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変な好きな人  作者: 相澤
9/11

自己嫌悪

それから香椎は、日比谷たちと関わるのをやめた。もともと仲の良かった、田中のいるグループと一緒にいるようになった。


あいつが一人にならなくて、本当によかったと思う。俺や宮内がいるからって、やはり同性の友達がいないのは辛いことだ。


まさか香椎が、あんな行動に出るとは思いもよらなかった。その男前さに、改めて惚れ直した所存だ。宮内は何故か子供を見守る母親のような顔で香椎を見つめていた。


「勉ちゃん…真志も立派になったねぇ」


「何干渉に浸ってんの…」


「お前ら、俺が知らない間に何があったんだよ。おいてけぼりにすんな」


丸山くんがぷりぷり怒りながら話に入ってきた。久しぶりの出番だね丸山くん。ごめんね、親友ポジである君の影が、随分薄くなっちゃったね。


「かくかくしかじかってやつだよ~」


「説明ダルいからって適当すんな!」


「いや、あれだよ。何かわからんが香椎が自分の殻を打ち破ったんだよ」


「へ~」


聞きたがっていたわりにはさして興味もなさそうに、丸山くんは前を向いて小説の世界に入り込んでしまった。こういうとこだよ丸山くんの出番が少ないのは。


しかし油断はできない。日比谷たちが、このまま香椎に何もせずに終わるとも思えないのだ。しかもあれだけ香椎がピシャリと言い切ったのだから、相当頭に血が昇っているはずだ。


俺があいつにしてやれることは何だろうな。日比谷たちと仲違いした今、俺たちはもう交際を続ける必要性はなくなったけれども、せめて香椎に友達だと思ってもらえてたらいいな。




そうは言うものの、香椎の俺に対する態度が心なしかおかしくなった気がする。


極端に話さなくなってしまったのだ。やはり罰ゲームから解放された今、俺となんか関わりを持ちたくないのだろうか。それなりに、打ち解けてきたのかなと思っていたのは俺だけだったのか。


何だか途端に虚しくなってきた。やっぱり所詮俺は、香椎にとって単なるクラスメイトでしかなかったんだな。モブなんだな。


授業中も、さりげなく横目で香椎の様子を窺ったりしてみた。香椎はまっすぐ前を向いて、教師の話を聞いていた。


そうだよな。元々こうだったんだ、俺らの関係は。逆に、深い仲になんかならない方がいいんだ。首を絞める思いをするのは俺なんだから。


ライオビットでいるときだって、いつボロが出るかわからない。香椎に惚れられてるのをいいことに、行きすぎたことをしてしまいそうだ。そうなるくらいなら、香椎への想いもこれ以上膨らませない方がいい。


そう決意した俺だったのに。なんだってお前は、タイミングよく試練を与えてくるんだ。


「ライオビット。私のこと…誉めてみて」


上目遣いでそんな突飛なお願いをしてくる香椎に、俺は頭痛を覚えた。いったい何に対して誉めろと言うのだ。


俺は無視して品出しに没頭することにした。それでも香椎は、今度は俺の胸ぐらを掴み無理やり視線を合わさせたのだ。


「私最近、結構頑張ったのよ?言えなかった本音も言えたし。誰かに誉めてもらえないとやってけない」


何なんだその言い分は。お前が頑張ったのはよーくわかっているが、ライオビットには知り得ないことだろう。もうこれは「お願い」っていうより「脅し」だ。お前が怖いよ香椎。


「…私が頑張れるのは、あんたがいるからなの。だから…」


香椎の目が潤み出した。やはり不安があるのだろう。一軍を敵に回したのだ、そりゃ当たり前だ。俺なら登校拒否を起こすレベルだ。そもそも一軍に喧嘩売らない。


気休めでも力になれるなら、俺に香椎のお願いを断るつもりはない。俯いているせいで丸見えになったつむじを見下ろし、俺はその小さな頭をぐしゃぐしゃと掻き乱した。


「痛いから!」


誉めるって言うより嫌がらせだなこれ。香椎にもあっさり払い除けられた。


ボサボサになった髪を膨れっ面で直す香椎に声を出さずに笑って、俺は正面から柔らかく香椎を抱き締めた。そのまま宥めるように背中を優しく叩いてやる。


「…ライオビット」


香椎の吐息が首筋にかかる。香椎は俺の背中に、遠慮がちに腕を回した。


「…好き。ライオビット。大好き…」


初めて聞いた、香椎の溢れ出る想い。「好き」だという感情をぶつけられて震えそうなほど嬉しいのに、俺の名前を呼んでもらえるわけではない。


こうやってお互いの熱を確かめ合っても、虚しい。それに香椎を好きになってしまった今、俺がこんなことをするのは反則行為なのだ。最低で卑怯な行いだ。


それでも、止まらないよ香椎。ごめんな。


ライオビットとしてでもいいから俺、お前に愛されていたい。




私はライオビットが好きだ。昨日彼に抱き締められて、改めて痛いほどに確信した。


彼の体温を感じて死にそうなくらい幸せなのに、泣きそうになるくらい心臓が痛かった。言うつもりなんてなかったのに、思わず「好き」だと本音を吐露してしまった。


それでも、私が彼に告白したとき、ライオビットは抱き締める力を強めてくれた。受け入れてもらえたような、そんな気がした。


何度も言うけど、私はライオビットが好き。誰よりも好き。なのに。


ダブルデート以来、音無君の顔がまともに見れなくなってしまったのは、いったいどうしてなんだろう。


「まーし!何でボーッとしてんの?具合悪い!?」


「…別に」


光の無駄に高いテンションにも、いつも以上についていけない。


おかしいのだ。音無君を見るたびに、あの時言われた言葉が鮮明に頭の中で再生される。ほぼ自動的に。その度にまともに会話ができなくなって、あれから二週間は経つけど全然話せていなかった。


意識、してしまっているんだろうと思う。でもどうして音無君なんだろ。光や浩二に言われたら、とふと考えてみた。それでも私は多分、ここまで心が揺さぶられることはない気がする。


ギャップに動揺しているだけなのかな。だって音無君、普段はおとなしいから、あんなこと言うの想像できなかったし。寧ろそう思いたい。だって頭が混乱しそうなのよ。私は確実にライオビットが好きなのに、音無君のことまで気になってるなんて。


「光…私ってもしかして、節操なしかな…」


「え、何で?もしかして俺のことも好きになってくれたとか?」


「それはない」


「あ、うん…気持ちいいくらい断言したね…」


キングオブ節操なしの光にとったら全然たいしたことないレベルだろうけど、私はそんな尻軽な女になるつもりはない。違うんだ。私は音無君なんて気になってない。これはきっと、友情の芽生えに感動してるだけなのだ。そう、私と音無君は友達だ。同志だ。


だから避けるような真似をするのは、逆に不自然なんだ。




「おはよう音無君!今日もいい天気だね!」


「へ?あ、ああうん…そうかな…」


見たところどんより曇天模様だが。香椎は何故か怖いほどに明るかった。最近じゃ挨拶もなかったのに、いきなりどうしたのだろうか。


「そだ、音無君。勉強でわからないことあって…教えてもらっていいかな?」


香椎は俺の返事も聞かずに勝手に机をくっつけてきた。急に縮まった距離に、心臓が忙しくなく鳴った。


何だ何だ。全然話さなくなったと思ったら、今度はやたらと絡んでくるな。どんな心境の変化なんだ。いったい何があったんだ。


「ここなんだけどさぁ」


「あ、うん…」


香椎の長い髪が俺の右腕にかかった。シャンプーのいい香りがする。俺の中の切れちゃいけない何かが切れちゃいそうだ。


「どうしてここの答えがこうなるのかわかんなくて…って、聞いてる?」


「!!」


そんな、そんな至近距離で見つめないでくれ。蒸発しそうなほどに顔が熱くなる。香椎は怪訝な表情で俺を見るばかりだ。


脳みそがどろどろに溶けて沸騰しているような今の状態では、数式なんてただの文字の羅列にしか見えない。


「俺が教えるよ香椎。見してみて」


「丸山くん!あ、ありがとう!」


予想だにしなかったところから助け船が出た。丸山くんが自ら買って出てくれた。そういえば彼、最近ちょいちょい香椎に話しかける場面が増えた。「あいつには素質がある」とか言って自分と同じオタク街道に、香椎を引きずり込もうと目論んでいるのだ。たまにお気に入りのライトノベルを無理やり彼女に貸している。やめて差し上げろ。




何だ、全然平気じゃない。


私は軽い足取りで廊下を闊歩した。あれだけ音無君と会話することを躊躇っていたのに、いざ話してみたら何ともない。普通に話せているじゃないか。


別にドキドキとかもしていないし、あのとき言われた台詞を思い出しても「ありがたいなぁ」くらいの感想だ。よかった。私は音無君のことを、恋愛感情では見ていなかった。


「そうだよ!私と彼は何でもない!」


「誰と誰が何でもないって?」


不意に後方で声がし、咄嗟に振り返れば浩二の顔が目と鼻の先にあった。


「ひょあっ!?」


みっともない声を出しながら仰け反った。浩二はそんな私の反応を見て、ゲラゲラ笑いながら手を叩いた。


「ちょ、真志のそんな声初めて聞いた!」


痛くツボに入ったのか、浩二の目には涙が滲んでいる。私こそ、浩二がそこまで笑ってるの初めて見た。笑われて恥ずかしいはずなのに、少し嬉しかった。素の浩二を見れた気がして。


「もー…そんな笑んなくても…」


「ごめんごめん。脅かしちゃって、悪い」


「それはいいけどさ」


そういえば、浩二と話すのも随分久しぶりな気がする。彼が仲間とよゐこ堂に来て以来、どうにも気まずさを拭えないでいたのだ。


それに私はもう、詩子たちともつるむ気ないし。浩二と一緒にいる機会だって、減るんだろう思った。


「ていうかさ。喧嘩したんだよな?あいつらと」


「う、うん…」


「何かあったの?イツメンで集まれなくなんの、寂しいんだけど」


「…」


私は何も返せなかった。あんな居づらい場所には、もう戻りたくない。今でも彼女たちからの突き刺さる視線を感じている。陰口を叩かれているのだってわかっている。


「俺が間に立ってやろうか?俺からも真志と仲直りするように、あいつらに言ってあげるよ」


「え…」


「だからさ。また皆で楽しくやろうよ」


そう言って浩二は笑った。それが最も良い選択肢だと言わんばかりに。


私は緩く首を振った。徐々に浩二の笑顔が消えていった。


「いらない…」


浩二は「また皆で楽しく」なんて言ったけれど、私はあの面子で心から楽しんだことなんてない。同じように馬鹿笑いしていても、どこかで仲間の内証を探ろうとして。


「浩二はどうして…私をまたあの輪の中に入れようとするの?」


私がそう問うと、浩二は押し黙った。彼の瞳から段々と熱が消えていく。やがては、ゾッとするほどの冷たさを孕んだ。そして私に向かって口を開いたのだ。


「真志はどうして、俺からそれを聞きたいの?」


「…っ」


私はまたも言葉を失った。優しい人だと思っていた彼に対して、何故か抱いていた違和感。それが確信に変わった瞬間でもあった。




元仲間たちからの嫌がらせは、ふつふつと泡を出すように始まった。


体育で同じチームになれば無視をされ、ちょっと席を外せば勝手に椅子を持ち出され。


椅子を持ってかれるのはちょっと痛いな。彼女らの会話が終わるか、最悪チャイムが鳴らないと返ってこない。しかも律儀に机まで戻してくれることはない。その場に放置だ。


「真志!俺のお膝においで!」


光がそう言って自分の足をバシバシと叩く。私は冷めた目でそれを見るが勿論光の膝に乗ることはなかった。


「俺の席にいなよ香椎。代わりに俺が宮内の膝に座るから」


「はぁ!?いらんし!てかマジで乗ってくんなっつの!!」


音無君はどっかりと光の膝上に腰を下ろした。しかも向き合って。光の顔色が一気に青ざめる。


「近寄んな!何か当たってる!股間に何か当たってる!」


「当ててんだよ」


珍しく押され気味の光に、私はもう可笑しくて涙を流しながらヒィヒィ笑っていた。足に力が入らなくなり、くずおれるように音無君の席に座り、彼の机に突っ伏しながら肩を震わせた。


「ちょっと、二人とも、笑わせないでよ…」


「俺は不快でしかない…」


苦い表情で光と音無君を見る丸山くんまでも面白くて、いよいよ酸欠になりかけてきた。


「待って待って、お腹いたい…!」


私は止まらない涙を袖でごしごしと拭った。下品な笑い方だけど、彼らの前でそれを見せるのには何の躊躇いもなかった。


彼らと一緒の時は、こんなくだらないことで心から笑える。死ぬんじゃないかってくらい面白くてたまらない。


それに唯一、信じられる。この三人はきっと、私を裏切らないでくれる。根拠もないけれど懸念も全くない。


だから私は、頑張れる。元仲間からの地味な嫌がらせも、心の見えない浩二の言葉にも、屈することなく。




理科室に忘れ物をしてしまったことを、放課後に思い出した。宿題に使うノートだ。授業中にこっそり課題を済ませていたのだ。帰ってからゆっくりしたいから。


取りに戻るのは多少面倒でも、また一からやり直すより全然ましだ。私は駆け足で理科室に向かった。


「閉まってないよね~…」


恐る恐る扉を開ければ、ちゃんと開いてくれたのでひとまず安心だ。自分の座っていた場所まで行ってノートを探した。引き出しにきちんとそれは収まっていた。


一応ノートの中身を確認して、落書きとかがないかを調べた。そんなことをしている自分にちょっと泣きそうだ。


「あれ?これ…」


机の上にポツンと置いてあった参考書を見つけた。手に取って裏面を見てみたりページを捲ってみたりした。一番最後のページには、ペンで書かれた「音無勉」の文字があった。インクが滲んでかなり読みづらいが、多分その字で間違いないだろう。


「音無君のか…」


彼はもう帰ってしまっただろうか。持っていくだけ持っていこう。もしかしたら困っているかもしれないし。それにしても音無君、難しそうなの使ってるなぁ。凄く頭いいもんね。


私なら真面目に復習すれば、勉強が理解できると彼は言ってくれた。それから私は、きちんと毎回復習するようになった。お陰で微々たるものだけど、ちょっと成績が上がったのだ。


「おー、いたいた~」


自分以外の誰かの気配を感じた直後、その間延びした声は聞こえた。振り返ると浩二と仲の良いサッカー部の男子三人がいた。


思わず身構える。彼らは苦手だ。馴れ馴れしくて、ズケズケと土足で入り込んでくる遠慮のなさ。いつだか誰かの家でお酒を飲むことになったとき、酔った三人のうちの一人に強引に関係を迫られたことがある。怖かった。


頑なにお酒を飲むことを拒んだ私に、無理やり口移ししようとまで。思い出しただけで吐き気がする。


「香椎~。イツメンからハブられてんでしょ?かわいそ~」


「俺らが慰めたげよっか?」


にやにやと厭らしい笑みで近づいてくる彼らを睨み付けるも、恐怖で足はすくんでいた。


「てかさぁ。香椎って、光とも浩二ともやってんでしょ?」


「へ…」


「俺とも一回でいいからしてくんない?俺香椎狙いだったんだよね~」


彼らの言ってることが、理解できない。私が光と浩二と、やってる?何を?


彼らの下卑た表情を見れば何を言いたいのかは一目瞭然であるけれど、嫌だ。わかりたくない。


「何それ…そんなこと…」


「何か詩子たちが言ってたよな?」


「そうそう。浩二は、本人が言ってたよな」


「は…?」


浩二が、言ったの?私とそういう関係を持っただなんて、根も葉もない嘘を。


一瞬目眩がした。あのとき見せた浩二の冷たい瞳が脳裏を過った。


「香椎って見かけによらず欲求不満?」


「おい、やめろって」


下世話な会話で高笑いする三人に対峙したまま、私は地面が揺れているような感覚に脂汗を滲ませた。


ああもう、最低だ。こんな形で仕返しをされるとは思わなかった。詩子や浩二たちが私を遠くから嘲笑っている幻聴さえ聞こえてきた。


「何してんだよ」


「…?」


男たちは不意に聞こえた声に笑うのをやめ、後ろを振り向いた。彼らの肩越しに見えたその人に、私はふわりと身体が浮き上がるような感覚に陥った。


「誰だっけお前」


「あいつじゃん!ほら、香椎に付き合ってくれって迫った」


「あ~たしか、音無だよな!てか一ヶ月って条件だったろ?何でまだ彼氏面?」


音無君は三人の間をずかずかと割り入り、私を庇うように前に立ってくれた。


背中だけしか見えていなけれど、わかった。彼の強烈な憤りが。


「音無はもう香椎とやった?」


「欲求不満な彼女で疲れたろ~。ま、もう彼女じゃないしな。俺らもらってもいいよね?」


何で本人の了承もなしにもらうもらわないの話になってるのよ。こいつらの鼻っ柱をぶん殴って折ってやりたい。


“冷静に”ムカつけるほど平常心を取り戻しつつある私に対し、音無君は静かに怒りの炎を燻らせているようだった。


「ほざけゲス野郎。お前らの周りの頭弱ぇ女とでもやってろよ」


「…あ?」


「!!」


音無君の口から出た予想だにしない言葉に、私は驚き目を丸くした。そんな喧嘩を売るような言葉、彼が言えるなんて。しかもきっと、音無君が一番関わりたくないであろう系統の男子に。私は彼が助けてくれた事実よりも、珍しいものを見れた感動に鼓動を高鳴らせた。


「はぁ?さっむ。いっちょまえに格好つけてやんの」


「萎えた。帰ろうぜ」


ぞろぞろと帰っていく三人を無言で見送る。ピシャリと乱暴に扉が閉められた音を合図に、一気にお互いの力が抜けた。


「あー…くっそビビった…」


大きくため息をつく音無君。しゃんと伸ばしていた背筋が今では、頼りなく丸まっている。


それでも私は安堵したのだ。彼がここに来てくれた瞬間。悔しさも悲しさも、全てが吹っ飛んでしまうくらいに。


「…っ」


気づけば私は、目の前の背中を抱いていた。腕を巻き付かせたその腰の細さに驚く余裕なんてないほどに、彼に触れたいという欲を抑えきれなかった。


「か、香椎!?」


焦りを含んだ音無君の声に我に返り、慌てて離れる。


「ご、ごめん!何やってんだろ、私…」


「い、いや…俺は別に…」


「あ、あいつらの言う通り、欲求不満なのかも!あはは!」


「は、はは…香椎、似合わんよそのジョーク」


暫く空々しい笑い声が薬品臭い室内に響いた。恥ずかしさでどうにかなってしまいそうだ。いきなり抱きついてくる女なんて、怖くて仕方なかったろうと思う。


私だってわかっていたけれど、止まらなかったものは仕様がないじゃないか。


「あは、は…」


「…」


「…見てよ、これ。スゲー手ぇ震えてる」


音無君はそう言って、右手を私に見せてきた。彼の言う通り、小刻みにその手は震えていた。


「あんな啖呵切っといて…ダサいな俺」


音無君は恐怖に闘いながら、私を守ってくれたんだ。震えるほどに怖かったのに。


私は音無君の手をぎゅっと握った。震えを止めてあげたくて、片方の手で彼の手の甲を擦った。


音無君の右手の指に力が込められ、私の手はあっという間に彼の掌の中だ。


「俺、怖かったんだ…香椎…」


弱々しい声でそう呟いた彼は、叱られている子供みたいな頼りない眼差しで私を見つめていた。


もっと、触ってほしい。そう言っているようにも見えた。


「…っ」


全身の血管が、痛みを覚えるほどにざわめいた。潰されそうなほどに心臓が縮こまってしまって。


音無君の頭を胸に抱えるように、彼を抱き締めた。そのまま頭を撫でてあげれば、自然と音無君の手も私の背中に回った。


音無君が、可愛い。誰かをこんなに愛くるしいと思ったのは、二度目だ。




「よっ。ライオビット」


閉店間際に香椎は訪れた。もうちびっこたちも夕飯の時間と言うことで、さっさと家に帰ってしまっている。


今思えばこのタイミングを狙って来たんだろうと思う。俺と話をするために。


「ごめんねこんな時間に。もう帰る準備するの?」


俺は香椎の問いかけに首を横に振った。あと15分は店内を適当に清掃する予定だ。必要ないほど埃も汚れもないがな。如何せん他にすることがない。


「じゃあ仕事しながらでいいから、聞いてくれるかな」


俺はモップを手に取りながら頷いた。俺の後ろを着いてきながら、香椎は話し始めた。


「あのね、ライオビット。私あなたに、好きだって言ったじゃない」


俺は思わず止まってしまいそうになる手を何とか動かした。すぐ後ろにいる香椎の気配に動揺していることを悟られぬよう、努めて平静を装った。


「その言葉は嘘じゃないのよ。だけど私…あなたの中身がこの人だったらいいなって、思う人がいるの」


香椎のその言葉を聞いた瞬間、俺はいよいよ足を止めてしまった。顔にどっぷりかいた汗が喉元を伝い、慌てて軍手をはめた手で拭った。


「つまりね、私…多分、その人のことも好きなんだと思う。全然深い付き合いなわけじゃないのに、何でかな。あんたといるときと、似たような気持ちになるんだ」


香椎が誰のことを言っているのか、恋愛に疎い俺でもさすがに察せざるを得なかった。俺は香椎が自分のことを、ライオビットとしてではなく音無勉として見てくれることを望んだ。あれほど望んだのだ。


そしてその夢がきっと、叶ったのだ。なのに嬉しくない。苦しい。嫌な汗が止まらないんだ。


「あんたにこんなこと話したのはね…隠し事したくなかったから、とかじゃないの。ただ私がすっきりしたかっただけ。だからもう…忘れていいよ。今までのこと全部」


振り返れば、香椎はまっすぐライオビットを見上げていた。強い決意の念が、瞳に宿っているのがわかった。




なぁ香椎。理科室で俺、お前に「怖かった」って言ったろ。


お前にはそう思われたかもしれないが、違うんだ。あいつらのことが怖かったとかでは、ないんだ。


お前に降りかかる良くないことたちは、ひょっとしたら全部俺のせいなんじゃないかって思って。そう考えたら震えが止まらなかった。


何も知らないお前の優しさにつけこんで、その場限りの安堵を得ようとした。お前は何も言わずに優しく抱き締めてくれた。


なんて、最低な人間だろう。


「何よ勉ちゃん。わざわざ放課後呼び出したりしてさぁ」


宮内が面倒臭そうに眉根をしかめ、人気のない渡り廊下の壁に身を預けていた。


「…めたい」


何とか声を絞り出したとき、途端に目頭が熱くなった。滲んでいく視界は、宮内の姿をはっきりととらえることを次第にできなくさせた。


「俺、ライオビットやめたい…宮内…!」


いい加減、自己嫌悪で押し潰されそうなんだ。


全てをさらけ出した香椎に対して俺は、何一つあいつに本当を見せてやれたことがない。

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