ありがとうさぎ
朝の登校は憂鬱だ。何がってそれは、今まさに目の前に広がっている現状のせいだ。
いわゆる一軍の女子が、俺の机に無遠慮に座り仲間と会話を楽しんでいる。残念ながら女の尻で温もった机に興奮できるほど、俺は変態ではない。そう思われてしまうことは多いが。
香椎もその中にいたが、前にも言った通り学校とよゐこ堂では俺たちの関係は全然違う。教室内での香椎は貴族なのだ。気軽に声をかけられる相手ではない。
仕方なく友人の席に居座らせてもらう。鬱陶しそうな顔を向けられたが無視だ。
「やぁ友よ。今日もいい天気だな」
「どう見ても曇天だろ」
数少ない友達の一人、丸山誠くん。きれいな球を描いたおかっぱ頭を振るのが癖の、厭世主義ボーイだ。
「またあのビッチどもに席占領されてやがんのか」
「ああそうだよ。ご丁寧に尻擦り付けまくられてるよ」
「朝から興奮してんじゃねぇよ」
「してねーよ!!」
ホームルームが始まるまで奴等が頑として動かないことを知っているので、俺はもう声をかけて退いてもらうことを諦めていた。そもそもそんなこと、恐ろしくてできない。修羅のような顔で舌打ちされるに決まってる。お前ごときが私らに話しかけてんじゃねぇよと言わんばかりに。
「俺なら言うね。人の机に汚いもんマーキングしてんじゃねーつって」
「まぁ口が悪い…てか本当に言えんのかよ」
「言えるだろ。だって俺たちに失うものなんて何もない…だろ?」
「おいおい俺を同類にすんな」
丸山くんほど俺は開き直れていないので、なるべくトラブルのない人生を送っていこうと決めている。高校時代だって、どうせあっという間に過ぎるのだ。あれくらい受け入れられないようじゃ、社会に出てもきっとやっていけないだろう。様々な理不尽に耐えるための訓練と思えばいい。
そう思いつつも未練がましく空かない自分の机を見つめていると、不意に香椎と目が合った。大袈裟に心臓が跳ねた。一瞬だったら偶然と思うのだが、二秒くらいはそのままだった。
まさか俺がライオビットであることが、バレたわけではないだろうな。この状況でそんな不安に結び付く場面は一つもなかったのだが、あんな怪訝な表情(に見えた)を向けられたら誰だって。
じわりと身体中に冷や汗が滲んでいった。パッと外された視線に安堵していると、香椎は俺の机に腰かけていた女子の腕を取り教室の外に誘導した。それに続いて金魚の糞のごとく、数人の女子が廊下へと出ていった。
さりげなくその後ろ姿を目で追っていくと、女子たちがずらずらとトイレに吸い込まれていく奇妙な光景が拝めた。
「お前そういう趣味か」
「は?」
「これから用を足そうとする女を眺めて愉悦を感じるタイプなのか」
「馬鹿かお前」
そんなことより、もしかして香椎は俺のために連れションを装って友人を退かしてくれたのだろうか。あいつのことを買い被ってるつもりはないが、性格が悪い人間とも思えなかった。
ところで、仮にも香椎が俺に気を遣ってくれたのが本当だとしたなら、どうだというのだろうか。「さっきはありがとう」とわざわざ言うか?キモい。キモすぎるぞそれは。ていうか怖い。
せめて、よゐこ堂でちょっと親切にしてやることにしようと思う。
今日のライオビットは何だか変だ。まず、出会い頭にクッキーをくれた。コンビニなんかに売ってるようなものの詰め合わせだった。
今まで彼が私に何かをくれたことなんて、一度だってない。そういうキャンペーン中なのかなと思ったけれど、他の子供たちにあげている気配はなかった。
私、何かしたかな。ちょっと不気味だ。しかし身体は正直で、にやつく口元を抑えられない。ただの気まぐれだとしても、やっぱり嬉しい。
「あ、ありがとう」
ライオビットは軽く手を上げ、のろのろとモップをつかむと床掃除を始めた。それだけ!?と思わず突っ込みたくなってしまったけれど、そんなの口にしたら「ではこれ以上何を期待していたの」という話になるので、やめておいた。
「ライオビット!俺にもお菓子くれよ!」
「私もほしーい!」
群がる子供たちをしっしと払い除け、ライオビットは黙々とモップを動かした。どうやらちびっこの分は持ち合わせていなかったらしい。だからってあの態度は、さすがに大人げないと思う。私は苦笑いを溢した。
「皆!私がもらったのでよければ、分け合って食べよ!」
私の声を聞くとあっさりと子供たちはライオビットから離れ、さっそく袋から開けたお菓子を夢中で選び出した。なかなか決まらずにじゃんけん大会が始まった。喧嘩にはならなそうで、ひとまず安心だ。ライオビットは子供たちを一瞥し、憑き物がとれたとばかりに肩を回した。私がせっかく貰ったお菓子を子供たちに分け与えることに対しては、何とも思っていないようだ。ますますわからない。彼が何を考えているのかが。
「…って、私の分ないじゃん!!」
いつの間にかテーブルに広げられていたお菓子はなくなってしまい、跡形もなく子供たちの胃袋の中に流し込まれてしまっていた。
「ごちそーさまー!」
ライオビットからの初めてのプレゼントなのに…チビたちの満足そうな顔を見て私はがっくりと項垂れた。
よゐこ堂ではたまに、しゃがみこんで自分の肩を揉むライオビットを見かけることがある。その背中はさながら肉体労働に疲れ果てたお父さんのようだ。作業に加えて頭も重そうだし、余計に肩が凝るのだろう。
「大丈夫?私がマッサージしてあげよっか」
ライオビットは振り返って数秒私を見つめると、徐に立ち上がり商品の整頓を始めた。どうやら拒否されたようだ。せっかくの厚意を無下にされたことと、若干の下心を自覚してしまったことの恥ずかしさに、体温が上昇していった。
「~っ大人しくヤられなさいよ!!」
少々物騒な言い方で無理やりライオビットを椅子に座らせた。ちびっこ用のものなので、お尻が挟まって痛そうだ。しかしそれがちょうどいい拘束となってくれた。
「私、結構うまいんだから」
ぐっと親指でライオビットの肩を押す。かなり硬い。これは辛そうだ。普段はのんびり仕事しているように見えても、それなりに激務をこなしているのかもしれない。せめてライオビットのマスク、もうちょっと軽い素材にできないものかしら。
「頑張ってる人の身体ね」
無意識に呟くと、ライオビットは首を90度動かした。その視線の先には、特に何もない。きっと、私に何かを言いたがっているのかも。
「…私もね、バイトはしてるよ。友達の親がやってる居酒屋で、呼ばれたときだけね」
ライオビットはゆっくりと顔を正面に戻した。どうやら答えはこれであっているようだ。私の肩を解す動きに合わせて、ライオビットの頭がゆらゆら揺れる。マッサージされている最中も、彼は頻りに首を左右に振っていた。
そっか。頭が重いせいで、この体勢じゃどのみち首が凝るんだ。
だったら、支えるものがあればいい。私はライオビットの頭を掴み、自分の身体に凭れかけさせた。彼の後頭部が、ちょうど私のお腹の辺りにある。こんなに密着したのは初めてだ。鼓動がお腹の肉を波打たせて、彼に伝わってしまってはいないだろうか。
でも、今までの姿勢よりは大分楽そうだ。さっきまでは嫌がっていたくせに、完全に私に身を委ねている。遊びたい盛りの子供たちの相手もしていれば、そりゃ疲れるだろうな。何だか甘えてもらってるみたいで、可愛い。
「ね。きもちい?」
尋ねると、ライオビットはメモ帳を取り出しペンを走らせた。“プロになれます”と汚い字で書かれていた。これはかなり誉められていると思っていいのだろうか。ちょっと小馬鹿にされてる感じもするけれど、ここは自惚れておこう。
「お父さんにも上手って昔から言われてたんだ。今じゃあんまりやってあげてないけどね」
父親の肩を揉んであげるなんて、疲れているのがわかっていても気恥ずかしくてしてあげようという気になれない。だってそこでぽつりぽつりと会話が始まったら、端から見たら微笑ましい光景だろうけど当人としては実はかなり気まずいのだ。
「相変わらず仲がいいのねぇ」
声のした方を振り返ると、割烹着姿の奥さんが穏やかに笑いながら私たちを見ていた。ライオビットはすぐさま立ち上がった。堂々とサボっているところを見られたのだ、慌てて当たり前だ。サボらせてしまったのは私なのだけれども。
「奥さん!お邪魔してます」
「いらっしゃい真志ちゃん。いいのよ、どうせ暇なんだから二人で寛いでて」
奥さんは口元を押さえながら、うふふと悪戯っぽく笑った。見た目は古きよき日本のお母さんという感じなのだけれど、結構お茶目なところもある女の人なのだ。以前なんか「真志ちゃんとラビットちゃん(ライオビット)が結婚して、店を継いでくれたらいいのに」なんて発言をしていた。奥さんは私の気持ちをわかってるんじゃないかとたまに疑ってしまう。
「そうそう!カップケーキを作ったの。よかったら真志ちゃん、持ってって」
「ありがとうございます!超嬉しい~両親も絶対喜びます」
奥さんの作るお菓子は、どんなものも本当に絶品だ。手作り感溢れる気取らない味わいが、すごくクセになってしまう。
「それとね、もうすぐハロウィンでしょう?今年もお店でお菓子作り教室やろうと思ってるの。よかったら真志ちゃんも来ない?来週の土曜なんだけど」
「えー、行きたい!去年は全然参加できなかったから」
ハロウィンやクリスマス、ひな祭りなどイベントがある際には、よゐこ堂で奥さん主催のお菓子作り教室が開かれる。子供たちは勿論、そのお母さんたちも勉強したいとやってくるのだ。昨年はちょうど受験の時期だったので、行きたくても行けなかった。
でも今年は絶対に参加したい。だって、ライオビットだっているんだもの。もっと彼と、二人で色んな思い出を作りたい。
腹も膨れそろそろ睡魔が襲ってくる五限目の授業で、俺は大事なことを思い出した。
香椎に礼を言うのを忘れていた。昨日、バイト中にあいつに肩を揉んでもらったのだ。ライオビットのマスクはそこまで大きくはないが意外に重量があり、首から肩にかけて結構負担がかかる(特にピンと立たせた耳が超重い)。それに加えて品出しや掃除の際には、屈んだり上を見上げたりすることも多い。土日のバイトだけでもあっという間にカチカチだ。
そんな俺に気づいて、香椎はほぼ強引にではあるがマッサージをしてくれた。いくらあっちには何の気もなくたって、クラスメイトの女子と接触するなんて耐えられる自信がなかった。別に理性を抑えきれずに襲いかかってしまうかもしれないとか、そういうことを言いたいんではなくて、うっかり素が出てしまうんじゃないかと心配だったのだ。ライオビットがどんなキャラなのかは知ったこっちゃないが、少なくとも「音無勉」を見せることは許されない。つまりは、女子にドギマギしていてはならないということだ。
だからあくまでマッサージに集中した。香椎は巧かった。力加減も指を入れる場所も絶妙で、なんなら眠くなりそうなくらいだった。これなら何とか、変なことを考えずに済む。俺は純粋に凝りの解れていく実感に酔いしれた。
だのに、香椎はなんと俺を自分の体に寄りかからせたのだ。後頭部に香椎の胸か腹かが当たっているということだ。くそ、どっちだ。何で俺はマスクなんか被っているんだ。しかしここでリアクションしたら、動揺しているのがバレてしまう。平静を装い、香椎に身を委ねるしか俺に選択肢はない。香椎は俺を、「玩具屋のマスコット」としか見ていないのだ。女に照れる部分なんて見せたら、幼少期から慣れ親しんでいる香椎の中のライオビット像を崩してしまうことになる。
俺は無になった。どうせ女の肉の柔らかさも温かさも感じないのだ。椅子の背凭れか何かと思っておけばいい。身体はすっきりしても精神的に苦痛を強いられた時間だった。
「音無。悪い、今どこ宿題出されたっけ?」
「…ごめん、聞いてなかった。ボーッとしてた」
「はぁ!?お前ほどのガリ勉が授業中ボーッとするわけないだろ!何だ、俺が嫌いか?嫌いなのか?」
「自分に当てられたとこの答えを俺に解かせる宮内君のことは嫌いです。前向いてください」
「そんなこと言わないでよ勉ちゃ~ん。これからも仲良くしてこうよ~」
仲良くなった覚えなどこれっぽっちもない。俺の前の席の宮内光は、学年一のお調子者だった。ムードメーカーだなんて評されているが、俺にとっちゃただ口喧しいだけだ。俺をいつもガリ勉だと馬鹿にする。そのくせわからない問題があるとすぐに助けを求める。親切心で解き方から教えてあげようとしたら、「んなもんいらねーんだよクソ眼鏡!俺に理解できると思ってんのか!」と逆ギレされた。心底嫌いである。あと俺眼鏡してない。
しかも更にムカつくことに、こいつは女にもモテるのだ。そこそこ顔がよくて話が面白ければ、それだけで人生薔薇色だ。何の苦もなしに生きていけるのだろう。
「マジでどしたの勉ちゃん。いつもよりアンニュイね」
「…まだこっち見てたの。先生に見つかるよ」
「だって勉ちゃんが心配なんだもん!このままじゃ、誰が俺に勉強教えてくれんのさ~」
「お前が知りたいのは答えだけだろ。安心しろ、当てられたら教えてやる」
「それはありがたいけど、単純に勉ちゃんの話聞きたくなっちゃった!なんか悩んでんの?」
こいつの辞書には「遠慮」という言葉はないのだろうか。
さてどう逃げ切ろう。きっと「何でもない」とか「お前には関係ない」など言ってもしつこく食い下がるか逆ギレされるに決まってる。
「…宮内君、香椎と仲良かったよね」
「そうだけど。え、何、あいつ絡みのこと?もしかして勉ちゃん、真志のこと好きなん?」
「そういうんじゃないから」
「あいつは駄目よ!俺が狙ってんだから。てか真志のこと好きな奴多すぎて大変~勉ちゃんのことは全然敵視してないから安心して!」
「ああ、ありがとう」
それからの宮内は先生に注意されるまで、延々と香椎のことについて語り出した。うまい具合に話題が転換してよかった。こいつが話を聞くよりも喋りたがる質の人間だということくらい知っている。宮内の単純さと自己中心的さに今ばかりは感謝だ。
それにしても、宮内たちが知っている香椎とよゐこ堂での香椎は何だか別人のようだ。宮内が言うには香椎は、ノリはいいがさっぱりしてて、誰にも馴れ馴れしくはしないそうだ。親しき仲にも礼儀あり、といった感じだろうか。
「だから俺がね、あいつのパーソナルスペースを自分だけのものにしたいんだ~」
「香椎のパーソナルスペースは香椎のものだろ…」
「お近づきになりたいってことよ!俺だけに甘えてくれる真志とか、超可愛いぜきっと~」
香椎はあの珍妙なマスコットに対しては、わりと容赦ないんだがな。今まで何回どつかれたことか。俺に近づくなオーラを出したって、お構いなしにいつも絡んでくる。ライオビットは香椎にとって、最早家族のような存在なのだろうか。俺の知らない分の、ライオビットとの歴史があるのだろう。
更衣室には何故か、歴代の中の人の写真が飾られている。初代はなかなか屈強な人で、全然イメージにそぐわない。少しぽっちゃりした人もいて、その人が一番子供受けしそうだった。
このように、ライオビットのキャラは全然統一されていなかったようだ。店長曰く、「自分らしいライオビットで生きてください」だそうだ。別に玩具屋のマスコットにそこまで人生かけてない。
そんな不安定なキャラクターの、どこに親しみを見出だしたというのだろうか。考えても理解できそうにない。
「真志~今日の放課後、どっか行かね?」
「光と二人で?」
「そうそう。デートしようぜ~」
光は人目も憚らず、背後から私を抱き締めた。すぐに「浩二に言いつけてやろー」と横槍が入る。何度も言うが私と浩二は付き合ってない。光だって、単なる幼馴染みだ。腐れ縁と言った方が正しいだろうか。
「離してよ!ここ教室」
「教室じゃなかったらいいの?んじゃ俺ん家でイチャイチャしよ」
「馬鹿言わないで」
光は昔からオープンに私にラブコールしてくるので、本気なのか冗談なのか全くわからない。彼女がいたときでさえ、私にちょっかいを出してくるのだ。
どっちでもいいけど、人前でくっついてくるのは本当にやめてほしい。光のことを好きな女子に睨まれてしまう。笑いながら私たちを見ている女友達の何人が、心の中で私を罵倒していることやら。
「だってさ~浩二に真志のこと盗られるなんて絶対嫌じゃん!お前が俺以外の奴とイチャイチャするなんて考えたくねーもん」
「心配しないで。どっちともイチャイチャしないから」
「なぁ。本当にあいつと付き合ってないわけ?」
「付き合ってないってば!」
自力で光の拘束を解き、私は漸く彼の腕の中から出ることができた。捨て犬みたいな眼差しも、苛立ちを生むばかりだ。
「まさかとは思うけどさぁ。真志って、ひょっとして好きなやついんの?」
「はぁ?」
「だって俺がこんなにアタックしてんのに、全然靡かないじゃん!」
ずっと態度が変わらないということは、完全に脈がないということであると、こいつは言わなきゃわかんないのか。これだからそこそこモテてきたやつは困る。でも、好きな人がいると言えば、光も私のことを諦めてくれるかしら。
私は賭けに出てみた。
「…いるよ」
その場にいた友人が、一気にどよめいた。すぐさまその人物を問う声が飛び交う。
「えー誰!?初耳なんだけど!」
「みんなの知らない人だから…」
「絶対嘘だね!そうやって逃げる気だろ!」
嘘なんて言ってない。好きな人がいることも、その人がここにいる誰一人として知らない人物であるということも、全部本当だ。
それでもやっぱり、作戦は失敗だ。そう思った。こんなに好奇の目を向けられたら、この先根掘り葉掘り追求されるだろう。
女子はその人物と私が付き合うことを望んでいるはず。だから「協力するよ」なんて言って何がなんでも知ろうとするに決まってる。打ち明けられるわけがない。だって玩具屋のマスコットに恋してますだなんて、何てシュールなギャグなのよ。「馬鹿にしないで」と怒りを買うかもしれない。
「別に付き合いたいとかは思ってない。でもその人以外を好きになるとか考えられない、今は」
きっぱり言い放つと、光はあからさまに落ち込んでしまった。俯き丸くなった背中が、鬱陶しいくらいに哀愁を帯びている。
「ショックだわー…俺完全に望みない系?」
「ない系ね」
とどめをさすと、光はわざとらしく泣き真似をしてみせた。この茶番はいったいいつまで続くのかしら。
「それでね、その男子がやっと諦めてくれるのかなって思ったんだけど、未だに言い寄ってくるわけ。二番手でもいい!とか言って…ねぇ、聞いてる?」
ライオビットは私の話に何の反応も示さず、黙々と仕事をしていた。箱から玩具を取り出しては並べ、取り出しては並べ。まるで私の存在なんてないみたいに、同じ作業を繰り返している。
ライオビットが私の話に付き合ってくれないことなんてざらにある。一方的に愚痴なんかを喋ってすっきりすることもあるから、それはそれでよかったんだけど、今話していることにはリアクションしてほしかった。
…こいつ本当に、私に興味がないんだ。
「はぁ…」
もう帰ろうかな。話したいことはもっとあるし少しでも長く一緒にいたいと思うけれど、恥ずかしいんだもん。ライオビットの気を引くために、こんな話をする自分が、恥ずかしい。情けない。
私は踵を返した。これ以上彼と同じ空間にいたら、みっともない自分を更に晒してしまいそうだった。そもそも恋愛の「れ」の字もないような彼が好きなのだ。現実離れした彼だから、好きなのに。
光のことをとやかく言える立場にない。私も大概面倒くさい女だ。
少し涙目になりながら出口までの一歩を踏み出したその時、突然後ろから背中をポンポンと叩かれた。反射的に振り返ると、顔いっぱいにふわふわと綿毛のようなものが触れた。
「…!」
兎のぬいぐるみだ。産まれたばかりの赤ちゃんくらいの大きさで、同じ耳をつけているのにライオビットと違ってとても愛らしい表情をしている。よくよく見ると、兎の小さな両手にはメッセージカードが持たされていた。
「ありがとうさぎ」と思わず失笑が溢れるような、洒落を利かせた文字が綴られていた。ライオビットに視線を移すと、彼はぐるぐると肩を回しピッと右手の親指を立てた。私は彼の肩を揉んであげたときのことを思い出した。
「…私にくれるの?」
ライオビットは頷いた。照れているのか妙に身振り手振りが大袈裟なのが、逆にマスコットらしくて可笑しかった。ぬいぐるみを受け取り、暫くメッセージカードを見つめる。訪れる沈黙に、落ち着かない様子の足元が視界の端に見えた。
私は彼の胸に、頭のてっぺんをくっつけた。強ばった筋肉も、徐々に速くなる鼓動も、零距離だとこんなにも伝わるんだ。温かい。ライオビットも私と同じように、体温を持っている。そんな当たり前のことが、何故だかたまらなくいとおしかった。
…たまんないよ、本当に。ばか。
「ばか…」
目の前のお腹に弱々しいパンチをお見舞いする。いつもの彼ならすぐにひっぺがしてくるはずなのに、その時だけは私が離れるまで、黙って立っていてくれた。
誰しもが憂鬱になるはずの月曜日。香椎は周りに怪訝に思われるほど、ヘラヘラと締まりのない不気味な笑みを携えて登校してきた。
「ま、真志が変態親父みたいな笑い方してるよ、勉ちゃん」
「うん…」
昨日マッサージのお礼に、兎のぬいぐるみを香椎にプレゼントした。もしかしてそれが心底嬉しかったのだろうか。だとしたら、店長にあいつの趣味を聞いて大正解だったな。小さいときはよく、兎の玩具を好んで買っていたらしかった。女子にメッセージカードつきのぬいぐるみをあげるだなんて鳥肌ものだったが、マスコットキャラクターになった俺には怖いものなどなかった。恥?外聞?初耳ですけど。だって私は皆に夢売るマスコット、ライオビットなのだから!と、初めてあの愛せないキャラクターを利用した。
そういえば香椎が長々と俺に何かを語ってたけど、プレゼント渡すタイミングとか考えていたせいで全然聞いてなかった。
「何かいいことあったのかな…そだ、聞いてよ!あいつ、好きな人いるらしいの!」
「あいつって…香椎?」
「そう。こないだ聞いたもんね、真志の口から直接。絶対嘘だと思ってたけど、あの顔どう見ても恋に酔いしれてる顔だぜ!」
「考えすぎじゃないの」
香椎に好きな人間がいる可能性は、俺は低いんじゃないかと思う。だって仮にそうだとしたら、休日にわざわざ寂れた玩具屋なんかに来ないだろ。意中の彼とデートにでも行けばいい。
「きっと昨日、そいつとあれやこれやしたんじゃねーの!?抱き合ったりさ、キスしたりさ、その先だってさぁ…」
「下世話な妄想はやめろ」
そして安心したまえ少年。香椎は昨日も変わらずよゐこ堂に足を運んでいたぞ。女子高生とは思えないはしゃぎっぷりで、小学生と戯れてもいたぞ。
そういえば、昨日は思いがけない密着があった。俺からのプレゼントに感極まったのか、香椎はなんと自ら俺の胸に飛び込んできたのだ(かなり語弊があるのはわざとだ)。
今のバイトをしてなければ凡そ経験できないシチュエーションだろう。生身の自分じゃ絶対にあり得ない分、虚しさも大きいが。
「ちょっとちょっと!勉ちゃんも鼻の下伸びてますけど!」
「そ、そんなことないでしょ」
「もしやてめーも昨夜はお楽しみだったのかよ!ガリ勉ネクラ眼鏡のくせに!!」
「俺眼鏡してねっつの!!」
朝っぱらから俺と宮内が不毛な言い争いをしていると、宮内の心を荒らしている要因のその人が、俺たちのもとへ歩み寄らんとしていた。
「ちょっと光!うるさいんですけど」
パシンと小気味の良い音が響いた。香椎は宮内の頬に平手打ちをかましたのだ。自分のことのようにすっきりしたが、宮内の恍惚の表情に一気に萎えた。
「真志ぃ…」
「私で変な話するのやめてよね。思いっきり聞こえてたから」
「だって真志のキャラ違うもん!普段あんなデレデレした顔しないじゃん!」
「で…デレデレなんてしてないし」
髪をかき上げたときに見えた香椎の耳は、真っ赤だった。瞳もとろんと熱を帯びていて、確かに恋に浮かれた人間の表情に見えなくもない。香椎がよゐこ堂に居座る時間なんて、せいぜい1~2時間だ。それこそ夜に意中の相手と落ち合って、愛を深めているのかもしれない。でも香椎にそんな色っぽい話、似合わないと思うんだけどなぁ。俺が香椎の何を知ってやがるんだよと言えば、それまでなのだが。
「ごめんね音無君。こいつ、馬鹿だから」
「へ。…あ、ああ、うん」
初めて香椎に声をかけられ、俺は露骨に狼狽えた。「何緊張してんの勉ちゃん」と揶揄する声に、ろくに反応もできなかった。厳密には初めてなんかじゃないのだが、やっぱり状況が違うと香椎との接し方が途端にわからなくなる。よゐこ堂ではガキみたいな喧嘩もできてるくせに、何なんだこのギャップは。妙にむず痒い。
「てかさっきの台詞、何かいいわ~“うちの旦那がすみません”みたいな感じで!」
「誰が旦那よ」
容赦なく耳を引っ張られてる宮内も、人のこと言えないくらいにだらしのない顔をしている。ドMかこいつ。それと二人の夫婦漫才を繰り広げられてる横で、俺はいったいどんな面持ちでいればいいのだ。
「とにかく、私のことで余計な詮索したりとかやめてよね。何もないんだから。それに音無君だって、無関係なのに私の話なんかされて困るじゃない」
「…」
困るのは俺じゃなく、お前の方だろう。そうだよな。親しくもない人間に自分の話が行き届くなんて、気持ち悪いもんな。別に他人行儀な態度が寂しいからとか、拗ねてるわけでもない。遠回しな言い方で気を遣われたことが逆に嫌なんだ。はっきり言ってもらった方が、かえって清々しいというか、こっちとしても居直れる。何が言いたいかって言うと、スゲー惨めじゃん?俺。
「大丈夫だよ。俺宮内君の話、基本的に聞き流してるから」
「ひどい勉ちゃん!」
「あっはは、それまさに光の正しい扱い方」
「二人で意気投合しないでよ~」
何だこの白々しく和んだような雰囲気。やめてくれよ。俺、笑えないんだよ。お前らみたいに人の目気にせず、バカやって高笑いできるほどのレベルにいないんだから。
…こんな屈折してるから俺、モテないのかな。




