第八話 しおり糸が巡る村 一
ここはイルネアの襲撃を受けた場所から坂を上った森の中。
夜に片足を踏み込んだ場は肌寒く、馬車を降りて見えるのはまばらな灰色の岩と背の高い木ばかり。だが今目の前に圧倒的な存在感で鎮座している大木に比べれば、それらはどれも子供のように思えた。
「それで? なんだってお前の家で話し合わなくちゃいけないんだ?」
「……あまり人に聞かれたくない話だから、かな」
「さっきの場所でも人なんかそうそう来ないと思うがな」
「まあとにかく、どうせ話し合うなら落ち着いた場所のほうがいいでしょ?」
偉大さを感じるほどの自然。それを前にコニーさんが問うと、イルネアは指を立てた。
結論から言ってしまうと、俺達は案内に従って彼女の家へと足を向けることとなっていた。もちろんコニーさんはそれに反対をして、あの場での情報交換を求めた。だがイルネアの駆け引きと呼ぶには幼稚な駄々によって、結果的にはこちらが折れることとなったのだった。
コニーさんは一歩引いてでも、彼女から情報が欲しいらしい。
「イルネアさん、あなたの家はどこなんですか?」
ならば早々に済ませようと、俺はそう問い掛ける。
「まさかこの上じゃあないだろうな」
「いやいや、上じゃなくて下だよ。下」
空に伸びる大木の上方、太い幹に比例するような枝葉の傘をコニーさんが指差す。だがそれは不正解であったらしい。
紫色の空に湿った風が流れると、イルネアが黒い髪をかき上げる。そして待ってましたと言わんばかりの得意顔でしゃがみ込み、大木の根元に手を掛けた。本来あるべき地中を飛び出して、芝に波を打つ根。彼女が力を入れると、その隙間の地面が土を押し上げる。
蓋が外れて現れたのは、人が楽に入れるほど大きな穴だった。
「どうよ? これがあたしの家!」
イルネアは視線でその穴を示し、歯を出して笑う。だけど当然、俺とコニーさんの表情は暗い。
「……お前はモグラか? こんなことなら、やっぱり断っておくべきだったな」
「それなら、あたしはあんたの質問には答えないけど?」
土を被った入り口の蓋を立て掛けて、イルネアは挑発する。ここに向かう道中でも聞いた彼女の脅し文句だった。
「はあ、わかったよ。さっさと中に入ろう」
そしてそれはどうやらコニーさんに対して効果が抜群のようで、いつの間にやら二人の立場は逆転していた。
「わかればよろしい。……それじゃあ、ようこそ我が家へ」
招かれた言葉に従おうとすれば、先を行くコニーさんが振り返る。
「お前はバートと待ってろ」
「え、なんでですか?」
「中に居るよりは安全だろ。すぐ戻る」
有無を言わさず踵を返して、コニーさんは穴の中へと進んでいった。
その背中が暗闇に溶けたのを見届けて、俺は小さく息を吐く。待っていろという判断も理解できたが、正直少しがっかりした。大きな木の下、地中の家に僅かだが興味があったからだ。
でもまあ、しょうがないだろう。俺は家の入り口から離れて、バートに近寄る。何気無く伸ばした手は、またも頭を振られて拒絶される。
まだ心を開いてくれないのか。種族の違う旅の仲間を見つめて、ほんの少し傷ついてから御者席に座る。自らの膝に肩肘をついて、コニーさんの帰りを待つことにした。
森に吹く風を受け、紫に侵食される空を見つめるのに飽きた頃、やっとコニーさんが帰ってきた。穴から帰還した彼の後ろには、見送りでもしてくれるのだろうか、イルネアの姿もある。
「おかえりなさい」
「ああ、待たせたな」
横にずれて席を空ければ、コニーさんがそこに座る。早々に手綱を握るのを見て、俺は不機嫌な顔で佇むイルネアへと視線を向けた。
すると、彼女の口が重く開く。
「ノーラちゃん、だっけ?」
「え、ああ、はい」
「お父さんを見習っちゃダメだよ」
投げ掛けられた言葉は、意味を理解することはできるものの、不適切なものだった。だが、彼女がなにを勘違いしているのかはわかる。そしてそれは無理もないものだ。
俺はちらりとコニーさんを見て、イルネアに苦笑いを向ける。
「えーっと、この人は私の父ではないので」
「……そうなんだ、なら良かった」
ぶっきらぼうに返ってきた言葉を残して、馬車は進み始める。自らの家の前に立つイルネアの姿が遠ざかっていく。俺は一応の会釈をしてから、前を向いて深く座り直した。
「なにかあったんですか?」
そして横に座る人物に問うのは、今最も聞きたいことだ。
「望んでいた情報が手に入らなかったんでふてくされてるんだろう」
「望んでいた情報、ですか?」
「ああ、どうやら道化師の居場所が知りたかったらしい」
登場した名前を聞いて、あの戦いを思い浮かべる。
コニーさんは表情を変えずに前を向いたままだ。
「ということは、イルネアさんはあの道化師と関係があったってことですか?」
「そうらしいな。だが望んだものを手に入れられなかったって点じゃあ、俺もあいつと同じだ」
「目新しいものはなかった……?」
「ああ、簡単には信じられないが、あいつをあんな姿にしちまったのが道化師だっていうくらいだな。奴と村長との関係は、あいつにもわからないんだと」
一瞬の沈黙が訪れて、車輪の音だけが響く。
息とともに飲み込んだコニーさんの言葉、その意味を理解した瞬間、心がざわりと動いた。そして僅かな光明にも似た事実を追いかけて、口を開く。
「あんな姿にした、というのは?」
「蜘蛛人間にされたってことだな。つまり、あいつも元は純粋な人間らしい」
元は人間、人から蜘蛛への変貌。大きな差はあるが、似ているのかもしれないと思った。男から女に変わってしまった俺と。
「コニーさん、イルネアさんが道化師を探しているっていうのは……」
「元の姿に戻るため、だそうだ」
イルネアは自らの姿を変えた道化師に会うことで、元に戻ろうとしている。当然の思考だ。
だけどそれはもう叶わないのではないか。そしてもしそうならば、俺もまた手掛かりを自らの目の前で無くしたことになる。
「道化師が死んだことは伝えたんですか?」
「いや。随分とご執心みたいだった、教えてやったらこっちに牙が向きかねない。事実、殺したのは俺だしな」
どこか自嘲を含んだ声を聞いて、俺は馬車の横から身を乗り出す。そうして後ろを振り返った。
黒の差した沢山の木々と、その影を更に濃く映す草の地面。遠ざかるその景色の向こうに、もう見えなくなったイルネアの姿を浮かべる。
可能ならば、今すぐ戻って話を聞きたかった。この世界にやってきてはじめて、自分に降りかかった災難との関連を見た気がしたのだ。
「あの……」
「ん、なんだ?」
だがコニーさんに向けようとした言葉は、喉元に留まる。
今戻るのは不自然だと思った。コニーさんにも事実を伝えることになってしまうように思えた。
「いや、なんでもありません」
だから今は後のため、この景色を記憶に焼き付けた。想像すれば、戻って来られるのだから。
崖を迂回して下り終え、村への道を進む。ぶらぶらと揺れる傍らのランタンを見つめていると、それとは別の明かりが見えた。ごろごろと車輪が転がる道の向こうに、複数の小さな光。
崖の上から見ていた村が、今度は同じ高さにその身を現したのだ。
「メラン村だ」
コニーさんの声を聞き、近付くメラン村を捉える。
道の終わりに佇む村、その入り口に跨るのは木の門だった。とはいってもそんなに大層なものでもない。細い木材に多少の装飾が施されただけで、扉もない簡素なもの。だがその左右からはしっかりと柵が伸びていた。
馬車は門をくぐり、道の両側に建つ家の間を抜けて村の中へと入る。
「心配するな、ここは普通の村だ。俺の知り合いだっている」
「魔法嫌いの知り合いではなく?」
「信頼できる奴らさ」
それは良かったと胸を撫で下ろす。
言葉を交わす俺達を出迎える影はなかった。浅い夜とはいえど、まあそれは仕方がないのだろう。しかしそう思った瞬間に、前方からやって来る二つの人影が見えた。
「お、珍しいな。旅人さんかい? 村長の家ならこの奥だぜ」
「ああ、ありがとう」
影の片方、随分と顔の赤い髭の男に返事をして、コニーさんは村の奥にバートを進ませる。
「あの人達とは知り合いではないんですか?」
「あんな大酒飲みの知り合いは、ここにはいないな」
去った二人組を振り返りながら聞くと、コニーさんはそう言って笑った。
酔っぱらいとはいえど、この村の人間なのだろうから情報は正しいはずだ。そんな風に考えていると、やがて見えた一軒の家の前で馬車は停まる。
村長の家なのだろうが、村に散見された他のものと大差はなかった。強いて言えば、少しだけ横に長いというくらいであろうか。全体を通して木造で、漆喰の塗られた外壁。悪く言えば地味なものだ。
「村長とは?」
家を観察しながら、横に立つコニーさんに問う。
「もちろん知り合いだ」
「なら安心です」
友達に村長が多い彼は、家の扉へと一歩を踏み出す。夜の村の中に小さなノックが響いた。
その音に誘い出され、顔を出したのは一人の人物、がたいの良いスキンヘッドの男だった。
「久し振りだな、ダグ」
コニーさんが両手を広げる。
ダグと呼ばれた男は、まるで悪魔でも見たかのように大きく目を開いた。だがそれはきっと、恐怖の驚きではないのだろう。
「コニー! 死んだと思っていたぞ!」
「そりゃあ随分と大袈裟だ」
勢い良く飛び出したダグさんは、コニーさんと軽く抱き合って再会を喜ぶ。
シャツを押し上げる筋骨隆々の浅黒い肌に、コニーさんよりも頭一つ分は大きい背丈。ダグさんの容姿は酷く威圧的だったが、笑顔で言葉を交わす光景はどこか微笑ましくも思える。
でもまあ、こちらに視線が向いたのならば、萎縮するのも仕方ない。ダグさんは小さくつぶらな瞳で俺を見やると、コニーさんへと笑いかける。
「お前も遂に再婚か?」
「冗談でもやめてくれ。預かっているだけだ」
「そうか、まあ事情は聞かないさ」
コニーさんの肩を数度叩いてから、ダグさんは俺の前に歩み寄り、その大きな身体を器用に屈めた。
「こんばんは、お嬢ちゃん。俺はダグ・ベックマン、この村の村長だ」
「私はノーラです。その……はじめまして」
頭を下げてから背筋を伸ばすと、一瞬の静寂が訪れる。何か失敗でもしたかと視線を泳がせるが、辺りに響いたのは豪快な笑い声だった。
「なるほど、良くできた娘さんだ! こりゃあお前の子じゃあないな」
ダグさんは大きな手をこちらに伸ばし、俺の頭を撫でた。乱暴な動きに翻弄される髪の毛たちは、視界の中で左右に踊る。
しかし、その隙間から鬱陶し気に視線を送ってみたところで、彼にはその意図は伝わらないらしい。直ぐに立ち上がってコニーさんへと向き直った。
「こんなところで立ち話もなんだ。とりあえず入れよ」
ダグさんは背後の家へと俺達を誘う。そしてこちらの行動を見る間も無く、室内に引っ込んで行った。
「見ての通りだ、悪いやつじゃない」
家の中に進もうとすると、コニーさんの手が横から伸びてくる。頭上へと向かったそれは、跳ねて乱れた俺の髪を梳く。
ありがたいが、気恥ずかしさのほうが勝った。
「そうみたいですね」
だから身を滑らせて脱出し、自分で髪を整える。そして足早に、今度こそ家の中に進もうとするが、またもやそれは遮られる。
ダグさんが去った玄関の奥から現れたのは、一人の少年だった。
「村長に頼まれました。馬車は俺が納屋に停めておくので」
「ああ、頼む」
少年は長袖のシャツを少しだけ捲り、吊りの付いたズボンを履いていた。そして古ぼけた前つばの帽子を目深に被っている。恥ずかしがり屋なのか、はたまた何か別の理由があるのか、少年は顔を上げることもせず、その表情は読み取ることができない。
コニーさんの返答を聞いてすぐに、少年は馬車のほうへと向かっていった。
少しだけ不思議に思いながらも、その姿を見届けた後、俺達は村長の家へと足を踏み入れる。
板張りの床を進めば直ぐに部屋に出た。隅にある石組みの炉を横目に、奥へと向かうコニーさんに続く。そこにあった扉が開かれるとダグさんの姿が見えた。
「さあ、座ってくれ」
その言葉に従って、俺達は机の前にある椅子へと腰を落ち着ける。幾度となく経験した向かい合わせの形だ。
「客人の案内くらいしてくれてもいいんじゃないか?」
「お前には必要ない、見知った家だろ?」
「まあな」
二人が笑って軽口を交わし合う。ランプの暖かな明かりも相まって、随分と穏やかな雰囲気が部屋を包む。
ここは居心地が良いかもしれない。俺は知らずのうちに張っていた肩から力を抜いて、小さく息を漏らした。
「それで、顔を見せたってことは何か用があるんじゃないのか?」
ダグさんがポットからコップに飲み物を注ぎ、その二つをこちらによこす。会釈をしてから手にとってみれば、陶器越しに暖かな温度がじんわりとやってくる。
「ああ、まあそうだな。だがこう言っちゃあ悪いが、お前のところに顔を出したのはついでだ。リネーアの奴に会いに来た」
思えばここに来た目的を聞きそびれていた。そう考えながら、コップの中を見つめつつ二人の話を聞く。登場したリネーアという人名にももちろん興味はあった。が、それは目先のものにも同様だった。
手にした飲み物、部屋の姿を映す茶色い液体。そこには細かい葉のかけらが浮いているものの、不快感はない。コップのふちに口を付けて傾ける。
喉へと降りた温かさは、心地良い苦味を残して消えた。
「おい、コニー。お前もしかして知らないのか?」
暖まる、美味しい。のんきにもそんな感想を心で述べていると、会話の空気が少し変わった。
「なにをだ?」
「なにってそりゃあ、リネーアのことだ。あの娘はもうこの村には居ないぞ」
コニーさんがコップに伸ばしかけていた手を止める。
「おい、ダグ。お前に限って冗談ってことはないよな?」
「もちろん冗談なんかじゃあないさ。もう引っ越してから随分と経っちまってる」
その言葉を聞いて、コニーさんは大きく息を吐いた。そして疲れたように眉間を揉むと、背もたれに勢い良く体重を預ける。リネーアという人物の不在がよほど応えたようだ。
沈黙が部屋の中に流れ始め、俺は空のコップを握りしめて成り行きを見守る。しばらく誰もが口を開かない。
心配から横に視線を送ってみるが、それはどうやら別の意味で捉えられたらしい。
「ノーラ、気に入ったんなら飲んでもいいぞ」
コニーさんは苦笑いで自身のコップを差し出した。