第二十七話 壁の向こうへ 一
男の帽子、その下から覗く視線は鋭い。先ほどの言葉もあるし、このまま帰れるような雰囲気にも思えない。だが距離は十分にある。何かがあろうと吸血鬼ならばきっと反応できるだろう。
考えながら喉を鳴らす。気付けばコニーさんもアーシュさんも、そして吸血鬼も。全員が男に目を向けていた。
「ああ、終わった。帰らせてもらうよ」
真っ先に切り出したのはコニーさんだった。そのストレートな物言いに、男は鼻を鳴らす。そして一歩、二歩とこちらに歩み寄ってくる。
大丈夫、まだ距離はある。だけど気になるのは、彼の視線がどうやら吸血鬼に向いているであろうこと。
「確かに、そうなるだろうな。先程はああ言ったが、私じゃ君らを倒せそうにない。まあ、負けることもないが。……君たちは帰っていいぞ。衛兵に知らせようと構わん」
男が指を鳴らす。乾いた音が響く。だけど特別なにかが変わったということはない。辺りは未だに寒々とした洞窟で、破壊された家具や死体が転がる薄暗い場所のままだ。ただのキザったらしい演出か?
「しかし吸血鬼、君は別だ。少し話をしようじゃないか。私はヴェーグ。君の名は?」
「えー、知らないよ。なんかつまんなそーだからあたしも帰る」
誤魔化しなのか事実なのか、とにかくど直球な吸血鬼の物言い。ほんの少しだけヴェーグとかいう男に同情するが、本人は特に気にした風もない。そして更にそれを気にすることなく、吸血鬼は目を背けて踵を返した。
何の戸惑いもなく去ろうとする少女。しかしその足は何かに遮られて止まった。それが何か俺にはわからない。確かなことは彼女がパントマイムをするかのごとく、何もない場所で壁にぶつかるような体勢でいるということだけ。
「なにこれ?」
吸血鬼は頬を潰しながら戸惑いの声を上げる。明らかに物理的な干渉だ。決して手品やトリックなどではない。ならば一体なにが起きている?
上下左右、周囲を壁に囲まれたように自らの周りを触る吸血鬼。魂の名を唱えて殴りつけても、状況が変わる様子はない。それを横目に見ながら、ローブの男へともう一度目を向けた。どう考えても原因はこいつ。そして考えられることといえば。
「あ、あなたの魔法ですか?」
恐る恐ると問えば、ヴェーグは眉をぴくりと動かす。しかしそれだけ。返事を寄越すことはしない。そして代わりにまた一歩だけと歩を進め、姿勢を整える。
「まさかこんな風に対面するとは思わなかった……。で、君は何故そいつらに協力している?」
もはや彼の眼中に俺の姿はないようだった。吸血鬼に対してしか話をしていない。他の三人には微塵の興味もないのだ。
吸血鬼自身もそれを理解したのだろう。先程のヴェーグの言葉を推し進めるように、コニーさん達へ言葉を向ける。
「そこのおじさん二人、もう帰ってもいいよー」
「そりゃあありがたいが、そういうわけにもいかない。あんた今、一体どういう状況なんだ?」
混乱したように眉をひそめるコニーさん。そりゃあそうだ。彼は今さっき自らを助けてくれた人をはい、そうですかと置いていけるような人間ではない。例えそれが吸血鬼でもだ。
少女は動くのを止めて立ち尽くし、頬を膨らませて男を見た。
「そんなのあたしにもわかんないよ。とにかくなんか閉じ込められちゃったみたい。どうせあいつのせいでしょ」
指をさされたヴェーグは自らの帽子を抑え、岩の天井を仰ぎ見た。口角を少し上げ、その隙間からどこか忌々しげな息が漏れている。
「質問に答えてくれないか、吸血鬼」
そして前を向き、言い放った。お前が言うなと強く言ってやりたいが、俺の頭にはそんな突っ込みなんかよりも大事な考えが巡っていた。心配事と言ってもいいかもしれない。
吸血鬼がさっき口にした閉じ込められたという言葉。それがもし本当で、そう簡単に脱出できないほどの強力な拘束であるならば非常にまずい。怪しい雰囲気の中で大きな戦力を失ったということになる。相手は吸血鬼以外を見逃す意思は見せたものの、俺はこの場から動くことができないのだ。正確に言えば、吸血鬼のそばを離れることができない。
「まったくしょうがないなー。ただそっちのほうが面白そうだったってだけだよ」
「そんな簡単な理由で裏切ったのか?」
「そうだよ」
「太陽の下を歩けるようにしてもらった恩があり、自らの身体を人質に取られているというのに、か?」
脈を打つ心臓を撫でるように、二人の会話が横切った。そして少しのラグを経て、咀嚼した内容を頭に入れる。
ヴェーグが言う自らの身体とは、きっと吸血鬼本来の身体のことだ。それを人質に取られているという新たな事実。普通ならば俺に協力しようだなんて思わないはずで、そうさせるために十分な材料だ。だけど吸血鬼は条件付きとはいえ、コニーさん達を助けるのに手を貸してくれた。
「たしかに魂を移してもらったことは嬉しかったよ。最初は協力することでお礼をしようとも思ったけどさ、でもやめた」
「何故?」
「んー、太陽の下を歩いても、それだけじゃあんまり面白くなかったから、かな。元の身体も別にもう興味ないしね」
吸血鬼は腕を組んで言った。赤い瞳がどこか虚空を見つめ、洞窟の中を彷徨う。
ちらりと横を見た。コニーさんは黙ったまま、二人の会話を真剣な眼差しで聞いている。地面に座るアーシュさんもまた、同じだ。息は乱れているようだが、しっかりとした意識はある。早くここを出なくてはならないことに変わりはないが。
「面白くなかった、それはどういう意味だ? 吸血鬼の苦悩を分かち合うものがいない、そういうことか?」
「……おじさんさ、何言ってるかよくわかんないよ」
呆れたように頬を膨らませ、吸血鬼は指を差した。しかし、そんな言葉を受けてもヴェーグは笑う。歯を出して笑みを抑えることもせず、踵を返して壁際に向かう。
「それならば心配はいらない。すぐに仲間ができる」
岩肌に立てられた何か、そこに掛けられた布を払い取り、奴はもう一度こちらを向いた。
そこにあった、いやいたのは一人の男の子だった。斜めに立てかけられた板に磔にされ、死んだように目を閉じた男の子。歳は小学生くらいだろうか。簡素な麻の衣服を身に纏い、そこから覗く皮膚は病的なまでの青白さをたたえている。そう、まるで吸血鬼のように。
ヴェーグは笑みを浮かべたまま、その男の子の頬をそっと撫でる。
「大丈夫、エディ。お前は蘇るんだ」
優しい声を終えて、足元の麻袋を引きずり寄せる。そしてそれを少年の正面へと横たえた。数は三つ、どれも細長い形状で口をきつく縛られている。
ここに来て何度目になるのだろう。また、息を呑む。逃げられない状況、止まらない嫌な予感、ナイフを握る手が汗ばむ。
ヴェーグは袋の一つ、その口を解いた。手を入れ、中身を引きずり出す。また少年だ。目を閉じて縛られた少年は、磔の男の子と同じくらいの歳をしている。だが肌の血色は良く、上下する胸を見るに確かに生きている。
「吸血鬼の復活だ」
意味の分からない言葉だった。勘弁してくれ。泣きそうになる頭を上げて、俺はヴェーグを見た。
そうしたら、奴は袋から出した少年の頬を叩く。エディにしたのとは違う酷く乱暴な手が振るわれ、眠っていた少年は目を覚ます。
持ち上げられたまぶたから虚ろな瞳が露出する。どう考えても自らここにやってきたのだとは思えない。だからきっと彼の頭の中は混乱でいっぱいで、そして恐らくこの後、目の前の男が手にしたナイフで絶望に塗り替えられる。
助けなければ。無意識の正義感が足を進ませる。しかし、ちっぽけな俺の善意ではたったの一歩が限界だった。額の脂汗に髪の毛が纏わりつく。心臓が痛いくらいに白いローブを叩いてくる。気持ちが悪い。動きたい。でも、動けない。
少年の首にナイフが当てられる。さるぐつわの向こうから漏れる声が、耳にこびりつく。その瞬間、視界の端で何かが動いた。コニーさんだ。
剣を構えて一直線にヴェーグの元へと駆け出していく。だけど彼もまた、文字通り壁にぶつかった。そう、見えない壁だ。
「くそっ! 何なんだこいつは!」
薄暗い洞窟に妙な金属音が響いた。コニーさんが振るう剣は見えない何かに阻まれて、空中で止められる。まるで本当に壁があるような、そんな光景だ。いや、きっと本当に存在しているのだ。恐らくは魔法の産物として。
壁の向こう、ヴェーグが笑う。そして少年の首に当てたナイフを離し、切っ先をコニーさんへと向ける。
「帰る気がないのなら、君達も見ていくか? とても貴重で、偉大な瞬間だ」
本当に一瞬だけ脱したピンチ。しかし、奴はすぐにナイフを元の位置に戻す。今度こそ、今度こそ殺される。
限界を超えた心臓を抱え、俺はその光景を見ていた。そしてさっきから浮かんでいる一つの考えを復唱する。男を止める方法、そして壁を越える方法だ。俺ならば多分、向こう側へ行ける。俺ならばきっと、壁の向こうへ移動できる。そして少年を助けることができる。だけど、冷え切った身体は相も変わらず言うことを聞いてくれない。
ちらりと吸血鬼を見た。本当に一瞬だ。彼女は動けない。俺と同じく壁を超えられるかもしれないアーシュさんもだ。ならばせめて、口を動かせ。真実なんてどうでもいいから、注意を引ける言葉を詰め込め。
「あ、あなたの、それはあなたの空白の魔法ですか!」
冷たい空気に上ずった声が木霊した。音量調節もあったものじゃない咄嗟の言葉だった。普段なら恥ずかしがるような行動だ。だけど今はそんなことを考えている場合ではない。
運動などしていないのに息は切れ、身体は汗をかく。明滅する視界の先で、少年はまだ生きていた。
「……君はもしかして例の少女か? 空白の魔法を使えるという」
もう一度ナイフが下がる。気を引けた。でも、ここからどうする?
「そ、そうですよ、そうです。あなた達が狙ってるノーラです」
「お前の名前など知らん。私には関係ない」
思わず名前を明かしても、男の興味は持続しない。もはやどうすればいいかわからない。だから浮かんだ疑問がそのまま口からこぼれ出る。
「あなたは、その、私を狙う人達の仲間じゃないんですか?」
「奴らの仲間? 違う、私は一時的に協力関係を結んでいただけだ。生贄を手に入れるためにな」
どうやら質問には答えてくれるらしい。だからもう少しだけ時間を稼ぐ。行き着くところはわかっているが、せめて覚悟する時間をくれ。もう少しで、もう少しで動けそうな気がするのだ。
視界が震え、頭が沸騰したように熱くなる。見開いた視界が揺れ出す。痩せ細っていく心臓に鞭を打ち、何か言葉をかけようとする。もはや何でもいい。しかし、その努力は必要なかった。
「へー、その男の子も関わった内に入るんだ」
突如として聞こえた声。一瞬、吸血鬼が何を言っているのかわからなかった。けれどその方向に目を向けて、ようやく状況を理解した。
距離が離れていたのだ。そんなに離れていない場所にいたはずの彼女が、数メートル先にいた。そして振り返れば、今度はあの男との距離が縮んでいる。
俺は壁を超えていた。
「なるほど、そういう魔法か」
慌てて手にしたナイフを構える。くそっ! 馬鹿だ! 無意識のうちに魔法を使って、奇襲のチャンスを潰したのだ。
「ノーラ! お前何やって――」
背後からコニーさんが叫ぶ。俺は頭をかきむしって、振り返ることなく答える。
「だ、大丈夫です。それより、アーシュさん! 起きてますか!」
「……ああ」
「いま私の後ろに目には見えない壁があります。恐らくそんなに厚くはありません。あなたの魔法で超えられますか?」
「すまんが、しばらく魔法は使えそうにない」
「……わかりました」
震える身体で深呼吸をした。精一杯の返事をくれたアーシュさんだが、魔法を使えるようになったところであの傷では戦えないだろう。一応の確認だったけれど、どうやら無駄に終わったらしい。そうしたらもう一つだけ、最後の確認作業だ。
「あの条件、まだ生きてますよね?」
そう問う。表情は見えない。しかし後ろから吸血鬼の笑う声がした。
「もちろん。あたしが洞窟を出るまでだからね」
吸血鬼と交わした取引、それはコニーさん達を助け終えて洞窟を出るまで、彼女のそばを離れないというもの。他人に全てを任せ、傍観者になるのさえ拒むのは許さないということだ。破ればどうなるかを問えば、彼女は俺の首を軽く締めてこう言った。
『その時はノーラちゃんの魂を貰うね。あたしが人を殺せないって思ってる? まあそう思うなら、破ればいいと思うよ』
深い闇を感じる恐ろしい声色で。殺すことができるかの真偽はともかく、選択肢のない俺は条件を飲まざるを得なかった。それにその時は大した交換条件ではないと思っていた。あれだけ強い彼女がいるのだから、それくらい安いものだと。
だけど今、いよいよ逃げられなくなった。仮初めの逃走は成し得るだろうが、彼女は俺を追うことができる。まあきっと、条件が死んでいたとしても俺はこの場を離れられないのだろうけど。
「ノーラと言ったかな。君は私の邪魔をするのか? 逃げてもいいと、帰ってもいいと私が言っているのに」
土埃を上げ、縛られた少年が地面へと落ちる。漏れる呻き声に合わせて心臓が脈を打ち始める。俺の身体、頼むから動いてくれ。
震える右手を抑え、ナイフの切っ先を定め直す。
「はい。邪魔をします」
俺がやるしかない。思っていたよりもすんなり、声は出た。