その3
三
陽は完全に落ち、街にネオンが煌々と灯る頃、古島は特捜本部に帰っていた。
本日も有力情報は得られなかった。
苛立ちは募るばかりだが、捜査資料を見返し、見落としが無いか確認していると、御堂管理官から呼び出された。
丁度良かった。上司と云えども言いたい事があった。
警視庁本部に呼び出され、急ぎ向かってみると若造の拘束を手伝わされた。
見た目は二十代半から後半に思えた。
だが、御堂とその若造の会話から知り合いだと十分に判断できる。
生意気でイケ好かない野郎だ。警ら隊員二名に抑えられて現れたが、悪態を吐いていた。
御堂が現れた時、若造が激昂した。
その凄まじい怒りを目の当たりにしても、御堂の表情は変わることはない。
警ら隊を下がらせ、椅子に座らせた。冷静に話す御堂だが、相手はまったく話を聞いていない。
その感じは、人間関係の時の長さを感じさせる。
御堂が捜査協力を要請すると、男は再び怒り出し、御堂に襲いかかった。
自分が、それを制圧した。
床に伏せさせたが、それでも御堂に対しての口撃は止むことはなかった。
仕方なく自分が肘を使い、頬骨あたりを捻るように押し、床へ顔を押さえつけた。
その直後、もう一人の民間人が現れたのだ。
なぜ、民間人に協力させるか理解できなかった。
確かに、今回の特捜部は人員が少ない。だからと言って、素人を入れるのは無謀というものだ。
古島は両膝を叩き、すっと立ちあがった。
御堂は、署長から個室を与えられ、そこで他の仕事を処理していた。
軽く扉を三度叩き、名を言った。
「古島です」
「入ってください」
そう言われ、扉を開けた。
「失礼します」
胸を張り、室内に入った。
室内には、安物の机と椅子だけで、他には何もない。
その机上には膨大な書類がうず高く積まれていた。
キャリアとなると、自分のような人間とは違うのだろう。
この仕事量を見ただけで、普段どれほど仕事をこなしているのか理解できた。
御堂が立ち上がって迎えてくれた。
「立ち話になるがいいか?」
この状態では、良いも悪いもないので、話を聞く事にした。
「何でしょうか?」
御堂は唇を親指で強くなぞり、淡々とした口調で言う。
「古島刑事。先程の民間人二名に付いて貰いたい」
古島は、その言葉に愕然とした。
「どうしてですか!?そもそも、民間人をなぜ捜査に加えるんですか?」
口調が強くなっていた。そんな自分に影響されることなく、御堂は無表情に答えた。
「現在、捜査は行き詰まりを見せている。被疑者は、篠山に間違いない。だが、決定的な物証も証言も得られていない」
「連休が明ければ、事件日のような平常時に戻ります。そうなれば、証言もあるかもしれません」
御堂は深いため息を吐いた。
「連休前の出来事だ。忘れている可能性が大だろう。それまで、現状と同じ事を繰り返すのは無為無策と同じ意味だ」
「それはそうですが………」
それ以上は何も言えなかった。御堂は、気にすることなく本題に入った。
「一方は変人だが、もう一人は常識人だ。あんなのでも、我々では気付かない事に、気が付くことがある。使えるものは使えばいい。警察の責務は、事件を解決し、治安を安定させ、犯罪を未然に防ぐことだ」
「それでは、我等の面子や誇りは、どうなるんです?」
上司と部下、キャリアとノンキャリアでもなく、いち刑事としてぶつかった。
「古島さん。自分は面子なんて気にしませんよ。自分の誇りは、どのような状況下でも結果を出すことです。その為なら、キャリアの面子なんてどうでもいいですよ」
まるで、福山東署にいる頃に戻ったようだった。
御堂は屹とした表情をすると、頭を下げ言った。
「信頼できる者にしか頼めないんです。お願いします」
まるで、過去に戻ったように振る舞い言うと、自分の返事を聞くことなく部屋を出ようとした。
そして、入口を出たところで振り返り、「帰ってもいい」と上司として言われた。
室内に一人、自分はとり残された。数分間、この状況を多角的に考えた。
自分は、お払い箱なのだろうか。捜査から外された現場刑事なんて、付け合わせのパセリ程の価値もない。
なにより、アノ民間人の世話をしろというのだ。三流犯罪者のような奴の面倒をだ。
あのテの男の犯罪なんて、精々小銭を騙し取るペテン師がいいところだろう。
一課の刑事として、失笑もいいところだ。
だが、御堂の目には策謀の光は帯びていなかった。この人員が足りない窮状で、自分を外す意味を推し量る。
「あんな奴の力すら借りなきゃいけないのか………」
思わず呟いていた。
様々なことを考えながら帰っていた。
これからの自分の役割とは何なのか真剣に考えた。
考えれば考えるほど気が滅入ってくる。民間人に付き添っていても、この事件が解決出来るとはとても思えない。
気がつくと、自宅の玄関の前に立っていた。
古島は、都内に安アパートを借りている。警察のファミリー向けの宿舎もあるが、特別な環境での息子の成長を嫌い、なるべく一般社会に接して教育したかった。
自身の勤務先を評すのは心苦しいが、警察の常識というのは、民間社会ではとても通用しない。それを理解した上で刑事になりたいならそれもいい。
だが、偏った教育は子供の為にも悪影響だと信じて疑ってなかった。
鍵を使い、玄関扉を開けた。
戸を開けると、こっちに満面の笑みを向けた息子が出迎えてくれた。
「おかえり、父さん」
この笑顔を見ると、疲れが瞬時に癒える。今年、翔一は七歳になった。
妻を亡くして、既に三年も経過している。
妻を亡くしてからの二ヶ月は、何も手に付かなかった。それでも、一年は必死になって息子の世話を焼いた。
ろくに家事も出来ない自分が、息子を満足に世話できる筈もなかったが、息子との新しい関係を築かせてくれた。
自分は、努力をしても家事は上達しなかった。そんな姿を見せていた所為か、小学校に上がったばかりの息子が、見るに見かねて家事をやり始めた。
稚拙で粗い掃除、洗濯は機械が全てやってくれる。乾かすのも、ぶら下げるだけだから洗濯物はシワになっていた。
それでも、息子の行為はありがたかった。
翔一は、自然と買い物にも行き、台所にも立つようになった。
懐かしい思い出だ。食卓の上に、少し焦げた肉が白皿に盛られ置かれていた。
「今日は、焼き肉か?」
翔一は、笑みを向けて頷くと、向かい合うように食卓に座った。こうして団欒が始まる。
「父さん、今日は早かったんだね」
「ああ、御堂警視正が帰っていいと言ってね」
「御堂のお兄ちゃんと一緒に仕事してるんだね。ボクも大きくなったら刑事になって、悪い奴を捕まえるんだ」
目を輝かせ、そう言う息子に父として、刑事として、喜びを感じていた。
「ボク、父さんのような刑事になれるかな?」
「なれるさ。勉強して、努力すればな」
翔一は、焦げ付いた牛のばら肉を頬張った。自分もつられて、硬くなった肉を箸で摘まんで口に運んだ。
塩こしょうで焼かれた肉は、噛むと塩分を強く感じる。汗を掻き疲れた体には丁度いいかも知れない。そんな事を思った。
やはり、息子との食事は楽しい。最近、生意気にも母親と同じような事を口にする。家事を任せっきりにしているから、父親と云えどもそんなに強いことは言えない。
穿った見方をする人間からすれば、虐待と判断されかねないが、親子が力を合わせて暮らしているだけなのだ。
食事を終えると一緒に風呂に入った。こんな日常が、どうしようもなく幸福感を与えてくれる。息子の力も強くなっている。背中を上下するタオルに込められている力が増している。少しだが痛みを感じる。
「気持ちいい?」
息子が聞いてくる。
「ああ、もっと力を入れろよ」
無性に父親という役割を演じたくなった。
息子の持つタオルに、さらに力が込められた。体重を掛けて洗っているのだろう。
背中は痛かったが、それでも嬉しくなった。
「どう?父さん」
「あぁ、丁度いい」
翔一が背中を擦る度、背中が赤みを帯びているだろう。
酷くならないうちに、息子に礼を言って湯で流した。
「よく温まって上がりなさい」
そう言って、先に浴室を出た。背中がヒリヒリするが、喜びの方が勝る。
バスタオルで体を覆うと、過剰な水分が吸収されていく。
濡れた体を拭きとり、下着を穿きシャツを着ると仏前に向かった。
小さな仏壇には、妻の位牌と遺影。そして、御猪口に水が入れられ置いてあった。花でも飾ってやりたいが、男所帯という理由と、これ以上翔一の手を煩わせたくはないと思い飾ってない。
蝋燭に火を灯し、その火で線香を炙った。室内に白檀の香りが立ち込める。
仏前に座り、おりんを打った。室内に、仏具の鐘の音が響いた。
目を閉じ、手を合わせる。この時間が、亡き妻との語らいの時間だ。
(咲子、翔一は元気に育ってるぞ。俺たちの息子にしては出来過ぎだ。苦労させ過ぎなのかな………)
そう、妻に問いかけた。遺影の妻は、静かに微笑んでいる。
(こんな父親でも、翔一は自分みたいな刑事になりたいって言ってくれているよ。これも、咲子が自分を立ててくれていたからだろうな。先立たれても、お前には助けられてるな)
生前の咲子の姿が、脳裏に蘇る。いつも最初に思い浮かぶのは、翔一と手を繋いで歩いている姿だ。
帰宅途中に何回か見た光景だ。あとは、病床に伏せっている姿しか思い浮かばない。
酷い夫だと思う。妻には、感謝以外何もしてやれなかった。
「父さん。明日は遅いかな?」
部屋の入口から、翔一が覗き込むように聞いてきた。
「ああ、明日は遅くなりそうだ」
「そう」
少しだけガッカリした様子だ。
「父さんは、もう少しお母さんと話しているから、先に寝なさい」
「はーい」
返事をした翔一だが、台所の蛇口を捻った音が聞こえた。
水でも飲んでいるのだろうと思い、また目を閉じた。
妻の声が聞こえることはないが、心に温かさは感じることができた。
白檀の香りと蝋の燃える匂いが体を包んでいた。




