1944年~1952年
あくまで、架空設定です
無茶な部分もありますがご了承ください
1944年10月24日
フィリピン沖で大地震が発生した
この震災で、日米は互いに大打撃を被った
日本は、戦艦は大和と長門と榛名、日向、伊勢以外をすべて失い、空母もフィリピン沖にいたものは瑞鶴以外全てが座礁したり衝突大破した(それでも本土に逃げ帰った艦もいた
だがアメリカも多くの軍艦を喪失してしまった(津波被害で衝突したり座礁したり、戦艦武蔵と相討ちになったり等)
さらに言えば陸軍も大打撃を被り
フィリピンでの戦いは、膠着した
アメリカは、ソ連に対日参戦をドイツ降伏の45日後に許可する約束をし、
北海道 留萌ー日高山脈ー襟裳岬以東の占領を認めた
これにより、日本の戦後は大きく覆されることになる(無論日本も最終手段を打った
1945年
3月11日
東京大空襲により、数十万人が死傷する
榛名が解体され、地上砲台として、帯広に移動(北部からの決戦に備えて
4月1日
大本営沖縄放棄を正式に決定
鹿児島沖、四国沖での艦隊決戦を決意
(飛行場に大量の地雷を埋設したりなど足掻きは見せたし、県民を北部へ避難させたり等した)
4月11日
アメリカ大統領、ルーズベルト病死
トルマーン副大統領が代行で大統領就任するも、フィリピンの被害を正式に知り、さらに米ソの密約も知ってしまい、対日戦線を緩めることを決めた
5月11日
ドイツ降伏
アメリカ軍、日本が7月までに降伏しなかった場合、1発目の原爆投下先を広島に決定
ソ連軍極東へ相次いで進軍
ソ連の動きを受け、大日本帝国政府は南樺太の国境30km付近の民間人強制退去命令を発動
本土兵力の一部を朝鮮北部や満州に一部移動(さらに大和を舞鶴に移動
在満邦人の朝鮮北緯39度以南への自主避難を満州国に通達
中国大陸にいる陸軍の満州撤退を発令するも
指揮系統の乱れや士気低下を恐れて通達されないケースもあり
大きな致命傷になった
6月15日
ソ連参戦 北海道と満州同時上陸作戦を開始
満州防衛戦は苦戦を強いられ、翌月には平壌へ撤退
大本営は元山と稚内、網走、千島で迎撃を決行
戦艦長門が青森大湊へ移動
7月20日
占守島防衛隊壊滅
7月23日
ソ連軍、南樺太掌握するも
日系民間人は大部分が脱出に成功(自治体職員と軍人がソ連軍に捕まる
アメリカ軍、2発目の原爆投下先に新潟か北海道の諸都市とすることを決定
7月25日
ソ連軍、平壌と稚内占領
7月29日
米英連合軍、大日本帝国に降伏を要求
大日本帝国黙殺
8月6日
広島に原爆投下
大和と空母瑞鶴は、不幸中の幸いで秋田沖を北上していたため難を逃れた(北海道奪回作戦に従軍
長門は苫小牧に先着しており
苫小牧で補給し、根室から釧路に進軍しつつあるソ連軍を10日まで補給されつつ砲撃し続けた
8月8日
ソ連軍、旭川近郊まで占領
ソ連軍下の元、占領域で共産主義制作を開始
8月9日
旭川に原爆投下
ソ連軍巻き添え被害を受ける
米軍事前通告せず 米ソ関係が完全に対立し始めた合図だった
8月10日
ソ連軍、
釧路占領
朝鮮戦線は平壌ー元山ラインからゲリラ戦に発展
8月12日
大和、長門と言った 残存戦艦と空母が苫小牧に結集
ソ連に対し最後の足掻きを見せることにした
8月14日
大日本帝国政府、米英中に対して降伏受託を決定
北海道と朝鮮以外での全戦闘行動を停止することも同時通達を翌日発表とした
8月15日
大日本帝国
米英中連合軍に降伏
北海道と朝鮮以外での戦闘行動を禁止命令を発表
情報が届かなかった沖縄、グアムのゲリラ部隊と戦闘行動が認められた北海道と朝鮮以外の全軍は連合軍に相次いで投降した。中には上官の命令がなければ投降できないと言う兵士もいたが、上官が投降して良いと伝えてようやく投降したものもいた
8月18日
十勝平野攻防戦
北海道残存部隊の半数が結集して、ソ連と激闘を繰り広げた
大和と長門の海上からの砲撃支援と
地上砲台と化した榛名
瑞鶴から飛びだった艦載機が決死の活躍を見せたが厳しい戦いで
21日の榛名砲台の崩壊により
22日に敗走し、25日には沙流川まで撤退した
22日
日本軍朝鮮北緯38度以北での主力部隊が降伏やソウルに撤退
28日
アメリカ軍、苫小牧、横浜、釜山に上陸
ソ連軍、北海道と朝鮮半島での戦闘行動を停止
留萌から滝川と美唄の間を抜け夕張の東を通り沙流川に至る所で終戦になった
9月2日
降伏文書調印
9月3日
朝鮮半島での戦闘も終了
史実と同じラインになる
9月13日
大日本帝国軍大本営が廃止
大日本帝国軍は一部を除き降伏した(帝国軍を脱走して、現地の独立運動に加担したり、地下に潜って生活したりなど
極東委員会も発足
ソ連はソ連で独自の統治政策案を制作を模索
9月20日
ポツダム命令発令
9月27日
連合国軍最高司令官と天皇が密談
話し合いの結果 司令官は天皇を処罰した場合
東北、北関東にソ連の共産主義が進む可能性があると米英首脳に報告
10月2日
連合国軍最高司令官総司令部(以下GHQと表記)が東京に設置される
10月15日
日本国内の武装解除が終了
北海道内の国境警備をアメリカとアメリカ監視下の日本自警団が警備
1946年
1月4日
軍人、戦犯、軍国主義者が公職を追放される
2月13日
GHQ、日本政府に新日本国憲法案を提示
軍隊の存在は必要最小限にも満たない規模でしか認めない法案だった
25日
日本政府、
改定案を提出と追記法案をGHQに提出
憲法は最小限の保有と外地戦争ができないようにする法律で再度交渉
GHQは、保守派が勝利した
3月6日
新日本国憲法発表
5月3日
極東国際軍事裁判開廷
11月3日
日本国憲法公布
1947年5月
GHQ 日本に対し帝国という言語使用を禁止命令と賠償局設置
3日
日本国憲法施行
大和と長門は警備艦艇として復員省、復員庁や海上保安庁を巡る事になる(1952年のサンフランシスコ講和条約まで)
7月11日
対日講和会議が提案されるが
ソ連が反対
これが原因で、ソ連は10月に占領地域で選挙を行い 蝦夷人民共和国と言う傀儡国家を建国
8月15日
朝鮮半島米英占領域に高麗民国建国
反日派と知日派で対立構図がある状態で
反日派が政権掌握
GHQ命令ですでに独立が確約されていたものの
対馬と竹島をよこせとダダをこね
GHQの機嫌を損ない支援が減少する
10月3日
ソ連占領域の北海道、千島列島の住民投票により発足した議会を元に
蝦夷人民共和国が建国
ソ連は、蝦夷人民共和国を即日承認し、南樺太を蝦夷人民共和国に割譲
日本政府と米英連合軍は即日非難
朝鮮半島ソ連占領域にて朝鮮人民民主主義共和国建国
ソ連と中華人民共和国、蝦夷人民共和国が即日承認
これにより、ソ連、極東委員会から追放
1949年
12月7日
中華民国、大陸から脱出
台湾と海南島などの島々を拠点に中華人民共和国に抵抗
中華人民共和国 人民解放軍も海軍力不足から、見送った
1950年6月25日
朝鮮戦争勃発
朝鮮人民軍の急速な進軍により
わずか3日で 高麗民国の首都が陥落
反日派政権崩壊
緊急で臨時軍事政権かつ知日派政権が釜山に臨時政府を設立
7月8日
GHQ司令官が日本に軍備増強を要請
日本政府、陸空軍の発足と経済復興のため、残存艦隊による日本海軍の昭和20年3月時点規模までの復活とすることを決定
8月10日
復員省の元に
陸上警備隊
航空警備隊
が発足
そして海上保安庁も発足、長門が警備艦として異動
この4日後に警備隊は初出動になるが、つらい結果になった
8月14日
北海道戦争勃発
突然の蝦夷人民政府の進軍に
北海道防衛線は1日で崩壊
札幌、苫小牧、千歳、室蘭を相次いで失った
8月17日
連合軍は函館市民を本州へ強制退去させる事態を決めた
8月24日
この時点でのGHQ暫定統治上の北海道域から函館市民全員と本州脱出希望者の民間人脱出が完了
8月25日
蝦夷人民共和国軍、ソ連義勇軍の援軍を受け、長万部防衛線を突破
在北海道米軍、北海道から大部分が脱出、兵力を青森と朝鮮に展開
蝦夷人民共和国軍はソ連義勇軍と共に函館で総力を整えていた矢先
突如、謎の爆発が発生、海峡を横断しようとしていた兵力は壊滅
津軽海峡を渡るために用意した艦船も多く喪失した
後に、函館市内に米軍の原爆が設置されていたことが判明
無線による遠隔操作で起動し、函館市ごと壊滅させた
日本政府、北海道奪還の陸軍兵力が整えられないことと朝鮮防衛線北上を理由に北海道奪還を諦め、長門を津軽海峡に展開
蝦夷人民共和国軍の本州上陸を阻止することに集中した
9月15日
仁川上陸作戦強行
大和も従軍し、ソウル奪還に成功
10月20日
中華人民共和国軍が朝鮮人民共和国軍に義勇軍を派兵
中国内戦で鍛え上げられた義勇軍と装備に自身のある国連軍は
平壌近郊で激戦を繰り広げた
だが、義勇軍の人海戦術に破れ
高麗民国側は敗走
25日
ソウルを奪われる
その後も激闘を繰り広げられ
中ソからの補給もあり戦線は北緯37度線を一時突破する
1951年
4月11日
連合軍最高司令官
南樺太や満州への爆撃と核兵器の使用許可で
アメリカ政府と対立
アメリカ政府は最高司令官交代を発表
7月25日
朝鮮戦線は北緯37度線を境に戦線が30km以内をうろつく状態が1953年まで続く
1952年
3月20日
日米の間で平和条約批准
3月24日
蝦夷とソ連で平和条約批准
4月28日
日本が英米と中華民国側陣営と講和条約に批准 日本国政府正式に主権回復
日米安全保障条約締結
9月18日
日本の国連加盟決議が行われたが、
ソ連の拒否権行使で失敗に終わる