死んだら猫になっていて、彼の腕の中で目を覚ました
目が覚めたとき、私は誰かの腕の中にいた。
あたたかい、と思った。
次に、違う、と思った。
こんなに小さく腕の中にすっぽりおさまってしまうなんて、おかしかった。
視界が低い。
地面が近い。
指先が見えない。
驚いて声を上げたら、喉から落ちたのは小さな鳴き声だけだった。
「……お前か」
掠れた声が、頭の上から落ちてきた。
「警察の人が言ってた猫って、お前なのか」
見上げると、蓮がいた。
ひどい顔をしていた。
目は赤いし、髪は乱れていて、シャツはくたくたに皺が寄っていた。
目の下には、濃い影が落ちている。
私は、腕の中から自分の体を見た。
白い毛。
小さな前足。
ふっくらした肉球。
……肉球?
あれ。
猫?
私、猫になってる?
そう思った瞬間、もっと大事なことに気づいた。
ああ。
私、死んだんだ。
そこまで理解してから、記憶が遅れて戻ってきた。
三月の終わりの金曜日。
雨上がりの夜だった。
蓮と少しだけ言い合いになって、頭を冷やしたくて部屋を出た。
少し歩いて、コンビニに寄って、それから戻るつもりだった。
帰り道、道路脇の植え込みの影から、小さな鳴き声がした。
白と灰色の、まだ小さな野良の子猫。
しゃがんだ私に怯えて、その子はよろよろと車道へ出そうになった。
「危ない」
咄嗟だった。
私はその子を抱き上げて、植え込みの方へ引き戻した。
その瞬間、ライトがふらりとこちらへ寄ってきた。
車道の端を越えて、雨に濡れた路肩へ乗り上げるように。
その先は、白い。
そのあとが、ぼんやりしている。
花の匂い。
誰かの泣く声。
名前を呼ばれた気がするのに、返事ができなかったこと。
どれくらい経っていたのかは、わからない。
私の時間だけが少し遅れて、ここに戻ってきたみたいだった。
「真帆が最後に抱いてた猫って、お前なのか」
蓮が、ひどくぎこちない手つきで私の頭を撫でた。
そこ、ちょっとくすぐったい。
もう少し後ろ、って言いたいのに、「にゃあ」しか声が出ない。
「……触り方、全然わかんねえ」
眉を寄せたまま、蓮は私を抱き直した。
落とさないように変に力が入っていて、腕が少し震えている。
猫なんて触ったこともないのが丸わかりだった。
「……真帆、猫飼いたいって言ってたんだよな」
胸が、きゅうっとなった。
蓮とは、付き合って五年になる。
一緒に暮らし始めてからは、二年半ほど経っていた。
たまたま選んだ部屋がペット可だったから、私は前から時々そう言っていた。
『猫飼いたいなあ』
『お前も俺も帰り遅いだろ』
『でもいつか』
『仕事が落ち着いて、ちゃんと世話できるようになったらな』
今はまだ難しいね、と二人で笑っていた。
猫のことも。
行きたい場所のことも。
小さな約束のことも。
少しくらい先に延びても、私たちはずっと一緒にいるつもりだった。
「……連れて帰る」
蓮がぽつりと言った。
「お前、真帆が最後に守ったやつかもしれないんだろ」
その言葉に、胸の奥がじわりと痛んだ。
抱きしめられると少しだけ苦しかった。
◇
蓮は玄関を開けたまま、しばらく動かなかった。
入らないのかな。
私は彼の腕の中で、暗い部屋を見た。
靴を脱ぐだけなのに、蓮はずいぶん時間をかけた。
ようやく一歩入って、また止まる。
どうしたの、と思った。
部屋は、暗かった。
カーテンは半分閉まったまま。
テーブルの上には私の写真立てと、白いスイートピーが一輪と、グラスに入った水と、飲みかけのマグカップ。
蓮は私を抱いたまま、写真の前にしゃがみこんだ。
……え、その写真?
いや、あるでしょ、もっとマシなの。
絶対あるでしょ。
それ、ライブ帰りで顔てかてかだし、前髪も終わってるし、私が「これ全然かわいく写ってないからだめ」って笑ったやつなんだけど。
「これが一番、真帆っぽいんだよな」
蓮は、動かない私の写真に向かって言った。
「楽しそうだから」
ずるい。
そういうこと言うの、ずるい。
蓮はしばらく写真を見つめたまま、動かなかった。
それから、ぽつりと呟く。
「……葬儀にも出たのにな」
「終わった感じ、全然しねえ」
「まだ、ここにいるんじゃないかって思うんだよ」
蓮の声は、写真に向かっているのに、どこにも届かないみたいだった。
その声を聞いて、ようやくわかった。
だから玄関で、あんなに長く止まっていたのだ。
扉を開けるたび、きっと思ってしまうのだ。
中に私がいるかもしれない、と。
ただいま、と言えば、奥から「おかえり」と返ってくるかもしれない、と。
でも部屋に入れば、いないことがわかってしまう。
蓮は写真を見たまま、また小さく息を吐いた。
「……あと二日だったんだよ」
声が、ひどく細かった。
「五年目だった」
「ちゃんと、その日に言うつもりだった」
何を、とは言わなかった。
でも、その言い方だけで、胸の奥がざわついた。
「お母さんに、言われた」
蓮は写真から目を離さないまま、ぽつりと続けた。
「真帆のそばにいてくれて、ありがとうって」
声が、そこで少し詰まった。
「あなたとのこと、いつも楽しそうに話してましたって」
私は、息をするのを忘れた。
「……言えなかった」
蓮の腕に力がこもる。
「最後の日、喧嘩したんです、って」
「好きって言ってほしいって言われたのに、言えなかったんです、って」
「疲れてるって言って」
「真帆は出ていって」
「そのまま帰ってこなかったんです、って」
蓮は口元を押さえた。
何かを堪えるみたいに、肩が震える。
「本当のことを、言わなきゃと思った」
「でも、言えなかった」
違うよ、と私は思った。
それは言わなくていい。
言わなくてよかった。
母にそれを伝えたところで、誰も救われない。
それに、あれは喧嘩ですらなかった。
ほんの少し、すれ違っただけだった。
二人分の缶とおつまみでも買って戻れば、終わるはずの夜だった。
なのに蓮は、全部を自分の罪みたいに抱えている。
「俺……ずるいよな」
蓮は笑おうとした。
けれど、口元が少し歪んだだけだった。
「ありがとうって言われるようなこと、何もできてないのに」
声はかすれていた。
目は、何度も泣いたあとの色をしていた。
目の下には濃い影が落ちていて、顔色も悪い。
たぶん、まともに眠れていない。
涙は、止まっていた。
泣き尽くした顔で、それでもまだ苦しそうだった。
独り言、多いな。
そんなことを思ってから、少し泣きたくなった。
蓮は誰にでもよく喋る人ではなかった。
でも、私の前では少しだけ口数が増えた。
今日あったこと。
コンビニの新作。
ドラマの犯人。
帰り道で見た犬が妙に偉そうだったこと。
買おうと思っていたアイスが売り切れていたこと。
くだらないことを、毎日、なんとなく喋っていた。
でも今は、私が返事をできないから、蓮はひとりで喋っているのだ。
「葬儀は、向こうでやった」
蓮がぽつりと言った。
「お父さんとお母さんが、この部屋から必要なものもいくつか持って帰った」
「落ち着いたら、また来ますって言ってたよ」
蓮は部屋の中を見回した。
「でも、全部持って帰るなんて、無理だよな」
その声は、誰に言うでもない独り言だった。
「お母さん、クローゼットの前で止まってた」
「何を持って帰ればいいのか、わかんなかったんだろうな」
蓮の声は、どこか遠かった。
「俺も、わかんねえ」
クローゼットも。
冷蔵庫も。
ベッドの右側も。
どこを見ても、私の気配が残っている。
それなのに、私はいない。
蓮は写真の前の水を替えて、それから小さな紙袋を置いた。
淡い金色の包装紙。
細いリボン。
駅ビルの店のロゴ。
私は思わずテーブルに前足をかけた。
え、ちょっと待って。
これ、この前駅ビルで見て、「高っ」って言って諦めたチョコじゃない?
期間限定のやつ。
私が冗談半分で、「誰か買ってくれないかな」って言ったやつ。
買ってくれてたの?
うそでしょ。
蓮は紙袋を見て、小さく言った。
「驚かそうと思って、買っといた」
「……渡せなかった」
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
ちゃんと覚えてくれていた。
でももう、食べられない。
私はたまらず「にゃあ」と鳴いた。
「お前も食いたいのか」
食べたい。
ものすごく食べたい。
でももう、食べられない。
蓮は少しだけ困った顔をして、紙袋を写真の横へ置いた。
「……あとで、俺が食う」
「感想くらいは言うから」
そういうところだ。
食べられない猫の前で、ちゃんと困るところ。
言葉は少ないくせに、私がほしがったものを、ちゃんと覚えているところ。
ここは、私たちの部屋だ。
クローゼットの半分は私の服で、洗面所の右側には私の化粧水やヘアオイルが並んでいて、ベッドサイドには読みかけの文庫本が積んである。
私がいないこと以外は、何も変わっていないみたいだった。
◇
私たちは、たぶん、すごく普通の恋人だった。
蓮は、親しくなるまで少し時間がかかる人だった。
愛想が悪いわけではないけれど、誰にでもすぐ懐に入れるタイプではない。
それに、自分の気持ちを言葉にするのが少し苦手だった。
友達には前に、こう言われたことがある。
「蓮くん、いい人だよね。真帆は、ああいう静かな人が好きなんだ」
私はうなずいた。
「うん。好き」
この人は、言葉にしないだけで、ちゃんと優しい。
私が風邪を引けば、色んな種類のゼリーとプリンとスポーツドリンクを買ってきてくれる。
どれなら食べられるかわからなかったから、らしい。
帰りが遅くなれば駅まで迎えに来るし、冷えた手を見れば黙って両手で包んでくれる。
私が食べたがっていたコンビニの新作を買ってきてくれる。
ただ、私が何度も「好き」と言うのに、蓮が同じ言葉で返してくれたことは数えるほどしかなかった。
「好き」
私がそう言うと、蓮はだいたいこう返した。
「はいはい」
「はいはい、じゃない」
「聞こえてる」
「じゃあ蓮も言って」
「……眠い」
そう言って、私を抱き寄せて一緒に布団に入る。
たまに、小さな声で「俺も」と返してくれる夜もあった。
でも、ちゃんと目を見て「好き」と言ってくれたことは、片手で足りるくらいしかない。
それでも私は、ちゃんともらっていると思っていた。
迎えに来てくれること。
冷えた手を包んでくれること。
私の好きなものを覚えていること。
何も言わずに、私の分まで毛布を引き上げてくれること。
蓮は、そういうふうに返してくれる人だった。
金曜の夜だけは、蓮も少しだけ素直になった。
私たちは金曜日の夜、小さな缶を一本ずつ開けて、録りためたドラマを見ながら飲むのが習慣だった。
私は甘いお酒、蓮はビール。
それから、冷凍庫に入れてあるご褒美ストックのアイスを食べる。
私はその時間が好きだった。
ある金曜の夜、冷凍庫を開けた私は言った。
「アイス食べた?」
「食べてない」
「嘘。一個減ってる」
「気のせい」
「気のせいでアイスは減らないの。私の金曜のご褒美ストックなんだけど」
蓮はしばらく黙って、それから小さく言った。
「……昨日、一個だけ」
「やっぱり!」
「じゃあ今度買ってやるよ。高いやつな」
私は箱を抱えたまま、じっと蓮を見た。
「今度って、本当に来る?」
「来る」
「約束?」
「約束」
たったそれだけの返事なのに、嬉しかった。
私たちは、そういう小さいやり取りでできていた。
大きな約束なんて、ひとつもなかった。
来週でも、再来週でもよかった。
だから、なくなるなんて思わなかった。
◇
行きたい場所も、見たいものも、日常の延長みたいなものばかりだった。
駅前に新しくできたカフェ。
季節限定のいちごパフェ。
行きたいね、と私が言って、蓮が「今度の日曜、行くか」と返した。
「ほんとに?」
「ほんとに」
私はうれしくて、スマホのカレンダーに印をつけた。
それから、いつもの手帳にも同じ予定を書いた。
紙にも残しておかないと落ち着かないのは、小学生の頃からの癖だった。
営業時間も、限定メニューの終了日も調べて、端に小さく書いた。
でも予定近くになって、蓮が言った。
「ごめん。日曜、急に出勤になった」
「そっか……」
「来週、埋め合わせする」
「うん」
本当に、ほんの少しだけ残念だった。
だって次があると思っていたから。
「限定、まだやってるよな」
「……今月いっぱい」
「じゃあ来週末だと、ぎりセーフか」
「次、仕事入ったらアウトだけどね」
「……善処します」
二人で少し笑って、それで終わりだった。
少し先にずれただけのはずだった。
◇
最後の喧嘩も、喧嘩と言えるほどのものじゃなかった。
その日は、金曜の夜だった。
「たまには、蓮の方からちゃんと好きって言ってよ」
仕事から帰ってきた蓮に、私はそう言った。
その日の蓮は、少し疲れていた。
私も、少し機嫌が悪かった。
どちらかがひどかったわけじゃない。
ただ、二人とも少しだけ余裕がなかった。
「急に何」
「急じゃないし」
「……わかってるだろ」
「そういうことじゃないの」
「いちいち言葉にしなくても――」
「私は聞きたい時もあるの」
少しの沈黙のあと、蓮は眉を寄せた。
「……ごめん。今日は、疲れてる」
その言い方が、ちょっとだけ冷たく聞こえた。
本当に、ちょっとだけ。
「じゃあもういい」
私はそう言って部屋を出た。
本気で出ていくつもりなんてなかった。
ほんの少し頭を冷やして、コンビニに寄って、二人分の缶と、適当なおつまみでも買って戻れば、それで終わるくらいの、小さな喧嘩だった。
帰ったら蓮もきっと気まずそうにしていて、ちゃんと謝ってくれて、私も「言い方悪かった」と言って、それで終わる。
その程度の夜だった。
なのに終わらなかった。
子猫を助けようとして、死んだ。
そんなの、誰が予想するの。
◇
気づけば、一ヶ月近くが過ぎていた。
その間、蓮は少しだけ猫の扱いに慣れた。
けれど、私のいない部屋には、少しも慣れなかった。
相変わらず、玄関の前で足が止まる。
写真の前での独り言も減らない。
ベッドでは眠れないし、クローゼットも開けられない。
仕事には行っていた。
行かないと壊れるから、たぶん。
でも帰ってくると、玄関の明かりだけつけたまま、薄暗い部屋でソファに座ってぼんやりしていることが増えた。
私はそんな蓮の足もとをうろうろした。
膝に飛び乗った。
手に鼻先を押しつけた。
でも、足りない。
私がほしかったのは、こんなかたちじゃない。
蓮がほしいのも、きっとそうだ。
それは、金曜日の夜だった。
蓮は缶ビールを一本だけ開けた。
飲みきる前にソファの前に座り込んで、私を抱き上げた。
抱き方は相変わらず下手だった。
少し苦しいくらいなのに、今日はそれがいやじゃなかった。
「……真帆は、俺にいっぱいくれたのに」
蓮は私を抱いたまま、低く言った。
「好きだって」
「大好きだって」
「一緒にいると落ち着くって」
「そういうの、何回も言ってくれたのに」
声が、少しずつ崩れていく。
「俺は、ちゃんと返せてなかった」
「はいはい、とか」
「聞こえてる、とか」
「眠い、とか」
「そんなのばっかりで」
蓮の腕に力がこもる。
「本当は、嬉しかったんだよ」
「全部、嬉しかった」
「なのに、なんでそう思った時に返さなかったんだろうな」
そこで、息が詰まる。
「俺、真帆からもらってばっかりだった」
「ちゃんと返せてなかった」
「幸せにできてたのかも、わかんねえ」
蓮は一度、目を閉じた。
閉じたまま、苦しそうに息を吐く。
「警察の人に聞いた」
「あれは、不注意運転だったって」
「あの車が悪いのも、わかってる」
「真帆が飛び出したわけじゃないのも、わかってる」
「でも、俺があの日あんな言い方しなければって、どうしても思う」
声が、ほとんど泣き声になる。
「後でいいとか思ってた」
「今度でいいって」
「好きって伝えるなら、ちゃんとした時に言いたいとか」
「今じゃなくてもいいとか」
「そんなこと考えてた」
「ずっと一緒にいるって思ってた」
蓮は私を抱きしめたまま、顔を歪めた。
「……真帆、幸せだったのかな」
その一言が、いちばん痛かった。
「俺といて」
「ちゃんと」
「幸せだったのかな」
「わかんねえよ……」
抱えたままの私の背に、熱いものがぽたぽた落ちる。
私はたまらず、蓮の腕に顔を押しつけた。
違うよ、と言いたい。
幸せだったよ、と。
たくさんもらってたよ、と。
あなたは言葉じゃないところで、いっぱい返してくれてたよ、と。
そう言いたいのに。
私の口から出るのは、小さな鳴き声だけだった。
このままじゃだめだ、と思った。
蓮はずっと、自分を責める。
そういう人だ。
自分が悪くないことまで、黙って抱え込んでしまう。
だから、本当はそれを止めたかった。
でも私の口からは、もう届かない。
だったらせめて、見せたいものがあった。
手帳のカバーの内側に、ずっと挟んでいた小さなメモ帳。
◇
私は子どもの頃から、一行日記をつける癖があった。
小学生の夏休みに始めたものが、なぜか大人になっても残っていた。
スマホのメモでもよかったけれど、私は紙の手帳の方が好きだった。
食べたものとか、行きたい店とか、ドラマの犯人予想とか、その日の気持ちとか。
予定も、買い物も、どうでもいい願いごとも、だいたいそこに書いていた。
手帳は、いつも会社に持っていくバッグの中にある。
そのバッグは、クローゼットの中にかかったままだった。
蓮は、私のクローゼットを開けられずにいた。
右半分。
私のワンピースも、ニットも、バッグも、そのまま吊ってある。
開けたら、本当に何かが終わってしまいそうで怖いんだろう。
わかる。
わかるけど、見てほしい。
私は何度もクローゼットの前で鳴いた。
扉を引っかいた。
蓮は最初こそ「だめ」と止めたけれど、何日目かに、観念したように扉を開けた。
やわらかい柔軟剤の匂いが、ほんの少しだけ残っていた。
蓮の喉が動く。
すぐに閉めようとする袖に、私は飛びついた。
「……なに」
バッグ。
それ。
私はバッグに向かって鳴いた。
「……これか?」
蓮が、そっとバッグを下ろす。
勝手に中を見ることをためらうみたいに、指先がファスナーのところで止まる。
でも私がもう一度鳴くと、蓮は小さく息を吐いて、ファスナーを開けた。
中には、ハンカチと、リップと、丸まったレシートと、いつもの手帳が入っていた。
それだ。
私はしっぽをぶわっと膨らませた。
蓮は手帳を見た瞬間、息を止めた。
「……真帆の手帳」
そう。
開いて。
見て。
――そのあとも。
お願い。
蓮はソファに座り込み、しばらく表紙を撫でていた。
やがて震える指で、三月のページを開く。
私の時間が止まった月だった。
「……真帆の字だ」
『三月二日(月)
風邪。
蓮がゼリーとプリンとスポーツドリンクをいろいろ買ってきた。
どれなら食べられるかわからなかったんだと思う。
優しくて、好き。』
『三月十日(火)
雨。
駅まで迎えに来てくれた。
傘をずっとこっちに寄せてた。
自分の肩、けっこう濡れてたのに何も言わなかった。
そういうところが好き。』
『三月十七日(火)
手が冷たいって言ったら、何も言わずに握ってくれた。
好きって言葉は少ないけど、蓮はちゃんと返してくれてる。
私はいつも、もらってる。』
『三月十八日(水)
駅ビルの期間限定チョコ。高っか!
蓮に「この前散々食べただろ」って言われた。
ホワイトデーとは別腹です。
蓮、たぶん覚えてる。』
『三月二十日(金)
金曜の夜のアイス、ほんと好き。
一緒にお酒飲んで、だらだら撮りためたドラマ見て、アイス食べて、眠くなったらそのまま一緒に寝るの、すごく幸せ。
蓮といると、毎日が楽しい。』
『三月二十一日(土)
来週、ドラマ最終回。
録画も予約してるけど、これは絶対リアタイしたい。
蓮は「犯人は弟だろ」って言ってるけど、私は幼なじみが怪しいと思う。
最終回、絶対一緒に見る。』
『三月二十二日(日)
来週の日曜、カフェ連れてってくれる。
限定のいちごパフェ、楽しみ。』
『三月二十六日(木)
日曜は仕事でだめになっちゃった。残念。
でも次があるからよし。』
蓮はそこで、一度目を閉じた。
少し先にずれただけのはずだった予定。
来週でも、二週間後でもよかった約束。
真帆の字で残っているその短い日記が、思っていたよりずっと痛いものだと、私にもわかった。
私は手帳に前足をかけて、小さく鳴いた。
「にゃあ」
「……なに」
蓮が、ようやく私を見る。
私はもう一度鳴いて、手帳のカバーのあたりを前足で引っかいた。
蓮、もう少し後ろ。
そこを見てほしい。
カバーの内側には、薄いメモ帳が挟まっていた。
蓮と付き合い始めた年に買った手帳についていた、小さなメモ帳。
手帳本体は毎年替えていたけれど、それだけはずっと移し替えていた。
ライブの半券や、水族館のチケットに紛れて、少しだけ角が丸くなっている。
蓮が、それをそっと抜き取った。
手の中で、少しだけためらう。
薄い紙束が、頼りなくしなる。
何度も開いた跡があって、端がわずかに擦り切れている。
「……これ」
ひとりごとのように呟いて、親指で表紙をなぞる。
それから、ゆっくりと開いた。
中には、少し雑な字で見出しがあった。
蓮とやりたいことリスト
その下に、箇条書きが並んでいる。
思いつくたびに、少しずつ書き足していったものだった。
・水族館に行く ✔
・ライブに行く ✔
・一緒に旅行する ✔
・一緒に暮らす ✔
・お揃いのマグカップを買う ✔
・ただいまとおかえりを言い合う ✔
・金曜の夜に一緒に晩酌する ✔
ほかにも、いくつもチェックがついていた。
私は、叶ったものにあとから小さく印をつけていた。
けれど、その中に、まだ何もついていないものもある。
・猫を飼う
・蓮と家族になりたい
・新婚旅行はハワイ
「……なんだよ」
蓮の声が、かすかに揺れた。
「家族になりたいとか」
「ハワイとか」
蓮は、そこで喉を詰まらせた。
「俺も、考えてた」
「真帆となら、そうなるんだと思ってた」
うれしかった。
でも、うれしいと思った分だけ、胸が痛かった。
私だけじゃなかった。
蓮も、同じ先を見てくれていた。
なのに私はもう、その未来には行けない。
嫌だ。
今さらだけど、嫌だった。
死にたくなかった。
蓮と結婚したかった。
一緒にハワイに行って、帰ってきて、またこの部屋で「ただいま」と「おかえり」を言いたかった。
泣きたかった。
でも、涙は落ちなかった。
胸だけが、ぎゅうぎゅうに痛かった。
そこで、蓮はとうとう泣き崩れた。
メモ帳を握ったまま、肩を震わせる。
「……なんだよ、それ」
「そんなの、泣くだろ」
「そんなの、普通に思ってくれてたのかよ」
私はたまらず、蓮の膝に飛び乗った。
そうだよ。
思ってたよ。
だって、あなたといる未来は、私の中ではちゃんと続いてたから。
蓮の指が、その下で止まった。
・蓮にとびきりの「好き」を言わせる
「……とびきりって」
蓮は少しだけ笑いそうな顔をした。
でも次の瞬間、その顔がまた崩れた。
「そんなの……」
「言わせる気だったのかよ」
蓮はしばらく動かなかった。
「……言うつもりだったんだよ」
掠れた声だった。
「二日後」
「五年目の日に」
蓮は立ち上がった。
寝室の引き出しの前で、少しだけ迷う。
それから、奥にしまってあった小さな箱を取り出した。
黒い箱だった。
見覚えのない箱。
私は息を止めた。
「指輪…買ってた」
蓮は箱を開けなかった。
開けないまま、両手で包むように持っていた。
「ちゃんとした日に言おうと思ってた」
「好きだって」
「結婚しようって」
「愛してるって」
そこで、蓮の声が壊れた。
「喧嘩した日に言えよな」
「疲れてるとか言ってないで」
「言えよ、俺」
箱を持つ手が震える。
「あと二日なんか、待たなきゃよかった」
だめだ、と思った。
そんなふうに泣かないで。
そんなふうに自分を責めないで。
でも、私も思ってしまった。
あと二日。
たった二日。
そこまで生きていたかった。
五年目の日に、蓮の前で笑っていたかった。
蓮の手の中にある箱が、ただの小さな箱には見えなかった。
そこには、私が行けなかった未来が入っている。
聞けなかった言葉が入っている。
つけてもらえなかった指輪が入っている。
私は、蓮の足元に額を押しつけるように丸くなった。
うれしい。
うれしいのに、苦しい。
ほしかった。
その言葉がほしかった。
その日がほしかった。
その未来がほしかった。
蓮は箱を胸に押し当てたまま、しばらく声も出せなかった。
それから、もう一度手帳に目を落とす。
そして、そのすぐ下。
・蓮と幸せになる ✔
もう、叶っていた。
さらに下に、少し小さな文字で書き足してあった。
出会えて良かった。
蓮といられて、毎日幸せ。
蓮はしばらく動かなかった。
「……そっか」
声にならないみたいな声だった。
「幸せだったんだな」
ぽたり、と雫が落ちる。
さっきまでの涙とは、少しだけ違うとわかった。
苦しくて泣いているのに、
どこか、救われたみたいな顔だった。
「よかった」
その一言が、胸の奥に深く落ちた。
私は、ただ蓮の手に額を寄せた。
――ああ。
これを、あなたに伝えたかったんだよ。
うん。
よかったんだよ。
私は、ちゃんと幸せだったよ。
蓮はメモ帳を見たまま、何度も息を飲んだ。
それから、ひどく静かな声で言った。
「……真帆」
私は顔を上げる。
蓮は、泣きながら少しだけ笑っていた。
「好きだよ」
「とびきり、好きだ」
その言葉は、さっきまでの痛いだけの言葉とは違った。
私は前足で、そっと彼の手に触れた。
◇
その夜、私は眠れなかった。
蓮は泣き疲れて、ソファにもたれたまま眠っている。
窓の外は、もう薄く明るい。
そろそろなんだ、と、なぜかわかった。
この時間は長く続かない。
私は蓮の膝の上で丸くなった。
彼が、いつか私のいない場所で、別の誰かと笑うことを思うと、胸が痛い。
そんなの嫌だ。
隣にいるのは私がよかった。
ベッドの私側に、誰かが寝転ぶこともあるのかもしれない。
クローゼットの空いた場所に、別の服がかかる日も。
誰かとお揃いで買ったマグカップがテーブルに並ぶことも。
洗面所の右側に、私ではない誰かのものが置かれることも。
駅前のカフェに行くのも。
ドラマの最終回を並んで見るのも。
つまみ食いのお詫びに、高いアイスを買ってもらうのも。
金曜の夜に缶を開けるのも。
そういう日が、いつか来るのかもしれない。
でも、今はまだ想像したくなかった。
忘れないでほしい。
ずっと覚えていてほしい
私のこと引きずっていてほしい。
そう思った。
けれど、暗い部屋で一人、私のことばかり思って泣いていてほしいわけじゃない。
私は、蓮の笑った顔が好きだった。
少し不器用で、めったに見せないくせに、ふっとやわらかくなるその顔が好きだった。
だからきっと。
最後に勝つのは、彼がちゃんと笑える未来を選ぶ私なんだと思う。
苦しい。
すごく苦しい。
でも私はもう、蓮と同じ時間を生きられない。
なら、せめて。
彼には、生きてほしい。
ちゃんと。
◇
朝の光が差し込む頃、蓮が目を覚ました。
「……おはよ」
掠れた声。
私は小さく鳴いた。
蓮は私の背中を撫でた。
今日も少しだけ場所がずれている。
「……やっぱり、無理だよ」
「真帆がいないの、無理だ」
うん。
私も無理だよ。
蓮がいないの、無理だよ。
蓮は、喉の奥から押し出すみたいに言った。
「でも、生きなきゃな」
ああ。
そうか。
私は、蓮を連れていけない。
蓮の時間を、ここに縫いとめておくこともできない。
本当は嫌だ。
全部嫌だ。
私だけを覚えて、ずっと私だけを見ていてほしい気持ちも、まだ消えていない。
でも、蓮が生きると言うなら。
その邪魔だけは、したくなかった。
いいよ。
それでいい。
窓の外で風が鳴る。
カーテンがふわりと揺れる。
私は最後の力を振り絞るように、蓮の手に顔を押しつけた。
もっと一緒にいたかった。
おじいさんとおばあさんになるまで、一緒にドラマを見て、晩酌して、アイスの取り合いをして、チョコを勝手に買ってきてくれて、猫を一緒に飼って、そんなふうに暮らしたかった。
指輪も、つけてほしかった。
五年目の日に、笑って泣いて、たぶん変な顔になって、それでも「はい」って言いたかった。
でも、それはもう叶わない。
だから、最後にひとつだけ。
――次の世界でも、ちゃんと見つけてね。
その声が本当に届いたのか、それともただの朝の気配だったのかはわからない。
でも蓮は、何かを聞いたみたいに顔を上げて、泣きながら少しだけ笑った。
「……ああ」
その返事を聞けたから、もう十分だった。
◇
次に蓮がまばたきをしたとき、腕の中の猫は変わらずそこにいた。
同じ白と灰色の毛。
同じ小さな体温。
同じ重み。
それなのに、少しだけ違って見えた。
蓮は、しばらく動けなかった。
猫は金色の目で、きょとんと蓮を見上げていた。
「……真帆?」
呼んでみた。
猫は小さく鳴いて、蓮の指に鼻先を寄せた。
返事ではない。
たぶん。
でも蓮は、その一声に縋るみたいに、猫を抱きしめた。
テーブルの上には、写真と、花と、チョコの箱。
開かれたままのメモ帳。
そして、開かれないままの小さな黒い箱。
真帆の声が聞こえた朝のことを、蓮は夢だったのかもしれないと思った。
それでも猫は、真帆が最後に守った命だった。
蓮は猫の背中を、不器用に撫でる。
「……一緒にいような」
猫は何も知らない顔で、蓮の手に頭を押しつけた。
テーブルの上、開かれたままのメモ帳の最後の余白に、蓮はゆっくりとペンを走らせる。
『見つける。たぶん、何度でも。』
書き終えて、しばらくその文字を見つめる。
やがて、写真の横には、ほどかれたチョコのリボンが置かれていた。
きっとこの先も、駅前のカフェの前を通るたび、ドラマの最終回の表示を見るたび、クローゼットの扉に手をかけるたびに、胸は軋むだろう。
五年目になるはずだった日にも。
指輪の箱を見るたびにも。
あの日言えなかった言葉を思い出すたびにも。
相変わらず、玄関の前では足が止まる。
真帆の写真の前での独り言も、たぶんすぐには減らない。
ベッドではまだ眠れないし、クローゼットもすぐには開けられない。
金曜の夜がくるたびに、一人で缶を開けるたびに苦しくなる。
テレビをつけて、冷凍庫を開ける。
そこには、真帆のご褒美アイスが残っている。
手を伸ばしかけて、やめる。
それでも。
いつか、そのアイスに手を伸ばす日が来る。
録画したままの最終回を、泣きながらでも再生する日が来る。
駅前のカフェの前で、足を止めるだけじゃなく、扉を開ける日が来る。
忘れないまま。
抱えたまま。
それでも、生きていく。




