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空白の魔法  作者: 片岡 武路
一章
20/31

第十九話 落ちる怪物

 ウインダルが踏み出した一歩によって、穴の空いた天井が軋む。不気味に光る目が部屋の中を見回すと、やがてそれはこちらの視線とかち合った。

 まずい。何か行動を起こそうとする頭に飛び込むのは、大鷹が身を乗り出す光景。のそのそと身体を動かして、奴は俺に向かって飛びかかる。部屋の中に入ってくる。重力に押されて縮まる距離と、それに比例して速くなる鼓動。一度制したことのある相手なのに、足は震え始める。

 魔法を使え、逃げろ。わかっていても、もう間に合わない。だが心と身体の震えを押さえつけるように、不意に左手を取られた。


「動くなよ」


 同時に聞こえた声で、それがアーシュさんの起こした行動だとわかった。汗ばんだ掌で強く握られる手、足は竦んで動かない。だから彼の忠告は、意図せずとも守られた。

 しかしそれでも、上空からの脅威は止まらない。動くな? 普通逆じゃないか? 満天の星空を背景に、垂直に落下してくる怪物。やがて来る衝突の瞬間、反射的に下を向いて目を瞑った。経過する一秒、二秒。想定していた衝撃は無かった。それだけではない。感覚も、何もかもが無に思えた。

 だけど唯一、音は聞こえた。恐らくは生き物の身体と何かがぶつかる音だ。片方はウインダル、それはわかる。だが奴は何にぶつかった? ゆっくりと目を開ければ、奇妙な光景が飛び込んできた。

 衝撃によるものだろう、位置を変え部屋の隅に飛んだテーブル。そして俺の真下で、床に転がるウインダル。漏れそうになる声を抑えて、真近のそれを見た。鷹は人間の口を食いしばり、苦しそうに鳴き声を零している。頭が回って理解した。さっきの音はこいつが床にぶつかった音だったのだ。

 しかし一方で納得はできない。そしてそう思った瞬間に、自らが見ている光景の違和感に気付く。下を見下ろしているはずなのに、自らの足、下半身がそこには存在していないのだ。まるでスクリーン越しに映画を見ているような視界で、主観性がまるでない。

 何が起きている? 答えを求めて顔を上げ、アーシュさんのほうを見た。しかしそこに彼の姿はない。きっと透明になっているのだ。だが奇妙なことに、横に居るはずのファンヌさんの姿すら見当たらない。


「じっとしてろ」


 冷たい空気に広がる静寂と、それを破るアーシュさんの声。俺は従うことしかできなかった。

 視界の端の足元では、声に反応したウインダルが起き上がる。そして木の床に爪を突き立てて、きょろきょろと辺りを見回し始める。だがその視線が、目の前に居る俺の元で止まることはなかった。

 酷く不自然な行動だった。まるでこちらのことが見えていないような。やがてウインダルは背を向けて、部屋の中をうろつき始める。きっと俺たちを探しているのだ。

 瞬間、握られていた手の感覚が戻ってくる。横を見ればそこにアーシュさんが居た。俺と手をつなぐその向こうで、ファンヌさんの肩に手を置いている。ちらりと下を見れば、自分の足も見ることができる。そして理解した。三人が三人とも透明になっていたのだ。

 しかし今は違う。顔を上げてウインダルを見ると、横に居たアーシュさんが駆け出す。鷹はそれに気付かない。机の上のナイフを手にとって、アーシュさんはそれを思い切り振り下ろした。背後から、敵の眼球へと。

 気味の悪い悲鳴がこだまする。身を捩るウインダルにしがみつき、アーシュさんはナイフを更に深くへと押し進める。水分を含んだグロテスクな擬音が、脳を容赦なく突き刺していく。暴れる大鷹、眼球から垂れる赤い血、辺りに舞う黒い羽。俺は思わず目を逸らした。


「ったく、何だってんだこいつは?」


 おどけた調子を崩さないアーシュさんが悪態を吐く頃に、ようやく視線を戻す。ウインダルはもはや動かなくなっていた。残酷で、呆気ない最期だ。

 首を振る。鋭敏になった皮膚へ、揺れる髪がこすれる。酸っぱい唾液を飲み込んで、焼けるような喉で頭を冴えさせる。言い聞かせるのはただ一つだ。落ち着け、凄惨な光景は頭の隅に丸め込め。いま考えなければならないのは終わったことではなく、扉の向こう、警備隊を名乗る者の存在について。

 フラッシュバックした光景から浮かんだ仮定によれば、そいつは吸血鬼。だとしたらいまウインダルが現れたのは何故だ。ただの偶然か? 考えても俺の頭ではわからない。だからとにかく、できることをする。


「アーシュさん、ファンヌさん、扉を開けるのは少し待っていてください。私が確かめてきます」


 ウインダルの死体を確認し終え、扉へと注意を向け始めた二人に言う。返ってくるのは静寂、恐らくは了承。また鳴り始めたノックが、煩いほどに鼓膜を叩く。

 俺は目を閉じた。しかし。


「まあ、待て」


 アーシュさんが無理矢理に俺の両瞼を持ち上げた。何だ、何をする。身を捩ってその手から抜け出せば、不敵な笑みが目に入った。


「知ってるか? 吸血鬼っていうのは招かれなければ建物には入れない。だからこんな小細工を使ってくる」


 彼もまた、外に居る人物を怪しんでいる。人形劇と今の状況、照らし合わせてうすうすと感づいていた事実をアーシュさんは告げた。もしそれが事実ならば、今の俺たちは安全ということになる。こちらが迎え入れなければ襲われることはないのだ。

 可能性に少し胸をなで下ろすが、辺りを見回して気付いた。いつの間にかファンヌさんが居ない。アーシュさんは気付いているのかいないのか、未だへらへらと笑うのみ。そして、ゆっくりと口を開く。


「俺とファンヌが死ぬまでは逃げるなよ。ま、絶対にないことだが」


 俺が居なくなれば、吸血鬼もまた逃げる可能性がある。そう思ってのことだろう。理解はできる。だがその後に続いた言葉は、驚きをもたらすものだった。


「どうぞ、吸血鬼さん」


 挑発するような言葉が放たれた瞬間、大きな音を立てて扉が破られる。廊下の向こうからこちらへと、長い人影が伸びてくる。俺とアーシュさんは身体をずらして、その元を見た。

 月明かりが差し込む玄関、俺は息を飲んだ。枠から外れて倒れた戸板を踏み付けて、一人の人物が立っていたからだ。そしてその姿は先ほどの声とは程遠い、少女のもの。


「へぇ、何であたしが吸血鬼だってわかったの?」


 あの時よりも澄んでいるが、確かにミレアスさんのところで聞いた女の声と同じだった。しかし一方で、その容姿はあの時とは違う。膝下までのスカートを履いて顔を晒し、体格に似合わない黒いコートを着込むのは、十代の半ば、高校生くらいの少女。月明かりとランプに照らされるその少女は、大きな目にこけた頬、病的な青白い肌に艶のない真っ白な髪を垂れ下げて笑う。

 否が応でも刺激される記憶は、人形劇に登場した少女だった。だけど違う。あの話が仮に実話だとしても、吸血鬼であったのはこちらではない。ある考えは浮かぶものの、わからない。そして戸惑いを余所に、少女は歩み寄ってくる。


「あ、ローラちゃんじゃなくて、えっと、ノーラちゃん? 騙すなんて酷いなあ」


 俺に目を留めると、吸血鬼は笑った。深く刻まれたくまが歪む。こいつは既に俺の正体を知っていて、その上でここに来た。どこか不気味な笑顔に背筋を震わせれば、横に立っていたアーシュさんが一歩を踏み出した。


「随分と姿形が変わっちまってるようだが、あんたが吸血鬼で良いんだな?」

「うん、そうだよ。あなたと、あとあの女の人に捕まっちゃった吸血鬼」


 おどけたように、楽しむように、吸血鬼はもう一度自分の正体が吸血鬼であることを認めた。これで確定した、俺は吸血鬼に狙われているのだ。


「なるほど、ならいい」


 少しの恐怖感に駆られた俺をよそに、アーシュさんは飄々とした態度を崩すことなく吸血鬼と相対する。そして訪れるのは、沈黙。この場に居る全員を撫でるように吹く夜風がランプの炎を揺らし、死体の羽を巻き上げる。聞こえる鼓動の音と乾いていく喉。

 やがて、吸血鬼が数歩を踏み出した。大きな音と共に、脳天から血を流して。


「よくやった、ファンヌ」


 突然の出来事に目を見開く。だが言葉を受けて目を凝らせば理由がわかった。吸血鬼の向こうに薪割りの斧を振り上げるファンヌさんがいたのだ。そして返り血を浴びながら、三角巾の左腕までも使って柄を握り、彼女はもう一度斧を振り下ろす。

 これがきっと頭蓋骨の砕ける音なんだ。そんな説得力を持った轟音が鳴って、吸血鬼の頭が割れる。きっともなにも、誰が見ても即死、そんな攻撃だった。俺は胃から湧き上がる熱い感覚を下へ吐き出す。見つめるのは床にぶちまけられた吐瀉物、そしてむかむかとする胸の奥には、これで終わりという妙な安心感と、これじゃあ手掛かりを得られないではないかという絶望が揺れている。おまけには、吸血鬼を生け捕りにするのではなかったのかという疑問も。

 しかし、相反する感情と問いかけは、顔を上げてやって来た光景に吹き飛ばされた。


「……ドリス、ダニエラ、ブロル、エディ、カイ」


 ふらついた吸血鬼の口から、次々に漏れ出る言葉たち。呪文、いや人名だろうか。だがそれよりも、まだ生きているという事実がおかしい。そして少女は一呼吸おいてから、あろうことかまだ口を開く。


「ありがとう」 


 小さいながらも澄んだ声が、鈴のように鳴った。一秒、いやそれにも満たない静寂を経て、吸血鬼は動き出す。頭をかち割られ、白い髪を紅に汚しているとは思えないほどの身のこなしで、自らの背後に鋭い回し蹴りを放つ。しかし、雑草を刈り取る鎌のような攻撃は、素早くしゃがんだファンヌさんの頭上で空を切った。標的を失った蹴りは行き場を失い、廊下の壁へと突き刺さる。

 破壊音。粘土の壁には穴が空き、吸血鬼の片足は嵌り込む。間抜けとも言えるその姿は、絶好のチャンス。ファンヌさんが立ち上がり、アーシュさんが駆け出した。

 一足先に迫る斧の一撃は、身動きの取れない標的へと容赦なく迫る。あと数センチ、刃がもう一度あたまを打ち砕く寸前、吸血鬼は僅かに姿勢を低くした。それが合図。突き刺さっていた吸血鬼の足が、壁もろとも薙ぐようにファンヌさんへと向かう。

 粘土を抉る軌跡は、戸惑うことなく標的の側頭部を打った。と同時、縦に振り下ろされた斧の刃もまた、吸血鬼の頭頂部に突き刺さる。まずい、相打ちだ。俺は無意識に後ずさる。肉体と武器、その差はあれど敵は吸血鬼、侮ることはできない。そして恐らく、奴はまだ生きている。

 証拠に間髪入れずにやってきたアーシュさんの鋭い蹴りに対して、吸血鬼は素早い反応を見せた。自ら壁に作り出した穴に手を掛けて身体を浮かせ、それを軸にした逆足の蹴りで迎え撃つ。ぶつかり合う足と足、全員の動きが止まる。

 一体どうなった。乾いた喉に唾液を流し込みながら、一番気掛かりなファンヌさんを見る。倒れてはいない、未だ立っている。そして蹴りを受けた側頭部と吸血鬼の足との間には、滑り込んだ左腕があった。

 息を吐き出し、胸を撫で下ろす。防御は成功していたのだと考える。しかし直ぐに思い当たった。彼女の左腕は、先の戦闘で負傷していたものだと。


「前も言ったけどさ、何であたしに攻撃してくるの?」


 両足を引っ込めて地面に降り立ち、吸血鬼は言った。その姿の向こうで、斧を下げたファンヌさんの悲痛な声が漏れる。


「そんなのは簡単だろ? お前は人間を喰らう。そして俺は人間。それだけだ」


 アーシュさんも振り上げていた足を下ろして距離を取り、乱れた髪をかきあげた。

 確かにその言葉には一定の説得力があるだろう。吸血鬼が人間を襲うのならば、こちらが攻撃を行う理由となり得る。しかし、この二人が狙うのはリベンジにもかかわらず、脅威の排除ではなく生け捕りなのだ。それに宿屋でも彼らは吸血鬼を捕獲している。先程問いかけられた所為もあるだろうが、何か別の理由があるように思える。


「うーん、まあ、わかるけどさあ」


 眉を八の字にして、吸血鬼は口を尖らせた。そして俺はその少女の白い髪と病的な肌、口調や態度を見て、頭の中で何度もあの物語を反復させていた。作り話と考えていたその話には今、ある種の現実感がこびりつき始めている。

 だからなのだろう。完全なる傍観者として存在するこの場所で、戦いを見守る心持ちがどうにも安定しないのは。アーシュさん達を応援する気持ちが大きいのは紛れもない事実ではあるのだけれど。

 蚊帳の外の思考を断ち切るように瞬きをすれば、戦場は再び動き出す。始まりはまたしても、ファンヌさんだ。


「アーシュ様!」


 絞り出した声と共に、彼女は手にした斧を投げる。しかしその軌道は不可解に床を滑り、吸血鬼の足元を通り過ぎてアーシュさんのところにまで辿り着く。


「ご苦労さん」


 滑る斧を右足で止めたアーシュさんは、にやりと笑ってズボンのポケットに手を入れた。きっと何かの策だ。勢いを増す鼓動でその姿を見つめる。しかし予想外なことに彼が取り出したのは一枚の羊皮紙と、一本の羽根ペンだった。

 何だ? 何に使う? およそ武器とも思えないものの登場に少しだけ落胆する。だが決して無意味なものとも思えない。訝しむ視線を向ければ不意に、アーシュさんがこちらを向いた。


「嬢ちゃん、もう一度魔法の講義だ。よく見とけよ」


 彼はしゃがみ、手にした羽根ペンへ斧に付着した血をつける。そうして立ち上がると、逆の手に持った羊皮紙へと何かを書き込み始めた。

 悠長な行動だ。全ての動作が日常的で、敵からすれば隙にしか見えない。だから当然、吸血鬼が動く。


「よくわかんないけど、隙だらけ!」


 ファンヌさんが止める間もなく、少女はアーシュさんへ向けて走り出す。家の中、駆け抜ける廊下、大した距離があるわけでもない。吸血鬼はすぐに拳を握って振りかぶる。敵の隙を考慮した大振りの攻撃、きっと威力は凄まじいだろう。だがもちろん、それがアーシュさんに当たることはない。


「こういう魔法もあるんだな、これが」


 衝突の瞬間、この世界から消える姿と残る声。吸血鬼は空を切ったパンチの反動で体勢を崩し、アーシュさんがいるであろう場所を通り過ぎる。そうすれば彼は戻ってくる。元いた姿そのままで。


「今度こそ捕まえた」


 背後の吸血鬼、その背中に羊皮紙を押し付けて、アーシュさんは笑った。

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