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『夜会記録官』だった五年を、王弟殿下だけは席次帳から知っていた

作者: 夢見叶
掲載日:2026/05/12

 また、ですか――とシャリエは思った。


 夜会記録官、机を。それだけで済むのが、ノエル・カルディエ流の挨拶らしい。もっとも、そんなものが彼の語彙に存在するならの話だけれど。


 婚約者からの呼び名が「シャリエ」ではなく「夜会記録官」になって、もう三年と半年が経つ。最初の一年半は名前で呼ばれていた、と数えるのもばかばかしい。私の名前は王宮で最も使われない香水のようなものなのかもしれない。瓶の中で蒸発するでもなく、ただ棚の奥で、誰にも開けられないまま日付だけが古くなっていく。


 夜会記録官。それは伯爵令嬢には不釣り合いに地味な職務で、王宮で行われる年五十回の夜会の招待状・席次・出席記録・献杯の組み合わせ・歓談の継続時間までを記録する。要は宮廷の社交を一冊の帳面に閉じ込める仕事だ。誰がいつ誰と踊ったか。誰が誰と隣り合ったか。誰が誰の前で杯を伏せたか。


 地味だ。けれど、五年も続ければ、王宮の人間関係のほぼ全部が、私の頭の中に「席次の図」として収まる。


 その日も、私は応接室の卓を整え、ノエルが連れてきた隣国の男爵令嬢ジゼルに礼をした。


「シャリエ、君との婚約は今日で解消する。ジゼルは僕の心を理解してくれる。君のように、紙の上のことばかり数えている女ではないんだ」


 婚約破棄の口上にも、彼は私の名前を一度しか入れなかった。後半の「君」で間に合わせている。短くすると王宮が止まりますよ、と返したい衝動を、私は紅茶の温度の中に沈めた。


 ジゼルが私を見て笑った。


「あら、書記台みたいな婚約者だったんですね。ノエル様、お気の毒に」


「いいえ」と私は答えた。


 いいえ、書記台ではありません。書記台には引き出しが付きますもの。


 声には出さなかった。代わりに、机の上の予定表を一枚、静かに裏返した。今日の夜会で、ノエル・カルディエ伯爵令息に割り当てられていた席を、私の権限で「空席」に格下げするだけの動作だった。


 彼はそれに気づかなかった。



 応接室を出た回廊で、私は王弟ヴィクトル殿下と、初めて並んで歩いた。


 正確には、初めてではない。ヴィクトル殿下は王宮の夜会に欠かさず出席される。私は五年間、彼の名前を席次帳に書き続けてきた。彼が踊った相手、踊らなかった相手、献杯した相手、しなかった相手。それを百四十六回分、私のペンは記録している。


 けれど、面と向かって話しかけられたのは初めてだ。


「シャリエ・ローランス。あなたを、私の元へ転属させたい」


 ヴィクトル殿下は背の高い、無口な方だ。歳は私より五つ上で、王太子殿下の弟。継承順位は二位だが、政治より文書を好み、王宮の文官たちからは「監査公」と呼ばれている。


「私を、ですか」


「あなたの席次帳が必要だ」


「席次帳でしたら、王宮の備品ですので、ご請求いただければ」


「あなたの席次帳だ。あなたが書いた、五年分の」


 私は足を止めた。


「殿下。あれは備品です。私が書いたものですが、私の所有物ではありません」


「知っている」と殿下は言った。「だから、あなたを所有物ごと――いや、所有物の方を、あなたごと引き取ろうと思っている」


 言い間違えたまま、殿下は私を見た。


 不思議なものだ。言葉の順番を間違えた人の方が、正しい言葉を並べた婚約者より、ずっと正確に私を見ている、という感じがした。


「契約婚約を、申し込みたい」


「私は今、婚約を解消されたばかりです」


「知っている」


「殿下のお話の運びは、いつもこんなふうに速いのですか」


「速くない。五年遅い」


 殿下はそう言って、薄く笑った。


「あなたの夜会記録官としての五年は、今日で終わる。私の婚約者としての一年が、明日から始まる。期間は試用一年、書面を交わす契約婚約だ。条件はあなたが決めていい。ただし、夜会記録官の机は、私の執務室に置いてもらう」



 ヴィクトル殿下の執務室は、王宮の北棟の三階にあり、廊下の突き当たりにあるおかげで人の出入りが少なかった。


 私が初めて机に着いた朝、机の上にはすでにペンが三本並んでいた。羽根ペン、鋼ペン、鉛筆。インク壺が三つ。黒、青、赤茶。


「赤茶は?」


 私が思わず尋ねると、殿下は書類から顔を上げないまま答えた。


「夜半を過ぎると、あなたの目が疲れて筆圧が落ちる。赤茶の方が線が見える。五年前から、そうだった」


「五年前」


「『五年前から、そうだった』。私が言ったのは、その一文だ」


 殿下は書類に視線を落としたまま、首だけ少しこちらに向けて、ほんの一瞬、目を細めた。耳の縁が、ほんの少しだけ赤くなっていた。


 夜会記録官の私は、その色の濃さを、覚えていた。五年前の春の夜会、王太子殿下の婚約発表のあと、ヴィクトル殿下が一人で柱の影に立っていたときの、耳の色と、同じだった。



 契約婚約は静かに進んだ。


 昼は私が席次帳を整理し、夜は殿下が王宮の財務監査の書類を捲った。お互い、声を出すのは一日に十回も無いくらいだった。


 ある夜、殿下が私の手元から羽根ペンをそっと取り上げた。


「もう二刻、書いている」


「殿下、契約書にそんな条項はありません」


「今、追加する」


「……どんな条項を」


「夜会記録官は、深夜の作業を婚約者の許可なく行わない」


「権限の濫用だと思いますわ」


「婚約者の権限だ」


 私が反論する間もなく、ペンは机の端に置かれた。代わりに、私の目の前に温かいカップが滑ってきた。中身は赤茶のインクではなく、ハーブティーで、ラベンダーの茎が三本浮いていた。


 ラベンダーは、五年前の春から、私が好んで挿す花だ。


 誰にも気づかれたことなど、一度も無かったはずなのに。


「気づかれたことなど、一度もありませんでした」


 私が言うと、殿下は短く答えた。


「私がいる」


 四文字だった。



 話が動き出したのは、契約婚約の二か月目、王太子主催の春の夜会の準備が始まった頃だった。


 ノエル・カルディエ伯爵令息は、ジゼル男爵令嬢を新しい婚約者として正式に披露するつもりで、夜会の招待状を申請してきた。さらに、王宮の財務に「隣国留学費用」として銀貨千百枚の補助を願い出ていた。


 私は、五年分の席次帳と並んで、夜会の経費台帳も持っていた。


 ノエル・カルディエの名は、過去五年で四回、経費台帳に登場していた。


 一回目、二年前の冬。「親善訪問費」として銀貨八百枚。

 二回目、二年前の春。「親善訪問費」として銀貨八百枚。

 三回目、一年前の夏。「親善訪問費」として銀貨八百枚。

 四回目、半年前の秋。「親善訪問費」として銀貨八百枚。


 いずれも、隣国の同じ男爵家への訪問費用として、宮廷予算から補助されていた。


 その同じ夜、私の夜会記録帳には、「ノエル・カルディエ伯爵令息」が王宮の夜会に出席していた記録が残っていた。


 四回とも、王宮にいた。


 訪問していない。



 私はその一覧を、机の真ん中に静かに置いた。


 ヴィクトル殿下は、書類を一度だけ捲り、もう一度捲り、視線を上げた。


「これは、あなたの記録か」


「私の記録です」


「今度の春の夜会で、出してもいいか」


「殿下が判断なさることです」


「いや、あなたが書いたものだ。あなたが頷かなければ、私は出さない」


 私は、自分の机の引き出しから、五年分の夜会記録帳を順に取り出した。一冊目、二冊目、三冊目、四冊目、五冊目。背表紙には、年と季が、私の字で書かれていた。


「お使いください」


「いい記録だ」と殿下は言った。


「席次帳ですわ」


「あなたの記録だ」


 殿下は私の顔ではなく、五冊の背表紙を見ていた。けれど私には、見られているのが、自分の方だと分かった。



 春の夜会の三日前、ノエル・カルディエが王弟公爵の執務室を訪ねてきた。


 ジゼルを連れていた。


「殿下、シャリエの記録を貸していただきたい。妻となる彼女が、王宮の社交を学ぶには、シャリエの記録が一番だと聞きました」


「あなたの『妻』とは、誰のことだ」


「ジゼルです」


「シャリエ・ローランス嬢は、現在私の契約婚約者だ」


 ノエルは驚いたが、すぐに微笑を作り直した。


「契約……ですか。それでしたら、解消されたらいかがでしょう。シャリエは記録を読むしか能がない女です。殿下のお手元には不釣り合いかと」


 ヴィクトル殿下は、書類から顔を上げなかった。


「彼女は、道具ではない」


 短い一文だった。


「だから私は、最初から、彼女ごと引き取ったのだ」


 ノエルは口を開きかけて、閉じた。何かを言い返すには、二人の間に積み上がった書類の量が、彼の方には足りなかった。


 ジゼルが、媚びるように殿下を見上げて、目尻に水気を浮かべた。


「殿下、私はシャリエ様を尊敬しております。ただ、ノエル様のお気持ちが――」


「シャリエ嬢は、人前で涙を武器にする方ではない」


 ヴィクトル殿下は、机に置かれた紅茶のカップを、ジゼルに見せた。


「あなたが今お流しになっているのは、片目だけだ」


 応接室の扉が、静かに閉まった。



 春の夜会は、王宮の中央広間で開かれた。


 私の机は、いつもどおり広間の最後列、給仕の通用口のすぐ脇に置かれていた。ペンと、五冊の記録帳と、新しい白紙の冊子。私の手は、五年前と同じ動きをしていた。


 異なっていたのは、私の机のすぐ後ろに、ヴィクトル殿下が立っていたことだ。


 第二楽章が終わり、王太子殿下が中央に進み出て、年に一度の宮廷監査の開示を告げた。


 ノエル・カルディエは、ジゼルの腕を取って、自分の席に立っていた。


「失礼ながら」と、ヴィクトル殿下が広間の中央へと一歩進んだ。「春の経費の中で、隣国親善訪問費の支出が四件ある。本年と過去四年、合わせて銀貨三千二百枚」


 王太子殿下が頷いた。


「ヴィクトル、続けよ」


「同じ日付の夜会記録によれば、訪問者本人は王宮の夜会に出席していた」


 広間の空気が、わずかに落ちた。


 ヴィクトル殿下が、私の机の上に手を置いた。手を置いただけだったけれど、その動作で、広間の貴族全員の視線が私の方に流れた。


「夜会記録官の記録による」


 ドロテア老会計官が席を立った。


「私の経費台帳と、突き合わせてもよろしいか」


「どうぞ」


 ジョリス監査長官も、続いて席を立った。


「私の輸送許可台帳とも、突き合わせを」


「どうぞ」


 また一人。また一人。広間の隅から、声を上げる者が増えていった。隣国大使付きの書記官、王宮厩舎の馬丁長、香炉室の女官長。皆、過去五年のあいだに、ノエル・カルディエの「親善訪問」のために何らかの記録を残していた者たちで、そして皆、その日のうちのどこかで、ノエル・カルディエが王宮にいたことを知っていた。


 見えていなかったのではない。見えていたのに、誰も「夜会記録官の記録」とそれを照らし合わせる権限を持っていなかっただけなのだ。


 私が、その権限を持っていた。けれど私には、それを照らし合わせる相手がいなかった。


 ヴィクトル殿下が、今、その相手だった。


 ノエルは、何度か口を開いて閉じた。ジゼルの手が彼の袖から離れて、いつのまにか柱の影に下がっていった。


 王太子殿下が、静かに告げた。


「ノエル・カルディエ伯爵令息。今夜以降、王宮の経費請求権を停止する。隣国親善訪問費の返還については、財務監査が後日請求する」


 罵倒は無かった。死刑も投獄も無かった。ただ、広間にいた誰一人として、ノエルの側へ歩み寄らなかった。


 それで充分だった。



 夜会の終わりごろ、ヴィクトル殿下が私の机の前に立った。


「踊りを、申し込んでもいいか」


「殿下、私は夜会記録官ですので、本来踊る側ではございません」


「今夜は、私の婚約者として踊ってほしい」


「契約上の婚約者です」


「契約は、本日午後をもって解消した」


 殿下は、内ポケットから一枚の紙を取り出した。私が二か月前に書いた、契約婚約の同意書だった。書類の上には、新しい墨で、二本の線が引かれていた。


「あなたを、契約ではない形で、もう一度迎えたい」


「殿下」


「私はあなたの記録を評価しているのではない。記録の余白で、誰にも見えないままステップを数えていた、あなたを、愛しています」


「私は、誰にも見えていないと思っていました」


「今でなければ、また、あなたが見えないことにされる」


 私は、机の上に置いた五冊の記録帳に、もう一度視線を落とした。一冊目の表紙に、私は五年前の春、自分の字で「夜会記録官・初年度」と書いた。書記台の文字だった。


 今ならもう少し、その字を、誰かに読ませる字に書ける気がした。


 私は、殿下の手のひらに、自分の手のひらを、初めて重ねた。


「ヴィクトル様」


 名前で呼んだのは、五年と二か月の宮廷生活で、初めてだった。



 春の夜会の翌朝、私の机には、新しい白紙の冊子が一冊、置かれていた。


 背表紙には、まだ何も書かれていなかった。


 私は羽根ペンを取り、赤茶のインクに浸して、最初の一行を書いた。


「シャリエ・ローランス個人記録帳――春の夜会の翌日より」


 扉が静かに開いて、ヴィクトル様が入ってきた。


「今日は、何を記録するつもりだ」


「ヴィクトル様の、耳の色を」


「それは、誰のための記録だ」


「私のための、初めての記録です」


 ヴィクトル様は、書類の山の向こうで、また少しだけ、耳の縁を赤くした。


 席次帳は閉じる。


 けれど、踊りは続く。


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