マリーニュースペーパー
日が西に傾き、空が橙色に染まる頃。
少女が玄関先で掃き掃除をしていると、どこからか足音が聞こえてきた。
どうやらそれは走っているようで、タンタンとリズミカルに辺りに響き、そして段々と少女の方に近付いてくる。
「おーい!」
足音と同じ方向から声が聞こえ、少女がそちらに顔を向けると、そこには近所に住む2つ上の幼馴染が大きな肩掛けカバンを持って走ってきていた。
「お兄ちゃん。新聞配達、お疲れ様。はい、お水」
少女は肩で息をする少年に、水がたっぷり入った水筒を渡す。
「おう! ありがとな!」
少年はそれを笑顔で受け取り、ゴクゴクと飲んでいった。
「あ、そうそう。新聞な! えーっと、お前の家のは……」
大きな肩掛けカバンの中にはこの辺り一帯に配達する分の新聞。
少年はその中から一部取り出して、少女に差し出した。
「はいよ!」
「……お兄ちゃん、いっつも家の新聞って言うけど、どこに書いてあるの? 名前、どこにも書いてないよ?」
受け取った新聞を眺めながら、少女が言う。
「えー、うっそだー。ちゃーんと、書いてあるぜ?」
「えー!? どこ?」
「うーん……。あ! もしかしたら、配達員じゃないから見えないのか」
「えええ!?」
「うんうんそうそう。配達する家の名前は、魔法のインクで書かれてるからな。普通の人には見えないよな~」
「じゃ、じゃあ、わたしも配達員になれば見えるようになる?」
「たぶんな。でも、お前ちっこいし、足遅いしなあ~」
「う、ううう……!」
「ははっ! ま、お前は配達員になる必要なんてないさ」
「どうして?」
「だって、お前が配達員になっちゃったら、オレが届ける新聞を受け取るやつがいなくなっちゃうだろ?」
「……そっか……?」
「そそ。だから、お前は毎日ここで待っててくれればいいの! 分かった?」
「……うん! 分かった!」
「おっし! じゃ、約束」
「約束!」
二人は橙の空気の中、小指を突き出して指切りをした。
それから月日は流れ、二人は大人になった。
いっそう逞しくなった少年は、未だに新聞配達を続けていて、より女らしくなった少女は、とっくの昔に、少年の作り話に気が付いていた。
そんなある日。
「おーい!」
「ああ。配達お疲れ様」
「おう! さてさて、お前の家の新聞はー。と……」
原付に跨って新聞の詰まった前籠を漁る彼を、彼女はくすくすと笑いながら見守る。
「お、あったあった。はいこれ」
「ありがとう」
「おう! んじゃな!」
「うん」
バルルと言うような音を立てて去っていく原付。
それを見送りながら、彼女は新聞を広げた。
と、
「あら?」
ころん、と何かが彼女の手のひらに落ちてきた。
銀色で、輪っかになっていて、小さい、綺麗にカットされた透明な石が乗っている。
彼女が慌てて顔を上げると、彼の後姿はすでに遠い。
しかし、
「後でちゃんと言うからー!!」
声は、確かに聞こえた。
「って言うのはどうかな?」
と、女性はパタパタとローテーブルを軽く叩きながら、向かいに座る男性を見た。
「……無いな」
「えー。ダメ~?」
「新聞の間に指輪を入れるなど、途中で紛失する可能性の方が断然高い。たとえ紛失しなかったとして、女の手に確実に落ちてくる確率は極めて低い。だったら、同じ紙の婚姻届を挟んでおいたほうがいいだろう」
「う~ん。何か生々しい~! 夢が無~い!」
プロットが書かれた原稿をペラペラめくりながら言う彼を見て、彼女はケラケラと笑った。
彼と彼女は幼馴染であり、恋人同士だ。
彼は比較的裕福な家庭に育ち、名門大学を首席で卒業し、若くして大企業の一部署主任を任される超エリート。
端正な顔立ちで、黒ぶち眼鏡の似合う美形。頭脳明晰で業績も上々。
だが、いかんせん頭の固いところがあり、他人の冗談を真に受けて真面目にボケる頭のいい馬鹿だ。
彼女は可もなく不可もない一般家庭に生まれ育ち、そこそこの公立高校、そこそこの大学を出て、かねてより趣味だった執筆がついに生業となり、そこそこ安定した収入を得ている。
国語と英語が得意で数学と科学が苦手な典型的文系で、学生時代の成績も普通。
容姿も可もなく不可も無く普通と本人は思っているが、周りから見れば、そこそこ整った顔立ち。
普段はのんびりまったりしている彼女だが、しかし頭の回転が速く勘も鋭く、閃きが何よりの武器だった。
そんな一見正反対の二人は、互いを補い合って現在同棲2年半。
「これをやってくれたのは、君のお父様なんだけどねえ」
返された原稿を読み返しながら彼女が呟く。
「は!?」
すると、彼は勢いよく顔を上げ、立ち上がろうとしたのかガタンとテーブルに膝をぶつけた。
「っ……!」
「あーあー。大丈夫?」
「……平気だ……。ところで、うちの父親が何だって?」
「んー? あー。なんか本当に小さい頃、それこそ保育園とかの頃さ、何でか知らないけど、君のお父様新聞配達をしてたじゃない」
「ああ、そんなこともあったな。小遣い稼ぎだと、あの人は笑っていたが。……で?」
「その時、外で遊んでたらちょうど配達に会ってさ、『えーっと、君の家はこれだね』って。私ぽかーんてしちゃってさ。名前どこ? ってその日一日中探してたんだよ~」
「……なんだ、そっちの話か」
「え? 何が?」
「いや、何でも無い」
未だにジンジンとしびれる膝をそっとさすりながら、彼ははあと息を吐いた。
父がお前に言い寄ったのかと思った、なんて、口が裂けても言えない。
そんな話をした数日後、朝食と弁当を用意したのち二度寝に入った彼女が再び目覚めたのは、11時を少し過ぎた頃だった。
まだぼーっとする頭でふらふら歩きリビングに入ると、食事用のテーブルにぽつんと置いてある、紺色の布に包まれた物体が見えた。
これは……。
「お弁当忘れてんじゃねーーーーよ」
まあ、まだ締め切りは先だし、届けるか。
とりあえず顔を洗うべく、彼女は洗面所に向かった。
彼の勤める会社は都心のど真ん中にあるわけだが、彼女はあまりそこが得意ではなかった。
高い高い、首が痛くなるほど高い高層ビルを見上げて、彼女はうーんと低く唸る。
それから、今度はビルの入口に目を向けた。
お昼時、仕事服ながらもそれぞれ趣向を凝らし着飾った、どこかつんと澄ました女性たちが、自動ドアの向こうから吐き出されていく。
彼女もそれなりの格好はして来てはいるが、家でもそもそパソコンに向かう小説家と、オフィスでバリバリパソコンに向かうキャリアウーマン。どちらが勝るかなど、明白だ。
「う~む」
今まで何度か忘れ物を届けたり何だりでここを訪ねる事はあったが、彼女は未だに、この得体のしれない威圧感には慣れる事が出来ないでいた。
「ま、悩んでてもしょうがないか」
お弁当の入ったランチバックを目の前に掲げ、はあ、と溜息を吐いた彼女は、再び歩き出した。
第一関門は受付だ。
恋人、が、弁当。
……もう、妻だと言ってしまおうか。
受付の了承を得て、彼のいるフロアへ向かう。
エレベーターを降り、洒落た模様の彫られたガラス扉を押して、広い部屋に足を踏み入れた。
部屋の奥壁は全面ガラス張りで、その手前にはたくさんのデスク並び、その数より少し少ないくらいの人たちが、慌ただしくフロアを駆け回っている。
なるべく邪魔にならないように壁伝いに移動し、ドアの前を離れた。
それから、目線を左に移す。
と、そこには、デスクのひしめくフロアから隔離されたような、全面ガラス張りの小部屋があった。
主任室だ。
中には見慣れた人物がスマホを耳に当て、どこか険しい顔で何か話している。
ふと、そんな彼と目が合った。途端、彼はぎょっと目を見開いて、どこか怒鳴るように電話に向かって一言二言しゃべったあと、通話を切って、スマホをポケットに仕舞った。
「…………」
一連の動作を見て、彼女がぽかんと立ち尽くしていると、彼がちょいちょいと手招きをする。
彼女はそちらに向かい、彼が開けたガラスのドアをくぐった。
「何故急に来た」
いつものように不機嫌そうな顔で、彼が言う。
「おーい何だその言い方は~。お弁当忘れてたから届けに来てやったんだぞ~」
ずいっと差し出されたランチバッグを見て、彼ははっとした後、目線をきょときょとと彷徨わせた。
「むっ……。そうか、それは、すまない。……ありがとう」
バックを受け取って、ぼそっとお礼を口にする。
まあ、素直ではない彼だと、これもいつもの事だ。
もう12時も回っているし、すぐにでも昼食にありつきたいところだが、生憎彼にはまだ少しだけ、その前にやっておきたい事があった。
デスクに弁当を置くため、くるりと彼女に背を向ける。
と、その時。
「浮気か~い? 旦那ぁ~」
不意に聞こえたその言葉に、彼は驚いて振り返った。
そこには、いつものように口に手を当てふにゃふにゃと笑う彼女がいた。
が、その瞳に、どこか寂しそうな色が浮かんでいるような気がするのは、自惚れなどではないと、思いたい。
「無い!」
と彼が声を荒げると、今度は彼女が驚いたように目を見張った。
それを無視して、彼はずかずかと彼女に詰め寄る。
「それは断じて無い! 絶対に無い!」
「お、おうおう。わ、分かったから……」
「…………」
「だ、大丈夫だから。変なこと言ってごめんね」
ぎゅうっと眉間にしわを寄せて見つめてくる彼に、彼女は笑ってひらひらと手を振った。
「……6時に、またここに来い。夜は、外に食べに行くぞ」
「……うん」
「い、一度家に帰れよ! 外で過ごして、変な男に声でも掛けられたら……っ……!」
「はいはい。分かった分かった!」
顔を真っ赤にする彼をケラケラ笑いながら手を振って、彼女は主任室を後にした。
「はんはんふ~ん」
必要な原稿を無事書き上げたある日の、西日の眩しい夕刻。
今日は午前中強い風が吹き、周辺に植えてある木々の葉がたくさん飛ばされてしまっていた。
ようやく風が弱まってきた夕方。彼女は竹ぼうきを持って外に出て、家の前をさかさかと掃き始めた。
これが終わったら夕飯の準備をしなくては。
昨日は近所のスーパーで野菜が安くて買い込んでしまったから、今日は野菜たっぷりオムレツと野菜スープにしよう。
そんな事を考えながら、何の植物のものか分からない葉をかき集める。
ふと、小さくバルルと言うような断続的な少し重たい音が聞こえてきた。
新聞配達の原付の音だ。
音はだんだんとこちらに近付いて来て、すぐに先の角から原付本体が姿を現した。
乗っているのはヘルメットを目深にかぶった男性。
いつものお兄ちゃんとは違うな~、変わったのかな~などと考えていると、原付は段々とスピードを落とし、彼女の前に止まった。
直接手渡してくれるのだろう。
「は~い、おつかれ、さ、ま……」
新聞を貰おうと近付いて行く。と、彼女はある違和感を覚えた。
ぐりっと首を傾げて、配達員の男性を見つめる。
目元の見えない彼は視線を感じ取ったのかそわそわと落ちつかなげに顔を逸らした後、しばらくの間を置いて、薄汚れた白いヘルメットを外した。
「…………」
その顔を見て、彼女はぴしりと固まった。
良く知った精悍な顔立ち。良く知った黒ぶちの眼鏡。良く知った眉間によった皺。
「ブハッ!!」
「何故笑う!?」
理解しがたい現状を理解した瞬間、こみ上げてきたのは笑いだった。
だって、だって。
「似合わないなあ~!!」
ひーひーとお腹を抱えて彼女は笑う。
それを見て新聞配達員に扮した彼はますます眉間にしわを寄せた。
普段はブランド物のスーツをビシッと着こなして黒の高級外車を乗りこなしている彼が、今は上下作業着で原付に跨っている。
「ぶわはははははは!」
「もういいだろう!」
「いや~これは、これはっ……!」
「っ~~~~!」
「あ、ちょっと待ってカメラ持ってくる!」
「やめろ!」
未だに笑いが止まらない彼女を見て、彼はぐしゃぐしゃと頭を掻いてから、新聞の詰まった前かごに手を伸ばした。
そして、中から一部、新聞を取り出して、彼女に差し出した。
「ほら、お前のだ」
「お前のって、君のでもあるじゃん」
「…………いや」
彼女が笑いながら受け取ると、彼は首を横に振った。
「?」
「これは、間違いなくお前の新聞だ。名前が書いてある」
「え!? う、嘘ぉ~」
新聞に名前? そんな、まさか。
そう思いつつ、彼女は確かめようと慌ただしく新聞を回した、その時だった。
コロン
「およ?」
「…………」
彼女の手の平に、何かが落ちてきた。
それは銀色で、輪っかになっていて、綺麗にカットされた透明な石が乗っていて。
「…………え?」
「じゃ、じゃあ俺はもう行くからな」
「え!? ちょ、ちょっと待ってよ!」
「配達が残ってるんだ」
「いや、いやいやいやいや!」
彼女が彼の袖口を掴んでふるふると首を横に振る。
その様子を見て、彼は少し目線を辺りに彷徨わせたが、
「まあ、なんだ。……意外と紛失もしないし、手にも落ちてくるものだな」
そう言って、ヘルメットをかぶり直し、原付のエンジンを入れ、走り出してしまった。
「…………」
片手に新聞、片手に指輪を持って、彼女はぽかんとその姿を見送る。
向こうの角に彼の姿が消えて、今度こそ一人取り残された彼女は、
「ぷっ」
笑った。
「あは、あははっ! ……ホント、馬鹿だなあ」
物心ついた時から側にいて、常々面白い人だとは思っていたが。
「まさか、ここまでとは」
こういうシチュエーションに憧れていると思ったのだろうか。
いや、確かにいいなあとは思ったけれど、まさか、本当にやるとは思ってもみなかった。
いったいいつから? 会社に訪ねた時の慌てようもこれ?
頭の中に様々な憶測が飛び交うが、まあ、そんな事はこの際どうでもいいとしよう。
彼女は、日に当てられてキラリと光る指輪を、自分の薬指にはめた。
「おおお……」
サイズもぴったり。
彼女は止まっていた掃き掃除を急いで終わらせて、買い物に行く準備を始めた。
夕飯のメニュー変更。
今日は、彼の大好物をたくさんたくさん、作ってあげるのだ。