第六話 心の身支度
小さな川を傍らに眺めながら、これまた小さな岩に腰を掛け、俺達は昼食の真っ最中だ。
遠くの草っ原では馬車から解放されたバートが頭を下げていて、その姿を見下ろす空は澄んでいる。どこか呑気な景色の中で、コニーさんが鍋をかき回しながら言った。
「それで、アイナが何を言っていたんだ?」
僅かだが肉野菜の浮かんだスープは、背の低い火に湯気を押し出され、何とも良い匂いを放っている。俺はその香りを楽しみながらも少しだけ背筋を伸ばし、コニーさんを見た。
「私には意味がよく分からなかったんですけど、『気付いてたのにごめんなさい』って言っていました」
「そうか……」
どういう意味なのかを聞こうとも思った。だけど眉間にしわを寄せたコニーさんを見て、俺は躊躇した。手にした硬いパンをかじって、言葉と共にそれを飲み込む。
だが、少しの沈黙の後、鍋を見ていたコニーさんの視線が持ち上がった。
「……掟のことだけじゃない。今回の事、お前にも話しておかなくちゃあな。気になって仕方ないって顔してるぞ?」
俺は本当にそんな表情をしていたか? いや多分、場を少しでも和ませるための冗談なのだろう。だけど詳しい話を聞きたいというのは事実だ。
コニーさんはスープを木の器によそって、こちらに差し出す。そして両者にそれが行き渡ったのと同時に、ゆっくりと語り始めた。あの村に存在する掟と、今回俺が巻き込まれた事態について。
ヴァルタサールの魔術送り。村長の先祖であるヴァルタサール・アルヴィドソンの名を冠し、掟は村人の間でそう呼ばれていた。
内容は至極単純の明解、曖昧な箇所が無い。魔法使いは村に住まわせろ、しかしその人数が二人以上になったら、そいつらを全員村から一掃しろ。それが魔術送りというものだった。だから殺人が起きなかった場合は、俺とコニーさんが追い出されて終わるはずだったもの。
いつから存在するのかわからないその掟は、村長の手によって村人に周知され、そして多くの住人がそれに納得していた。理由はわからない。だがあそこに住む人間達の根底には、魔法嫌いが根付いていた。だからコニーさんも、あんな村のはずれに追いやられていたのだ。
「でも、その……それっておかしくないですか?」
耳に届いた言葉達を頭で理解し、スープに浸したパンを飲み込んでから、コニーさんの話を遮って声を上げる。
「アイナさんは魔法使いですよね? そうしたら私が来る前から魔法使いは二人なんじゃ……」
「答えを聞くか? 村長の印象が更に悪くなるぞ」
コニーさんは忌々しげにスープを飲み干して、空を見上げた。
「アイナは村長の娘だ。それに回復の魔法っていう奴は重宝されるもんだからな。治術師だかなんだかっていう名称で特別扱いだ」
俺は自らの顔を映し出すスープに目を落とし、浮かんだ疑問を小さく呟く。
「アイナさんは掟のことは知っていたんですか?」
「……その答えはお前が持ってきた伝言だ。村長や俺達村人は隠しているつもりだったんだが、そりゃあ無理な話だったな。あんな小さな村だ」
どこか投げやりな声色だった。大した驚きもなく、前から知っていたような口ぶり。
俺はじゃがいものような具を口に含んで咀嚼してから、納得できずに飲み込む。喉に引っかかるような感触が不快だ。
「……アイナへの印象も変わったか?」
そんな心持ちが伝わってしまったのか、コニーさんはこちらを見て笑った。少しだけ心苦しそうな顔で。
俺は僅かに訪れた沈黙に思考を委ねて、自らの心を問いただす。だけど答えが浮かんでくるよりも先に、口が開いた。
「いえ、そういう訳では……」
咄嗟に出たのはそんな言葉。俺はそれを紡ぎ終えた口で小さくなったパンを噛みちぎり、わざわざゆっくりと味わう。そして口を付いて出た自らの台詞を噛みしめた。
アイナさんは掟のことを知っていて、自分が特別扱いされていることもわかっていた。それらを理解してなお、自分の特別扱いを放置したということは悪いことだったのか? そしてそれは魔法使い、つまりはコニーさんに対する村人の敵意に目隠しをしたということなのか? 彼女も村長と同じで、俺が抱いた第一印象とは反対の人間、そんな可能性が小さく頭に浮かぶ。
湧く疑問を歯に掛けて砕こうとした時、コニーさんが真っ直ぐにこちらを見ていた。
「あいつには親父に逆らえない事情があったんだ。許してやってくれ」
閉じた口の中で奥歯がかちりと鳴る。
どんな事情ですか? またも口を付いてそんな言葉が飛び出しそうになった。だけど、家族の事情を本人の居ない場で聞くのは戸惑われる。例え自分に間接的な関係があるとしてもだ。それに彼女を責められる人間はどちらかというとコニーさんのほうで、その人物が許してやれと言っている。だったら俺に言う事は無い。
「……えっと、許すもなにもないです。アイナさんにも助けられたのは事実ですから。それにコニーさんには悪いですけど、私はあの村に特別居たかったわけではありませんし」
「俺だってあそこにはそう長くは居たくなかったさ。村長から随分と敵視されてるんでね」
そう言って笑うコニーさんを見て、とりあえず疑問を飲み込む。だけどすぐに、もう一つの疑問が浮かんだ。コニーさんが村長から敵視されていたのならば、きっと起こり得る摩擦について。
「そういえばアイナさんとコニーさんは師弟関係なんですよね? それってどういう事なんですか?」
「どういう事ってのは?」
「えっと、村長はその関係をどう思っていたのかっていうことです。あと、師匠ってことはアイナさんの回復の魔法も……」
「随分と疑問の湧く奴だな、お前は。まあ、しかたないか」
苦笑いで二杯目のスープに手を付けながら、コニーさんは口を開く。
「師匠だ弟子だなんてのは、あいつが勝手に言っているだけさ。俺があいつに魔法を教えた覚えはない。だからかは知らんが、村長も特に何か言ってくる事はなかったな」
「なるほど、そうですか……」
悪知恵を授けているのでなければ我関せず、そういうことなのだろうか。
頷いてから、一口大になったパンを食べる。そしてスープを口に含んで、俺の昼食は終わった。おかわりをするほどの余裕は、腹の中にはない。
「もういいのか? 遠慮するなよ」
「大丈夫です。満腹です」
「じゃあ、俺の食べる姿でも眺めていてくれ。そしてその間に……」
コニーさんは器に口を付けて、もう一度スープを飲み干す。そしてその手が次に伸びたのは鍋。三杯目のスープだ。
「これからの話をしようじゃないか」
「これから、ですか……」
俺は満腹になった腹を気にしながら、そう言い淀んだ。その話題がむしろ本番の本題で、自らの命にも直結するような事柄だからだ。
コニーさんはスープに手を付けながらも、僅かに真剣味の増した瞳でこちらを見る。
「俺は記憶喪失の子供を放り出すような薄情者じゃあない」
そしてそう言った。
やっぱり、と俺は顔を歪める。しかし同時に心の中に生まれたのは、暖かな安心感と安堵感。記憶喪失の子供という境遇は、酷く同情を誘うんだという事実を改めて思い知る。
「それにお前には借り……ああいや、それはちゃらなんだったな。まあとにかく、お前は俺が面倒をみる」
コニーさんは真っ直ぐな瞳で、はっきりと言い切った。こういう人なら、こういう事を言う人ならば、きっと俺の素性を洗いざらい知ったところでその態度は変わらないのだろう。だけど見知らぬ土地で取るべきなのは、きっと安全策なのだ。少女の身体に甘えて、保護される道を選ぶべきなのだ。
「ありがとうございます」
だから俺は一言そう言った。コニーさんに対する心の侮辱だ。だがそんな事、一々気にしてもいられない。
「ああ、ならとりあえず話はそれだけだ。昼飯が済んだら出発しよう」
「昼飯が済んだら、ですか……」
「なんだ?」
「その一杯で終わりですか? もしかしてまだ食べます?」
だから心の痛みを紛らわすように、冗談めかして言う。そして鍋の中に目を移すと見えるのは残った黄金色のスープ。よくよく考えてみれば、作り過ぎだ。
「育ち盛りだからな、俺はまだ食うぞ」
「まだ育つんですか?」
「ああ、育つさ」
笑って顔を逸らせば青い空の下、草を食むバートが顔を上げこちらを見ていたが、すぐに目を背けられてしまう。あいつと仲良くなるには、もう少し時間が掛かりそうだ。
俺はもう一度コニーさんを見る。これからお世話になる人物を。くだらない会話で、昼下がりは過ぎていった。
昼食の後、馬車はようやく合流した街道を進んでいた。草の取り除かれた土の道を行くが、他の旅人と出会うような事はない。ただただ、静かに乾いた車輪の音が響くのみ。俺はそんな音を耳に通しながら、馬車の荷台に座り込んでいた。どうしてコニーさんの隣に座らないのか、それはやりたい事があるから。昼食時の話を聞いて、浮かんだ考えがあるから。
ゆっくりと目を閉じれば車輪の音が消え、まぶたを持ち上げると見えるのは緑。あの村のはずれにある森だ。
何の気なしに額を抑えるが、痛みは無い。ゆっくりと周りを見渡せば、心地良い風と共に枝葉が揺れている。あまり良い出来事のなかったこの村だが、景色は美しい。俺は目の前に広がる光景に後ろ髪を惹かれながらも、身体ごと振り返る。木の幹の間、少し先に見えたのは村の家々だった。
ゆっくりと森を抜けて、広がる青空の下を村へと進む。正直に言ってしまえば足は重い。だけどだからこそ、もうこの先に好んでは訪れなさそうなこの村で、旅立つ前にやっておくべきことがあると思うのだ。多少の危険なら、きっと今は大丈夫だから。
住人の視線を避けるように村の中へと入り、目的の人物を探す。村長の家に乗り込むことも考えたが、それはいざとなったらの最後にする。なにより危険だし、今はみんな働いている時間だろう。やがて村の中に、目的の人物を見つけた。
「アイナさん」
他の住人の目に付かぬよう、建物の影から手招きすれば、こちらに気付いた彼女が駆け寄ってくる。身体の前で腰紐を締めた、濃い緑のワンピースを翻して。
「一体、どうしたの? もうこの村にはあまり近付かないほうが……」
「伝えたいことがあって、戻ってきました」
「伝えたいこと?」
アイナさんは怪訝な顔をする。だけどそれもすぐに終わるだろう。俺が伝えにきたことはたった一言で、すぐに理解できるから。
「コニーさんは無事です。それを伝えにきました」
アイナさんの顔は、喜びに染まった。
「本当に? お父さんも何も教えてくれないから、その、本当に心配して……。ああ、えっと、お父さんっていうのはこの村の……」
「村長、ですよね。コニーさんから聞きました」
初めて見る随分と取り乱したアイナさんに、俺は少し苦笑いを漏らす。本当にコニーさんのことを心配していた様子だ。だけれど、やがてその喜びと安堵が落ち着くと、彼女は途端に悲しみの顔を浮かべる。
「私もあなたに会って言いたいことがあったの」
そして真っ直ぐにこちらを見て言った。僅かな自嘲の笑みが、その唇に浮かぶ。
「昨日の夜にあなたと会った時、師匠に伝言を頼んだでしょう?」
「……はい」
「でもあの後に思ったの。あなたにも謝らなくちゃいけないって。村から放り出す事になってしまったから」
アイナさんは震える手を前で組み、勢い良く頭を下げた。
「ごめんなさい」
綺麗に澄んだ声も、僅かに震えていた。そして一秒、二秒と経っても彼女は顔を上げない。だから俺は自分から口を開いた。自らに向けられた謝罪を受け取らずに。
「……アイナさん、ヴィダルさんはどうなりました?」
一瞬の間の後、アイナさんはゆっくりと顔を上げる。薄っすらと涙の浮かんだ瞳がこちらを向いて、俺は僅かに心臓を揺らす。指の先で涙を拭うと、アイナさんは口を開いた。
「……村のはずれに埋葬されたわ。ここには教会は無いから」
「そうですか……。案内してもらってもいいですか?」
アイナさんは戸惑いながらも頷くと、踵を返して建物の影を出る。俺は村人の視線に留まらぬように、そんな彼女の後ろを恐る恐る付いていく。そして本当に村のはずれ、住居が背中の向こうに去って林の中へと入ろうという時に、もう一度口を開く。
「アイナさんはコニーさんが村を追い出されることを知っていたのに、魔法を使った私を村に連れ帰ってくれましたよね」
先を行き、緑の草を踏みしめる足が止まった。俺もそれに伴って立ち止まる。周りに人影は無い。目に入るのはアイナさんの背中だけ。
「それにあの時、ベントさんに向かって自分は魔法使いだって言っていましたよね」
太陽が天辺を通り過ぎて、折り返しを始めた午後。林に吹く心地良い風に、そんな言葉を乗せる。
俺がオオカミに襲われた後、初めて目が覚めたあの部屋で、アイナさんは確かに言っていたのだ。自分は魔法使いだ、と。彼女にどんな事情があって村長に逆らえないのかはわからない。だけどあの言葉は精一杯の抵抗、そう思えた。だからそんな中、俺を救ってくれた彼女に向かって。
「……ありがとうございました」
さっきの謝罪への返答、感謝の言葉を伝える。
アイナさんは、微笑んでこちらへと振り返った。
「もしかして私、慰められてる?」
「いや、その、あまり気負わないでくださいねっていうことです。掟の事と、その……治術師の事、私もコニーさんも気にしていないので。それにヴィダルさんの件はアイナさんのせいではありませんし」
「やっぱり心配してくれてるんじゃない?」
「じゃあ……まあ、はい」
腰を屈めたアイナさんに詰め寄られ、その明るい態度に何だか拍子抜けしてしまった。だから流れで肯定の返事をしてしまう。俺が考えていたことは彼女への心配では無かったはずなのに。
「……こちらこそ、ありがとう」
妙な気恥ずかしさと後ろめたさで、お礼を言うアイナさんの笑顔から今度は顔を逸らしてしまう。そうしたら林の奥に、土の盛り上がった箇所が見えた。
コニーさんの家での出来事と、夜更けに聞いたベントさんと村人の会話、そしてある人物の顔。記憶の中から掘り起こされる。俺が村に戻ってきたもう一つの理由だ。
「アイナさん、あそこって……」
「ええ、ヴィダルさんが眠っているわ」
ゆっくりと近付けば、はっきりと見えてくる彼の墓所。それは細い木々に周囲を囲まれ、まるで檻に囚われたような広場に存在していた。
「これだけ、ですか?」
俺は思わず呟いていた。
黒々と解された土が、人の手が入ったということを主張している。そこは確かに、村人によって葬られたヴィダルさんの寝床なのだろう。だけどそれだけだ。本当にただ、義務的に埋葬されただけ。墓石もなにも存在しない、ただの土盛り。ちらりと横を見れば、アイナさんが悲しげにそれを見下ろす。
「……ごめんなさい、ヴィダルさん」
そして申し訳なさそうに呟いた。この世界ではこれが常識、そんな可能性は潰えた。やはりあの村の人間に、魔法使いはとことん嫌われている。それと交流のあった人物でさえ。
俺は一歩前に出て、目を閉じて手を合わせる。自分を襲った人間になにをしているんだとも考える。だけどコニーさんの友人に、コニーさんの代わりに手を合わせる。この人の様子が変だった理由も、もしかしたら分かる時がくるかもしれない。
まぶたを持ち上げれば、アイナさんが少しだけ怪訝な視線を向けていた。
「アイナさん、用が済んだので私は戻ります。案内ありがとうございました」
「……ええ」
ヴィダルさんの墓を背に変えて、俺はアイナさんへと向き直る。交差する視線に気恥ずかしさは残るが、そう悪くはない。アイナさんも、僅かな微笑を称えた口をゆっくりと開く。
「師匠の疑いを晴らせるように頑張ってみる。私もあの人に、数え切れないくらい恩があるから」
「……はい、よろしくお願いします」
何だか心のもやもやを晴らしてくれるような、そんな心強い言葉だった。だけど言葉とは対象的に震えているアイナさんの手。俺はそれを見ても、無理しないでとは言わなかった。事情を聞く事も無かった。きっと彼女は頑張ってくれるだろうから。
満足感の中でゆっくりと目を閉じようすると、言い忘れていたことを思い出す。
「ノーラです」
「え?」
「私の名前です。ノーラになりました」
「……そう、ノーラちゃん。師匠のことをよろしくね」
アイナさんの笑顔に頷いてから、視線に幕を下ろす。目を開けば舞い戻るのは埃臭さと車輪の音。
「どこ行ってたんだ? 見捨てられたかと思ったよ」
そしてコニーさんの声だった。