第二十五話 狼は森にいる 二
矢で射られたばかりとは思えない速さで間合いを詰めた吸血鬼は、瞬く間にフルマンの懐へと潜り込む。そしてすらりと伸びた細い足を鞭のようにしならせる。
「おいおい、いきなりか?」
フルマンは一歩後退して蹴りをかわし、装填済みのボウガンを持ち上げる。至近距離、射線には吸血鬼の顔面。ごくりと唾を飲む。だがレバーが引かれる瞬間、その腕が僅かに横へとスライドした。
矢先がこちらを向いていた。まずい。馬鹿みたいに観戦者となっていた俺には、少しばかり身体をずらすのが精一杯。なんで吸血鬼の言うことなんか聞いて突っ立っていたんだ? そんな後悔が頭を巡るが、矢が俺の元に到達することはなかった。
「大丈夫大丈夫ノーラちゃん。怪我はさせないように頑張るからさ!」
明るい声に目を向ければ、吸血鬼が右手を上げていた。彼女の拳が包むのは射出されたばかりの矢だ。助かったという安堵感よりも先に、吐き出す息に乗った驚嘆が漏れる。
「……そんなのありか?」
フルマンもまた、鋭い眼を開いて驚きに顔を染めている。けれどそれでもやっぱり、吸血鬼はマイペースだ。
「あ、そうだノーラちゃん。逃げたら質問に答えてあげないからね! これはほら、あたしの自己紹介だからさ」
こちらに笑顔を向け、放たれるあっけらかんとした言葉。
……おいおい、今更になってそれはないだろう。僅かに口を開け、惚けた顔を返す。横を見れば一時後退してボウガンを背中に納め、腰元の短剣を抜いたフルマンが見えた。奴もやる気、まだまだ戦いは続くだろう。だったら早くこの場を離れてしまいたいのだけど、それでもやっぱり。
「な、なるべく急ぎでお願いします」
そんな条件を差し出されちゃあ逃げるに逃げられない。このままずるずると良いように利用されてしまう気もするが、今は彼女を味方と考え、今度こそ情報を得られると信じるしかない。
「了解!」
それに今までの動きとこの元気な返事を考慮すれば、彼女は敵を簡単に圧倒できるような気もする。そしてそうなるとあわよくば、その敵からだって情報を引き出せるかもしれない。なにせやっつけると言っても、ここにいる吸血鬼は人間を殺せないのだ。まあ、ミレアスさんの言葉が正しければ、だが。
残る覚悟を決め、もしもの時のために戦況から眼を離さぬようにする。そうしたらすぐにフルマンが動き出した。慎重に測っていた距離を素早く詰めて繰り出される突き、薙ぎ。しかし、虚しく響くのは風切り音だ。
俺は本格的な戦いの始まりに後退し、争う二人から距離を取る。そうして見守る戦いは、どう見ても男の劣勢。構えも何もあったものじゃないにも関わらず、吸血鬼はふらふらへなへなと連撃をかわしていく。
「……ちっ!」
どんどんと眉をひそめていくフルマンとは裏腹に、吸血鬼の口角は上がる。楽しげな息が漏れて、大きな赤い目が見開いていく。
そうなってしまったら、転機は一瞬だった。消えるようにしゃがんだ吸血鬼が放つ足払いにより、男は草に倒れこむ。眼を移す暇もない、半円を描いた吸血鬼が視界の端で立ち上がる。
「はい、終了!」
得意げな顔をした少女が踏みつけるのは、歳が倍以上もありそうな髭面の男性。異様な光景だ。本当に、いや俺が想像していた以上に勝負は一瞬だった。
吸血鬼は腰を屈め、踏みつけたフルマンの両手を後ろ手に固定する。随分とあっさりとした制圧。しかし、うつ伏せで顔を歪める男が無抵抗なわけではない。その抗い以上の力がこの少女にあるというだけだ。
「ねえねえノーラちゃん。なんか縄かなんか持ってない? あたしがずっとこの人を抑えてるっていうのも面倒――」
戦いは終わった。しかし、俺は恐る恐ると踏み出した一歩を止める。吸血鬼が口にした言葉を止めたからだ。どうした? 何かあったか?
「あの、縄は持ってませんけど」
一応の返事を返せば、吸血鬼は唐突に拘束の手を開いた。フルマンを踏みつけていた足も傍の草に戻し、背筋を伸ばして一瞬だけ眼を閉じる。そして小さく声を発した。
「イクセル、シーラ、ありがとう。……ノーラちゃん、じっとしててね?」
「え?」
次の瞬間、俺の視界から吸血鬼が消えた。しかしその光景に思考を巡らせるよりも前に、腹部にやってくる圧迫感と全身の浮遊感。新たな疑問に上書きされた頭に映るのは、前方に流れ行く景色。その中心には遠ざかっていくフルマンが見えた。
「ごめんね、ちょっと揺れるかも」
すぐ近くから聞こえた吸血鬼の声で理解する。俺は今、彼女の肩に担がれているのだと。
上下に揺れる身体に若干の気持ち悪さを覚えながら、遠くで立ち上がるあの男を見る。そして湧き上がる疑問は、吸血鬼は何故突然逃げだしたのか、だ。
「あ、あの、一体どうしたんですか?」
「んー、よくはわかんないけど、あいつの仲間かな? いつの間にか近付いてきてたみたい」
「近付いてきてたって、誰がですか?」
新たな敵かと質問をすれば、吸血鬼の足が突然に止まる。
「あー、追いつかれちゃった! というか、人じゃなかったね」
吸血鬼は俺をリュックサックのように背負い直す。だから、崩れ落ちないようにと仕方なく腕と足を回す。恐る恐ると上げる顔。彼女と同じ方向を向いた視界に映るのは、一頭の狼だった。
思わず出そうになる声を飲み込めば、自然と身体に力が入る。獣は一メートルはあろうかという灰色の巨体を揺らしながら、頭を下げてこちらを睨みつける。吊り上がった鋭い眼光、ちらつく凶器の牙が圧迫感となって押し寄せてくる。そして脅威はそれだけでは終わらなかった。
「ノーラちゃんノーラちゃん、あと二匹は来るよ!」
吸血鬼の嬉しそうな声に呼応するように、林の影から別の狼が現れる。一頭、二頭、全部で三頭。そのどれもが現実離れした大きさで、ぐるぐると回りながら俺たちを取り囲んでいく。
こんな時でもマイペースな吸血鬼にため息をこぼしつつ、戦況を考える。まず感じられるのは狼たちの明確な敵意だ。決して宥められるような感じではない。ならば必然的に起こり得るのは暴力的な戦いだが、吸血鬼にその気があれば制圧は決して不可能ではないだろう。つまり恐怖はあるが、絶望ではない。
「あたしの頭に昼ごはん吐かないでね」
期待通り吸血鬼は動き出す。だけどもしかして、俺を背負ったまま戦う気か?
戦いの始まりは、抗議をする暇すら与えてくれない。こちらの意思を感じ取った狼たちが、一斉に地面を蹴る。その瞬間、背後からフルマンの大きな声が聞こえた。
「何やってるんだお前達! 下がってろ!」
次の瞬間、身体がまるでミキサーの中のように回転する。辛うじて見えたのは、伸ばされた吸血鬼の足とはためくスカートにコート。高速の回し蹴り、恐らくはそんなような攻撃なんだろう。実に吐きそうだ。
やがて遠心力に混ざった景色が正常を取り戻す頃、辺りの草むらには狼たちが横たわっていた。
「おー、吐かなかったね。えらいえらい」
ようやく地面に降ろされ、吸血鬼に頭を撫でられる。もう一度見る辺りの草むら。吐き気も気恥ずかしさも、驚きによって追いやられる。
狼の一頭は眼球が潰れ、もう一頭はあらぬ方向を見て泡を吹いている。その両者が共に、ぴくりとも動かない。吸血鬼はあの一瞬でこの巨体たちを気絶させたのだ。唯一立ち上がる最後の一頭も、折れた片耳に痛々しさを残してこちらを睨むのみ。もはや飛びかかってはこない。
だが代わりに、視界の端、背後から影が飛び出して倒れた狼の元へと向かう。フルマンだ。
「な、なんでだ! なんで出てきた!」
動かなくなった獣へとすがりつき、彼は悲痛な声を上げる。先に襲いかかってきたのは狼達で、吸血鬼が行使したのは正当防衛だ。しかし何だろう、この後味の悪さは。
力なく見る景色の中で、唐突にフルマンがこちらを向いた。滲んだ瞳と下がった眉毛、そして怒りに満ちた声色。
「……俺はこいつらに、近付くなと指示を出していた。吸血鬼は動物なら殺せるから、お前達は出るべきじゃないってな」
先ほどの叫びの理由だった。人間の殺せない吸血鬼には自分だけで対処する、そういうつもりだったのだろう。
「こいつらは俺が死にかけようとどうなろうと、絶対に命令を守る。決して馬鹿じゃないんだ。だから聞かせろ。……何をした?」
フルマンが唇を噛む。辺りに広がるのは獣の呻き声だけ。
狼達に起きたらしい異変、問われているのはその理由だ。だけどそんなこと、この俺にはわからない。だからこの場で一番可能性のある吸血鬼に目を向ける。彼女は口元を歪めながら、不服そうに返事をした。
「そんなこと言われてもわかんないなー。あたしは襲われたから攻撃しただけだし。……あ、それよりさ、その二匹もう長くないだろうから、血吸ってもいいかな?」
空気の凍りつく音が聞こえたような気がした。先ほどまで俺を庇って戦ってくれた人物とはいえ、心情としてはフルマンの側に立ってしまいそうな発言。きっと悪気は無いのだろうけれど、立ち上がる男が許すはずが無い。
「ぶっ殺してやる」
手元で回したナイフが吸血鬼に向き、間髪入れずに前へと進む。俺は急いで後ずさり、木の幹に手をつく。ひんやりとした感触がやってくるのと同時、吸血鬼が首をそらして刺突をかわした。
「なに? だめなの? しょうがないなー」
次々に繰り出されるフルマンの攻撃は、素人の俺にも大振りに見えた。きっと感情に任せてナイフを振るっているのだろう。しかし冷静な状態でもかわされていたのだから、吸血鬼に怒りが届くことは無い。
やがてため息を吐いた少女は、再び誰かの名前を口にする。
「ドリス、ありがとう」
そして同時に放たれた下段の蹴りが、フルマンの足を崩した。今度は足払いではない。左足の脛、骨の折れる音がした。だがそれだけでは終わらない。顔を歪め倒れこんだ男の右足を、吸血鬼は勢いよく踏みつける。同じ痛々しい音が、緑の森に響いた。
「くそっ! ちくしょう!」
痛みに悶える声を聞きながら、弱々しくフルマンに歩み寄る狼を見る。気付けば口の中が乾いていることに気付いた。実際のところ俺はなにもしていないし、この男だって俺を狙っている人間、つまりは敵であったのだけれど、そいつが戦闘不能になった姿を見た今、心の内に溢れてくるのはどす黒い不快感だった。
「じゃ、行こっか。ノーラちゃん。静かなとこで話の続き!」
吸血鬼に手を取られる。まるで死人のように冷たい手が、侵食するようにこちらの体温を奪っていく。なんだか恐ろしくなって、俺は無理矢理に手を解いた。
そして視線を逸らすように、草に横たわるフルマンを見る。両足骨折、それ自体ですぐに死にはしないのかもしれないが、ここから動けないのであればどちらにせよ酷いことになる。頭の中にとっさに浮かぶのは、そんな考え。
「こ、この人は置いていくんですか?」
「え? うん。だってこの人と話すことは別にないから」
心臓がどくんと跳ねた。こういうところが、俺の甘いところなんだろう。元いた世界とは違うこの場所とはそぐわない考えだ。そう自覚はしている。元に戻るために危険を冒しているのに、こういう場面でこうなっていてはどうしようもないのだ。だけどやっぱり、無意識に湧き上がる感情はそう簡単には抑え付けられない。
せめて何かを。訳も分からず口にしようとすれば、苦痛混じりの声がそれを遮った。
「はっ! 自分を狙う奴にも情けをかけるのか? 悪いがそんなもんはいらねえよ。俺を殺さないんならな、二人ともさっさとどっかへ行け!」
「だってさ! 行こ、ノーラちゃん」
またも手を取られ、今度は無理矢理に先導される。自動で進む足と、無意識に背後へと振り返る視線。遠ざかっていくフルマンを見てやっと、あいつからも情報を引き出せるかもしれないと考えていたことを思い出す。幸いにも奴は動けない。襲われる心配はない。だけどどうにも、そんな気にはなれなかった。
それからは努めて無心になりながら草を踏み、流れて行く木々達を横目に見る。そうしたらやがて手を引く吸血鬼の足が止まった。
そこはもはやどこかもよくわからない、林の中の岩場だ。
「ここなら大丈夫かな。まったくー、やっとだよ。はいノーラちゃん、質問をどうぞ!」
冷たい左手を揉みながら、岩に腰掛けた吸血鬼を見る。もはやあまり、この態度に驚くこともない。
俺も気持ちを切換えろ。気分は悪いがもはやどうしようもない。息を一つ吐き出して、心を無理矢理に割り切る。
「……じゃあまず、私をさらうようあなたに命令したのは誰ですか? 地下室で口にしかけていた人です」
まずは一番に知りたいことを聞こう。
吸血鬼は腕を組み、石の上でだらしなくもあぐらをかく。
「人じゃないよ?」
「……え?」
「ネズミだよネズミ。捕まっているあたしを助けてくれて、その見返りにノーラちゃんをさらえって命令してきたんだ」
「え、えっと、ちょっと待ってください。……ネズミが?」
「うん、ネズミが」
予想外の答えに頭が混乱を始めるが、すぐに冷静さを取り戻す。そうだ、鳥人間に蜘蛛人間、俺は今までそんな奴らに出会ってきたではないか。
「ネズミ人間ですか? ほら、あのウインダルみたいな」
「ううん、ただのネズミ。ちっちゃい手で木の棒を持ってね、地面に字を書いて命令してきたんだ。可愛かったなー」
呑気に笑う吸血鬼をよそに、俺はまたしても頭を捻る。だけどまあ、こんな世界なのだしそんなネズミが居てもおかしくはないのかもしれない。それよりも大事なのは、そのネズミが何故俺を狙うのかということだ。
「私をさらう理由を何か言っていましたか?」
返ってくるのは否定の首振り。吸血鬼は嘘をつくタイプにも思えないし、本当に知らされていないのだろう。がっかりはするけれど、聞くべきことはまだある。
「そのネズミはどうやってあなたを助け出したんですか?」
「自力でも逃げられたんだけど、あたしが持ってたソフィの骨に魂を移してくれるっていうから、そうしてもらったんだ。なんかね、すごい魔法らしいよ。なんて言ったかなー、えっと――」
「空白の魔法、ですか?」
「そう、それ!」
腕を組み、顎に手を当てる。どうやらアーシュさんの予想は完璧に当たっていたみたいだ。ネズミが縛られた吸血鬼の魂を別の器に移した。そしてその器が誰かを俺は知っている。
「ソフィっていうのは、その……」
「あたしが昔血を吸った女の子のことだよ。見た目はねー、ほら、こんな感じ!」
自らを指差して、笑う吸血鬼。ソフィはやはり、彼女が人を殺せなくなった原因の少女だ。今の態度を見ていればとてもそうは見えないけれど、きっと吸血鬼の心の内には色々なものがあるのだろう。骨を持っていたという特異な点もそれを裏付けている。
そう考えれば、不意に浮かぶ疑問。骨に魂を移しても、吸血鬼は今、ちゃんとした肉体を持っている。そんな疑問をぶつければ、吸血鬼は手を叩いてこちらに身を乗り出した。
「そうだそうだ、その話してなかったね。じゃあまた、あたしの自己紹介! ノーラちゃん、まず吸血鬼は何を吸うと思う?」
「そりゃあ……血、ですか?」
「おしい! 半分正解! でも実は血だけじゃないんだなー。吸血鬼は血から生き物の魂を吸うんだよ。そしてなんと! 吸った魂を自分の魂に貯めておいて、それを使って色んなことができるんです! 身体の傷を治したり、少しの間強くしたりね」
つまりはそれで、骨の状態からここまで、ソフィの身体を回復させたということだろう。にわかには信じ難い事だが、事実ならばアーシュさん達が目撃した人体模型のような女の説明もつく。それに吸血鬼が時折呟いていた人名達も、過去に血を吸った人間の名だと考えれば納得がいく。
「あたしの知ってるソフィに戻すのに、六百九人と四百十五匹の魂を使ったんだよ。お礼を言うのも大変だったんだから」
どうやら能力を使う際に礼を言うのは、彼女にとって欠かせない事であるらしい。名前を全部覚えている非凡さと犠牲者の膨大さについては、もはや言及はしない。
「まあでも、もう大吸血鬼になる必要もないから良いけどね」
「大吸血鬼?」
唐突に現れた謎の言葉。素直に投げた問いに、吸血鬼はどこか遠い目をして語る。
「数え切れないほどの魂を集めれば、肉体の呪いは克服できる。つまりは太陽を克服できるってこと。吸血鬼にはそういう伝説があるんだよ」
なるほどと頭の中で頷き、寄り合う葉の隙間、頭上の太陽を見上げる。確かに彼女は今、ソフィの身体へと移った事によって太陽の下を平気で歩いているのだ。
少しだけ訪れた沈黙を清涼剤に、情報が雪崩れ込んだ頭を整理する。まだ聞きたい事はあるか? もちろんある。
「じゃあ、昨日の夜、あの地下室からどうやって抜け出したんですか?」
「ん? 魂を使ってあの魔法をこう、ふんっ! てやって逃げたんだよ」
吸血鬼は小さな鼻を膨らませ、両腕を張る。つまりは力技ということだろうけど、そうなってくると必然的に新たな疑問が生じてくる。
「それだと私との取引って必要ないですよね?」
「うん、まあね。でもほら、そのほうが面白いでしょ? それにあの人の様子を確かめてきて欲しかったんだ」
「ミレアスさん、ですか?」
「そうそう、ミレアス! どうだった? 元気だった? 生きてた?」
不謹慎なと苦笑いを浮かべつつ、まあそれなりに元気そうであったことを告げる。そして多少引っかかるところはあるものの、彼は自ら城に向かい王に仕える道を選んだということを伝えた。
「ふーん、そっかあ。ま、それならいいや」
急速に興味をなくした風な吸血鬼は、勢い良く伸びをして座る岩に後ろ手をついた。今に始まったことでもないが、情緒不安定とも言える態度だ。そしてその不安定さが、彼女に再び笑顔を戻す。
「それより面白かったなー! ノーラちゃんさ、城の窓に張り付いてたよね? すっごい慌てた顔して」
「え、見てたんですか?」
「うん。ノーラちゃんが出て行ってからすぐに脱出して、後を着けたんだ。城に入ってる間はさすがに無理だったけどね」
こっちは必死だったんだぞと少し腹が立つが、ミレアスさんとの一連の会話を聞かれていなかっただけ良しとするべきか。
そう胸を撫で下ろして訪れるのは、再びの沈黙。だけどまだ、質問の時間を終えるわけにはいかない。さっきのフルマンのことや恐らく組織であろう俺を狙う者たちのこと、ネズミについて詳しく、聞きたいことはまだまだある。それに何より、約束があったとはいえなぜ吸血鬼が好意的に接してくれているのか、それを聞かなくてはならない。
頭に浮かぶ様々な考え、そいつらを精査していれば不意にある疑問が浮かんだ。吸血鬼は魂をソフィの骨に移された。もし俺も同じような経緯でこの姿になったのなら、今のこの身体は何なんだ。もしかして他の誰かのものだったのか? 恐ろしい疑問だった。だけど答えはわからないし、吸血鬼に聞くこともできない。
だから真っ直ぐ視線を向けて、口を開く。別の疑問を投げるために。けれど吸血鬼が両手を前に出したから、言葉を飲み込まざるを得なかった。
「ごめん、ちょっと待った。さっきから言おうかどうか迷ってたんだけどさ、なんかまずい感じだから言うね。あたしの背中に紙を貼ったあの男の人、よくわかんないけど誰かと戦ってるよ。結構怪我もしてるみたい」
「……え?」
油断していた心臓が熱く鼓動を打つ。不覚にも情報を集めるのに必死で、彼らのことを忘れていた。コニーさんと、アーシュさん。吸血鬼を探しに洞窟へ向かい、別の進入口を探していたはず。だけど今、ここにいる吸血鬼からもたらされた情報が事実だとするならば、彼らは洞窟で吸血鬼と相対したということか? だけどいや、それはおかしい。
「い、いやでもあそこの洞窟に吸血鬼は居ないはずじゃ」
「吸血鬼は居ないよ。でもあいつらがいるんじゃないかな?」
「……あいつら?」
「あたしにノーラちゃんをさらえって言った人達だよ。ネズミの仲間たち」
あの洞窟は吸血鬼のものではない。つまりあそこは。
「そいつらの住処なんだってさ」
相も変わらぬ声色で飛び出した言葉に、額がじんわりと汗に染まる。そして色々な考えが頭の中に爆発する。
あそこが俺を狙う奴らの住処ならば、何故アーシュさんは襲われている? 吸血鬼を捕まえることが目的の彼が……いや、違うだろ。アジトに侵入されたから襲われた。そう考えるのが自然だ。
どうする? 怪我をしているアーシュさん、そしてコニーさん。俺が案内したんだ。そう、俺が案内した。しかもあそこに、吸血鬼は居ない。
「どこ行くの? ノーラちゃん」
無意識に踏み出した足が止まる。吸血鬼は岩に腰をかけたまま、草の地面に立つ俺を見下ろしてくる。白い肌に際立つ赤い瞳が、まとわりつくように光る。
「そ、そりゃあ助けに――」
「なんで? ノーラちゃん弱いじゃん、助けになんかなんないよ。せっかく面白い魔法持ってるのに、あんな妖精使いにも一人で勝てなかったじゃん」
返事を返しつつ閉じた目、それを吸血鬼の言葉がこじ開ける。否定のできない事実が、にやにやとした笑みと共に次々にやってくる。おまけに、あの戦いの最中も監視されていたという驚きもだ。だけど今は、そこを問いただしている場合でもない。
もう一度目を閉じて、景色を浮かべずに考える。ファンヌさんに知らせて共に助けに行くべきか? いや、それでは遅い。ならばせめてどこかで武器だけでも……。ごちゃごちゃに散らかった頭に、またへらへらとした声が響く。
「だから、あたしが一緒に行ってあげるよ」
ゆっくりと持ち上げるまぶた、深緑の木々を背に立ち上がる吸血鬼が見えた。細い腕に白い肌、黒いコートにスカート、およそ戦闘には向かないその容姿。だけど彼女はとんでもなく強くて、そしていま飛んできたのは、手を貸してくれるという願ってもない申し出だ。
問題は、これから助けに行く相手が吸血鬼を狙っていて、いま目の前にいる少女とも交戦した相手だということ。そして戦う相手は彼女の仲間だ。それを投げ掛ける。しかし、依然として吸血鬼は笑う。
「そんなの関係ないよ。もう裏切ったんだし、面白そうだから。ま、手助けするのに一つ条件があるけどね」
少しだけ不敵になった笑顔。また取引か。うんざりしたため息と共に、俺は息を呑んだ。