~Epilogue~
早起き鳥が虫を捕らえる為に巣から飛び出し始める頃、新垣海斗は予期せぬ携帯電話の着信音に目を覚ました。
「オハヨ、海斗」
今まで毎日のように聞いてきた凛と響く透き通る声が、ケータイの受話器越しに覚めたばかりの耳をくすぐった。
「何なんだ、こんな朝早くに・・・」
海斗は欠伸混じりにしょぼしょぼする目を擦る。
「そんな事はいいから。外に顔出して、顔」
海斗は促されるがままにベッドから徐に立ち上がり、部屋の窓を開けた。
「・・・Meg?」
海斗は窓辺に呆然と立ち尽くしたまま、外の一点を見つめていた。英国の俳優だろうか。海斗の見つめる一点の薄暗い空間で、街灯という簡易なスポットライトの下に一人の英国人少女がポツンと立っていた。海斗が窓から顔を見せたのを確認すると、少女は微笑みながら彼に手を振った。街灯によって一層に際立たせられた白人特有の曇り無い肌理細やかな肌と癖の全く無い艶やかなブロンドのロングヘアー…。海斗にとって見慣れた容姿だったのだが、今日だけは不思議と数秒程、彼の頭の回転を鈍らせた。海斗はハッと我に返り、クローゼットの中からジャケットを取り出した。
「・・・今、そっちに行く」
海斗は一言だけ携帯電話に言い残すとベッドの上に放り投げ、音を立てずにソッと家から外へ出た。秋も終わりを迎え、吐く息も仄かに白い。
「・・・お前、何してんだ?」
「何って・・・どういう事?」
海斗の問いの意味が分からず、少女はキョトンとした表情を浮かべる。海斗は少女の足元に置いてあるトラベルバッグに目を落とす。
「出発は明後日の筈だろ?」
そこまで聞いて、少女は彼の言わんとしていた意味を察して表情を変えた。
「あぁ~・・・あれはウソ。離陸は今日の午前9時よ」
「お前な・・・」
海斗は呆れ顔で大きな溜め息を付いた。
「・・・だって当日、クラス全員で空港まで押し掛ける気だったんでしょ?」
少女は唇を尖らせ、ボソボソと愚痴を溢した。2学期の最中、諸事情により決まったMegの突然のイギリス本国への帰国を知ったお祭り騒ぎ好きの海斗のクラスでは、クラスメイト全員で当日に彼女を見送ろうという話になっていた。その際、ただ見送るだけではつまらないとの事でクラス委員の植村一樹を中心に楽しく(?)彼女を送り出す算段がMegの知らない所で着々と進んでいたはずだった。
「・・・それに、どうせ見送られるんだったら、一番大切な人だけに見送ってほしいし・・・」
「お前な・・・」
海斗とMegの間に微妙に気まずい空気が漂った。
「・・・ねぇ・・・・・・キス・・・してもいい?」
「駄目だ」
Megの問いに海斗は即答した。普通の流れの場合、二人は何も言わずに、当分会えないだろう相手に歩み寄って口づけをするのだろう。しかし、この二人の場合にそのような流れは通用しない。それはその筈、この二人の関係が普通ではないのだから・・・。
「・・・ダメ?」
Megは上目使いに海斗の顔を覗き込む。
「俺にそんな資格なんて無い。お前だって同じだろ?」
海斗はMegの両肩に手をのせると、彼女を自分自身から距離を置いた。Megは一瞬だけ表情を曇らせる。そして何かを思い付いたように、スッと右手を海斗に差し出した。
「・・・それじゃ、これで勘弁してあげる」
Megは視線で海斗に彼の左手を出すように促した。海斗は言われるがままに自分の左手を差し出す。そして、そっと海斗の掌とMegの透き通るような白い掌が合わさる。
『もともと聖者の御手は、巡礼達が手を触れる為のもの。そして掌と掌を合わせるのが巡礼達の接吻よ』
フッと海斗の頭の中に、いつか聞いた覚えのある言葉が過ぎった。あれはたしかシェイクスピアのとある悲劇の一場面だったはず・・・。
「どの劇のどの場面だったっけか・・・」
突然、真剣な目で黙り込んでしまった海斗の目をMegはジッと見据えている。
「・・・やっぱり、彼女の変わりになれる人には誰もなれなかったって事ね」
Megは海斗にも聞こえない程の小声でポツリと溢した。
「何か言ったか?」
「いいえ、何も・・・」
Megは掌を海斗の掌から離すと、海斗に向けて背を向けた。
「・・・もう、行かないと・・・」
「・・・そうか・・・」
海斗はだたジッとMegの背中を見つめる。
「・・・イギリスの彼氏さんに宜しくな」
「・・・そっちも、愛美さんに宜しくね」
いつの間に呼んだのだろう、タクシーがちょうどタイミング良く海斗の家の前に止まった。Megは手荷物をタクシーのトランクに入れる。その間、Megは海斗と目を合わさず、声も掛けずに、タクシーに乗り込んだ。遠ざかっていくタクシー。海斗はタクシーから目を逸らさずに、海斗はその場にただ突っ立っていた。
「・・・Meg」
海斗は彼女の名前を呟くのと同時に、自分の胸の奥が痛むのを感じた。その痛みはMegを失った痛みなのかどうかは彼自身には判断しかねるものだった。
『そもそも、俺と彼女の関係は・・・』
海斗は踵を返すと、家の中へと入っていく。そもそも彼と彼女の関係は第三者から見たら、普通とは言い難いものだったかもしれない…。そして、その関係は少しずつ、彼らの周りの環境をも変えてしまっていたのにも彼ら自身、理解していた。