2000年~統一まで
遂に統一までの年表が完成です
2000年
1月25日
極東分断国家合同会議がシンガポールで開催される
初の中華人民共和国と中華民国の生首脳会談も執り行われ
統一会議が3月11日まで開催される
3月11日
極東分断国家合同会議決裂
高麗民国、朝鮮人民共和国の失言で、日本が激怒し、退室
海南島問題等でも、中華民国と中華人民共和国が対立し、退室
高麗民国と朝鮮人民共和国と蝦夷人民共和国も日中台の退室により、会議が決裂したとして、退室
最悪な結果となり
世界中で、南北朝鮮政府への非難が高まった
原因は対馬領有権問題を朝鮮人民共和国が主張したら
高麗民国が、朝鮮人民共和国のものじゃない、よくて高麗民国のものだと発言して言い争いに発展
次第には竹島や佐渡の領有権まで主張争いを始めてしまい
自国の領土であるはずの、対馬、竹島、佐渡を両国が領有権主張したため
日本代表が
「話にならない、勝手にしろ、佐渡と対馬と竹島は日本領だ。国際的にそうされただろ」
と言い放つと、会議場を退出して、即日帰国した
8月14日
蝦夷人民共和国首相、日本政府に11月をめどに首脳会談を打診
日本政府、会談を受領
11月25日
日蝦首脳会談(東陸道三沢市)
会合の結果、国連主導での統一が望ましいとして、後日双方の議会で決議することにした
2001年
2月14日
日本国衆議院議会
統一計画法案、賛成7分の4により可決
16日
蝦夷人民議会
統一法案、ぎりぎり過半数で賛成するも
管区長会議では反対が過半数を押さえていた(賛成は樺太管区と千島管区、渡島管区棄権、他反対)
3月14日
日本国参議院議会
統一計画法案、11分の6の賛成で可決
4月20日
統一会議が仙台市内で翌年行うことで合意(のはずだった
7月23日
札幌、釧路、旭川同時革命
道北、道東、首都、苫小牧の4つの管区長が統一方針に異議を唱えて、方針に反対していた兵士等と起こしたクーデター
首相と統一賛成議員全員が拘束される事態に
連立政権で成り立っていた人民議会も、強行与党の社会党により、農業党はほぼ言いなり状態だった
蝦夷人民共和国滞在の日本人は事態を知るや否や直ちにEATO加盟国(日本除外)の大使館に逃げ込んだ
クーデター政権は、統一方針の撤回を宣言した
日本政府は、いきなりの事態に驚きつつも
直ちに非難声明を出すために、26日に全議員召集を命じた(病欠以外で欠席している議員も全員)
26日
未明
国会議事堂内でプラスチック爆弾が多数発見され、議決が翌日に持ち越し
7時
多くの議員が各自の党本部で対応に入った
正午
都内同時爆破テロ
高速道路走行中のトラックや各政党本部で爆発が発生
首相は存命していたが
衆院議員は6割が死亡もしくは半年以上出欠不能状態に陥り
参院議員は3分の2以上が死亡、もしくは半年以上出欠不能状態になった
さらに正確に言えば、今現在、国会決議をするための議員数は衆院でも、今出席可能の議員は三分も一以下でおり
首相は関東地方に緊急事態宣言と防衛隊出動を命令
念には念を入れ、東陸道と首都圏には戒厳令を発令
8月1日
犯人逮捕、
容疑者は未来維新党の議員で
自宅と事務所を家宅捜索した結果
苫小牧管区長と極秘にやり取りしていた形跡が発覚(爆弾設置などの書類が発見)
議員を国家反逆容疑で逮捕
8月2日
日本政府、東陸道盛岡支庁管内、秋田支庁管内北部に避難警告、青森支庁管内には避難命令を発令
同時に、苫小牧管区長への事情聴取を断る場合
1973年に締結された函館会議等を全面破棄を発表
期限は8月15日正午とすると発表
8月9日
蝦夷人民共和国革命政府、声明を発表
苫小牧管区長の事情聴取を拒否と
函館会議内容を破棄を正式に宣言し
苫小牧、釧路、江差に北海道内の蝦夷人民解放軍を展開
樺太管区から3割ほどの艦船を動員し
海峡横断作戦を決定
さらに、アメリカが援軍を出せる状況を止めさせる作戦として、道東管区長が、ある中東の反米組織に連絡を取る頻度が増え始める
8月10日
EATO緊急会議で、蝦夷人民共和国本州上陸時には援軍派遣を決定
9月1日までに大規模派兵を決定
8月14日
未明
北海道渡島管区内から多数の中短距離ミサイルが東陸道各地の陸空駐屯地を攻撃
幸いにも、陸上防衛隊は各地に展開を始めた後で、被害は軽微だったが、防空航空隊は大潟飛行場、三沢空軍基地の他、秋田、青森、花巻の3空港も攻撃し機能を停止に追い込んだどころか
松島飛行場、山形空港、仙台空港も被害を被り
蝦夷人民共和国軍は制空権を確保したと浮かれていた
8月15日
未明
下北、津軽上陸作戦
蝦夷人民解放軍が深夜未明に行った上陸作戦
日本防衛隊も努力はしたが
海上防衛隊は、津軽海峡への展開の遅れ
航空防衛隊は、主要基地の壊滅と通信機能の低下で、対処ができなかった
午前11時
航空防衛隊偵察隊が津軽半島と下北半島が蝦夷人民共和国に占領されたことを確認し、東陸道一関付近に着陸
日本初の高速道路上での航空防衛隊実践着陸だった
午後3時
青森市内に蝦夷人民共和国軍侵攻、陸上防衛隊は、苦戦しつつも、防衛した
8月17日
中華民国軍からに援軍が秋田港に到着
弘前市に展開し、蝦夷人民共和国軍を牽制
8月20日
津軽半島攻防戦
日台連合軍と蝦夷人民共和国の激闘
8月23日
高麗民国、フィリピン、アメリカ参戦
アメリカは両院の説得で時間がかかったため 23日にようやく参戦できた
この翌日には、残りのEATO各国も参戦や後方支援を開始
25日
津軽海峡西海戦
函館から津軽半島に向かう蝦夷人民共和国の援軍とEATOが繰り広げた海戦
大和と長門を主軸に、EATO連合海軍の猛攻の末、津軽海峡西海戦はEATOの勝利に終わり
津軽半島攻防戦は制海権喪失により26日、EATOの勝利で終わる
27日
下北半島攻防戦にも終止符が打たれる
9月4日
蝦夷人民共和国上陸作戦が計画
第二次スレッジハンマーと苫小牧上陸作戦を決定
第二次スレッジハンマーは7日
苫小牧上陸作戦は10日に開始
7日
第二次スレッジハンマー作戦始動
北海道内の主要基地と工場を爆撃し、力をそぐ作戦
8日
蝦夷人民共和国、主要基地の機能喪失
10日
苫小牧上陸作戦
EATO各国による大規模な上陸作戦
蝦夷人民共和国海軍は樺太管区以外の管区の艦船の多くが壊滅被害を被っており
上陸作戦はたやすく行われ
苫小牧管区の制圧戦が始まった、翌日アメリカで大事件が起きることも知らずに
11日
日本時間深夜11時頃
アメリカ同時多発テロ
アメリカの国際貿易センタービル
アメリカ国防総省
に旅客機がつっこんだ事件
さらにアメリカ議会議事堂も標的になっていたが、乗客の抵抗などにより
道路に胴体着陸した
この事件は
蝦夷人民共和国道東管区長と中東反米組織が関与していたと後日判明
この騒動で、アメリカは戦線を一時離脱したが
すでにEATOの勝利は目前だった
14日
第二次旭川革命
深夜未明に、戦争に無理矢理参加されていた青年兵士らと樺太管区兵士が共謀して起こした革命
戦争を指揮していた革命政府は、第二革命政府の猛攻を受け、壊滅
首都管区長、苫小牧管区長、道東管区長も午前3時には拘束され
道北管区長も午前7時まで逃げ回り、ロシア亡命を目の前に、第二革命軍に逮捕された
第二革命政府は、拘束されていた首脳と農業党員にEATO連合軍への降伏を懇願
蝦夷人民政府、第二革命政府の要求を受託
EATO各国も午前2時に異変に気づき、攻撃を中止
午前11時35分
蝦夷人民共和国
渡島管区長、千島管区長、樺太管区長と農業党が中心に臨時政府を組織し、EATOに降伏を宣言
苫小牧管区長を東京同時多発テロ容疑の重要参考人として逮捕
道北管区長と首都管区長と道東管区長を戦争責任容疑で逮捕
18日
道東管区長が、アメリカ同時多発テロに関与した可能性があるとして、拷問に近い取り調べをした結果、中東反米組織に資金援助と爆破テロ計画を命じたと白状
28日
国連安保理開催
アメリカ同時多発テロに関する決議と蝦夷人民共和国と日本の統一検討決議が行われた
アメリカ同時多発テロに関しては、初の立法行為が成立、
テロ対策と報告が義務化
日本統一検討決議に関しては
イギリス連邦、フランス、インド、アメリカ(在日米軍)が主軸の国連軍が主軸に南北統一を見守ることになった
2002年
5月15日
統一日本国憲法が
憲法制作委員会により完成
17日
林総理 急死
蝦夷人民共和国との戦争が過労となったという説が大きいとされている
臨時代行として、石生副総理が日本統一性不発足まで代行総理に
8月18日
国連監視下の元
日本統一議会投票が開始
8月26日
統一議会上院(後に衆議院に変更)で統一日本憲法が賛成多数で可決
9月9日
統一議会下院(後に参議院に変更)で統一日本憲法が賛成多数で可決
憲法公布日を2月後の11月3日にし、5月3日施行、国連からの統治解除を5月7日とした
2003年
5月2日
伊達首相 服毒自殺
9ヶ月前の林総理急死の責任をとっての自殺と遺書に書かれていた
5月3日
日本国統一
在日米軍をのぞき、国連軍撤退
及び
統一日本国連加盟
Ps
軍事設定と両国設定を書いたら、
しばらくは、投稿されません




