第二十一話 老人の思い
「――ってこと」
吸血鬼は自らの提案の目的と、その内容を述べた。それを聞き終えた後でも、俺の気持ちはさっきまでとあまり変わらない。だけど少しだけ、本当に少しだけは前を向ける。
「……わかりました」
こちらが目的を果たして帰って来れば、質問に答える。口が酸っぱくなるほどの言葉を投げかけて、その約束だけはしっかりと取り付けた。まあどこにも保証はないわけだが。
扉を閉めて錠前に鍵をかけ直し、俺は踵を返す。妙な緊張感とざわついた心。反響する足音とともに歩を進めれば、背後から声が聞こえた。
「じゃ、よろしくねー。ノーラちゃん」
何とも呑気なものだ。自分だってこれからどうなるかわからないというのに。
呆れた足取りで声を振り切り、階段を上がる。その果てで扉を抜けると、差し込む月明かりが瞳に触れた。これが太陽に退かされる前に、ここへと戻ってこなければならない。つまりは思っているよりも時間はないのだ。何しろわからないことが多すぎる。
早足で隠れ家を回り込んで、相も変わらずがらんとした玄関から中へ入る。そこには俺を待ち構えるように卓につく二人がいた。近寄って、机に鍵を置く。
「ノーラちゃん、大丈夫?」
「はい、大丈夫です。それより私は用が出来たので少し出てきます」
早々に踵を返し、もう一度玄関へと歩を進め始める。すると後ろから椅子を引く音が聞こえた。きっとファンヌさんが立ち上がった音だ。しかしそれを制するように、黙っていたアーシュさんの声が飛ぶ。
「吸血鬼をここから連れ出すのは夜明けだ。あと、はっきりさせておく。俺たちは目的を果たした。だからお前を手伝うことはしない。以上」
「……ありがとうございます」
吸血鬼に交換条件を出されたこと、彼にはお見通しのようだ。だからご丁寧にも、改めてタイムリミットを知らせてくれた。更にはおまけに、助けが期待できないという事実もだ。
だがまあ、はなから助けを求める気は無かった。この二人にも、そしてもちろんコニーさんにも。やはり吸血鬼の言う通り今回の件には俺が適任で、他者による有効な手助けの手段もあまり思い浮かばない。だから、一人でやるのだ。
玄関をくぐり外に出て、懐から黒い布を取り出す。先ほど吸血鬼から貰ったもの、ミレアスさんの家の前で彼女が素顔を隠すのに使用していたあれだ。俺もこれを同じように使う。鼻と口を覆うように巻き付けて、頭の後ろできつく結ぶ。そして極め付けにフードを被れば完成する潜入スタイル、ちょっとした忍者気分だ。わくわくはしないが。
息を吐いて上を見る。ここからでも目的の場所、城の一部を遠くに見ることができた。立ち並ぶ屋根の向こうにあるシストリア王城。最終目標はその中のミレアスさんだが、まずは城自体に近付くことから始めなくてはならないだろう。大丈夫、周りに人は居ない。
目を閉じる。大して期間は空いていないが、随分と久しぶりに感じる感覚を経てまぶたを上げる。そうすれば、身体は大通りの裏路地にあった。幸運なことに移動先でも誰かに目撃された様子はない。
ほっと胸を撫で下ろすが、心配事が一つ。魔法使用の残り回数だ。額に手を当ててみる。まだ頭痛や吐き気を感じることはないが、イルネアの時のことを考えれば以前にカウントした最大使用回数はどうにも当てになりそうにない。つまりは未知、不安定。
城の中に直接移動できればどんなに余裕ができるか。そんなことを考えるが、出来ないものは仕方がない。頬を叩いて眠気を飛ばし、路地裏から大通りを確認する。
人通りはほとんど無いが、皆無というわけではなかった。こんな時間だというのにさすがの大都市といったところか。その中で厄介なのは、ランタンと武器を下げて巡回する衛兵らしき人達だろう。真夜中に小さな少女、すれ違って反応が無いわけはない。
大通りを進むことは諦め、城の方角だけを確認する。後は路地裏を縫っていこう。考えがまとまったところで踵を返して走り、角を曲がる。しかしその直後、俺は何かにぶつかり尻餅をついた。
「君、こんな時間に何をしてるんだ!」
伸びてきた無骨な手とともに、そんな言葉が飛んできた。酒に焼けた男の声だ。手を借りて立ち上がりながら見れば、その人はさっき見たのと同じ衛兵の格好をしていた。くそっ、面倒なことになった。ランタンの明かりに照らされて、男の真っ赤な顔が浮かび上がる。
「ああ、いや、えっと、ちょっと散歩を」
「散歩だってぇ? そんな泥棒みたいな格好をして散歩か?」
「え、ええ、まあ」
「そいつはお勧めしないな。今日は特にだ」
「……何かあったんですか?」
逃げる機会を伺いながら、単純な好奇心で問う。そうしたら男は一つしゃっくりをした。
「誘拐だ、誘拐! ……いや、正確にはまだわからんが、とにかく子供が行方不明になった! それも三人、少なくとも三人だ!」
三本の指を立てた男がこちらに顔を寄せてくる。息が随分と酒臭い。つまりは非番のところを急遽駆り出された、そういうことなんだろう。
「だから君も――」
男がしゃっくりをして目を閉じた瞬間を見計らい、踵を返して別の路地に逃げ込む。相手は酔っ払い、簡単に巻くことができた。
息を吐き出し額の汗を拭う。誘拐、行方不明、随分と物騒な情報を聞いてしまったが、俺がこれからやることに変わりはない。だから気を取り直す。
冷たい空気と暗い闇が立ち込める細い道を、足元に気をつけながら進む。しかしその気配りも虚しく、途中で何かを蹴っ飛ばしてしまった。全く、トラブルの連続だ。立ち止まり、下を見る。乾いた音で地面に転がったそれは木製の梯子だった。
急いでいるが放っておくのもあれだろう。仕方なく持ち上げ、苦労しながら民家の壁に立てかける。そうしたらふとある考えが浮かんだ。
「……危ないよな。いや、でも」
心を落ち着けるためなのだろうか。自然と出た独り言を飲み込んで、梯子の続く上を見上げる。どうやら屋根まで行けそうだ。
腕を組んで、しばし頭を悩ませる。しかし時間、魔法、頭痛、様々なものを天秤に掛けた末に、結局俺は梯子を上った。
比較的傾斜の緩い瓦屋根を慎重に上り、やがて天辺までたどり着く。額の汗を拭って一息、またがるように屋根に座って手に付いた汚れを払い落とす。結構体力を使ったが、ゆっくりとしている時間はない。だからすぐに顔を上げ、先ほどより近付いた王城の尖塔を見た。城のところどころには松明か何かの明かりが焚かれていて、ここからでもその姿は視認できる。
高いところに上がって視界は開けた。周りにはまだいくつか高い建物はあるが、目的にはここで十分だろう。
星明かりと月明かりに眼を凝らして、尖塔の先端から視線を下げていく。城の下部は民家たちに隠れてしまっていて見えない。まあ想定の範囲内だ。今度はもう一度、視線を上げる。尖塔の中腹辺りに、格子状の覆いが施された小さな窓が見えた。
やるならあそこか。まあ最適ではない。だが、やる。俺は目を閉じて、頭の中に景色を描く。直ぐには瞼を上げない。深い深い呼吸で心を落ち着けてから、目を開けた。
「……ひっ!」
覚悟虚しく、次の瞬間に漏れる情けない声。感じるのは耳元を吹きすさぶ夜の風と、全身を地上へ引っ張り行く重力感。俺は慌てて手を伸ばし、窓枠の格子に掴まる。更には左足を持ち上げてそこへと絡ませ、何とか体勢を立て直した。
少し無茶をしすぎただろうかと今更の後悔を抱くが、いや大丈夫と無理矢理に気を取り直す。時間は短縮できたのだから、結果オーライだ。
冷たい空気を吸い込んで、もう一度心を落ち着かせる。ここまでは順調だが、こういう場合は絶対に下を見てはいけない。俺が今いるのは地上高く、そんなことをしては身体が固まって動けなくなってしまう。だけど。
「やばいやばいやばい」
何故か無意識に、ちらりと眼下を捉えてしまった。すぐに顔を上げるが、脳裏に焼き付いた恐怖はそう簡単には拭えない。遠くに見える地面と、見上げていた木々を見下ろす感覚が身体を支配する。まるで命綱なしのビル清掃員状態だ。
長く続けていればそれこそやばいことになるだろう。だから格子に顔を近づけて、窓から尖塔の中を見る。そこは蝋燭に照らされた螺旋階段だった。
命の危機から逃れるように目を閉じて、開く。そうしたらすぐに、地に足をつける心地の良い感覚が帰ってくる。やはり人間はこうでなくては。
一息をついてから、ゆっくりと螺旋階段を上っていく。吸血鬼からの情報によれば、ミレアスさんはどうやら高いところにいるらしい。根拠が何なのかまでは教えてくれなかったが、俺がいる隠れ家を襲撃したことも考えれば、吸血鬼の能力か何かということなのかもしれない。
僅かに息を切らしながら最上階にたどり着く。すると、また別の尖塔へと向かう石の通路があった。天井は無く、満天の星空を頭上に見ることができる。元の世界とは違うその光景にほんの少し見惚れながら進めば、今度は扉が立ち塞がった。
所々が鉄によって補強された頑丈な木の扉には、小さな覗き窓が付いている。そこから中を覗けそうだ。何度かジャンプを繰り返して、窓を遮る鉄板をゆっくりとスライドさせていく。それが終われば、渾身のジャンプで覗き窓に手を掛ける。そして両足を使って身体を持ち上げ、やっとのことで扉の向こうを見ることができた。
「何の用かね?」
聞こえた声に、一瞬だけ身を震わせる。だがその主の姿が見えた途端に、気持ちは安堵へと変わった。良かった、思っていたよりもずっとスムーズに事が運びそうだ。
部屋の中には白いローブを身に纏ったミレアスさんが居た。木の椅子に座ってカップを手に持ちながら、こちらを見ていたのだ。それは想像とは違って随分と優雅な姿。おまけに彼の前のテーブルにはクロスが掛けられ、沢山の料理が並んでいる。一体どういう状況だ?
まあそれも、本人に聞いてみるしかない。だからすぐに覗き窓を閉めて、魔法で扉を超える。ミレアスさんに目撃されるのはもう致し方がない。
「驚いた、君は確か――」
「はい。昼にお会いした、ノーラといいます」
円形の部屋の中に降り立ち、口元のバンダナを外してフードを下ろす。そうすれば目的の人物がカップを置いて、白い髭を撫でながら凛とした視線をこちらに注いでくる。
突然現れた俺に驚いている様子だ。まあそれはそうだろう。だが次の瞬間、驚くのは俺のほうだった。
「――カシワギショウイチ君だ」
「え?」
老人が口にした言葉に思わず声を漏らす。当然だ。暫くのあいだ耳にしていなかったとはいえ、自分の名前を忘れる訳はない。しかし、柏木正一というその名は、今の身体が持つ名前ではない。決してここで登場するはずのないものだ。
「な、あ、えっと、何でその名前を」
舌が回らなくなり、頭の中が渦を巻いていく。この人が何を知っているのかわからない不安と、何かを知っているであろう希望、そんなもの達がごちゃ混ぜに脳内を駆け巡って、顔が熱を帯びていく。
質問に答えてくれ。何故、俺の本名を知っている。心で催促を繰り返しても、ミレアスさんは対照的に落ち着き払った仕草を見せる。もう一度カップに手を付けて、ごくりと飲んだのだ。
心がざわついて、苛ついた。
「早く答えてください! 何で私の名前を知ってるんですか!」
似合わない大声が、石造りの部屋に反響する。
「少し静かにしてくれないか。時間がないわけじゃないんだ」
うるさい。あんたには時間があるのかもしれないが、こちらには無いんだ。そんな風に口にしようとするが、今ここで城の兵士達に押しかけられたら困るのは事実だ。
だから本日幾度目かもわからない深呼吸をして、早る気持ちを押さえつける。そう、冷静になるべきだ。今は熱くなって得をする状況でもない。
「……すみません」
心も身体も火照ったまま。だが、何とかそんな言葉をこぼす。そうしたらミレアスさんが、平手を差し出して自らの向かい側、テーブルを挟む位置の椅子を示した。
まあ、座れ。そういうことなんだろう。
望み通り席についてやれば、目の前に広がる様々な料理たち。肉や魚に果物も、この世界に来てから見たどれよりも手が込んでいるように見えた。
「腹が空いているなら食べるといい。私が用意したものじゃないがね」
「いえ、遠慮しておきます」
「……そうか」
今はそんな状況じゃないんだ。いいからさっさと質問に答えてくれ。またも頭が熱くなるが、自制心で抑え込む。そうしたらようやく、ミレアスさんが俺の求めている話題に歩み寄り始めた。ゆっくりと開かれる老人の口。しかしそこから飛び出したのはまたも、大きな驚きをもたらす言葉のオンパレード。
俺が偽のラブレターに釣られて悪魔に襲われたことや、異世界にたどり着いてコニーさんに保護され、道化師や鳥人間、蜘蛛女と戦ったことなど、彼の口からはこれまでの俺の変遷が嘘偽りなく、高い完成度を持って語られる。
「これは全部正しいかな?」
言葉が出なかった。この老人はまるで神のように、こちらの名前はおろか、経歴までもを全て把握している。そんな度の過ぎた驚きが冷却材となって、熱かった頭が冴えていく。そして気付いた。この状況に説明がつく可能性はこれしかない。
「それは魔法で、あなたの空白の魔法で知ったことですか」
ミレアスさんがここにいる恐らくの原因、空白の魔法。情報を得た理由はそれ以外に考えられない。
予想通り、老人は俺の問いに頷いた。そしてまたも白い髭を撫で、考え込むように目を閉じる。
「そうか、そう呼ぶのか。普通でない魔法だとは思っていたが、私は長年その呼び名を知らなかった」
何やら感慨深そうに、噛みしめるように放たれた言葉。名称こそ知らなかったようだが、やはりこの老人は空白の魔法を使うことができる。
「人形劇が終わった後、私は君の記憶を読んだんだ」
そしてその正体は直ぐに明かされた。他人の記憶を読むという、何とも信じ難いものとして。しかし、アーシュさんが隣人から聞いてきた情報とも整合性が取れている。もちろん、俺の過去を知っているということともだ。
「勝手に過去を漁ったこと、申し訳ないと言うべきなんだろう。だけどまたここで、その空白の魔法とやらを使ってもいいだろうか。君がここにやって来た理由を知りたい」
「……特に害がないのならば、構いません」
口で説明させるよりも早いという判断だろう。あまり気分の良いものでないのは確かだが、こちらとしてもそのほうが楽ではある。恐らくは口頭よりも遥か正確に物事を伝えられるのだから。
ミレアスさんは腰を浮かせて、机越しにこちらへと手を伸ばしてくる。頭に触れること数秒で、記憶の読み取りは終了した。もしかすれば少し口に出し辛いようなあんな過去やこんな過去も見られてしまったのかもしれないが、今更恥ずかしがったところでどうしようもないことだ。
「そうか、あの吸血鬼が」
再び腰を下ろしたミレアスさんは、小さな声でそう呟いた。やはり二人には面識があるらしい。その辺りのことも聞きたい気持ちはある。しかし、いま必要な情報ではない。だから割り込むことはせずに、続く言葉を待った。
「魂を移動させる魔法のことは知らないが、別の吸血鬼の居場所には心当たりがある」
そうすればやってくる本来の目的。俺は、いや吸血鬼はこの情報を欲していたのだ。
『別の吸血鬼の情報をあの人達に教えれば、あたしのこと解放してくれるかもしれないでしょ?』
物置の吸血鬼は、そんな言葉を呑気にも語った。身代わりを立てて既に捕まっている自分を解放させようという考えなのだ。
正直に言ってしまえば、上手くいくとは思えない。例え他の吸血鬼の情報を手に入れたところで、アーシュさんが既に捕まえた獲物を解放するわけがない。だがそれでも、情報を持ち帰るだけで俺の質問に答えると彼女は明言したのだ。作戦の成功は問わないと。つまりは俺にとって最高の条件。だから乗った。
「本当ですか?」
「ああ。……しかし君も律儀な男だ。しばらく時間を潰してから適当な情報を伝えれば良かったものを。彼女はその程度でもきっと騙される」
ミレアスさんは苦笑いを浮かべる。
まあ、確かに言う通りかもしれない。あの吸血鬼の言動や今回の提案のことを考えれば、簡単に騙されてくれるような気もする。だけどやっぱり、そういう気にはならない。
「でも、もうここまで来てしまいましたから」
「……確かにそうだ」
鼻を鳴らして笑ってから、ミレアスさんはまたカップに手を伸ばす。料理に手をつける様子はない。
「情報は教えよう。しかしその前に少し、話に付き合ってくれないだろうか。朝まではまだ時間がある」
「話、ですか?」
「ああ。老人の暇潰しだ」
確かに夜明けまではまだ長いのかもしれないが、余裕を持って行動をしておきたい。だからそんなことに付き合っていたくはないが、吸血鬼の時のようなことになっても困る。あまり逆らって機嫌を損なうことは避けたほうがいいかもしれない。
「はあ。まあ、わかりました」
「ありがとう。じゃあまず、君に一つ聞き忘れていたことがある。彼女の、あの吸血鬼の過去を知ってどう思った?」
ミレアスさんは劇のことを指している。つまりあれは作り話などではなく、れっきとした事実だということだ。
予想していたことでもあるから納得はするものの、どうにも心が重くなる。と同時に、ある疑問が浮かんだ。
「あのー、それは魔法じゃわからなかったんですか?」
「ぼんやりとならばわかる。だけどはっきりとしたものではないから、君の口から聞きたい」
疑問は真剣な声で制された。どうやら記憶の中の俺の感情も知ることはできるらしい。何とも恐ろしい魔法だ。でも今は口で言えということ、だから頭を捻って、言葉をまとめることに集中する。
夜の住人である吸血鬼の来村や病弱な少女との会話、思い起こされるものはいくつもあった。だけど最も鮮明に刻まれているのは、あの地下室での出来事だ。一方的な暴力と少女の言葉、それらがもたらした俺の考えは。
「……可哀想、って思いました」
零れ落ちるように言葉が出た。傲慢だとも思ったけれど、率直に浮かんだのはどう考えてもそれだ。
「誰が?」
「全員です」
「ハンス君と同じ意見だ」
どこか満足そうに笑って、ミレアスさんは髭を撫でた。皺の刻まれた目元が遠くを見るように細まる。
「三年前に彼女の過去を知った時、私もそう思ったよ。だがずっと考えてきたんだ。それが正しい感情なのかどうか」
「……なぜですか?」
「村人や少女に同情を寄せるのは当然だ。しかし吸血鬼に対しては違う。私は吸血鬼という生き物の残虐さを知っていたし、彼女だってそれを持っていた」
慈しむようにカップを撫でて、老人は微笑んだ。話の内容とは裏腹の穏やかな顔で。
知っていたという言葉から想像できるのは、あの吸血鬼の過去を知るよりも前に、ミレアスさんは他の吸血鬼に関しての何かを体験しているということだ。それについて、いま問うことはできる。だけど話の腰を折ってまで言葉を挟む気にはなれなかった。ミレアスさんの態度や声色は、誰かに話しを聞いてもらいたい、ただそれだけに見えたから。
「……同情の心に自信が持てなかったんだ」
次の言葉で、穏やかな表情が曇る。
吸血鬼を一人しか知らない俺でも、その言葉には共感できた。人形劇を通してとはいえ吸血鬼が沢山の人を殺めているのを見ているし、それを気にしていないような軽い発言たちも聞いている。しかしさっきの言葉通りの感情が、心の奥にあるというのもまた事実なのだ。きっとミレアスさんも、そういうことなのだろう。
机の向こうの老人は、更に言葉を続ける。
「劇を見に来てくれる人はそう多くなかったが、来てくれた客には全員あの話を見せて感想を聞いたよ。君やハンス君、私のような意見もあった。しかし、吸血鬼を恐れる声ももちろんあった」
自分の抱いた感情、その是非を他者に問うための人形劇。俺が見せられたのは、そんな意味のあるものだったのだ。
「私は人形を通した客達とは違い、限りなく生に近い形であの事件を見て、感じた。そして劇にはしていない吸血鬼のその後も知っている」
ミレアスさんの語りは続く。静かな夜が広がって、二人だけしか居ない部屋。言葉は確かに俺へ向けられている。だがどうにも蚊帳の外のような、妙な疎外感も感じる。
「あの件以来、彼女は人間を殺せなくなっていたよ。血を吸うこともね」
頭のなかに浮かぶのは、首筋に牙を立てる吸血鬼の姿。確かに俺は、彼女が実際に人間の血を喰らう瞬間も人を殺す瞬間も見ていない。アーシュさん達に対して暴力は振るっていたが、彼らの命だって奪ってはいない。
考えながら、視線を合わせ直す。
「そして私は今、君におかしなことを言いたくてたまらない」
ここで初めて、ミレアスさんの言葉が本当の意味でこちらに向いたような気がした。
「彼女を頼む」
僅かに涙ぐんだ声だった。