第二十二話 残夜に舞う妖精
夜の城に石の部屋、辺りの雰囲気も相まって、幾らか感動的な状況に思える。現に目の前の老人は目を潤ませていて、心を揺らしている。しかし言葉を投げ掛けられた俺が持つのは、よく分からないといった感情だけだった。
頼むというのはどういうことだ? 俺は彼女に狙われているというのに。
「すまない。喋りすぎたな」
抱いた疑問をよそに、老人は話を打ち切る。
これは言葉を挟まざるをえない。何もわからぬまま、何かを任せられるなんていうのはごめんだ。
「頼むっていうのはどういうことですか」
「いや、いいんだ。忘れてくれ」
手で目尻をぬぐいながら、ミレアスさんは平静を取り戻した声で言う。
当然、意味深なことを言われて忘れろなんていうのは無理な話。しかし、何度問うても老人は「気にするな」だとかそう言った言葉でしか返事を寄越してはくれない。そして挙げ句の果てには。
「そんなことより、君の話をしよう」
そう言って、深く息を吐いたのだ。もはや話題を後戻りさせる気は微塵もないらしい。
まったく、他人から何かを引き出すというのは難しい。今日一日で実感したことを嘆いてから、身体の力を抜く。どうやら、暇潰しはまだ続くようだ。
「私の話、ですか?」
諦めの表明として口を開けば、ミレアスさんは小さく笑う。
「その一人称も、もはや染み付いてしまったみたいだ」
カップがかちゃりと、皿に着地した。
妙な違和感が胸の中を唐突に転がり始める。正体はきっと、言葉を受けて久方ぶりに意識した一人称。今まで果てに追いやられていたその違和感が、慣れというものを嫌でも思い知らせてくる。馴染んでいたと言ってしまっても大袈裟ではないのかもしれない。
「使っていれば嫌でも慣れますよ」
「それはそうだ。で、君はどうしたい?」
「……どうしたい、とは?」
「元に戻りたいのかどうかということだ。自身も、そして世界も含めて」
気取った言い方だった。しかし要は柏木正一に戻りたいか、元の世界に帰りたいかという問いだ。そんなのはわかりきっている。一秒もかからずにはじき出せる答えがある。
「当然です」
新たな決意表明のように言った。顔をしっかりと上げて、視線を真っ直ぐにして。そうしたら老人はまたも笑う。何も可笑しいことはないだろうに。
更にはこちらが少し眉をひそめて見せれば、ばつが悪そうに咳払いをして、「いや、失礼」などと言って手を挙げるのだ。
「私は君の考えを嘘だというわけじゃない。現にさっき記憶を読んだ時にも、確かにその意思はあった」
「じゃあ、聞くまでもないんじゃないですか?」
「確かにそうだ。でも君が義務感で元に戻ることを決めたのならば、まだ考える余地はあるんじゃないかと思うわけだよ」
机の林檎の向こう、白い髪をかきあげた老人が得意げな顔をした。
義務感? この人は何を言っている。性別や歳、人種まで変えられて、挙げ句の果てにはこんな危険極まりない世界に放り出されたのだ、元に戻りたいと思うのは当然の考えに決まっている。そしてそれは義務感などではなく、心の底から俺が望んでいることだ。
僅かな怒りを含ませて反論をしようとする。だが、ミレアスさんがそれを許さなかった。
「今の君のほうが、生き生きして見える」
今度は向こうから、真っ直ぐな視線が飛んできた。さっきまでとは違う、真剣な眼差し。それにどきりとしながらも、彼が口にした言葉の内容を咀嚼する。
どういう意味だ? いつと比べて、今の俺は生き生きして見えるんだ? 爆発のように浮かび上がる疑問。煙が晴れれば、答えはすぐに見えてきた。しかしその向こうから、言葉が矢継ぎ早にやってくる。
「もちろん私は、君のいた世界のことを全て理解しているわけじゃないし、君の姿形が変わり果てた理由も原因もわからない。だけど今の君のほうが生きているという感じがする」
呼応するように景色がぽつりと浮かび上がった。それはここに来る前、俺が生きていた世界の光景。学校に行って独りで過ごし、独りで家に帰る。言葉を交わすのは家族だけという生活だ。
久しぶりに直視した帰りたい場所。思い出したら、身体の体温が下がっていくのを感じた。しかし反対に、頭の中は熱を帯びてふらふらと揺れ始める。
「それに、ほら――」
いつの間にか伏せていた視線に気付き、苦し紛れに顔を上げる。ミレアスさんは未だこちらを見つめていて、そしてまだ口を開く。
「――こちらには友達がいるじゃないか。ミカルやリブと言ったかな、あとはハンス君も」
冷凍庫の中に心臓を突っ込まれたような気がした。背中がじんわりと汗をかいていく。
「君だって友達の数を数えるくらいには、内心喜んでいたはずだ」
事実である言葉がどんどんと突きつけられていく。それは本来の俺を否定し、この世界に生きる少女の俺を肯定するような内容だ。今のほうが良いと、昔よりも生きているんだと、ミレアスさんはそう言いたいのだ。
「だから元に戻ることだけを考えるんじゃなく――」
続く老人の言葉を遮って、石造りの部屋に大きな音が響いた。心臓が飛び跳ねるほど躍動し、落ち着くことなく脈を刻み始める。驚いた。何の音だ? 誰が何をした音だ?
転がり落ちた林檎が右足に触れて、気付く。俺が机を叩いた音だった。
「……そういう問題じゃないんですよ」
自然と絞り出した言葉がミレアスさんへと向かっていく。
生き生きしてるだとかなんだとか、そんな問題じゃないんだ。元の世界での生活がどうだったとか、そんなことは関係がない。俺の身体はこんな女の子なんかじゃないし、こんな危険な世界のものでもない。
「俺は元に戻るんです」
だから前を向いて、そう言った。
大丈夫、この決意は他でもない俺のものだ。確かめるように胸に手を当てて、机の上の拳をゆっくりと解く。そうしたら、ミレアスさんが立ち上がった。
「気分を害したのならすまない。……そろそろ、君の目的を済ませようか」
鳴り止まぬ鼓動をよそに、こちらに歩み寄ってきたミレアスさんは俺の頭に手を伸ばしてくる。
目的、つまりは吸血鬼へと持ち帰る情報だ。これからやっとそれを伝えてくれるということなのだろうが、この伸びてくる手は何なのか。疑問に思いつつも受け入れれば、冷たい老人の指先が額に触れる。その瞬間、未知の感覚が襲った。
「私の魔法はこういうこともできるんだ」
近くにいるはずなのに、遠くで聞こえる声。頭の中には洪水のように景色が流れ込んでくる。
最初に現れたのはミレアスさんの姿だった。背景は彼の家の玄関口。だが次の瞬間、視点は揺らいで踵を返し、扉を開けて外に出る。差し込む陽の光に照らされて、数人の男女がこちらを見て何かを喋ってくる。
これは誰かの主観なのだろうか。ふらふらと動く景色に若干の酔いを覚えながらも見守れば、突如として映像が早回しのようにスピード感を増していく。シストリアの街を駆け抜けていく視界が、脳みそに刻み込まれるようになだれ込んでくる。
やがて景色は街の門を抜けて外に出た。しかしそれでも前進が止まることはない。主観は街道を進んだ果てで道を外れ、森を進んで野を行く。そうしたらその向こうに一つの洞窟が見えてきた。もちろん視界はそこに近付いていく。しかし。
「これが恐らく、別の吸血鬼の居場所だよ」
ミレアスさんの言葉を受けて、景色の奔流は止まった。まるで停止ボタンを押したかのようにぶつりと。そして残った頭の中では先程の道程をはっきりと鮮明に思い出す事ができる。恐らくは魔法のおかげ、理屈はわからないがこれなら問題はない。
妙な疲れを覚えて息を吐き出し、顔を上げる。何とも気持ちが悪い体験だったと視線をやって、浮かんだ疑問を飛ばした。
「……なぜ吸血鬼の居場所をご存知なんですか?」
「気にすることはない。それより、おまけを受け取ってくれ」
もはやお家芸のよう質問を断ち切り、もう一度伸びてくる手。またあの気持ち悪い感覚を味わわなきゃいけないのかと身体を動かすけれど、遅かった。
触れた指先から、景色が流れ込む。今度もまた誰かの目線で描かれた光景。つまりこれらはどこかの誰かの記憶なのだろうかと推察するが、そういった思考はやってくる情報に塗りつぶされる。
最初に見えたのは女性の後ろ姿だった。薄っすらと白んだ視界の中で、エプロンをした女性が台所に向かって立っている。小気味良い野菜を切る音に、ぐつぐつと煮える鍋から漂う匂い。
記憶の奥深くが刺激されて、直ぐに理解した。これは小さい時の俺の記憶だ。きっと小学生くらいの時、低い視線から見上げる女性は、紛れもなく俺の母さんだ。
「君の記憶を少しくすぐらせてもらった」
蚊帳の外から聞こえるミレアスさんの声をよそに、記憶の中の俺は歩き出す。台所から出てリビングのテーブルにつけば、向かいに見覚えのある顔が見える。
父さんだ。少し若く見えるが、父さんに違いない。食卓で肩肘をつき、テレビに目を向けている。何気なかった遠い日の記憶だ。
血生臭い戦いもなければ、人智を超えた魔法の力もない世界。だけどとても大切な、俺の帰る場所。
鼻がつんと熱くなって、目元がじわりと濡れていく。俺は情けなくも涙を流していた。
「少し酷かもしれないと思ったが、君の原動力になってくれればと思ってね。もう怠惰に時間を潰すことのないように」
遠い日の記憶が途絶えて、ミレアスさんがこちらを覗き込む。
何なんだこの人は。やり方はあれだけれど、さっきとは真逆のベクトルで俺を応援してくれている。揺れる頭でこぼれ落ちる涙を拭えば、老人は小さく笑みを浮かべた。
「まあ、休むことも大事だが」
よく分からない人だ。そんな素直な感想を持って、立ち上がる。もう行かなくては。目的は果たしたし、少しの気恥ずかしさもある。
「えっと、その、ありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとう」
俺が何をしたのかはわからないが、お互いに礼を交わし合う。
さあ、行こう。髪の毛が当たった耳元に触れてから、鼻をすすって目を閉じる。だが、老人は再び口を開いた。
「最後にくたびれた年寄りから助言をさせて欲しい」
またも真剣な声色と表情だ。もちろん無視するといった選択肢はないだろう。
「一つ、今後も余程信頼の置ける相手以外には、君の正体を隠すべきだ。無駄な波風を立てる必要はないし、君が考えるように今の状況は最大限に利用するほうが良い」
つまりは今まで通り少女として生きろということだ。目的のためならば、確かにそのほうが良い。
俺は頷く。
「二つ、良く考えて、慎重に行動して欲しい」
今までの行動を咎めるようなニュアンスが感じ取れるが、まあ致し方ないのかもしれない。何しろ足りない頭なのだ。しかし、精一杯振り絞るべきなのは確かだろう。
また、頷く。
「三つ、私のように国に仕える気がないのであれば、この城には近付くべきではない。空白の魔法とやらもできるだけ隠すべきだ」
「……国に仕える、ですか?」
「そうだ。私は残り少ない人生をこの国に捧げることにした。珍しい魔法は重宝されるからね。妙な歓迎の儀式で今はこんな部屋にいるが、明日からは晴れて王に仕える身になる」
「そう、ですか」
横の机に目をやる。確かに色とりどりの料理達には歓迎の意味があるように思える。しかし、それにしたってもう少しまともな部屋はなかったのだろうか。
腑には落ちないが、頷く。そうしたらミレアスさんは、一つ息を吐いてから白い髭を撫で、もう一度口を開く。
「最後に聞きたいことが一つある。君は幼少の頃を覚えているかい? 例えばほら、四、五歳の時のことだ」
飛び出してきたのは、意図の理解できない質問だった。
幼稚園に通っていた辺り、鮮明ではないものの断片的には記憶している。
「え? まあ、そりゃあ薄っすらとなら。何故ですか?」
「……いや、大した事じゃない気にしないでくれ。それより、今更かもしれないが急いだほうがいい。朝ももう近くなってきた」
窓の外を見たミレアスさんに続いて、視線を外に向ける。遠くの空が少し明るくなってきていた。
色々と追求したい気持ちは無くはないが、急いだほうがいい。大事な場所へ帰る目的のために。
「えっと、それじゃあ、また」
「ああ、さようなら。健闘を祈っているよ」
ミレアスさんの優しい微笑みが、まぶたの幕に消えた。
さあ、今度こそ行こう。
次に目を開く時、そこはあの地下室のはず。自ら目的地として選んだのだから当然。しかし、前方に広がるのは見たことのない景色だった。
「……え?」
思わず声を漏らしながら、辺りを観察する。立ち並ぶ家々から見るに、どうやらシストリアの街の中ではあるらしい。きっとどこかの細い裏通りだろう。梯子で屋根に上ったあそことも違うけれど。
幸いなことに人通りは無い。しかし、一体どういうことか。今までにこんなことはなかった。俺が何かミスをしたのか? そんな風に頭を捻ってみても、正解はわからない。ならばともう一度目を閉じて、開く。当然ながら行き先は地下室だ。だけど。
「おい! 何だお前は!」
突如として聞こえた男性の声に、思わず身を震わせる。違う、アーシュさんの声ではない。そしてここも、あの地下室ではない。
「ちょっと、何よあんた!」
続いて聞こえた女性の声。ファンヌさんの声ではない。そう、ここは民家だ。それも見ず知らずの人達、つまりはいま俺の目の前、ベッドの中で裸で抱き合っている男女の、だ。
「あ、えっとその、失礼しました! ごゆっくり!」
何というタイミングの悪さ。咄嗟に謝ってから、目を閉じて移動する。あの二人にばっちりと目撃されてしまったわけだけれど、正直いまそれを気にしている余裕はない。そんなことよりも大事なのはこの異常事態だ。
今度こそ目的の場所であってくれ。祈りながら目を開ければ、そこはまたもどこかの裏路地。しかも三方を壁に囲まれた袋小路だった。
何が何だかわからない。思った場所に移動できないだなんていうのは今回が初めてだ。思わずしゃがみ込んで、項垂れる。妙な胸騒ぎがしてきて、これ以上魔法を使うなと誰かに警告されているような感覚を覚える。
ならば歩いて帰るか? けれどここがどこか分からなければ帰り道だってわかりゃしない。まあそれでも大通りに出れば……。右往左往する思考は、頭上の空に振り回される。紫色が浸食されつつある空、もう朝が来る。このままでは時間切れだ。
「……なんなんだよ」
苛立ちから思わず愚痴をこぼす。だけどこうしていても仕方がない。決めかねたままでとりあえず立ち上がり、顔を上げる。そうしたら袋小路の出口、つまりは唯一壁の無い前方、そこに一つの影があるのに気付いた。
先程までは無かったはず。跳ねる心臓でそれを観察する。棒切れのように細い足。最初に認識できたのはそれだけ。
「こりゃあ運が良い! あいつらのヘマのおかげだ!」
次に視認できたのは、ご機嫌な言葉を紡ぐ口。歯並びは悪く、上がる口の端では唾液が糸を引く。
はは、まただ。どこか冷めた苦笑いを頭の中で浮かべる。もはや直感でわかる。また俺は襲われるのだ。
少し震えだした足で後ずさり、壁に背中を付ける。前方からは人影が一歩一歩とこちらに近づいてくる。後数メートル。距離は縮まり、もはやその全身を見ることができる。
影は一人の男だった。酷い猫背にボロのジャケットをかぶせ、乾いた黒髪をバンダナに収めた青年。
「あんたがノーラ、だろ?」
そいつはもう一度立ち止まり、こちらを向いて言った。
俺はそれを聞きながら、目線だけで辺りを見回す。どうやって逃げる? そんな考えの表れだ。もはや怪しいなんてもんではない。吸血鬼と同じく、面識も無いのにこちらの名前を知っているのだ。
しかし、どうやらいま俺の魔法は調子が悪いらしい。おまけにここは袋小路。だからだ、まるで心臓が縮んでいくみたいに不安が広がっていく。
「ど、どこかでお会いしましたか?」
間を繋ぐ、時間を稼ぐ。そのために声を掛ければ、男は赤らんだ顔を歪めて笑った。
「いやあ、僕があんたと会うのは初めてだ。でも僕の友達は、もうあんたと会ってる」
男は自らのこめかみを叩く。
どういう意味のジャスチャーだ? というかそれより、友達というのは誰のことだ? 吸血鬼やウインダルのことか?
疑問への思考と逃げ道の探索、そんな並行作業を数秒。どこに辿り着くのかはわからないが、もう魔法で逃げるべきかもしれない。そう思い始めた頃合いに、男が小さな瞳を大きく見開いた。
「な、なんだあ!? おい! あんた今、僕の友達に何をしたんだ!?」
夜の路地に響く素っ頓狂な声。住民の皆さんが予定より早く目覚めてしまいそうな大声で、男は何かを喚き出した。上半身をこちらに乗り出し、手袋に包まれた指でこちらを差して。
何をしたと言われても、俺は何もしていない。目の前のこいつが言うことは全くもって意味不明だ。だが少しだけ、先程の疑問の手掛かりとなりそうな言葉があった。
幸いこっちに近付いてくる様子はない。大丈夫。相手が唐突な動きを見せても、何とか魔法を使える距離だ。だから口を開き、もう少し情報を引き出す。
「お、落ち着いてください。私はあなたの友達に危害を加えるようなことはしませんよ」
「じゃあ僕の友達はどこに行ったんだ!」
「それは私にもわかりません。というよりあなたの友達のことを私は知りませんから、危害を加えようがありませんよ」
両手を掲げて宥めるように言えば、前のめりになっていた男の身体が元の猫背へと戻る。そして彼は自分の右手の手袋を外して口に咥え、裸になったその人差し指を額に当てた。
何かの儀式か、もしや魔法か。心に生まれた緊張感が辺りの空気を張り詰めていく。
「……僕の友達は丸っこくて小さい、大きな目玉がくりくりの妖精さんなんだ。羽だって生えていて、さっきまで僕と糸で繋がっていた。だけど今、ついさっき、死んだ」
言葉と共に、男の両腕がだらりと垂れる。妖精、糸、聞き覚えのある言葉達を組み立てようと頭が回転を始める。しかしそれよりも、目の前の男が纏い出した空気に目が釘付けになる。
男は右手の人差し指で、勢い良く俺を指差した。
「許さないぞ! 今度はもっと強い友達だ!」
怒りのこもった表情に身体が一瞬震える。しかし、何も起こらない。辺りはさっきまでと同じで何も変わった様子は――。
「ひっ!」
唐突に耳元で何かの羽音が聞こえた。反射的に伸びた右手でその出所を叩くが、遅かった。
何かがもぞもぞと耳道を進んでくる。頭を抱えたくなるほどの不快感に、片膝をついて崩れ落ちる。まずい、何かがまずい。情報を引き出そうとなんかせずに逃げれば良かった。猛烈な後悔に押し潰されて尻餅をつく。
気持ちが悪い。気色が悪い。そんな言葉が蠢く脳内に散りばめられる。うめき声を上げながら転がり回る。もう駄目だ。しかしそう思った瞬間、苦しみは唐突に終わった。
「……また死んだ」
断続的に吐き出される息と、開け放した口から垂れる唾液。そんな風に這いつくばる俺を見下ろして、男はぽつりと呟いた。
死んだ? 何がだ? ……いやこれはわかる。きっと俺の耳に侵入してきた何か、そうたぶん妖精が、だ。そいつが今、ここで死んだのだ。理由なんてもんはわからない。だが確かなことは一つ、逃げるなら今だということ。
ぐったりと地面に寝転んで、目を閉じる。どこでもいいからとにかくこの場を離れる。しかし景色を描くよりも前に、今度は脳内を爆音が襲った。
「僕の友達をどこにやった! どこに!」
飛び立つジェット機、その真下にいるかのような轟音が頭に直接鳴り響く。思わず地面に爪を立てれば、今度は耳から、怒りを露わにした男の声が聞こえてくる。
きっとまた妖精の仕業だ。四つん這いで悶え、垂れる髪の隙間から男を睨む。
なんなんだよ一体。さっきから訳のわからないことばかり言いやがって。友達だって? そんなもんはこれっぽっちも知りやしない。
苦しみの向こうから段々と怒りがこみ上げてくる。そうしたらまたも唐突に、理不尽な攻撃は止んだ。
「くそっ! また死んだ!」
今だ。舌を打つ男の声をよそに、両の指で耳をふさぐ。そして急いで目を閉じて、頭の中に景色を描く。どこでもいいから、早く、早く。
しかし気休めの対抗策虚しく、まぶたを持ち上げようとしたその瞬間、ぞわりと耳元が震えた。まずい、また妖精が。
間を置かずやってくる激しい頭痛に目を開ける。一体いつまでこの攻防は続く? 声にならない叫びを上げて、絶望と共に開ける視界。そこに男の姿は無かった。おまけにそこは、袋小路の路地裏でもなかった。
「……コ、コニーさん」
そう、俺はコニーさんのところ、つまりはリネーアさんの家の前に寝転んでいたのだ。決して考えてここを選んだわけではない。きっと無意識の選択だ。だけど、あまり得策とは言えない。
シャツとローブ越しに伝わる石畳の冷たさが、少しだけ頭を冷静にしていく。どうやら魔法は成功したらしいが、この激しい頭痛は収まりそうにない。妖精も一緒に連れてきてしまったのだろうか? 人間は運べないというのに。
苦し紛れの苦笑いをこぼしながら立ち上がる。不快感に頭を振って耳をいじるが、そんなことでどうにかなるようなことでもない。
なら、どうする? 目の前の扉を見つめながら考える。コニーさんに助けを求めることもできるが、ここではリネーアさんも巻き込んでしまいかねない。妖精がここにいる以上、あの男は今の俺の位置を把握しているかもしれないのだ。
だからとにかく、ここを離れるべきだろう。無意識の選択で魔法を無駄に使った形になるが、致し方ない。そう考えて足を踏み出す。しかしその瞬間、頭を猛烈な痛みが襲った。
自然に膝は折れ、しなだれ掛かるように扉に体重を預ける。どうした? 何故急に痛みが増した? 額を手で押さえながら辺りを見回す。
二方に伸びる道路は、光り始めた夜空の下で静かに横たわるのみ。人通りは無い。けれど道路の向こう、折れ曲がる路地の中から不意に人影が飛び出した。
全力で腕を振るい、棒切れのような足を動かして、そいつはこちらへと走ってくる。
「見つけた。近くで良かったよ」
さっきの男だ。こちらと数メートルの距離を保ったところで立ち止まり、男は上着を捲って腰のベルトからナイフを抜く。
「僕の友達をどうしたか、話してくれる気になったか?」
追跡が早すぎる。朝靄を刺して向く切っ先を見つめ、俺は舌打ちをした。