第一話 アプシスの身上
夢を見ていたという訳でもない。ただ真っ暗な空間を当てもなく、流されるままに漂っているような感覚だった。それを夢と言ってしまえばそれまでだけれど、どうもそうとは思えない。もっと邪悪な、まるで悪魔に弄ばれているような。悪魔? そうだ、あの悪魔に出会って……そしてどうなったんだ?
揺らぐ意識の中での自問自答。その答えが出るよりも先に、目の前が光に包まれた。
遠慮も何もなく、緑の天井から降り注ぐ木漏れ日。新緑の葉が風に揺れ、その向こうにはぐるぐると旋回する鳥が一羽。背中に感じる冷んやりとした柔らかさで、自分が仰向けに寝転んでいることを知った。
ゆっくりと上体を起こすと、首元を何かがくすぐる。慌てて後ろを振り返るが、そこには緑の大地が続くばかり。違和感を覚えて恐る恐る首元に手を当てる。すると、柔らかい糸のようなものが指へと絡まった。糸を絡めたまま、それを目視できる位置まで持ってくる。
吹き抜ける風に揺れる濃い栗色の糸。それはどこからどう見ても、人間の髪の毛だった。
首元まであるその髪の毛を辿れば、当然の如く俺の頭に辿り着く。だけどおかしい。俺は髪の毛は長いほうではなかったし、色も純粋真面目な黒だった。
「……どうして」
感情を素直に吐露した呟き。だけどその言葉もまた、どうしようもなく違和感の塊だった。
耳に届いたのは、以前までの声変わりを経験した低い声ではなく、可愛らしい少女のようなとても愛らしい声。俺の声帯から発せられ、俺の意志と同じ言葉を紡いだ声。それが幻聴だとかそういった言い訳を許さないほどに、どうしようもない現実感を持って響く。
絶対に自分の声、そう認識せざるを得ない。
「なんなんだよ、一体……」
だるそうな少女の声を聞き、苛立ちから頭を掻くが、その手触りさえ俺に現状を突き付ける。とても異常な災難が降りかかっているという事実。ならば確かめる他あるまい。
ゆっくりと片足を持ち上げて、片膝をついて大地を踏みしめる。体重をかけた右足は以前のものより一回り以上細く、どうにも頼りない。
より一層高まる不安をこらえながら、今度は立ち上がる。比較対象がいないながらも分かってしまうほどに、身長が縮んでいた。蔦の絡まった木々が、随分と大きく見える。
冷静さを失いそうな頭を振るい、最後に自分の外見を隅々まで確かめる。先程まで気付かなかったのが不思議なくらいだが、俺は悪魔と出会ったときのブレザー姿ではなく、白いローブのようなものを着用していた。
丈は膝の少し下辺りまであり、そこから下には細い色白の肌が覗いている。腕のほうは手首まで長さがあり、頭の後ろにはフードが付いていた。
まるで魔法使いだ。そう思いながら、無意識に両わき腹のポケットに手を突っ込む。そして辺りを眺めていた視線を再び自分の体に戻すと、あることに気が付いた。ゆったりとしたローブに隠された胸の辺りだ。けれど何か異常があったというわけではない。そこは男だった時と相も変わらず、特別な変化は無い。
「……セーフ」
一言呟くが、きっと気休めだ。既に導き出されている予想は一つ。そしてそれを確認するのには、ある場所を調べるのが手っ取り早い。やりたくはないけれど、やらなくてはどうしようもないこと。恐る恐る、ゆっくりと自らの手を下腹部へと持っていく。
ローブの上からでも分かるように、そこにあるはずのものはすっかり消失してしまっていた。
「嘘だ、嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だ……」
自分に言い聞かせるように呟きながら、意味もなく辺りをうろうろする。嘘だ。これが現実のはずがないと、そう何度も頭の中で反復して、緑の床を幾度となく踏みしめる。即席の獣道が現れるのではないかと思う程の時間が過ぎて、俺はゆっくりと足を止めた。
心地良く吹き抜ける風と、耳に馴染む小さな虫の鳴き声。そして身を寄せ合って音を奏でる木の葉に、低木の葉。僅かに苔のむした岩が、影を映して大地に横たわる。都市部の生活ではあまり馴染みのない光景を見回して、俺はゆっくりと深呼吸をした。
落ち着けてはいない。だが頭の中にぽっかりとしたスペースが生まれ、考える余裕が生まれる。一体これはどういうことなのかと、答えの遠い疑問に潜り込む。だけど結論は痛い程に分かっていた。どうしようもなく現実な、現状。
俺は女、それも多分少女になってしまったようだった。
声を出して結論を否定しようとするが、透き通る音は森の中に溶けていく。非情な事実を突き付ける響きが消えて、次に聞こえたのは木の枝がぶつかり合う音。先程までの心地良いものとは違う、一際大きな接触音。
背後から聞こえたその音の方を見ると、激しく揺れ出す低木。そして獣の様な唸り声。緊張感で唾を飲み込み、瞬きをした瞬間、低木の影から何かが飛び出す。
血走った目で涎を垂らす、灰色のオオカミだ。
前傾姿勢を維持し、こちらを睨む獣に後ずさる。体高こそ俺の腰ほどだが、すらりと伸びたしなやかな後ろ足が、今にも飛びかかろうとする身体を支えている。どう考えても奴の射程距離内だ。
踵を返そうとするが足が動かない。振り返った瞬間に、背中をずたずたに引き裂かれそうで。しかし、一呼吸あとに声が聞こえた。
「早く逃げなさい!」
怯える俺を叱責し、また一方で励ますような、そんな声の主は一人の女性だった。恐ろしいオオカミの姿の向こう、腕を振り上げて立つ二つの人影。そのうちの一つが、長い金髪を風にたなびかせる。
こつんと何かのぶつかる音が響いた。
「とにかく走って!」
女性の投げた石が脳天を捉え、オオカミが小さく唸り声を上げる。剥き出しの尖った牙が、女性の元へ向く。
その瞬間に俺は走り出す。言われるがままに踵を返して足を動かす。柔らかな草の地面を麻布の靴で踏みつけて、とにかく速く前へと進む。穏やかな森の景色が後方へ流れ、場違いに荒い息が聞こえる。どこか他人事なそれは、自分のものだ。
「気をつけて! 後ろ!」
更にもう一つ聞こえた荒い女性の声色に、走る速度を保ったまま恐る恐ると首を捻る。そこには案の定、猛スピードで迫る狼の姿。野生の本能なのか、奴の狙いは至極殺しやすそうな俺の方。女性が注意を引こうと講じた策も、どうやらそう長くは持たなかったようだ。
直ぐに前を向き、生い茂る草や立ち塞がる木の間を抜けてできる限りの速度で走り続ける。しかしそれはもはや無謀な逃走、これもそう長くは続かない。
瞬間、足がもつれ前方へと倒れこむ。身を寄せ合った低木に俺の身体は吸い込まれ、鋭く尖った枝が身体に食い込む。そして背後から迫るのは、それ以上の脅威。唸るような鳴き声が聞こえて、痛いほどに目を閉じた。あの女性の助けも、もう期待できまい。
悪魔に何かをされた挙句に、何処とも知れぬ身体を持って、何処とも知れぬ森の中で死ぬのか。俺はそんな風に自嘲して、あの綺麗な緑の森林を思い浮かべる。汚らしい路地裏でしぬよりは、ましなのかもしれない。だけど。
死にたくはない。頬を暖かい涙が伝った。
暗転の後、悪夢は明けた。何かに叩き起こされるように目を開けると、脳が瞬時に覚醒を始める。またもや寝転んだ体勢なのか、見えるのは天井。そしてその視界の端にもう一つ見えたのは。
「目が覚めた? 気分はどう?」
覗き込むように現れた金色の髪が揺れ、優しく微笑むのは見覚えのある女性だった。彼女が俺の背中を支える。ちくちくとしたシーツに後ろ手を付き、従うがままに上体を起こす。
そこは素朴で小さな木の部屋だった。壁際の机と小さな椅子、全てが木製の暖かみを持っている。部屋の隅には一枚の扉。そして鎧戸から注ぐ太陽の光が、俺の頭を撫でる。
「……ここは?」
「村長さんの家よ。気絶した貴方を運んできたの」
女性が眉間にしわを寄せる。その瞬間に、俺は思い出して自らの頬を触った。俺はオオカミに襲われて、そしてこの女性はあの時の。
涙の筋は既に乾いていた。
「あ、あの、ありがとうございました」
視線を僅かに俯かせて呟いた。自分でも身体が妙に強張っているのが分かる。だけれどお礼は言わなくてはならない。
「どういたしまして。といっても、きちんと助けられたわけじゃないけれどね」
「……そんなことはないです」
「そう?」
悪戯っぽい笑みを浮かべて僅かに胸を張るその姿に、俺はまた視線を逸らした。
正直に言って緊張している。今目の前にいる女性は俺が日常的に見てきた人物のような顔立ちではないものの、容姿は可憐だ。澄んだ金色の髪は派手に輝くことはせずに柔らかに流れていて、そして年齢は俺と同じくらいだろうか。ただし少し前までの俺、だけれど。
泳がせていた視線を落ち着かせるために、自らの手を見つめる。発展途上の柔らかな手のひらに、そこから伸びた白く細い指。未だ俺は少女のままだ。
「傷はもう大丈夫よ。服も引っ掛けたところは縫っておいたから」
女性が俺の動きを見て優しく言う。確かにローブには幾つか縫い合わせたような跡があり、袖をまくってみれば白い肌があるだけ。傷は一つも無い。枝に傷付けられたような痕跡も皆無だ。この人の口振りから思うに、治った……ということなのか。
「私、こういうのが結構得意なの」
どうやら怪訝な顔をしていたらしく、女性が何かを思い付いたように俺に手を伸ばす。ぽんと頭の上に置かれる手のひら。暖かく心地良い、眠くなるような癒しが降り注ぐ。
「少しの傷なら簡単に治っちゃうのよ」
「……魔法みたいですね、それ」
「だって魔法だもの」
惚けた頭で呟くと、女性が手を引っ込めてくすくすと笑う。だけど冗談を言っているような風では無い。むしろ俺の冗談を笑っているような、そんな感じだ。心がざわりと揺れる。
魔法なんて、俺は現実において見たことはない。そしてもし、この女性が本気で魔法と口にしたのならば。
疑念をぶつけようとした瞬間、視界の端で木の扉が開いた。
「おお、目が覚めたかいお嬢ちゃん」
低い声が聞こえた。現れたのは中年の男性。黒い長髪を後ろで一つに結び、同じ色の顎髭を蓄えている。そしてその後ろにはもう一人、腰に剣を携えた屈強な若い男。俺は開きかけた口を閉じて、部屋に進み入る二人を見た。
もう一度中年の男性が口を開きかけた時、部屋には大きな足音が響く。
「それで、何をしにこの村に来たんだ? 名前は? 連れがいるんだろう、他の奴はどこにいる?」
後ろを歩いている方の男だった。皮の鎧と剣を揺らしてこちらに近付いて、怒気を含ませた声色で矢継ぎ早に捲し立てる。
俺はその予想外の迫力に言葉をつまらせ、ぎゅっとシーツを掴む。これじゃあまるで本当の少女ではないかと自嘲しながら。だけど仕方がなく、助けを求めるような視線を女性に向けた。
「ちょっとベント、その聞き方はないんじゃない?」
ベントと呼ばれた男性は女性に窘められるが、小さくため息を吐いて自らの濃い茶色の短髪を掻くだけ。納得はしていない。
「悪いがアイナ、魔法使いっていう輩にはろくな奴がいない。こいつもあの男のような奴かも知れないし、むしろあいつの関係者だっていう可能性だってあるんだ」
「そうなの? じゃああなたは私のこともろくな奴だとは思ってないってこと?」
「何度も言ってるが、お前は魔法使いじゃないだろ」
「いいえ、何度も言っているけど私は魔法使いよ?」
女性、アイナさんは立ち上がって、自分よりも大きなベントさんと向かい合う。そしてまるで躊躇することもなく、その身体を押す。しかしその体格差、目の前の筋肉の塊は一向に動かない。
呆れたようなため息が部屋に漏れた。
「ああ、もう。無駄に身体ばっかり鍛えて……。とにかく二人とも、今は出て行って。話は私が聞いて後で伝えるから」
若干とも言い難いほどにベントさんを馬鹿にしたアイナさんは、疲れたように椅子に座る。そしてそれを見た中年の男性が、小さく笑って踵を返した。
「来たばかりなんだが……まあ、それが良いだろう」
正直言ってとばっちりではあるが、こちらの男性は気にすることもなく扉を開ける。しかし一方、俺を睨み付けるのがベントさん。
「おい、妙なことはするんじゃないぞ」
捨て台詞の後に彼は部屋を後にする。そして扉を閉める大きな音が響く。嵐のよにう去って行った人、一体全体なんなのか。どうやら怒りに触れているのは俺のようだが、それが全くの見当違いなのだ。
アイナさんが、苦笑いをしてこちらを向いた。
「ごめんね、びっくりしたでしょう」
「まあ、そうですね、はい」
俺は正直に答えて同じ顔をした。そうしてから、事態の把握と訂正をしようと口を開く。
「あの、アイナさんとさっきのベントさん、魔法使いって言ってましたけど……」
「ええ、さっき見せた通り私は魔法使い。でもベントは魔法使いをあまり心良く思ってないみたいで。気分を悪くしたなら代わりに謝るわ、ごめんなさい」
「いやその俺、じゃなくて私は別に気分を悪くはしないというか、自分には全く関係のないことというか……」
俺は頭を下げるアイナさんに戸惑いながらも、そう言った。途中、自分の一人称と声色のアンバランスさに違和感を覚え、慌てて言い直す。俺なんて口にしたら、何だか自分の方が気恥ずかしくて。
「……どうして? あなたも魔法使いでしょ?」
アイナさんは顔を上げたが、その表情はまだ明るくはない。きっと何か納得のいかないことがあるのだろう。そしてそれは恐らく。
「私は別に魔法使いなんかじゃ……。というかその、魔法って本気で言ってます?」
一瞬の静寂だった。だけど何か責められているような、こいつ何を言っているんだ? と思われているような、そんな沈黙。そしてそれを破ったのは心配気なアイナさんの声。
「オオカミに襲われたのは覚えている?」
俺が小さく頷くと、目の前の可憐な顔もまた首肯する。あんな出来事、そうそう忘れることなんてできない。
俺はまた、ベッドのシーツを握り締める。
「その時あなた、魔法を使ったのよ。覚えはない?」
「……魔法を? 私が、ですか?」
アイナさんはまた少しだけ頷く。だけどこちらに送る視線は、どこか気の毒そうなものを見る目だった。
俺はシーツを握る手に力を込め、漏れ出しそうになる息をせき止める。息苦しい脳内が、僅かに白む。ざわざわと肌が蠢く。
「あなた、魔法が何かは説明できる?」
その問いに、首を振って俯く。答えられない。ゲームや漫画で得た知識を披露しろということか? そんな訳はない。
「それじゃあ女神様の名前は? 祈らなくても、名前くらいは聞いたことがあるんじゃない?」
俯いたまま首を振る。おかしなところは最初からあったが、こうも現実を突きつけられては。ちらりと覗き見たアイナさんの顔は、真剣そのものだ。
鎧戸から漏れ入る太陽の光は、僅かに橙色へと変わっていた。きっと夕方なのだろう。俺の持つ常識が当てはまれば、だけれど。
「……そっか。なら自分の名前は答えられるかしら?」
俺は勢い良く顔を上げた。反射的にだった。この質問ならば答えられると、そしてこれに答えられれば自らの悪い予感が外れると。そんな勘違いをして。だけど零した言葉は。
「名前は、その……分かりません」
この少女の身体に、柏木正一の名を付けられなかった。名付けたところでそれを名乗っても、きっと何の意味もないのだろうから。
目の前のアイナさんが、悲し気な目をしていた。
「この村には一人で来たの?」
「……一人ですよ。多分、知り合いもいないところなんだと思いますから」
「じゃあ、何をしに来たのかは覚えている?」
「さあ、どうでしょう?」
投げやりに返した言葉は間違ってはいないだろう。目が覚めた時、俺は一人だった。いやむしろ、自分すら居なかった。
握り締めた手のひらに、爪が痛く刺さる。
「その、少し疲れてしまったので一人にしてもらってもいいでしょうか」
出来るだけ冷静を装って言うと、アイナさんの手がこちらに伸びた。髪を掻き上げられて、額をそっと撫でられる。そこに気恥ずかしさはない。
「……分かった。また後で来るから」
優しい声が初めて見る夕焼けに溶けて、視線を滲ませる。あの男性達に聞かせられるくらいの話は、これで済んだだろう。そんな風に思いながら、アイナさんの背中を見送る。
一人になった部屋の中。がらんとして居心地は良いが、これからのことを考えずにはいられないような、そんな寂しさを包んでいた。