心臓にて溺死
隣の席の尾瀬比奈子は、水泳部のエースと呼ばれていた。その泳ぎは、まるで人魚のように滑らかで、それでいて鮫のように速かった。部員やクラスメイト、他校の生徒にも彼女の評判は知れ渡っており、『県内ならば彼女に勝てる者は居ない』と、誰もがそう言い切るほどだった。
すごい泳ぎなのだろう。人伝てに聞いただけの俺は、そんな漠然とした思いしか浮かばなかった。
俺は水泳部の部員ではないから、彼女の泳ぐ姿を間近見たことは、一度しかない。そう、一度しか。
ある日、水泳部の使う、五十メートルもある大きな屋外プールの近くを通ったときのことだ。たまたまそこから友人の姿が見えたので、俺は遠くから手を振った。すると、友人はすぐに気付いて、手を振り返してくれた。
『そんな所に居ないでこっちに来たらどうだー、清白ー』
俺は、フェンス越しに見える友人の許へと歩み寄っていった。
ちなみに、この学校には、雨天時にも授業でプールが使えるようにと、屋内屋外共にプールが設置されている。基本的に部活は屋内で行われるようだが、週に二回くらいは屋外で行われるらしい。
その日は太陽がさんさんと照りつけ、屋外で泳ぐにはもってこいだった。だからだろうか、友人の肌も幾分か焼けていた。元々肌は白過ぎない奴だったが、焼けても尚格好いい。
俺はフェンスの中をぐるりと見渡した。水泳部員は日焼け止めを塗らないと聞いていたが、それを象徴するように皆肌が焼けていた。男子だけでなく、女子も。何故日焼け止めを塗ってはいけないのかというと、プールの水が濁ってしまうからなのだという。……確かに、思い出せば授業でも日焼け止めを塗るのは控えるようにと水泳部員が言っていた。
話を戻そう。泳いだ後の友人は、水も滴るいい男だ。髪の毛先からぽたりぽたりとアスファルトに垂れる水滴。俺や他の運動部ならそれは汗だが、水泳部のそれは水だ。女子からの人気が元々高い奴だが、こんなにもその『水も滴るいい男』という言葉が似合うとは。
お疲れさま、そっちこそ、とフェンス越しに言葉を交わした。友人は、そのとき丁度休憩時間だったようで、他の部員の泳ぐ姿を横目に俺と会話をしていた。
『ああ、これから尾瀬が泳ぐみたいだな』
じりじりと熱を生む太陽に支配されつつも、彼はにこりと優しい笑みを浮かべていた。そして、『お前もよく、見ておけよ』と一言俺に言った。俺は頷く間もなかった。
それから程無くして、水泳部の顧問がピストル片手にプールサイドに立った。
位置について、よーい……。──パァンッ、ピストルの大きな音が響き渡った。ピストルが鳴ったのと同時に、部員たちは飛び込み台から一斉に水の中へと消えていった。
友人に言われたからなのか、以前から興味があったからなのか。きっと前者の方が強いのだろうが、後者も大いに含まれていたと思う。ただ、俺はそのとき反射的に尾瀬ただ一人を目で追っていた。
そして、ただ、たった一度彼女の泳ぐ姿を見ただけで、それは目に焼き付いて離れなかった。
誰かが言っていた通りだ。人魚のように滑らかで、それでいて鮫のように速い。素人目にも分かるくらい、彼女の泳ぎはすごいものだった。月並みな感想だが、まさに『すごい』としか言いようが無かった。
『すげえな……』
俺は思わずそう呟いていた。彼女の泳ぐ姿に見惚れていた。いや、一度見ただけで魅了されたみたいだった。
『やっぱり清白もそう思うか? 俺は入部当初からあいつのことを注視していたが』
『そ、そうか……』
うんうんと頷きながら、ばんばんと俺の肩を思い切り叩く友人。そんか彼を他所に、俺はプールから上がった尾瀬に見惚れていた。
尾瀬は、そんな俺のことなど知るはずもない。ゴーグルと水泳キャップを外し、友人と共にまた飛び込み台の方へ歩いていった。
競泳用水着というのもなかなか良い物だと、この時ばかりはそう感じざるを得なかった。あまり言うと俺の趣味を疑われかねないが、尾瀬は体のラインも綺麗だった。泳いだ後は尚更そうだ。水を含んだ髪とその水着が堪らない。堪らないのだ。男子高校生の理性を揺らがせるには容易であった。
『……あ』
彼女が飛び込み台へ戻ったとき、ふと視線がかち合った。すると、彼女は一瞬きょとんとした表情になった。
けれども、それからすぐ(俺の勘違いでないのなら)こちらへ向けて小さく微笑んだ。……可愛かったな、尾瀬のあの表情。
しかし、俺は固まったまま何も返せず、彼女は再び友人と話し始めていた。普段教室で会話をする彼女とは一味違っていた。いや、一味も二味も違っていた。
* * *
初めて尾瀬の泳ぐ姿を見てからというもの、俺の心臓は毎日変に煩く鳴っていた。定例通りに挨拶をする尾瀬に、俺はぎこちなさを感じ取られないように挨拶を返した。授業中もいつものようにひそひそと喋っていた。時折、こくりこくりと舟を漕ぐ彼女の額を指で弾くこともあった。
そんな風に自分の気持ちに気付かない振りをしていたが、隣の席では免れることの出来ないことがあった。──そう、日直である。放課後、二人きりで教室に残って、日直の仕事を片付けなければならない。二人きり、二人きり……。
二人きりということに若干の嬉しさを覚えつつも、俺はいつも通り彼女に話しかけた。
「なあ、尾瀬。お前、毎日プールで泳いでて楽しいのか?」
黒板に書かれた文字を消しながら、ふと彼女に問うた。何てことを聞いているんだとこのときの自分を呪ったが、それに反して、なぜだか胸に積もっていたものが、すとんと落ちたような気もしたのだ。
「うん、楽しいよ」
「そうか」
黒板消しを動かす手を俺は止めない。彼女の答えに疑問を持つこともしない。俺は、彼女の方を振り返らずに聞いていた。
「まあ、ね。でも……」
「うん?」
「本当は……。本当は、海に行きたいの」
「……海に?」
そこで俺は、ようやく動かしていた手を止めた。それから黒板消しを置き、彼女の方に振り返った。
「そう、海に。海に行って、誰にも邪魔されずに泳ぎたいの」
いつもあまり緩むことのない口元を緩ませ、彼女はふわりと笑顔を浮かべた。こんな彼女を見るのは、このときが初めてだった。
「お前らしいな」
「そう、かな」
「ああ。お前らしくて、いいな」
「えへへ……ありがとう、清白くん」
俺の胸に積もっていた違和感というのはこれだったのか、と。そのとき初めて気付いた。
プールで泳ぐ彼女もとても楽しそうだった。だが、度々悲しそうな顔もしていた。ああ、そうか。それは、海への恋心だったのか。狭いプールで泳ぐのに飽き、広大な海に夢を見ていたのか。俺もつられてふわりと笑った。
今思えば、俺はこのときには既に恋に落ちていたのだと思う。
幾日も幾日もあの笑顔が忘れられずにいた。初めて見たあの表情が、ずっと忘れられなかった。海で泳ぎたいと言った、彼女のあの笑顔が。心の中できらきら光るそれは、まるでいつまでも輝きを失わない宝石のようだった。いつまでも、いつまでも──。
あれから数週間経ち、夏休みが近付いていた。いよいよ夏本番、という感じもしていた。
尾瀬は、もっと泳ぐのが楽しくなると意気込んでいたが、俺の前で海の話はもうしなかった。俺が海の話題を出そうとしても、だって行けないから、の一点張りだった。
「泳ぎたいなあ」
「今日は泳がないのか?」
「……出来ないの。プール、二つとも掃除するんだって。夏休み前に綺麗にして、夏休み思いっきり使えるように」
夏休み直前は午前で授業が終わる。だからこそ、今日のような日は水泳部は午後に部活があると思っていた。今朝、尾瀬が屋外のプールに居るのを見たから、俺は尚更午後もあると思っていた。だが、致し方ない事情によりそれは無理らしい。
「そりゃ残念だったな」
「本当、残念。清掃業者がやってくれるみたいだから、相当綺麗になるとは思うけど……」
悲しそうな声のまま、頭を垂れる尾瀬。泳ぎたかったなあ、と呟くのが聞こえた。俺は、そんな彼女を見てひとつ、いいことを思い付いた。
「尾瀬、海へ行こう」
「……え?」
心底驚いた表情で俺を見た。だが、驚くのはこれだけじゃない! 思わずそう言いたくなったが、ぐっと堪えて彼女の手を掴んだ。
「早くしないと日が暮れちまうからな。行くぞ!」
「あっ、ちょっと待ってよ清白くん! 清白くんってば!?」
「待てと言われて待つほど、俺は素直じゃないんでな!」
クラスメイトのことなど気にもせず、俺は尾瀬の手を掴んで走り出した。清白くん、ねえ清白くんってば、と何度も何度も俺を呼ぶ彼女のことは無視して、下駄箱に向かった。それからばたばたと靴を履いて、今度は駐輪場に向かって走った。
「乗れ、後ろに」
それから彼女の鞄を掻っ攫い、前籠に二人分の荷物を積んだ。後ろに乗れと言うと、尾瀬はまた驚いた表情になった。
「え、ふ、二人乗りするの!?」
「何だ、怖いのか?」
「見つかったら捕まっちゃうって……」
途端に不安そうな声になる尾瀬に、俺は満面の笑みで続けた。
「平気だ平気。それに、もしそうなったら……」
「な、なったら……?」
──逃げる! そう言った俺に、彼女は「何言ってるの!?」と若干の怒気を孕んだ声を上げた。そんな尾瀬のことをまたも無視した。彼女を半ば無理矢理後ろに乗せ、校門を出ていった。
「しっかり掴まってろよ、落ちないようにな」
「ちゃんと安全運転してください!」
善処するさ。約束してったら! そんなやり取りをしつつ、俺たちはどんどん学校から遠ざかって行った──。
* * *
自転車を漕いでから一時間近く経っただろうか。俺の体力はほとほと底を尽いていた。この辺りまで来ると、もうだいぶ車の往来も、人の姿も疎らになってきた。所々二人乗りでは危ない道もあったが、何とかここまで辿り着くことが出来た。
もう堤防の向こう側に海が見える。──ざざん、と波の音が耳に入った。後ろからは感嘆の声が洩れていた。ああ、喜んで貰えて良かった。とてつもなく疲れたが、尾瀬に喜んで貰えて良かった。
堤防の脇に自転車を停め、鞄を持って砂浜に入った。こんな平日でも人がちらほらと居るのかと、俺は少しばかり驚いた。
人を一人乗せて、一時間近く自転車を漕いでいた俺の体はもう限界をだった。いや、限界など疾うに迎えていたという方が正しいだろう。尾瀬に「大丈夫?」と訊かれたが、意地っ張りな俺は大丈夫だと答えた。彼女は、少しの間きょとんとしていたが、ふふ、とまたすぐに笑った。きっと、最初から俺が大丈夫じゃないと分かっていながら聞いたのだろう。
俺は、ふらふらになりそうな脚に鞭を打ち、ぱたぱたと小走りする尾瀬について行った。彼女は、青い海を見てきらきらと目を輝かせている。そんな尾瀬とは対照的に、今の俺は息も切れ切れで、みっともないことこの上ないだろう。今すぐ大の字になって砂浜に寝転がりたい気分だ。
「わあ、綺麗……」
波が押し寄せては引いていき、また押し寄せては、引いていく。
尾瀬は、ローファーと靴下を脱ぎ捨て、砂浜に打ち寄せる波に足を濡らした。童心に返ったようにばしゃばしゃと、小さな波を蹴って遊んでいる。ばしゃりと跳ねる水が、太陽に照らされてきらきら光っていた。……ああ、眩しいな。
それを見ながら、俺はついに砂浜に寝転がった。汗をかいた肌に砂粒が張り付く。そんな俺を見た尾瀬は、さすがに声をかけては来なかった。
目を閉じても、太陽の光が焼き付いている。瞼の裏に焼き付いている。──ざざん、潮風が気持ちいい。しばらくの間、俺は瞼を閉じて大の字で寝転がっていた。
「清白くん」
「何だ?」
「わ、起きてた。ちっとも動かないから、てっきり寝てるかと思ったよ」
「まあな。少し休んでただけさ」
ぱちり、瞼を開けるとそこには水着姿の尾瀬が居た。普段部活で使っている競泳用水着だ。今朝着ていたものと同じものだろうか? 見間違いかと思って、俺はもう一度目を閉じた。
「あれ、今度こそ寝たかな」
おーい、と声をかける尾瀬は、俺の頬を引っ張った。痛い、地味に痛いんだよなあ、これが。
「いつの間に、お前……」
「清白くんが倒れこんでる間に……。ほら、あそこの海の家で着替えてきたの」
尾瀬はその場所を指差した。海の家なんてあったのか。入ってきたときは気付きもしなかった。
そうか、と返して俺はまた寝転がろうとした。だが、それを阻止するように尾瀬が、俺の手を掴んだ。
「清白くんもせっかく海に来たんだから、海と触れあおうよ」
「俺はお前みたいに水着なんて持ってないぜ?」
「いいからいいから」
尾瀬は、俺の手を掴んだまま、るんるんと鼻歌混じりに波打ち際まで歩いて行った。海と触れあうなんて、そんなこと言うのはお前くらいだろうな。言葉にしそうになったが、楽しそうな彼女の後ろ姿を見ていたら、自然と笑みが零れた。言おうと思ったその一言は、こっそり心に仕舞っておくことに決めた。
* * *
尾瀬が満足に泳ぎ終える頃には、もうすっかり夕陽が顔を覗かせていた。
彼女は、一体あれからどれくらい泳いだのだろうか。「あまり遠くに行かないように、清白くんが見える範囲でしか泳がない」と尾瀬が自らそう言ったので、俺は砂浜に座って、彼女の泳ぐ姿を見ていた。
せっかく海に来たんだから海と触れあおうよ。そう言われたのを思い出して、途中俺も制服のズボンを捲って足で波を蹴って遊んでいた。清白くーん! と、少し遠くから俺を呼ぶ尾瀬の姿を見ては、あまり遠くに行き過ぎるなよ、と返した。
勿論彼女もスイマーである以上、無理に遠くまで行こうとはしない。自分で言ったことに責任を持って、安心して泳げる範囲で泳いでいた。
「……綺麗、だな」
尾瀬を見ていたら、思わずそう口にしていた。プールで泳ぐ姿も良いけれども、やはり彼女は囲いのない大きな海で泳いでいる方が生き生きしている。こんなこと、本人には到底言えない。
海から上がっても尚余韻が残っているらしい尾瀬に、早くシャワーを浴びてこいという意味も兼ねて、海の家を指差した。はあい、と少し寂しそうな声で返事をしながら、走って向かっていった。……あれだけ泳いでいてまだ元気があるのか。
尾瀬を待っている間に、俺も近くの水道で足を洗った。それから足を拭き、靴下を履き、スニーカーを履いて、ここへ着いたときと同じ装いに戻した。
オレンジ色の夕陽が、地平線の向こうで輝いている。海は、揺れる水面に、夕陽を鏡のように映し出していた。
清白くーん、とひらひらと手を振る尾瀬の姿が見えた。あっちも歩いて来ていたので、俺も歩いて彼女の方まで向かっていった。ああ、あともう少ししたら、日が落ちてしまいそうだ。
「うん、やっぱり楽しかった」
「そうか。そりゃ良かったな」
尾瀬は、満足したように微笑んでいた。お前が満足したなら俺も嬉しい、と呟いて、砂浜を歩きながら余韻に浸っていた。
「今日は本当にありがとう」
「礼には及ばないさ」
堤防を越え、自転車のある場所まで着くと、さっきよりも海が小さく見えた。さっきまで堤防の向こう側、海の隣に居たんだ。ここからじゃあの大きな海も、小さく見えて当然だ。
「また、海に来たいなあ」
「なら、今度は電車で来ような……」
清白くんがまた自転車漕いでもいいけどね、そう言った尾瀬は、俺を見て面白そうに笑った。もう次は勘弁してくれ、俺は自転車を漕ぎ出しながら返した。
「しっかり掴まってろよ」
はーい、そう言った後に尾瀬は「また来るからね」と小さな声で、愛おしそうに呟いた。きっと海に向けて言ったのだろう。
俺は、ペダルを踏む足に力を入れた──。
* * *
あの時の思い出は、今となっても鮮やかに残っている。尾瀬を後ろに乗せて、必死になって自転車を漕いで海まで行ったあの時のことを。自分でも小っ恥ずかしい思い出だと思う。いや、ああいうのを青春と呼ぶのだろうか。
初めて尾瀬と海へ行ってから、また何度か海へ足を運んだ。プールには行かないのか? と聞いても、プールではいつでも泳げるからいいの、と彼女はそう微笑むばかりだった。
高校を卒業してから尾瀬とは特に何も無く、連絡も取らなくなった。結局俺は、自分の恋心に蓋をし続けたまま大学に進むために地元から離れていった。意気地なしだった。
大学に通うようになってから、尾瀬のことはすっかり諦めていたし、もう海にも行かなくなった。
しかし、大学に入学してしばらくしてからのことだった。高校時代仲の良かった、あの水泳部の友人から突然訃報が届いたのだ。
『先日尾瀬が事故で亡くなったらしい』
彼とは高校卒業後もよく会い、今も尚時々二人で食事もしている。連絡は比較的多く取り合っていたわけだが、訃報が届くことなど予想だにしていなかった。
尾瀬への恋心は断って、もう諦めもついていた。今更彼女を好きだと言うつもりも、そういう感情も無かった。だから、尾瀬が亡くなった事実もすんなり受け入れられた。
だが、何故だか俺の心は、ぽっかり穴が空いたような虚無感に苛まれた。
『お前も尾瀬と仲が良かったろう。通夜や葬儀については近いうちに案内が届くことになっている』
彼から聞いた通り、数日後に尾瀬の葬儀についての案内が届いた。日程を確認し、アルバイト先にも連絡を入れた。けれども何だか、現実味がない。
通夜にも葬儀にも参加し、彼女の遺体にも別れを告げて来た。普段泣かない友人が涙を滲ませ、唇を噛み締めていた。彼は、今にも涙を零しそうになりながら、遺体の入った棺桶に花を詰めていた。
「人の死というのは、あまりにも呆気ないものだな……」
ただ眠っているようじゃないか。彼は声を震わせて呟いた。そして、とうとう堪えていた涙を零し始めてしまった。
「……仕方のないことだよ。俺たちがどれだけ悔やもうとも、死んだ人間の命は戻らないんだ」
だから、一日でも早く成仏させてやろう。俺はそう言った。友人も涙を流しながら頷いた。
死者にとって一番辛いことは、成仏出来ずに延々とこの世を彷徨い続けることだと、俺はそう思っている。友人も俺の意見に同意してくれた。涙を流しはしたが、決して「帰って来てくれ」とか「行かないでくれ」とは一度も口にしなかった。
そういえば、尾瀬の墓はどこになるんだ? 俺がそう口にすると、「墓は無く、散骨するらしい」という答えが返ってきた。
「……もしかして、海に散骨するのか?」
友人は、そうだと言った。どこの海で散骨するのかと、俺が聞く前に彼の方から言ってくれた。
そこは、俺と尾瀬が何度も行った、あの海だった──。
* * *
尾瀬の散骨に立ち会い、ぼうっと地平線を眺めていた。尾瀬の遺体を見ても泣かなかったのに、ここへ来た途端に涙が込み上げてきた。鼻がつん、として、胸が痛くなった。初めてここへ来た時のことを思い出して、俺は唇を噛み締めて泣いた。
けれども、誠に不思議なことに、散骨を終え、自宅へ帰るとその悲しみもすとんと落ちていた。薄情な奴だと俺を詰る者も居るかも知れない。だが、本当なのだ。ここで尾瀬のことを思い出しても涙など出ないのに、あの海を見るだけで涙が溢れて止まらなくなるのだ。
その年からだろうか。夏になると毎年毎年、とある夢を見るようになった。
高校の夏用の制服を来た俺が、尾瀬を自転車に乗せて海へ行く夢だ。……そう、初めて尾瀬と二人で海へ行った、あのときのこと。
いつまで経っても鮮やかなまま。夢を見ているのに、まるで現実世界に落ちているようだった。
あの夢を見る度、俺は忘れかけていたそれを思い起こされる。嫌な気分ではないのだが、胸が痛くて仕方ないのだ。無性に辛くて辛くて、悲しいわけじゃないのに。
そして、あの夢から起きると、俺は決まって涙を流すのだ。悲しみなど疾うに消えたはずなのに、自分の意に反して涙が溢れて止まらなくなるのだ。
もうどれほどの涙を流したのか、自分でも分からない。
きっと、あの海と同じくらい涙を流さねば、俺があの夢から解放されることはないのだろう──。
お読みくださりありがとうございます。
初めまして、白凪といいます。こちら初めて投稿させていただいた小説です。至らぬ点も多々あったかと思いますが、評価やレビューをいただければ幸いです。今後ともよろしくお願いします。