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空白の魔法  作者: 片岡 武路
一章
3/31

第二話 拭い去る風

 気付くと視界が一面の黒だった。ゆっくりと目を開けると、色の付いた景色が久方振りに舞い戻る。そうして俺はやっと、自らが寝ていたことを思い出した。


「……魔法か」


 昨日の夕方、今この場所で行われた現実味の欠片も無い会話を思い出し、乾いた口を動かす。すると、それと相反した現実味を持って少女の声色が聞こえるのだ。頭が痛いのは気のせいではないだろう。

 小さなため息を吐いて、相も変わらぬ部屋の中に漂わせる。アイナさんは昨日あの後、有言実行といった具合にこの場所を再び訪れてくれた。木のお盆に乗った夕食を手にして。

 幾らかの野菜が転がった薄黄色のスープに、少しだけ硬めのパン。とびきり美味しかった訳ではないが、悩み疲れた身体には十分だった。そうして腹を満たした俺はその後、まるで赤ん坊のように床に就いてしまった。

 思い出して少しだけ笑うと、ベッド脇の鎧戸が朝の訪れを知らせているのに気が付く。いや、むしろ昼頃という可能性も否めないのかもしれない。昔から、朝起きるのは苦手だったから。

 ゆっくりと身体を起こせば、扉の軋む音が響いた。


「おはよう」


 射し込む朝日の帯の向こうに、昨日の男性の姿があった。俺に突っかかった方ではない、中年の男性。自らの黒い顎髭を、まるで我が子のように愛おしそうに撫でながら、彼は一歩一歩慎重に歩を進める。


「おはようございます」

「まあ、おはようという時間でもないんだがね……」


 男性は小さく笑う。案の定やっぱり、今は決して朝ではないらしい。


「気分はどうかね? 昨日よりは随分と顔色が良くなったように思えるが」


 ベッド脇に辿り着いた男性に、俺は頷く。その顔色は恐らく、良くはないと思うのだけれど。


「……悪くはない、かもしれません。少なくとも身体は元気だと思います」


 男性は遠くを見て目を細める。


「では心の方、か。記憶が無いと、アイナからそう聞いている」

「……はい。多分そう、なのかもしれません」


 俺は心の中で鼻を鳴らした。やっぱりなり行きで、記憶喪失の少女という事実が伝えられているらしい。自分から乗っかった虚言とはいえ、何とも面白い事態だ。まあ、笑えないのだけれど。


「辛いことだが、しばらくはこの村に留まってもらうことになるな。子供を一人で外に出すわけにもいかない」


 同情の染み出した声は、幼い少女を保護しようという提案だった。一先ずというかなんというか、これにもまた乗っかるしかないのだろう。とりあえずは色々と考える時間が欲しい。だから小さく頷く。


「……では行こうか。案内しなければならない場所があるからね」


 男性は満足気に笑うと、結んだ髪を揺らしながらこちらに手を伸ばす。俺は少しだけ躊躇しながらも、その手を取ってベッドから立ち上がる。そうして自らも、太陽の帯の中へと足を踏み出すのだった。






 立ち並ぶ家々とそこに住む人の視線を抜けて、辿り着いたのは村の外れの森の中。生い茂る木々に囲まれて佇む、木製の二階建て。そこが案内された場所だった。

 ドアの前に立ちながら建物の三角屋根を見上げると、男性が唐突に言う。


「すまないが先に済ませなければならない用事があるのでね、私は一度戻る。君は先に中の男に会っていてくれ」


 そして有無を言わせず踵を返し、村の方へと帰っていく。声を掛ける隙もない態度。

 少し不思議に思いながらも、俺はもう一度家の方へと向き直り、頼りない扉を叩く。短い静寂の後に、扉はゆっくりと開かれた。


「……あー、えっと、どちらさま?」


 現れたのは壮年の男性だった。随分と眠たそうに白髪混じりの頭を掻きながら、疲れ果てた顔を欠伸で歪ませている。そして何かに気付いたのか、だらしなく着た立襟のシャツを整えて、男性は唐突に目を見開いた。


「そうだ、君があれだろ? 昨日森でアイナが助けたとかいう……」

「はい、そうです」

「やっぱりそうか。まあ、とりあえず入るといい」


 見上げる程の身長差に戸惑いながら、男性の案内に従って家の中に一歩を踏み出す。開かれた扉から射す明かりが遮られて、薄暗く佇む部屋。埃が舞い、鼻をくすぐった。

 随分と掃除がされていないようで、乾燥した空気の中を灰色の雪が踊っている。とてもじゃあないが居心地が良いとは言えない。俺の部屋もこれよりは随分とマシだった。


「あんまり良いところじゃないだろ?」

「……それは、正直に答えても?」

「ああ、率直な意見を聞きたいね」

「あんまり良いところじゃないですね」


 俺が言うと男性は小さく笑った。そして先を進むその彼ですら、木の床に散らばった本を避けるのに悪戦苦闘している。

 せめて床にあるものだけでも片付ければいいのに。そう思い辺りを見回すと、僅かな明かりに照らされた本棚が見えた。壁沿いにぐるりと部屋を囲むそれ達は、どれも許容範囲一杯の本を抱え込んでいる。いかんせん物が多すぎるのだろう。だから収納場所も足りない。


「まあ、息苦しいのももう少しの辛抱だ。二階の方がいくらかマシだ」


 自虐の声と共に、床が軋む。男性が踏み出した一歩によって、階段が悲鳴を上げた。


「……崩れたりしませんよね?」

「悪いがはっきりとは言い切れないな」


 どんどんと先に進む背中を追いかけて、恐る恐ると階段を踏む。そして案の定、その段差一つ一つにもご丁寧に本が散らばっている。一体どうすればこのような事態になるのか。

 そもそもこの男性は本を沢山集めてはいるものの、どうやらそこに書かれている内容だけを求めているようで、所謂コレクターという類の人物ではないらしい。管理は酷くぞんざいで、敬意など微塵も感じられないのだから。


「よし、まあ適当に座ってくれ」


 辿り着いた二階で、男性が言った。


「ここが二階ですか?」

「そりゃあそうだろう。お前がさっき居たのは何階だ?」

「下の階と同じくらいの……その、汚さですけど?」


 部屋が階下より小さいという事を考慮しても、本の散乱具合で見れば大差が無い。とてもマシだとは思えなかった。


「だから言ったろう? ほんの少しマシなだけだ。綺麗に整頓されているとは言ってない」

「これがほんの少しでもマシ……なんですか」


 男性は俺の呟きを華麗に無視して、部屋の奥へと進む。そして窓際の机に向かっていた椅子を反転させると、勢い良く腰を掛ける。俺も壁際の椅子を引きずり寄せて、向かい合うように座った。


「……遅くなったが、俺はコニーだ。コニー・ブラント。それでお前は……ああ、すまん。記憶が無いんだったな」

「まあ、この私の記憶は無いですね。全く」


 この状況、少しだけ尋問のようだと思った。だけど答えないわけにはいかない。だから俺はわざと回りくどい言い方をして、真実を口にする。

 コニーさんは僅かに訝し気な顔をしたものの、次に繰り出された話題は別のものだった。


「じゃあ、さっそくお前が使った魔法について聞きたいんだが……」

「ちょ、ちょっと待ってください!」


 その話題がもはや決定事項であるかのように話すコニーさんに、俺は堪らず口を挟む。前提条件がまず非現実的だ。


「私が魔法を使ったっていうのは、もう確定なんですか?」

「ん? そりゃあそうだろ。魔法を使うのをアイナがしっかりと目撃している。ほら知ってるだろ? アイナ」

「そのアイナさんにも言いましたけど、私は魔法なんか使ってませんよ」


 コニーさんは椅子の背もたれに寄りかかり、顎に手を当てて目を伏せる。何かを考えているのだ。魔法なんていうファンタジーについて、真剣に。


「……じゃあ無意識に使ったってことだな」


 そうしてコニーさんは、あっけらかんと言い放った。


「む、無意識、ですか? そんなことあるんですか?」

「無いとは言えないだろう」

「いや、でも……」


 俺は小さく声を上げて、少しだけ身を乗り出す。


「お前ぐらいの八や九そこらの歳で魔法を使えるやつなんざ、そこまで珍しくも無いぞ」


 コニーさんは足を組んで背筋を伸ばし、鼻を鳴らした。

 俺はそれ以上言い返すことはできない。もしかしたらと、心の中で思ってしまったから。この場所に来てから魔法が使えるようになった、ありえないことではない。

 そしてもう一つ、今の自分の容姿が他者から見て年齢二桁に達しているのかいないのか、そのくらいなのだということがわかった。


「まあ本人に自覚が無いんだから、お前には確かめようが無いってことだ。目撃者の話を信じてみようぜ? アイナは信用できる奴だ」


 俺は小さく頷いた。確かにアイナさんに対する印象は良い。だけど彼女の言葉を信じた場合……。


「魔法……」


 か細く発した呟きは、埃っぽい部屋の中に零れる。

 大人が大真面目に魔法を語る世界。魔法で傷を癒すことが可能な世界。ここはやっぱりそういう場所なのだ。つまりは俺がいた場所とは違う、別の世界。俺は今、知らない世界で誰とも知らぬ身体にいるわけだ。

 そんな絶望と恐怖、そして不安の感傷から俯けた顔。しかし聞こえた音によって、視線は再び持ち上がる。


「……また客か?」


 聞き覚えのあるような音。コニーさんが椅子から腰を上げる。階下から小さく響いた物音は、恐らく誰かが扉を叩く音だ。


「ここで待ってろ」


 どうせ下に行ったって埃まみれだ。そう言い掛けた言葉を飲み込んで、階段を降りるコニーさんの背中を見送る。そうしてさて、どうしたものか。

 待っている間、心の整理を付けるのが一番の正解なんだろう。俺自身が進んでやりたいことというのもそれだ。だけどそれにはまず。

 少しの希望で漂わせた視線は、部屋の片隅のある物を捉えた。


「よし」


 自らを鼓舞するように呟いて、椅子から立ち上がる。ゆっくりと一歩一歩、確かめるような歩調で目的の物へと歩み寄る。自分の目線より背丈の大きい、白い布を纏った細い縦長方形。恐る恐るそれに手を伸ばして、くすんだ布の衣を剥ぎ取る。

 舞い上がる埃と共に現れたのは、予想通りの物。そしてそこに映るものもまた、悪い意味で予想通り。


「誰だよこれ……」


 くすんだ鏡の向こうで、幼い少女が顔を引きつらせていた。もう一歩とそこに近付けば、ふわりと糸が揺れる。

 濃い栗色の癖っ毛が顎の高さまで伸びていて、戸惑いがちに向けられた瞳の色もまた栗の色。小さな身長の華奢な身体に白いローブを纏って、不安気な顔をした少女。いや、不安気なのではない。不安なのだ。自分の気持ちなのだから、それくらいわかる。

 鏡へと手を伸ばせば、白い手のひらが重なる。長く感じる時の中で、幼い顔付きの少女を見つめた。ゆっくりと噛みしめるように。無理矢理に納得させるように。


「おお、この子が噂の女の子かい?」


 そんな作業の中、聞こえた声。縛り付けられた視線を外し、振り返って階段を見ると男性が居た。しかし、その人物はコニーさんではない。

 茶色の髪を短く切り揃えたその男性は、何だか細長い妙な麻袋を担いでいて、そして声色とは裏腹に疲れた顔をしていた。


「ああ、そうだ」


 その後ろから階段を上がってきたコニーさんが、男性の言葉に返事をする。


「それで、お前が預かることになったのか?」

「どうやらそうみたいだな」

「向いてると思うぞ? お前にはぴったりの役柄だ」


 男性が床の本を足で払い除けて、僅かに空いたスペースに袋を下ろす。どうやらこの人もまた、本を乱雑に扱う人間のようだ。


「じゃあ、お嬢ちゃん。俺はこれで失礼するよ」


 そして男性はこちらに向かって手を振ると、笑顔で階段を降りていく。荷物を届けに来た、ただの配達人のようであった。


「これなんなんですか?」


 俺は今しがた登場した麻袋を指差して問う。大人一人がすっぽりと隠れられるような大きな袋、膨らんだその中身には純粋に関心がある。

 コニーさんはもう一度椅子に腰を掛けて、足を組んだ。


「ああ、前に頼んでたものが届いただけだ。気にするな」


 どうやら中身は教えてくれないようだ。


「……また物が増えましたね、この部屋」


 だから少しだけ、嫌味のようにそう言ってみた。今のこの身体と先程までのやり取りなら、多少は許されると思ったから。けれどコニーさんの返事を聞く前に、部屋の中に異変が起こった。

 視界が薄暗い灰色に染まり、鼓膜を震わす破裂音が響き渡った。何が起きたのかわからないまま身体が後ろに仰け反って、気付けば後ろ手に手を付いて腰を抜かしていた。

 白む視界と同様に、頭の中にももやがかかる。一体どういう状況なのかもわからない。そして最初にやって来た情報は、誰かの咳き込む声。


「おい! 大丈夫か!」

「……な、なんとか」


 俺はその声、コニーさんに返事をしてから、未だ白む景色を見渡す。心臓は高鳴っていた。驚きと嫌な予感で。

 薄っすらとしたもやのカーテンの向こうには、中身をぶちまけた本棚と寝転んだ椅子。舞い上がった埃が鼻をくすぐると、部屋は窓からの明かりに照らされて幾らかの色を取り戻し、視界がゆっくりと晴れていく。

 そうすると少し向こうにあの袋が見えた。細長い麻袋はくたくたになって床板の上に伏している。まるで中身が無くなったかのように。


「いやあ、驚いていただけましたかね」


 びくりと身体が震える。

 次の瞬間聞こえたのは、知らない声だった。甲高く喜びに満ちた声色。恐らく男性の声。急いで振り向くと、その主がいた。


「しかし、どうやら部屋を散らかしてしまったようですね。これは申し訳ない」


 本を踏まぬように床を進むのとは真逆、奇妙な男はわざわざ本を踏み付けてこちらへと近付いてくる。顔を白く塗り、唇は赤。そしてワインレッドと抹茶色のスクエアが連なる衣装。派手に揺れるその服は、いわゆる道化師のものに見えた。

 心臓が跳ねる。絶対に危険な人物だ。その容姿と爆発の後に現れたという事実。到底まともな奴には思えない。

 恐怖から僅かに身を強張らせると、男の姿が視界から消える。別の人物の背に遮られて。


「おい、人の家でお前は一体なにをやってんだ?」


 立ち塞がったコニーさんの凄む声が、部屋の中に響く。しかし道化師は気にした風もなく、乾いた笑いを漏らすだけ。


「だから言ったじゃないですか。散らかしてしまったことは謝りますよ」

「そんなことを責め立ててるとでも思うのか? 第一この部屋は、お前が来る前から酷い有様だったさ。それよりさっき何をした? 魔法か? あの爆発は」


 コニーさんは道化師の足を蹴って、その下にあった本を拾う。道化師はわざとらしく足を抑えながら、ぴょんぴょんと飛び上がって移動する。


「そう魔法ですよ、魔法。流石に理解が早くて助かります。……それじゃああなたは、なぜ私が魔法を使ったと思いますか?」

「知るか」

「じゃあ、こう聞きましょう。あなたはどんな時に魔法を使いますか?」


 俺はゆっくりと立ち上がろうとし始めた。いつまでも尻餅を付いているわけにもいかないから。二人の会話を聞きながら、膝を付いて手を付いて立ち上がる。


「さあな、何か危険が迫った時か?」

「あなた方はそうでしょうが、魔法はアプシス様のものです。つまりは神の力、強大な力、そんな受け身の考えではいけない」


 道化師が少しだけ真剣な声色で言う。

 俺は高鳴る心臓を気にしながら、膝に手を付いて視線を上げる。道化師の姿が上から下へ、視界の中に滑り込んで来る。奴の口が、ゆっくりと開く。


「魔法は何かをねじ伏せたい時に使うんですよ」


 確かにこちらに向けられた道化師の瞳。それと目があった瞬間に、鼻先をじわりと熱い感覚が襲う。そしてその向こうに、踵を返して駆け寄って来るコニーさんが見えた。

 そして、火元の無い爆発は起こった。


「無事か?」


 爆発音の後、硬直する自らの肉体。だけど痛みは無かった。小さな爆煙が二つに割れ、後方に流れて行ったから。身体の凍結を溶かすようなコニーさんの声も、しっかりと聞こえている。俺は生きている。

 そしてその結果をもたらしたのは。


「な、なんですか、これ……?」

「風さ」


 俺の傍で膝を付き、手をかざすコニーさん。背後へ流れていった煙が、その手のひらへと集まっていく。そして形作られるのは、ぐるぐると内側に向かって混ざり合う灰煙の球体。

 風、説明はその一言だったが、理解した。これも俺のいた世界にはない、魔法なのだと。


「随分と小さな爆発だったな。子供相手に手加減か?」


 コニーさんが立ち上がると、風が吹く。床の上の本のページをめくって、半開きの板窓を押し開けたなら、風は外へと去って行く。道化師の煙を乗せて。ただし、それも一時だった。


「手加減、ですか。そうかもしれません。私の目的はあなた達を殺すことではなく、他に……」

「ごちゃごちゃうるさいんだよ」


 コニーさんの声に呼ばれたように、外出していた煙が帰ってくる。灰色の爆煙が、生まれた場所、そして自らを生み出した者のところへと返っていく。

 油断した道化師は、顔面に煙を被った。


「とりあえず逃げるぞ。いいな?」


 コニーさんは返事も待たずに俺の手を引いて、階段へと一直線に走る。引きずられるように足を動かしながら、俺は一瞬振り返った。

 道化師が地面に崩れ落ちていた。


「コ、コニーさん、何かおかしいです!」


 心の中に生まれた疑念を伝えるため、階段を降りる背中に声を掛ける。

 道化師は大量の煙を吸い込んで倒れたのか? だけど魔法使いがそんなことでやられるものなのか。あいつの態度にしては、あっけなさすぎる。何だか嫌な予感がした。

 唐突に、俺達の足は止まる。繋がれた手が離れる。


「おい、お前まだ帰ってなかったのか! さっさと逃げ……」

「コニー」


 一階に辿り着いたから。そしてそこに人が居て、自分の名前を呼んだから。だからコニーさんは足を止めた。当然俺も立ち竦んで、人影に目をやる。

 二階の床、一階の天井が軋んで、木屑がばらばらとこぼれ落ちる。散らばった本はさっきのまま。だけど場の空気が、恐ろしく異質に思えた。そんな部屋の真ん中に立つのは、あの男性だ。麻袋を運んで来た男性。


「コニーさん! この人もあいつの仲間ですよ!」


 俺は大きな声を上げた。爆発の後にはしおれていた麻袋。そこにあの道化師が入っていたのなら、奴をこの家に招き入れたのはこいつだ。

 コニーさんは男性へと近付こうとする足を止めて、短く息を吐く。


「ああ、それ……俺も今考えていたところだ」


 頼りなさ気に笑ってから、コニーさんは頭を掻いて姿勢を正す。そしてもう一度、ゆっくりと歩を進める。二人の距離が縮まる。

 男性の腕が素早く動いた。


「おいおい、本気かよ。ヴィダル」


 コニーさんの足元、絶望のセリフと共に赤い液体が零れる。ヴィダルと呼ばれたあの男性が小さな短剣を振るい、その刀身の先端が僅かに色付く。

 敵意が明確にされた瞬間、先に動いたのはもう一度ヴィダルだった。右手に持った短剣を振るって、前に進み来る。横に薙ぎ払い、縦に振り下ろした切っ先がやがて前を向く。一直線にコニーさんへと迫る。

 俺は恐怖を感じて、反射的に顔を逸らした。だが少しの沈黙の後に開けた瞳には、予想とは違う景色が映った。

 コニーさんが分厚い装丁の本で短剣を受け止めていた。


「本気なら仕方ないな、ヴィダル」


 酷く申し訳なさ気に名前を呼んで、コニーさんは拳を振るう。右手が素早く腹を捉えて、鈍い音が室内に響く。ヴィダルは本棚にゆっくりとしなだれかかった。


「……逃げるぞ」

「は、はい」


 コニーさんは床に転がった短剣を拾い上げると、再び俺の手を引く。その頬には横一線の赤い糸。

 倒れたヴィダルを横目に進んで、出口の扉が開かれる。太陽の光が降り注ぎ、一瞬だけ白む視界。晴れて色付いた目の前には、二つの人影があった。


「そんなに慌ててどうしたのかね?」

「随分と見計らったようなタイミングじゃないか? 村長」


 埃っぽい部屋の中から抜け出して、辺りに開けたのは森の景色。背の高い木々が自らの領域を譲り合って立ち並ぶ。そんな背景を背にして立つのは、ベントさんとあの男性だった。

 俺をこの家に案内した中年の男性。そして今彼は、コニーさんに村長と呼ばれた。考えれば納得だった。俺が目覚めたあの家を、アイナさんは村長の家と言っていたのだから。


「何か含みのある言い方だな、コニー君」


 村長が腕を組んでこちらに近付くが、その表情は見覚えのあるものとは違うように思える。ベントさんは微動だにせずに、険しい顔を浮かべたまま。


「そりゃあ、怪しんでるんだからな。含みもあって当然だろ?」

「怪しんでいる? 一体何を?」


 村長のわざとらしい物言いにため息を吐いて、コニーさんは身体をずらす。開け放たれた扉の奥、部屋の中を見せつけるように。俺もそれにならって横にはける。

 ちらりと後ろを見れば、ヴィダルが太陽の光を浴びていた。


「……これは、君がやったのか?」


 村長から驚きの声が上がり、ベントさんも僅かに眉をひそめる。


「ああ、二階には道化師もいるぜ? 何故だかもう追いかけては来ないみたいだが」


 挑発するように喋るコニーさんの横を素通りして、村長は家の中に入る。そしてしゃがみ込むと、ヴィダルの首元に手を当てた。


「早く起こしてやってくれ。どうやら血迷ったらしい。いや、あんたが焚きつけたのか?」


 コニーさんが捲し立てる。

 小鳥のさえずりと森の風の間に、深呼吸の音が響く。村長はゆっくりと立ち上がった。


「……コニー君。私の家で話をしようか。彼、ヴィダル君は死んでいる」


 俺は目を見開く。そして自分が今も見ているものが、人間の死体だということを知った。

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