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空白の魔法  作者: 片岡 武路
一章
30/31

第二十九話 事が終わって

 それから後のことは、どこか他人事のように過ぎていったように思う。まず始めに、泣き腫らした目で生贄の少年たちが解放されるのを見つめていた。

 理不尽な理由で囚われた三人の少年は全員無事で、身体的な傷はない。

 人を殺した甲斐もあるというものか。自嘲気味に笑って地面にあぐらをかき、乾いた涙が伝う頬に手をつく。そうしたらぼやけた視界の向こうから、一人の少年がやってくるのが見えた。

 彼は俺の前で立ち止まり、震える瞳でこちらを見下ろしてくる。生贄の中で唯一、先ほどの戦いを見ていた少年だ。


「そ、その……ありがとう」


 ぼそりと呟いて、少年は他の二人の元に戻っていった。

 息を吐き出して頭をひねる。果たして喜んでいいものだろうか、と。考えたところで、答えなんてものはわかりゃしない。だけど確かなのは、ちっとも嬉しくないということ。

 仄暗い気持ちを抱えたまま、今度はアーシュさんを見る。彼は自らの怪我をおして立ち上がり、エディの元へと歩み寄った。首に手を当てて生死を確認しているのだろう。結果はまあ、案の定のようだ。


「……なあ、吸血鬼。あんたならわかるだろ? こいつは、この少年は吸血鬼か?」


 しかし落胆も束の間、壁から解放された吸血鬼の少女に問う。


「うーん、違うと思うよ? その人の勘違いじゃない?」


 彼女は能天気な視線で地に伏すヴェーグを見た。

 エディは吸血鬼ではない、薄々とは考えていたことだ。それを伝えればこの男は思い留まっただろうか。けれど眠りからの復活、生贄の少年、そういったものたちの詳細は俺にはわからない。だからもしもを考えても意味は無い。というか、あの男がこちらの言葉を聞いたとも思えない。……そうであったと思いたい。


「そうか」


 か細いアーシュさんの呟きを最後に、洞窟の中は静かになる。

 それからは皆の回復を少しばかり待ち、全員で洞窟を後にした。コニーさん達が見つけた別の入り口にたどり着いたら、利口にも主人を待っていたバートにまたがる。

 後ろのコニーさんに背を預け、虚ろな感情で辺りを見た。森は未だに光を称えていて、空に浮かぶ太陽はほんの少しだけ傾くのみ。洞窟に踏み込んでから随分な時間が経ったように感じるけれど、ただの気のせいであったらしい。

 今度はちらりと横を見る。そこには背中と両脇に三人の少年を抱える現実離れした吸血鬼がいて、そのまた向こうでは未だ辛そうなアーシュさんが馬の手綱を振るっている。

 一方のコニーさんは、捕まっていた少年達へと質問を投げかけた。しかし優し気に問われたその言葉も、何ら収穫をもたらさなかった。家へと帰る道の途中で突如として攫われた、三人が三人ともそんな証言をするだけ。

 やはり情報は乏しい。俺は下を向いた。

 馬が動き出し、全員が街に向かって進み出す。魔法で先に帰ってもいいのだろう。だけどどうにもそんな気にはなれず、ただ黙りこくっていた。






 やがて湖のほとり、シストリアの街が見えた。さっきより傾いた太陽の下、街の入り口近くの林で足を止める。戸惑う少年達を吸血鬼が草の地面に立たせ、馬から降りたアーシュさんが口を開く。


「いいか、衛兵には自力で逃げてきたと言うんだ。……洞窟の場所は教えてもいい。誘拐犯の隠れ家だってな。だが俺たちのことは絶対に口にするなよ。聞いたこと全てだ」


 怖い思いをしたことを気遣ってか、アーシュさんは優しい声色で少年達を送り出す。数度頷いてから、彼らは戸惑いつつも街の入り口へと駆けて行った。

 ここにいる全員、名が売れることを望んではいない。アーシュさんはきっとそう考えているのだろう。もちろん同感であるし、異議を唱える人もいない。


「とりあえずあんたの家に行こう。話はそこでだ」


 少年達の背中から目を逸らし、アーシュさんが言う。


「ファンヌの奴も連れてくる」


 頷いたコニーさんへそう続けてから、アーシュさんは珍しく黙りこくっている吸血鬼のほうを向く。


「……ああ、心配するなよ吸血鬼。俺達はもうあんたを捕まえる気はない」


 痛みからなのか、それともあの戦いへの申し訳なさからか、アーシュさんは苦笑いを浮かべる。

 しかし言葉を受けても吸血鬼は未だに黙りこくったままで、顎に手を当て何やら眉をひそめている。それは少々の沈黙の後、林を風が撫でても変わりはしない。だから痺れを切らした声が飛ぶ。


「おいおい、信じてくれよ。あの戦いのことを謝るつもりはない。でもな、感謝しているのは本当だ。……その、もちろん嬢ちゃんにもな」


 バツが悪そうに俺のほうを見てから、アーシュさんはもう一度吸血鬼へと向き直る。そこでやっと、少女は顔を上げた。


「別に信じてないわけじゃないってば。謝って欲しいわけでもないしね。それよりどうせおじさんもあの女の人も、あたしに聞きたいことがあるんでしょ? だからほら、早く行こ」


 明るい声でそう笑い、吸血鬼は林を抜けて歩き出す。斜めにかけたカバンが揺れていて、足取りは随分と軽そうだった。






 幾度と無くあの光景を思い返しながら、ぼーっと歩いていた。集中力が欠乏して、断片的な記憶を生成しながら街の中を行く。

 バートを引くコニーさんの背中を見る。辺りはいつの間にか街の大通りで、人が何人も行き交っている。そんな中を進んでいた。

 そしてふと、思う。勝手に足は動いているけれど、一体俺はいつ馬を降りたのだろう。ちらりと横を見ればアーシュさんは居ない。きっと隠れ家にファンヌさんを迎えに行ったんだろう。でも、別れる瞬間をあまり覚えていない。


「ノーラ、やっぱりお前はバートに乗ったほうがいいんじゃないか?」

「それともあたしの背中にするー?」


 コニーさんと吸血鬼が、歩きながらちらりとこちらを見る。考えるに俺が歩くことを望んだんだろう。確かに一人馬に揺られるよりも、自らの足で歩きたい気分だった。蹴られた腹は痛むけれど、それでもそのほうがずっと良い。でもやっぱり、そういった会話が朧げにしか思い出せない。

 随分と上の空だ。苦笑いを浮かべて顔を上げる。


「いえ、大丈夫ですよ。歩きたい気分なんで」

「……そうか」


 そうしたら唐突に、驚くほど静かな心へ奇妙な喜びが生まれる。靴越しに感じる地面の感触と、交互に運ばれる右足と左足。鼻をくすぐる良い匂いに人々の話し声。それらが生きているという実感を気持ち悪い程に突きつけてくる。

 さっきまであんな風に戦っていたのに俺はここを歩いていて、ヴェーグは洞窟で死んでいる。あいつが目覚めの食事にするなんて余裕をかましていなければ、あそこで死んでいたのはこちらだ。それ以外にも何かが少し違えば、俺はこんな身体のままで死に絶えていたのだ。

 恐ろしさと喜び、そして後悔の念が渦を巻いて襲ってくる。身体を動かしていなければ悶えてしまいそうな感情だ。夢心地の身体を無理矢理に進める。そうしたらその身に新たな声が飛んできた。


「ローラちゃん!」


 亡者のように顔を向け、足音のほうを見る。ハンスだ。心配そうな顔でこちらを見ている。その手にあのぬいぐるみはない。


「良かった。この辺で昨日誘拐事件があったみたいだから、心配してたんだ。えっと、その……大丈夫?」


 ああ、そうか。城に潜入する前に、衛兵の人がそんなことを言っていた。もしかしたら事件の被害者はあの少年達だったのかもしれない。

 足を止めたコニーさん達をちらりと見てから、俺は口を開いた。


「うん、大丈夫。けど今ちょっとその、あれだから。また今度ね」


 気の抜けた言葉しか出てこなかった。申し訳ないという思いもあるけれど、今は放っておいてほしいと思った。

 眉を下げたハンスの顔が記憶に溶けていく。そのあとまた、無理矢理に歩を進めた。






 次にはっきりとしたとき、俺はベッドに腰掛けていた。

 見回すとそこはリネーアさんの家の一室で、人は誰もいない。小さな椅子に小さな机、背の低い棚と姿見、ベッドが置かれた場所。

 俺はそこでローブを脱いでいた。下に着ていた半袖のシャツと短いズボンを身にまとっている。机に桶と布、ベッドに替えの服が置かれているのを見るに、身体を拭こうとでもしていたのだろう。

 ならばそうしようか。もやのかかった頭で立ち上がり、服を脱いでいく。薄手のパンツだけになり、白い肌が外気に触れる。露わになった上半身も含め、それらをあまり見ないようにする。今までも水浴びをする時はそうしてきた。

 水の張られた桶に近付き、布を浸して絞る。そして全身を拭っていく。妙に虚しくなる作業を繰り返し、やがて全てが終わって顔を上げる。そうしたら部屋の隅の姿見に目が止まった。


「……よう人殺し」


 冗談めかしてそう言う。鏡の中の少女はパンツ一丁で気持ちの悪い笑みを浮かべていた。それが何だかおかしくて、俺は姿見の近くへと歩いていく。

 元の世界にあったものほど綺麗ではないが、全身を確認するのに不足はない。鏡の前に立ち、目をそらすこと無く中を覗く。

 あごまでの長さをした、くるくると遊ぶ栗色の髪。小さな鼻。痩せた胸に白く細い手足。


「しっかりしろよ」


 最後に淀んだ瞳を見つめ、投げかけた。頬を叩いてから薄っすらと痣になった腹を撫でる。

 ……格好つけて考えよう。これは勲章だ。俺が人を救い、この世界を生き抜く一歩を踏み出した証なのだ。だから気に病む必要はない。俺は絶対に元に戻り、ここからおさらばするんだ。

 自らの視線から目をそらし、右手を見る。そして考えた。これから何度もあの感触を思い出して震えるのだろう、と。でもそれでいいじゃないか。生きていれば良いのだ。俺が思う良いことをして、生きていさえすればそれで良い。

 無理矢理に納得させて、替えのシャツとズボンを着る。部屋を出てリビングに行けば、あの二人が待っていた。


「もー、遅いよノーラちゃん」


 呑気な声を上げる吸血鬼と、眉をひそめたコニーさんが出迎えてくれた。二人は向かい合い、机を挟むように座っている。


「ほら、こっちこっち」


 自らの横、空いた席を叩く吸血鬼に従って腰を下ろす。にこにことした横からの視線をとりあえず無視して、前を向いてコニーさんを見た。そうしたらすぐに声が飛んでくる。


「先に少しだけ話は聞いた。ネズミのことやそいつの魔法のことも。……それでしつこいようだが、その、大丈夫か?」


 コニーさんにしては珍しく、随分恐る恐るといった感じだった。まあそりゃあ当然なんだろう。俺があんな風に馬鹿みたく上の空だったのだから。


「……まあ、はい。大分マシになりましたよ。もうそんなにぼーっとすることもないと思います」


 保証はできないけれど。心で付け加えながら小さく笑う。そうしたらコニーさんは口をつぐんで目線をそらしてしまった。俺の表情のせいなんだろうか。……多分そうなんだろうけど、確認する術はない。

 息を吐き出して、背もたれに背中を預ける。さて、何から話しを聞くべきなのだろうか。そう考え始めたあたりで、玄関の扉が鳴った。


「おい、俺だ」


 ノックと共にやってくるのは紛れもないアーシュさんの声だ。もうあまり警戒する必要もないのだろうけれど、あの時のことを思い出して少しだけ身が強張る。まあ、やっぱり杞憂だった。

 コニーさんが扉を開け、二人を向かい入れる。鎧を脱いで傷みの無い服に着替えたアーシュさんからは、先程までの苦し気な表情は感じられない。けれど一方のファンヌさんは、未だに痛々しい三角巾をぶら下げている。

 考えながら見つめていれば、ファンヌさんと目が合う。閉まる扉を背景に彼女は俺の元に歩み寄ってきた。そして腰を屈め、真っ直ぐにこちらを見てくる。


「話はアーシュ様から聞いてるから……その、怪我の具合を見せて?」

「いや、怪我っていうほどの怪我は――」

「お願い。楽にしてあげられるから」


 出そうとした言葉を飲み込んで、シャツを少しだけ捲り上げる。腹の痣を見たファンヌさんは一瞬眉をひそめるけれど、すぐに穏やかな表情へと戻り目を閉じる。そしてゆっくりと右手を持ち上げ、温かな手のひらを痣へかざした。

 瞬間、まるで温泉に浸かっているかのような気持ち良さが全身を駆け巡る。思わず目を閉じてしまうような、微睡みにも似た心地良さだ。


「はい、終わり。どう?」


 声が聞こえて目を開けば、ファンヌさんの優しい笑みが見えた。この人、回復魔法も使えたんだ。もはや懐かしいアイナさんのことを思い出しつつ、腹に力を入れてみたり摩ってみたりする。痛みがないわけじゃないが、確かに大分楽になった。

 ファンヌさん自身の怪我も見る限り、どうやら完璧に治癒できるわけではないらしい。となればアーシュさんだって見た目こそマシに見えるけれど、まだ辛い状態であるということ。まあ、本人が取り繕っているであろう以上、言及はしないが。


「良い感じです。ありがとうございます」

「良かった」


 ほっと息を吐いてから、彼女もまた席に着く。コニーさんの隣、俺の向かい側だ。アーシュさんはいつの間に、壁際の長椅子に半ば寝転ぶような形で座っていた。およそ客人の態度ではないけれど、突っ込むこともあるまい。家主がいない家でこんな風に集まっているのだって似たようなものなのだし。

 一瞬の静寂を挟み、ファンヌさんがもう一度口を開く。目線は俺とその隣の吸血鬼、コニーさんへと順番に移り行く。


「アーシュ様を救っていただきありがとうございました」


 真っ直ぐな瞳で丁寧な感謝が飛んできた。それは俺のした行いを納得させる材料にはなるだろう。だけどまあ、どうにもむず痒い。ちらりと横を見れば、吸血鬼は特に気にした風もなく笑っていた。


「別にそこのおじさんのためにしたわけじゃないよ。あたしはノーラちゃんに頼まれただけだから」


 そんな言葉を聞き、壁際でアーシュさんも鼻を鳴らす。吸血鬼のマイペースさが僅かに場の空気を和らげるのを感じた。あんなに暴力的な戦いの張本人だと言うのに、おかしな話だ。

 心の中で笑っていれば、今度はアーシュさんが口を開く。


「じゃあ礼はその辺にして、本題に入ろうじゃないか。俺とファンヌはそこの吸血鬼さんに聞きたいことがあるんだが、良いか?」

「良いよ。暇つぶしにはなるしね」


 吸血鬼の快諾を得て、アーシュさんは姿勢を整え腕を組む。そして少しだけ目を閉じた後、何かに思い当たったように手を叩いた。


「まずはこれを聞かないとな。あんた名前は?」


 まず聞かなければならないこと。飛び出してきた問いは確かにそれに合致していた。というか俺自身も気になるし、むしろこれまでになんで聞かなかったのかと思うようなものだ。

 だけど当の吸血鬼自身はなんのこっちゃと首をかしげている。


「別に良くない? それってそんなに大事なこと?」

「ああ。命の恩人だからな」

「ふーん。えーっとじゃあねー」


 吸血鬼は唐突に立ち上がり、壁際の本棚へと歩み寄る。一体なにをしてるんだ? そんな視線を場の全員が投げかけても、少女は全く動じることなく一冊の本を手に取る。


「やっぱりソフィ? いやでもそれはあたしじゃないし……。よし」


 呟きながら指先でページをめくり、一つ頷いてから本を閉じる。そして元の場所に戻った背表紙から手を離して、吸血鬼は勢いよく振り返った。表情は笑み。嬉しそうな笑顔だ。


「ブレンダにしよっかな。うんそれでいいよ」


 随分と軽い口調。恐らく彼女には名前が無かった。だから今、本の中から適当に探した名を自らにつけたのだろう。

 アーシュさんはそんな少女を見てにやりと笑う。そして吸血鬼改め、ブレンダにさらなる問いを投げかけた。


「ブレンダ。あんたは他の吸血鬼の情報を本当に知らないんだな?」


 表情とは対照的、真面目な声色で飛んだそれはやはり彼らの目的に関することだった。

 ブレンダを見る。彼女は椅子へと座り直し、机に肘をついてだらしなく答えた。


「知らない。あたし他の吸血鬼に直接は会ったことないし、友達もいないしね」


 本当かはわからない。だけどブレンダはあまり嘘をつくようなタイプでもない。これまでの会話でアーシュさんもそう感じていたのだろう。それ以上の追求はせずにあっさりと引き下がる。そしてこれまたあっさりと次の疑問へと移った。


「じゃあ次だ。なんで俺達を助けた?」


 コニーさんをちらりと見てから、アーシュさんはブレンダに問う。確かに頭を悩ませる疑問。助けを頼んだ俺自身だって正確な答えを知らないそいつに、少女は答えた。


「ノーラちゃんに頼まれたからだよ」


 こぼれ落ちた内容は事実。だけれどそういうことじゃない。

 アーシュさんは僅かに眉をひそめ、口を尖らせる。


「それならこう聞くか。なんで嬢ちゃんの頼みを聞いたんだ?」


 面白そうだったから。心の中で答えを先取りし、頬杖をつく。森の中で本人が言っていたのだから、今だってきっとそう答えるはず。けれどそんな予想に反して、吸血鬼は口を噤んだまま喋らない。まるで何かを言いよどんでいるような沈黙が数秒と続く。

 掻い潜る視線を巡らせれば、アーシュさんはもちろん、ファンヌさんもコニーさんもブレンダを見ていた。そして降り注ぐ視線を特に気にすることもなく、少女はようやく口を開く。


「あたしノーラちゃんのこと好きだから」


 今までと比べても一際明るい声色だった。ラブではなくライク的な意味なのだろうが、俺はそんな言葉を聞いて瞳が外気に触れるのを感じていた。耳を疑うといえば大げさだけれど、随分と予想外の内容だったからだ。

 姿勢を正して椅子に座りなおす。


「好き? 攫おうとしてたのにか?」

「でも攫ってないじゃん?」


 アーシュさんは黙りこくった。返す言葉がなくなったというよりも、返す言葉が無駄であることを悟った感じだ。そしてそこで諦めたのか、これで終わりといった具合に立ち上がり、ファンヌさんの肩を叩いた。


「……そうか、まあわかった。じゃあ人攫いの吸血鬼もいなくなったわけだし、俺らの用は終わりだ。嬢ちゃんには悪いが、他のことには興味がないんでね」


 ブレンダが考えを改めたとしても、俺を狙う奴は他にもいる。それをわかった上での発言だろう。彼の目的を考えれば当然で、非情だと罵るのはおこがましい。けれどどこかに寂しさと、小さな失望が生まれるのを感じる。言葉にはしないし、できない感情だ。

 ファンヌさんもまた、こちらに視線を向けてから立ち上がり、アーシュさんと一緒に玄関のほうへと進む。


「えーなになに、もう終わり? というかほんとにあたしのこと捕まえないんだね」


 あっさりした二人の姿を追うようにブレンダが呟く。そして拍子抜けした顔で伸びをした。

 アーシュさんは立ち止まり、口角を上げてこちらを見下ろす。


「俺がそんな薄情な奴に見えるのか?」

「まあ見えなくもないよねー。ね?」

「……俺に聞かないでくれ」


 唐突に話を振られたコニーさんが苦笑いを浮かべた。それを見たアーシュさんも小さく笑みをこぼし、いよいよと玄関の扉に手をかける。開かれた戸板の向こうから夕日が差し込んだ。

 別れ。そんな言葉が頭に浮かべば、ファンヌさんがこちらを向く。


「それでは失礼します。ノーラちゃんも、元気でね」


 順番に視線を送った最後、ファンヌさんは俺に微笑みを投げ掛けた。朱に染まった茶色の髪が揺れる。そしてそれに呼応するかのように、瞳もまた揺らいで見えた。

 重い心が、俺の行動を鈍らせる。だけど、別れの前に聞かなきゃならないことがあるだろう? たとえ当てがなくとも、しつこいぐらいの言葉を掛けて引き出さなきゃならない情報が。


「……扉を閉めてもらえますか? まだ聞きたいことがあります」


 二人の足が止まった。アーシュさんはゆっくりと扉を閉めて、こちらへと向き直る。


「ああ、いいぜ」


 手を広げてやってくるのは、にやりとした笑み。何でも聞いてくれといった態度だが、きっと何でもの答えはやってこないだろう。自嘲の笑みを心でこぼせば、ゾンビのように這い回る思考が疑問の材料を拾ってくる。


「ファンヌさん。あなたは空白の魔法という呼び名を誰かから聞いたと言ってましたよね? ……誰ですか?」


 昨日、今この場で行われた話し合いを思い返す。彼女のセリフには疑問をもたらすものがあった。

 ファンヌさんは黙ったまま、項垂れるアーシュさんを背に俺の近くに歩み寄る。そしてもう一度腰を曲げ、目線を合わせて微笑んだ。


「ラーサー・タブラス。この世で初めて、アプシス様と言葉を交わした魔法使い」


 やって来たのは、はっきりとした個人の名前だった。おまけに幾らか興味深い情報も。


「その方はどこに?」

「昔はハムスタッドの町に住んでいたけれど、最後に会ったのは随分と前だから……」


 ファンヌさんは申し訳なさそうに眉をひそめながらも、その人物の容姿と住所を教えてくれた。十二分に有益な情報だ。

 ちらりとコニーさんを見る。そうしたらこちらの意図を察した言葉が返ってきた。


「その街なら知っている」


 そしてそれは、暗に同行してくれるということを示していた。

 心の中で礼を言い、視線を戻す。アーシュさんがこちらを見ていた。


「で、聞きたいことってのはそれで終わりか?」


 俺は頭を捻った。空白の魔法は、この世界にやってきてこの身に起きた変化の一つ。ならばやはり、それについて追求する道を進むべきだろう。


「ついさっき、少しだけ思い出したんです。私も悪魔に出会った覚えがあります。こんな角を生やした」


 頭に二本の指を立てる。魂を移動させる魔法、ネズミが持つであろう魔法の情報源。別れの前にもう一度、この話に言及しておきたかった。昨夜アーシュさんは笑っていたけれど、どうにも冗談だとは思えない。


「おいおい、あの時も言ったが間に受けるなよ。冗談だ」


 だけどやっぱり、誤魔化しと思しき言葉しかやってこない。だから聞こえないように小さく息を吐く。

 駄目で元々だったけれど、やっぱり駄目だった。


「……なら、以上です」


 アーシュさんは俺の言葉を聞くと、踵を返した。そして扉に手を掛ける。だけど一呼吸置いても、外部の風が流れ込むことはない。

 代わりにやってくるのは言葉だ。


「あのヴェーグとかいう男、あいつの魔法も見た事が無いものだった。恐らくは空白の魔法だ。嬢ちゃんを狙う奴らの仲間には、他にもそういう奴がいるかもしれない」


 蘇る景色を振り払いながら聞く。


「……気を付けろよ」

「ありがとうございます」


 アーシュさんの背中を見つめる。今度こその別れ。でもまあ、収穫はあった。

 そう思って背を正す。けれどまたも、彼らの足は止められる。


「あ、ちょっと待った! あたしも聞きたいことがあるんだった」


 ブレンダが立ち上がり、俺の前へと躍り出た。そして何事かと動きを止めた二人に向かう。投げつけられる澄んだ声は、遠慮も何もありはしない。


「なんでそんなに吸血鬼を捕まえたいの?」


 アーシュさんは振り返らなかった。沈黙を保ったまま、ファンヌさんだけがブレンダを見る。


「悪いが内緒だ。命の恩人さん」


 そう言って、アーシュさんは扉を開けた。そして今度こそファンヌさんを連れて外に出る。床板を照らす夕日が細くなり、やがて消えた。残ったのは妙に尻切れトンボな沈黙と、不満げに放たれるブレンダのため息だけ。


「もーなにあれ? 不公平じゃない?」


 不満顔で腕を組む吸血鬼を見てから、向かいのコニーさんを見た。この人にも、聞かなくてはならないことがまだある。そしてもしかしたら、話さなきゃいけないこともあるかもしれない。

 頭の中でミレアスさんの忠告を振り返りながらも、俺は頭に言葉を紡ぎ始める。


「やっぱり気になるから追いかけてくる!」

「え、おい!」


 コニーさんの声を聞くこともなく飛び出したブレンダを見送り、俺は乾き始めた喉に手を当てる。勢い良く閉まった扉の音だけが鼓膜を揺らした。

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