序章
喧騒が聞こえる。
静かな奥座敷から出ると、女性の笑い声と三味線の音色が耳につく。
どこかの座敷で芸者を呼んでいるのだろう。弦の弾ける音が耳に優しく触れる。
黒い板が敷かれた廊下。良く磨かれて、光を鈍く照り返している。
数秒前から胸ポケットに入れた携帯電話が振動していた。
携帯電話を取り出し、画面を見る。番号だけが表示されている。
男は目を細めて舌打ちをした。それから通話ボタンを押し、嫌そうに耳に押し当てた。
「はい。もしもし………」
《俺だ》
男の低くくすんだ声。不快さが表情に出た。
《さぁ、待ち合わせ場所を言って貰おうか》
「赤羽駅から商店街を抜け、GSを左折して、A食堂から十メートル行った場所に一戸建ての空き
家がある。そこで待っていてくれ、仕事で遅れる」
《あんた、自分の立場が分かってないな》
勝ち誇った口調。その口調に、さらに厭味な抑揚が付いている。
「すまない。待ってくれないか。既にそこに半分の金は、用意してある」
電話の向こうだが、男の雰囲気が変わったのが分かった。さらに言葉を出す。
「浴室の伏せた洗面器の中に現金で四百万を置いてある。残りはすぐに持って行く。だから、三十分。三十分だけ待ってくれ」
《三十分だけだぞ》
「すまない。それより、証拠のファイルは持って来ているんだろうな?」
《どうだかな。それは、残りの金をちゃんと持って来れば判る》
「大丈夫だ。用意してある」
《本当か?あんたの貯金じゃ足りないだろう?横領でもしたか?》
嘲りを多く含んでいた。
《まっ、俺は、どんな金でもかまわないがな》
「一軒家には裏口から入ってくれ」
そう言い終えると、通話を切られた。
深呼吸のような溜息を一つ、肩を上下させるように吐いた。
後方の奥座敷から笑い声が上がった。
「篠山君。早くしないか」
奥座敷から、呼びかけるような声が聞こえた。上司の声だ。携帯電話を収めるとネクタイを整えた。
「お待たせ致しました」
襖を開けて立ち止まり、頭を下げた。
「おお、やっと来たか」
言ったのは、冷酒を手にしている初老の男。頭部が禿上がり、肥満体で服が窮屈そうだ。
「さっさとお酌をしないかね」
向かいに座っている細身で頭部に白髪が多く混じった人物。この人物が上司である。
「申し訳ありません。ささっ、こちらを」
テーブルにそそと近寄り、冷酒の瓶を手にすると、流れるような動きで酌をした。
「先生。先生のお陰を持ちまして、例の件は遺漏なく運びました」
「そうかね。私は、何もしていないがね」
禿げた頭皮に大粒の汗を浮かべ、おしぼりで拭く。
その動作に、先生と呼ばれる優雅さや品は感じられない。
白髪の上司は、平身低頭で接している。
「先生。篠山君は歴代で最も優秀な融資課長です。先が楽しみですよ」
「それは、それは………楽しみですな」
先生と呼ばれる男は、冷酒の瓶を持ち、篠山に傾けるように差し出した。
「恐縮です」
篠山は、ガラスのぐい呑みを両手で差し出して受けた。
「篠山君、今日はもう一軒付き合って貰おうか」
「はい。御供致します。先生」
接待の甲斐があって上機嫌だ。
篠山はチラッと腕時計を見た。午後九時を回っている。笑みがこぼれた。
「篠山君。どうかしたのかね?」
上司が、笑みに気付いたらしい。
「いえ、自分もここまで来たのかと思いまして」
笑いながら答えた。
その言葉に、先生と呼ばれる男が口を挿む。
「篠山君には、もっと重要な役回りをして貰わないといけない。この程度で満足してくれるなよ」
そう言われると、先生は冷酒を尊大な態度で飲み干した。
「よろしくお願い致します」
改めて頭を下げ、冷酒の酒瓶を差し出し、お酌をした。
「ここも飽きたな。もう少し華やかな処へ行こうか」
「では、先生。私は、ここで失礼させていただきます。あとは、この篠山に案内させますので」
先生は、手を上げて許可する仕草をした。
「では、先生」
「うむ」
上司が深く頭を下げる。直後、立つ仕草と同時に耳打ちをした。
「くれぐれも失礼のないように」
上司を見送り、先生と移動するための車を呼んだ。