第二十話 動き出す
よろけた吸血鬼の動きは、数歩の余韻の後に終わった。廊下を抜けた部屋の中央で、少女は背を猫のように曲げ、だらりと両腕を垂らす。おまけに目を見開き、額には酷い汗をかいていた。蒼白の顔面も相まって今にも倒れそうな重病人の様相に見える。そしてそれは間違いではなかった。
月明かりとランプのコントラストに、もういちど黒い羽が舞う。吸血鬼は顔面からうつ伏せに、何の防御もなく吐瀉物の横に倒れこんだ。いささかマヌケな光景に多少の申し訳無さを感じるが、まあそんな場合でもない。だから少しだけ後退り、観察する。息は聞こえた。生きている。
鮮血に染まる頭髪は視界の端に押しこめて、次に注意を向けるのは彼女の背中へと不自然に張り付いたままの羊皮紙だ。こちらを向いた表面には、数十行に渡る文字の羅列が書かれている。だがアーシュさんが先ほど記したと思われる血文字の部分はごく一部で、その他は普通の黒いインクが使われているようだった。内容はやはりわからない。しかし、吸血鬼がいきなりこのような状態に陥ったのもこれが原因なのだろう。
「心配するな、もう動かん」
目を細めていると視界が影に落ちた。顔を上げて横を見れば、歩み寄ってきた二人がこちらを見下ろしてくる。三角巾に腕を収め直すファンヌさんと、少しだけ心配そうにそれを見るアーシュさん。痛々しい姿だった。特に痛みに眉をひそめ、返り血に汚れたファンヌさんが。だけど今の言葉を信じれば、この二人は勝ったのだ。リベンジを果たして吸血鬼を生け捕りにした。詳しい事情もわからず感慨深さはないものの、それ自体は喜ぶべきことなのだろう。俺の目的にも重要なことなのだから。
「えっと、お二人とも大丈夫ですか?」
声をかければ、アーシュさんが口角を上げて笑う。
「お前こそ」
そして持ち上がる指がさすのは、床にぶちまけられた俺の吐瀉物だ。またこれかと苦笑いをこぼしつつ、気恥ずかしさもあって口元を拭った。あんな惨状を見てもこんなものを生み出さぬよう、いつかは慣れなくてはいけないのかもしれない。死んでも嫌なことではあるが。
「……さてと、あーあー家をこんなにしちまって、まあ。ファンヌ、お前は休んでろよ。俺はこいつを地下に置いてくる」
戦いの後に訪れた妙な脱力感は、調子はずれの声色で日常を取り戻す。アーシュさんは散らばった椅子を壁際に二脚立てると、吸血鬼とウインダルを両肩に担いで、ふらつきながら扉のない玄関へと運んでいった。どこか遠くに連れていくわけでもないのだから、今は追いかけることもない。
そう考えれば、再びやってくる沈黙。そのなかでファンヌさんが椅子へと腰を下ろした。冷たい空気に吐き出される細い吐息を聞く。続いて隣に座ろうとするが、彼女の姿を見てやめた。
「あ、あの何か拭くものを持ってきましょうか? その、濡らした布とか」
天井からの月明かりが照らすファンヌさんは、未だ乾かぬ血に塗れていた。歳の割に年季を感じる手が染まり、可愛らしさが残る整った顔立ちにも赤が差す。見方によれば幻想的ではあるだろう。だが、猟奇的な印象のほうが勝るのが事実だった。
「……じゃあ、お願いしようかな」
浅く掛けた椅子で背もたれに寄りかかり、ファンヌさんは小さく笑う。どこか辛そうな笑顔だ。まあ、あんなことの後なのだから仕方がない。
よし、戦いでは何もできなかったのだからせめて何かをしなくては。気を張り直して横を向き、一歩を踏み出す。だがそれも一歩だけで終わった。顔に張り付くのは苦笑い。で、もう一度ファンヌさんのほうを見る。
「あー、その、えっと」
「ふふ、場所わからないでしょ?」
今日はじめてやってきたこの隠れ家、どこに何があるのかなんてのはさっぱりとわからない。彼女の言う通りだ。
一瞬のあいだ向かい合う苦笑と微笑を経て、「よし」と一言、ファンヌさんが立ち上がる。少しだけ驚いてその姿を見れば、返ってくるのはまたも血の色の微笑みだ。
「一緒に行きましょう。手伝ってくれる?」
「は、はい」
気恥ずかしさを抱いて返事をした。そうしたらファンヌさんは奥の部屋へと進んでいく。そこは彼女が料理を作りにいったのと同じ場所で、入れば予想通り、台所と呼べそうなところだった。かまどと鉄製の三脚のようなもの、壁際には鍋やフライパンが置かれている。ちらりと奥を見れば、小さな窓もあった。恐らくはここから、吸血鬼の背後へと回り込んだのだろう。
そんな事を考えたまま連れ立って、部屋の片隅へと進む。そこにあったのは樽と小さな机、そして籠に乗った布の束だった。ファンヌさんは樽の蓋を開け、中の水を桶に汲む。そしてその汲んだ水に籠から取った布を一枚つけて絞り、顔や手を拭っていく。ぶら下がる三角巾に目を瞑れば、どれもが怪我を感じさせない仕草だ。
待つことしばらく。沸かした湯でなくとも、大して時間の経っていない汚れには十分だった。
「その、左腕は大丈夫ですか?」
「……うん、大丈夫」
ぼーっと眺めていて思うことが一つ。一緒に来ておいてあれだが、俺いらないなということ。だから時間を埋めるように、催促するように問いかける。しかし返ってくるのは簡単な返事だけ。またも顔に浮かぶのは苦笑いだ。
「さ、こっち向いて」
視線を下げかけたところで不意に、自らの汚れを拭ったファンヌさんが言った。ようやく俺に仕事か? そう考えるが、彼女はまたも新しい布を手に取って水につけ、絞った。そして腰を屈めると、俺の顔を優しい手付きで拭っていく。主に口元を中心に。夜風に当たりほんの少しだけ冷えた湿り気が心地よい。
何だ、結局は俺のやることなんてないのではないか。そう考えながら癖のようになった苦笑を浮かべて、彼女のすることを為すがまま受け入れる。眼前にあるのは綺麗になったファンヌさんの顔。その大きな瞳と至近距離の息遣いは、思春期真っ只中の男子高校生には少々刺激が強いものだった。しかしそんな考えが頭に浮かぶこと自体が自らの証明になっているようで、恥ずかしさと同時にどこか嬉しくもある。
「はい、終わり。……どうかした?」
きっと表情が緩んでしまったのだろう、腰を伸ばしたファンヌさんが怪訝な顔でこちらを見下ろす。
「何でもないです」
咳払い。できるだけ普通の表情を持って返事をすれば、彼女はまた微笑んだ。
それから暫く、夜が更に深くなる。散乱していた大鷹の残骸にかたがついて、倒れた家具を立て直し終えた頃に、俺たちは再びテーブルを囲んでいた。
膝を揃えて椅子に座る。前方に見るのは、アーシュさんとファンヌさんだ。
「で、どうする? もう帰ってもいいぜ。まあ天井に穴が空いて扉のない家で良けりゃあ、今日は泊まっていってもいいが」
額の汗を腕で拭いながら、アーシュさんは笑う。
俺が役割を果たせたのかはよく分からないが、この人達の目的はすでに達成された。だからもう俺をここに置いておく理由もない。しかしそれでも、こちらの目的はまだ済んでいない。
「コニーさんも忙しいみたいですし、今日は泊まっていきます」
「そうか」
だからお言葉に甘える。つまり、とりあえずの時間は明日まで。それまでにこの二人と吸血鬼から話を聞かなくてはならない。魂を移動させる魔法についてと、狙われた理由その他について。
不幸なことに俺はあまり口が上手くはない。だからとにかくは、不自然ではない程度の正攻法で攻める。まあ、いま得ようとしている情報は直接的なものではない。違う世界から来た元男なんて事実がばれることはそうそうないだろう。
「……あの吸血鬼はどうなりましたか?」
まずはあいつのことからだ。そこから話は広げられる。
少しの間と漏れる吐息を経て、アーシュさんが口を開く。
「魔法で身動きを取れなくしただけだ、まだ生きてる」
「まだ?」
「ああ、明日以降のことは知らんがな」
「そうですか」
つまり今後吸血鬼はこの二人の手から離れるということだろう。その事実は彼らの目的にも関わりがありそうだが、とりあえずは直接的に俺の知りたい情報ではない。とにかくいま吸血鬼が生きていて、身動きが取れないということはわかった。
「あの吸血鬼、宿屋で襲いかかってきたときはどんな姿だったんでしたっけ?」
先ほど吸血鬼に対してアーシュさんが放った言葉と、前に聞いたことの確認。そこから徐々に、魂を移動させる魔法の話へとずらしていく。
「ん、ああ、もっと年の食った女だったよな? ファンヌ」
「はい。今のような少女ではなく、確かに二十代半ばくらいの女性でした」
俺は身体の中で心臓の跳ねる音を聞く。二十代半ばの女、黒いコート、病弱な少女。前から揃っていた材料と襲撃により得た材料、整理してみれば類似点が積み上がる。それはもはやあの人形劇が創作と思う必要はないと考える程にだ。
少しだけ熱の帯び始めた頭を抑え、更に言葉を吐き出す。
「やっぱり、魂を移動させるっていう魔法の……」
「またそれか。先に言っておくけどな、俺は大したことは知らないぞ。心当たりがあるってだけだ」
「じゃあその心当たりっていうのは何なんですか?」
食いさがる。空白の魔法への興味を理由にしているのだから多少の無理は聞くはずだ。
アーシュさんは一度ため息を吐いてから、こちらに身を乗り出してくる。近付く顔と顔、ぶつかる視線と視線。飲み込む唾液の音が体内を反響して、やがて声が聞こえる。
「悪魔が言っていたんだ。こんな角を生やした奴だ」
アーシュさんは頭の上で両人差し指を立てて、笑った。普通の人が見れば冗談だと笑い飛ばすようなものだろう。だが心当たりのある俺にとって、その話は真実に思えた。だからきっと、驚きに目を丸くして真剣な表情をしていた。そしてそれはおおよそジョークを聞く人間の顔ではない。
アーシュさんは俺の両頬を引っ張って持ち上げる。
「笑えよ。冗談だ」
ぐりぐりと頰っぺたを引っ張りながら、更におちゃらけた脅迫を投げかけてくる。……痛い。だがしかし、今そんなことはどうでもいい。
頭の中に浮かぶのは、こんな事態の元凶であろう牛頭の悪魔。そんな奴を連想させるようなことが、目の前の人物から聞けたのだ。掘り下げるべきだろう。いや、掘り下げなければならない。
「それ、本当に冗談ですか?」
頬の手を軽く払いのけて、真っ直ぐにアーシュさんを見た。彼はこちらの言動に一瞬驚いた顔をするが、すぐにまたへらへらとした笑みを張り付ける。そして手持ち無沙汰になった手で無精髭を撫で、口を開く。
「なんだ? 面白くなかったか? それとも嬢ちゃん、悪魔なんてもんを信じてるくちか?」
「吸血鬼を見たばかりですから」
「……なるほど、一理ある」
間髪入れずに言葉を返せば、アーシュさんは腕を組んで頷き出す。
事実、俺はその両方を目撃しているのだ。存在を疑う余地はない。問題はいま聞いた話が事実であるかどうか。嫌な記憶に首元を抑えながら、次の言葉を待つ。
「期待に添えず残念だけどな、本当に冗談だ。実際は風の噂で聞いただけだからな」
少しばかり膨らんだ希望が、破れた風船のように萎む。言う通り、やってきた内容は期待していたものではなかった。だがその言葉をどうにも信じきることができない。
ちらりと横を見れば、ファンヌさんと目が合う。なんとも言えぬ一瞬の後、視線を逸らしてもう一度アーシュさんへ。二人共なにがおかしいというわけではない。怪しむ心が生まれたのは、単なる直感当てずっぽう。いや、手掛かりが欲しいと焦る気持ちのせいかもしれない。
一度小さく息を吐いて、頭の中を落ち着ける。疑いはあるがとにかく、これ以上アーシュさんから何かを引き出せそうにはない。だから目標を次の情報源へ移す。
「……わかりました」
「わかったなら、もう寝ろ。寝床は用意してやる」
「いえ、一つ頼みたいことがあります」
「なんだ?」
「あの吸血鬼と話すことはできないでしょうか?」
アーシュさんも、そしてファンヌさんも、二人共が僅かに瞳を動かす。恐らくは驚きのリアクション。もしかしたらこちらのストレートな物言いに面食らったのかもしれない。
「ノーラちゃん、それは危険だと思う」
「身動きが取れないのに、ですか?」
やって来たファンヌさんの言葉に間を置かず答える。確かにそう、危険だろう。相手は吸血鬼なのだから、拘束されているとはいえ何が起きるかわからない。だが、それでもこちらは構わないのだ。
「前にも言った通り、あの吸血鬼が私を狙う理由に見当がつきません。だから直接聞こうと思います。」
こう言えば、あの吸血鬼から件の魔法について聞くチャンスが得られる、はず。もちろん、言った言葉も全くもって嘘ではない。襲われた理由、ウインダル、聞きたいことは山積みなのだ。
唾液を飲み込んで、黙ったままのアーシュさんを見る。彼は腕を組み、目を閉じて、口を開く。
「……ま、確かにそうだわな。自分が襲われた理由、知っておきたくて当たり前だ」
「アーシュ様」
「大丈夫だ。ファンヌ、お前はここにいろ」
やった。心の中でガッツポーズをして、立ち上がるアーシュさんに続く。残るファンヌさんをちらりと気にするが、すぐに前を向く。手掛かりを得られるかもしれないとなれば、居ても立っても居られない。
眼前の背中を追って扉のない玄関を抜け、右へ。隠れ家を回り込むように裏手に回ると、一段下りた窪みの下に地下室への扉が見えた。遮る無骨な錠前を外せば、軋みながらそれが開く。
覗き見て現れる下り階段は、どこか恐ろしげな雰囲気を醸し出している。しかし先ほどアーシュさんがつけたのだろうか、幾つかの燭台が壁際に点在していて、足元に困ることはなさそうだ。
「一人で大丈夫です」
小さく零せば、僅かに反響する声。返ってくるのは眉をひそめるアーシュさんの顔だ。きっと異論を唱えてくるだろう。だから間髪入れずに言葉を投げる。
「私が狙われる理由、興味ないんですよね?」
何もしていないくせに随分と生意気な言葉だとは思うが、吸血鬼とはできれば一対一で話をしたい。
夜風が眼下に吸い込まれる間、沈黙が続く。しかし数秒後、アーシュさんがポケットから何かを取り出してこちらに投げた。手を広げてみれば、鈍く光る鍵が一つ。
「奥に物置の扉がある、その中だ。くれぐれも変なことはするなよ? ま、ありゃあ簡単にどうこうなる魔法じゃないが」
言って踵を返し、アーシュさんは去っていく。ひらひらと後ろ手を振って。
中々にあっさりと行き多少拍子抜けだが、とりあえずは良かった。ほっと胸を撫で下ろし、もう一度階段を見る。僅かに汗ばんだ額、そこに張り付いた前髪を手櫛でといてから、一歩を踏み出す。
大きな足音を立てぬように踵から進む。一段、二段、三段、幾つか繰り返せばすぐに地下へとたどり着く。ひんやりとした空気を溶かす蝋燭の炎と、鼻を差す埃の匂い。六畳ほどある石畳の地下室には、樽や薪などの雑多なものが置かれていた。空気は悪い。だが深呼吸。頭に酸素を送ってから、もう一度部屋を見回す。そうしたら直ぐに目に入った。正面の壁、物置への扉だ。
近付いて、掛かる錠前に鍵を差し込みながら考える。俺がいま頭の中に想起している光景を、きっと物置の中の吸血鬼も思い出しているだろう、と。
金属音と共に錠が外れ、扉は開いた。
「やっほー、ノーラちゃん」
予想外に聞こえたのは随分と気の抜けた声色だった。そのアンバランスさに息を詰まらせて、数歩後ずさる。
「そんなに怖がらなくてもいいのにー。酷いなあ」
眼前に現れたのはもちろん吸血鬼、それは確かだ。ただ息を整えてもう一度見れば、飛び込んでくる不可解な姿。
彼女の割れた頭は、異常なことに正常な形状へと戻っていた。しかし未だ付着したままの赤黒い血が、さっきまでの惨劇を裏付けている。スプラッタ映画のような、凄惨な光景だ。わかってはいたものの、やはり来るものがある。
「ちょっと? 聞いてる?」
なんとか気を取り直し、首を振ってもう一度目をやる。彼女は拘束されていた。しかしかといって物理的に腕を縛られていたり、簀巻きにされているといった訳ではない。まるで透明な拘束具がそこにあるように、吸血鬼だけが捕縛された姿勢を取っているのだ。恐らくはこれが魔法によるものなのだろう。
「ねえってば!」
両手を後ろ手に回して足をぴたりと揃え、彼女は物置の狭いスペースに鍬や箒と並んで立てかけられている。
なんと声をかけようか。何も思いつかないが、最初の一言くらい出たとこ勝負で良いだろう。もう一度深呼吸をして、ゆっくりと口を開く。
「えっと、すみません。その……大丈夫ですか?」
一応はアーシュさん達側である俺が、敵である吸血鬼のことを心配するのはおかしいのかもしれない。だが口をついてそんな言葉が出てしまうほどに、彼女の姿は残酷だ。
息を呑んで心を落ち着かせれば程なく、笑い声が響く。
「あなたがあたしのことを心配するのって、何か面白いね」
僅かに充血した瞳を細めて、吸血鬼は笑っていた。やはり彼女も俺と同じことを思っていたらしい。怪物と呼ばれることもあるみたいだが、考えることはこちらと変わらないようだ。しかし、その後に続いた言葉は俺の心臓をぐさりと抉るもの。
「あたし、ノーラちゃんを殺そうとしてるのに」
吸血鬼が俺を狙っていた理由が判明した。しかもそれはそれは最悪なものとして。
無意識にまた一歩後ずされば、吸血鬼もまた笑った。無邪気な少女のようなその声は、今の俺の気持ちとは全くの正反対で降り注ぐ。
「だからさあ、そんな怖がらないでいいってば。今はあたし、あなたを殺せないわけだし」
今は、という一言に恐怖を感じる。もし拘束が解けたのならば真っ先に齧り付くと言わんばかりだ。だが俺の顔を見て、吸血鬼は黙ったまま眉を八の字にするだけ。瞳は斜め上を見て、あからさまに何かを考えている仕草だ。
今度はどんな言葉がやってくる? 身構えて待てば、予想外のものがやってきた。
「あ、ごめん。殺せとは言われてなかったかも。攫ってこいって言われたんだった……かな?」
下唇を少し噛んで吸血鬼を見る。今の発言は天然か? それとも何かの策か? まるで些細な事のように俺の命が槍玉に上がっている。実に恐ろしい。まあ結果がどちらだとしても願い下げではあるが。
腕を組んで距離感を測り、また吸血鬼を見る。へらへらとした笑いを浮かべ、子供のようだ。そんな風に考えていると、さっきの言葉に気になる部分があるのに気付く。
「言われたっていうのは誰にですか? 誰かに私を攫うように頼まれたんですか?」
「うん。捕まってるあたしを助けてくれたネズ……」
ネズ? そこまで言って、吸血鬼は一度黙る。だがすぐに目を輝かせてこちらを見た。
「ねえ、ちょっと提案があるんだけど聞いてくれる?」
「提案?」
「そうそう。あ、そうだその前に確認なんだけどさ、この頭をかち割ったあの人達って吸血鬼を捕まえるのが目的なんだよね? ね?」
早口で捲したてる吸血鬼は今にも身を乗り出しそうな勢いだ。まあ動けないわけだけど。
別に問題はないだろうと首肯で返せば、更に言葉がやってくる。
「じゃあさじゃあさ、ノーラちゃんってこう、シュンッ! って感じの魔法が使えるってことで良いんだよね?」
連続した質問に首を縦に振りそうになるが、少し待てと思い止まった。彼女の言う擬音はどことなく瞬間移動っぽいものの、どんな魔法を指しているのかは定かではない。しかし、確認のような口調から少なくとも俺が魔法を使えることは把握しているということになる。
一体だれからそれを知った? さっき口にしかけたネズなんとかという人物からか? 頭を捻って返答を保留していれば、当然ながら催促の声がやってくる。
「答えてくれないなら、あたしもさっきのこと答えてあげないよ」
意地悪く笑うその顔は、何とも神経を逆撫でするもの。しょうがない、良い感じに誤魔化すとしよう。
「えっとまあ、シュンッて感じのが使えますよ」
「そっか、やっぱり瞬間移動できるんだね」
思わず眉をひそめる。こちらが擬音を口にしてあげた途端、普通に核心を突いてきた。少しばかり苛つくが、それよりもまず魔法の正体を知られているということに驚く。どういうことかと頭を捻るが、意味のないこと。すごく胡散臭いが、まずは話を聞いてみることにしよう。
「だったらさ、それを使ってお城に行ってきてくれない?」
提案はまさかのお使いだった。理由や内容はわからないが当然、引き受ける義理は無い。
「嫌ですよ。何で私が――」
「さっきあたしが言ったこと、覚えてる?」
断りの言葉は遮られた。こちらに向けられる視線と言外に含まれた意味はすぐに理解できる。行って来なけりゃ話さないぞ、そういうことだ。魔法のことは一応答えてやったのに、その約束はもはや彼女にとって関係ないらしい。
これは面倒臭いことになった。壁際の樽に背を預けて腕を組む。やはり何の手札もなく話を聞き出そうというのが無理な話だったのだろうか。
一度目を閉じる。まずは提案の内容を聞くべきとも思えるが、それをこちらから持ちかけてしまうともうずるずると逃げられなくなってしまうような気がする。さて、どうしようか。
「ま、断るならそれでいいよ? そしたらあたしはもうノーラちゃんと一言も口を聞かないけどね」
口をとがらせたその言葉は、こちらを狙う理由やウインダルのことはおろか、人形劇の真相や一番大事な空白の魔法のことまで、もう質問には何も答えないということだ。確かに考えてみれば、今ここで俺の問いに答えたとしても彼女にはメリットがない。だからこそ登場したのが提案だ。
ため息をつく。選択の余地はなかった。
「……お城ってどこのお城ですか?」
「そうこなくっちゃね」
歯を出して笑う彼女を見て呆れながら、ふと気付く。その口元に吸血鬼の代名詞ともいえる牙が無いことに。まあでも、今気にすることではない。それよりも大事なのは提案の内容だ。
「お城っていうのはあれだよ、ほら。ノーラちゃんも見たことくらいあるでしょ? シストリア王城。あそこに潜入してほしいんだよね」
意識せずとも、言葉に疑問は吹っ飛んだ。仕方なく固めた決意もだ。
吸血鬼が口にした潜入という言葉が示すのは、正規に城へ赴くのではないということ。そしてあの美しい城はこの街で一番に大きく、一番に警備が厳重のはず。とても忍びこめるような場所ではない。それに王立騎士団の件もある。
「簡単だよ。見つかったってすぐに逃げればいいんだし。ノーラちゃんの魔法ってそういうの得意でしょ?」
無理難題を押し付けてきた本人はさして気にした風もなく、変わらない笑みを浮かべ続けている。頭が痛くなってきた。どうにもこんなこと以外に情報を引き出す方法がなさそうだから。
「……えっと、それで城に行って何をすれば?」
「あの人に会ってきてほしいの。ほら、ミレアスとか言ったっけ?」
不意に現れた既知の人名。紡がれた言葉から想起するのは、王城にいるミレアスさん。しかしその予想図は決して優雅なものではない。彼が無理に連行されたのかどうかは定かではないが、アーシュさんの口ぶりとあの雰囲気から個人的にはあまり良い想像ができない。
ため息を一つ吐けば肌寒い空気に溶けていく。上を見れば無機質な天井。当然だが気は乗らない。だがこれをこなせば何かが繋がると信じて、奮い立たせるしかなかった。