼女が、今日は様子が違っていた。何を言っても、ぼーとしているだけで反応が薄い。『学校や家で悩みごとがあるの?』と訊いてみても、『ちょっとネ』と答えるだけだった。
連休でもあるし、またすぐに会えるから、今日は見守ることにした。
僕の父さんが刑事というのも教えているし、いざとなれば父さんに相談すればなんとかなると思う。
手に食い込むビニール袋の痛みで我に返った。
(明日、また訊いてみよう)
袋を持ち直し、足を速めた。
父さんには、里奈ちゃんの事は話してある。両親が死んでも、里親の元で暮らしていて、すごく優しい女の子。僕の話すことに、父さんは笑顔で聞いてくれる。
彼女のことを聞いて、父さんが言った。
「翔一、女の子には優しくしてあげるんだぞ。特に、好きな子にはな」
僕はうつむくように頷いた。
今日のおかずは、焼魚で魚はカジキだ。カジキのブロックと大根、大葉、ネギと料理酒などを買っている。友達の家で食べた料理、焼いたカジキに大根おろしをのせ、ポン酢で食べるとすごく美味しかった。
これを父さんにも食べさせてあげたかった。調理法も単純だし、僕にも出来そうだ。
向こう側の歩道に、幼稚園児が母親と手をつないで歩いている姿が目に入った。
他の子は、あんな風に甘えられるものなのかと思う。羨ましいと感じる反面、自分には出来そうにないとも思えた。
頭の中で何度も母親と対面した。
写真でしか知らないお母さんが、優しくしてくれるが、どうしても気を遣ってしまう。
想像でも甘えることが出来なかった。
自分の堅苦しさに頭を叩いた。
父親との暮らしは、役割分担して生きてきた。その所為か、ワガママを言って困らせたくなかった。
そんな自分が、母親と並んで歩いたとして、思うままに態度に表わせるとも思わない。
街を歩いている時、わがままばかり言っている子供をみると、腹立たしくなる。
その理由も自覚している。
あまりの聞き分けのなさとそれを許される環境、それを自分は羨ましいんだと思う。
だからといって、仮に得られたとしても、素直になれない性格で、何とも言えない気持ちが、怒りや不快さになるのだと思う。
僕は、何とも言えない気持ちのまま、借りているアパートに着いた。一棟六部屋のアパート、二階の東側の二〇三号室だ。
玄関の扉を開けると、室内に籠っていた熱気が体を撫でた。
室内に駆け込むと、すぐに窓を開ける。外の空気が流れてきて心地いい。
引っ越して来た時、東京の空気は汚れていると聞いていた。
でも、故郷の瀬戸内の空気には勝てないが、ここのもそう悪くない。
キャベツや玉ネギ、大根を冷蔵庫に収め、お米を炊飯器に入れて炊きながら、干しておいた洗濯物を取り込んだ。
父さんが帰ってくるまで、まだ時間がある。
あと、今日は楽しみにしている刑事ドラマの放送日だ。
先に宿題でもすることにした。




