第十八話 夜がやってくる
外した髪飾りをポケットの中でいじりながら、二人と並んで街を行く。アーシュさん達も今はまだ吸血鬼に現れてほしくはないらしく、俺は顔を隠すようフードを被っていた。
ちらりと視線を上げる。前方を歩くファンヌさんの明るい茶色の髪、その緩やかな波が月明かりを受けて際立つ。そしてその向こうには大通りへの入り口と、灯り始めた明かり達が見える。狭い住宅通りを抜けてそこへと辿り着けば、傍らを歩くアーシュさんの足が止まった。
「じゃあファンヌ、後は頼んだぞ」
コニーさんのところを離れてしばらく、当分の間無口を決め込んでいた彼が発した久しぶりの言葉。それはまたも楽しげで、どこか無責任さも感じる軽い口調だった。どこへ行くのか? そう聞こうとする前に、彼はまばらな人混みに紛れてしまう。
背中は見えるが追うほどのことでもないだろう。だから俺はファンヌさんを見上げた。
「あのー、これからどうするんでしょうか」
「とりあえず、私達の隠れ家に向かいましょう。その後はアーシュ様が帰ってくるのを待つことになるかな」
視線の高さまで降りてきた微笑みを見てから、小さく頷く。そしてもう一度人混みに目を向けた。
「わかりました。……えっと、アーシュさんはどこへ?」
持った疑問をぶつけてみる。怪我の重いファンヌさんだけで大丈夫なのか? 暗にそう含ませて。そうしたら彼女はもう一度笑った。
「吸血鬼を捕まえる準備に行ったの。あの人適当に見えるかもしれないけれど、この件に関してはきっと真面目に考えてくれてるから」
真面目というにはかなりの引っ掛かりを覚えるが、まあ目的に対して本気というのは確かなのだろう。そんな俺の苦笑いを見届けてから、ファンヌさんは腰を伸ばして立ち上がる。
「それに大丈夫、私もノーラちゃんを守るくらいはできるから」
言いながら彼女の右手がこちらに伸びてきて、避ける間もなく左手を取られる。
「さあ、いきましょう」
まるではぐれそうな子供への対処だ。正直コニーさんの時と同じでむず痒く、できることなら解きたい気分だが、まあ彼女の気を損ねる必要もないか。だから手を繋いだまま歩を進め、上を見る。時刻が進み紫色になった空、暗くなる前に隠れ家に着いたほうが良いだろう。
今はまだ吸血鬼が現れないように祈りながら、先導のままに進む。やがて大通りを突っ切って、賑わう酒場を横目に少しだけ細い道に入る。そして帰り道を急ぐ数人とすれ違いながらしばらく進むと、通行人はいなくなる。代わりに現れるのは地べたに座り込む人たち。ボロを纏うその姿からも、彼らの境遇は想像できる。元の世界でも見たような光景、それを見て僅かに緊張感を持ちだした頃、肩を並べていた建物の間隔が広くなって木や緑が増えてくる。そして一件の家の前で、足が止まった。ところどころ粘土の剥がれた壁、既視感を覚える外観だ。
ファンヌさんは懐から取り出した鍵で扉を開けて、建物の中へと入っていく。それに続き足を踏み入れれば、明かりもなく薄暗い室内。ファンヌさんが扉に内側から鍵をかけ、部屋の奥へと進んでランプに魔法で火をつける。そうしてやっと、部屋の全貌が明らかになった。
「ようこそ、ノーラちゃん」
歓迎の言葉を聞きながら、失礼にならない程度、部屋の中を見回す。やはり外観同様、どこか埃っぽい感じがして煤けているような印象を受ける。だが、生活に必要な机や椅子などは問題なく使用できそうで、特に困ることはないだろう。強いて気になるところといえば、リネーアさんのところのような飾りっ気が少なく、本棚といった娯楽品も無いというところだろうか。
「適当に座って少し待っていて」
奥の部屋へと消えていくファンヌさんを見送って、言われたとおり長椅子に腰を下ろす。その隅に古いクッションを見つけて、少しだけ体重を預けた。そして誰にも聞こえないだろうと、少し大きめにため息をこぼす。酸素を出しきった頭に残るのは、これからどうなるという考えだけ。いや、どうなるではなく、どうしなければならないか、か。
ちらりと目線を逸らして、奥の部屋を見る。ファンヌさんが戻ってくる気配はまだないが、戻ってきたらあの魔法について聞いてみよう。空白の魔法と呼ばれるものの一つ、アーシュさんが心あたりがあると言っていた、魂を移動させる魔法について。後は二人が揃ったら、俺がコニーさんに話したうちのどこまでを把握しているのかも確認しておくべきだろう。
だからそれまで、脳内が不安に支配されてしまわないようできるだけ無心で時を過ごす。ゆっくりと息をして、楽な体制で目を閉じる。しかし決して眠ってしまわないように数十秒ごとに目を開く。それを繰り返すことどのくらいか。気付けばいつのまにか、部屋の中の机に料理が並んでいた。
「さ、どうぞ。お腹すいたでしょう?」
机を囲む椅子の一つに腰を掛けながら、ファンヌさんが呼ぶ。立ち上がり、俺もまた椅子へと腰を下ろす。
目の前を見て、思わず喉を鳴らした。腹がきゅーっと動き出すのにも気づいた。俺はこんなにお腹が空いていたのか。机に並べられていたのは、そう再認識させてくれるような料理たちだった。
大きなジャガイモとキャベツ、ネギのような野菜が入ったスープに、何の動物だろうか、とにかくこんがりとローストされた食欲をそそる肉。そのどれもが美味しそうな香りを放ち、鼻孔とともに食欲をくすぐる。
「えっと、頂きます」
俺はナイフとフォークを手にとって肉を切り、口へと運ぶ。歯を入れると油がじわりと広がった。美味い。素直にそう思った。元の世界で食べたものと比べれば劣るものの、今の俺にとっては非常に嬉しい食事だ。
「どう? おいしい」
「はい、とっても。……その、すみません。怪我してるのに料理まで作ってもらって」
「気にしないで。私が好きでやったことだから」
ファンヌさんは少し呆れたように笑った。きっと気を遣いすぎるなと言いたいのだろう。もしかしたら子供らしくないとも思われてるかもしれない。まあ、正体に違和感を持たれるほどのことではないだろうけど。
口の中のジャガイモを噛み潰して飲み込む。そろそろ本題に入ろう。
「あの、ファンヌさん。アーシュさんが言っていた魂を移動させる魔法について何か知っていますか?」
料理に手を付け始めたファンヌさんは、口の中の食べ物を飲み込んでから苦笑いを浮かべた。
「ごめんなさい。それについてはアーシュ様に――」
「おいファンヌ、帰ったぞ」
ランプの火が揺れる。ふいに扉の開く音がして、ファンヌさんの言葉は遮られた。どしどしと乱暴な足音とともに現れたのは、他でもないアーシュさんだ。
彼は机の隣までやってくると、親指で何かを弾き飛ばした。きらりと光りながら飛んで来るそれを反射的に受け止める。拳を開いてみるとそこには、金貨があった。昼間知らないうちにポケットに入っていたあの金貨だ。
「い、いつの間にこれを?」
慌てて声をかけながら、今まですっかり忘れていた存在をポケットにしまい直し、その変遷を記憶の中から探る。確か髪飾りと一緒に机において……そうだ、そのまま回収し忘れていたのだ。きっと隙を突いてアーシュさんが拝借したに違いない。手癖の悪い人だ。
「まあ、ちょっと借りてただけだ。気にするな。……お、ファンヌこれ貰うぞ。あと肉もっと追加だ。酒もな」
適当にごまかされた。目を細めて視線を向けるが何のその。アーシュさんは皿の肉をつまんで食べると椅子に腰を下ろす。そして油のついた指をねぶってシャツで拭いた。……まったくこの人は。
ファンヌさんも苦笑いを浮かべながら、再び奥の部屋へと歩いていった。
「それでえっと、何か収穫はありましたか?」
この人はこの件に関しては真面目、ファンヌさんのそんな言葉を思い出しながら、アーシュさんに問う。
「あったのかなかったのかでいうと微妙なところだな。とりあえず話すと、俺はミレアスとかいう奴のところに行ってきた」
少しだけ真剣味を増したアーシュさんが言う。ミレアスさんのことは俺とコニーさんの会話から知っているらしい。確か場所も聞かれてコニーさんに大体の位置を教えたはずだ。人形劇や何やらの件については少し端折ったが。
「吸血鬼の知り合いかもしれないから、ですか?」
「ああ。お嬢ちゃんの証言ではな」
問いかけてみれば、首肯が帰ってくる。あの女はミレアスさんのことを知っているような口ぶりをしていたのだ。そこから調べていくのは至極当然だろう。
「これで確信に迫ってりゃあ囮の嬢ちゃんも必要はなかったわけだが、まあ期待はしてなかったな。予想通り、吸血鬼の居場所やなんかはわからなかった。その点では収穫なしだ。ま、そもそも爺さんに会えなかったわけだが」
会えなかった? 留守だったということか? まあ日が落ちたとはいえ外に出かけない時間というわけでもないのだから、不思議ではない。それより他に何か収穫があったかのような言葉が気になる。だから黙って続きを待つ。
「だが、一つ驚くべきことが分かった」
やはり何かあったようだ。アーシュさんがにやりと笑う。
「俺が尋ねたとき家はもぬけの殻だった。んで、となりの住人に話を聞いたら、どうやら爺さんは今日の昼頃、王立騎士団の奴らに連れられていったそうだ」
騎士団? 良くは分からないがそういった人達があんなところまで直接やってくるというのは、早々あることじゃないはず。一体何故? そんなふうに考えるのと同時、ミレアスさんの家を離れるときに来客があったことを思い出す。あのとき扉の向こうに居たのが騎士団の人たちだったということだろうか。
「理由ははっきりとはわからんが、俺は魔法が絡んでると考えている。それも騎士団が直接動くほどだ、そんじょそこらの魔法じゃない」
「空白の魔法ですか?」
俺の問いにアーシュさんは頷いた。ミレアスさんもまた、俺たちと同じように空白の魔法を使うことができる。いま目の前にいるこの人はそう考えているらしい。現時点では突飛なものに思えるが、やはり根拠はあるらしい。
「隣りに住む奴いわく、どうやら爺さんは昔から不思議な力を持っていたらしい。誰かが無くしたものを直ぐに見つけてやったりだとか、教えてもいない本人が忘れているような事を知らせてきたりだとか、気味の悪いことが多々あったんだとよ」
「それが空白の魔法だと?」
「ま、確証はないがな」
アーシュさんは乾いた口を潤すように茶を啜り、もう一度テーブルの肉をつまんだ。
俺はそんな光景を見つめながら、料理に手を付けるのも忘れて考える。ミレアスさんが騎士団に連れて行かれた理由が空白の魔法なのだとしたら、俺もアーシュさんにもその可能性があるということになる。
「え、えっと、あのちょっと待ってください。つまりその……空白の魔法を使えると国に連行されるんですか」
「その可能性はあるっていう話だ。現にそういう奴らを騎士団が探して回ってるっていう噂も流れてるしな」
小さく息を吐きだして、背もたれに寄りかかる。
やはり迂闊にあの魔法を使うのは危ないようだ。コニーさんの注意は、理由は違えど正しかったといえるのかもしれない。ただ、それに対する違和感は拭えないが。
顔を上げて、本格的に食事を始めたアーシュさんを見る。そして思った。この人は俺とコニーさんの前で簡単に魔法を使ったな、と。それだけ捕まらない自信があるということなのか?
考え込みながら目を向けていれば、視線に気づいたアーシュさんがこちらを見る。
「ま、報告はそんなところだな。吸血鬼に関する情報はなし。以上。……あ、後その金貨は恐らくミレアスの奴がお前のポケットに入れたんだろう。隣の住人に見せたら、見覚えがあると言っていた。で、なにか質問は?」
そう振られて、まずは金貨に意識を向ける。これがミレアスさんからの物ならば、その意図は一体何だ? 気にはなるが、この疑問は恐らくアーシュさんに聞いてもわからないだろう。答えが確かならもう既に口にしているはずだ。
だから代わりに、先ほどファンヌさんにした質問を思い出す。途中で遮られた彼女の返答、恐らくはアーシュさんに聞けということのはず。
「えっとじゃあ、魂を移動させる魔法についてもう少しお聞きしたいんですが」
しかし率直に切り出しても、帰ってきたのは沈黙だった。そして更には、おどけたように肩をすくめるボディランゲージ。
「……ほんとにそれが聞きたいことか?」
そして今度は口を曲げ、呆れたという態度を隠すことなく言葉をよこしてくる。よくわからない。そんなにおかしなことを言ったつもりはないのだけれど。
疑問の声を思わず漏らせば、追い打ちがやってくる。
「他人の事情に興味はないがな、俺はさっきからおかしいと思ってるんだ。嬢ちゃんもあのコニーとかいう男も二人共、普通聞くようなことを何も聞いてきやしない。俺とファンヌがそこまでしてなんで吸血鬼なんかを狙ってるのかーとか、そういう根本的なところに口を出そうともしないだろ?」
一度息を吸って茶をすすってもなお、彼の言葉は止まらない。
「そして挙げ句の果てにはあの男、俺達を信用してるだとかのたまって、そんで嬢ちゃんは聞き分けよくここにいる。俺とファンヌはあんたらに武器を向けたことだってあるのにだ。……なんとも腑に落ちない」
そしてアーシュさんは背もたれに勢い良く寄りかかると、右手の親指で自らの後ろを指す。
「つまり、あんたら二人は何か別のもんを見てるんだろ? 吸血鬼なんていう化け物に狙われてるかもしれないっていうのに、大して気にもしなければ怯えもしない。現時点でそれより重要な事なんて無いはずなのにだ。だからそのつまり……あんた達は今回の件のもっと後ろ、何だかは知らんがそれを見てる。だろ?」
コップの中身を勢い良く飲み干して、その乱暴さを殺すことなくテーブルを叩く。部屋に響いた乾いた音に、俺は僅かだが身体を震わせた。
そして机の向こうの瞳を見つめたところで、さらなる言葉はやってこない。だから恐る恐る口を開いた。
「……私は空白の魔法についても知っておきたい、それだけですよ」
「まあ、そりゃあそうなんだろうな。でも、本当にそれだけか?」
「はい。……それにあなた達だって重要なことを聞いてこないじゃないですか」
「なんだ?」
「私が吸血鬼に狙われているかもしれない、その訳ですよ」
誤魔化すように話を逸らして、逆に相手へ問い詰める。よくわからない、咄嗟の発言だった。
アーシュさんは眉をひそめて身体を乗り出す。
「言っただろ? 俺は別に興味がないだけだ。それに聞かれたところでお前、答えられるのか?」
まあそう言われてしまえば、答えられそうにない。素直に苦笑いを向けると、こちらを少し馬鹿にしているような、そんなおどけた顔が返ってくる。
「ま、吸血鬼攻略に有利になる情報なら興味はあるがな」
またもや肉をひとつまみ。そしてくちゃくちゃと下品に咀嚼しながら、送られてくる視線。きっと何か情報があるならば隠さずに言え、そういうことなのだろう。だから腕を組んで少し考えてみる。この人達に吸血鬼を捕獲してもらうため、こちらが提供できることはなにか。
唸り始めて目を閉じようとして、一つ思い当たった。アーシュさんが俺とコニーさんの会話から得られていないであろう情報、つまりは俺が端折った部分に。
伝えようと顔を上げる。しかし口が開く前、視界の端に動く影が見えた。奥の部屋から帰ってきたファンヌさんだ。手に追加の肉料理はない。
「おいファンヌ、俺の肉はどうした?」
「アーシュ様、それより外の様子がおかしいです。何かが羽ばたくような音が聞こえて、その、私の見間違いでなければ窓の外に……」
「なんだ? お前らしくもない。もっとはっきりと――」
何かが砕ける乾いた音が、アーシュさんの言葉を遮った。俺は反射的にその出処へと顔を上げる。そこは天井のはずだった。だがしかし、目に映るのは星々が散らばる黒い空と、一際怪しげに光る二つの星。
「おいおい、何だこりゃあ」
アーシュさんの声を聞くと、星屑のように降る木片が頬に触れる。鬱陶しくて右手を払い、目を細めて気付いた。天井に空いた大穴の向こう、大きな二つの星の正体が大鷹の両目であることに。
あいつだ。肉を裂いたナイフの感触と、肌で感じた熱い鮮血。記憶の向こうから、その感覚が戻ってくる。
「おい! 何か凄い音がしたが大丈夫か!」
震える足を感じ始めた頃、玄関のほうからノックと共に声が聞こえた。聞き覚えのない男性の声だ。
「警備隊の者だ! ここを開けてくれ!」
助け。頭の中に浮かんだのはそんな言葉だった。それならば早く扉を開けなくては、そう考えるが、瞬間的にある光景が頭の中にフラッシュバックする。
『俺だ! 助けを連れてきた、ここを開けてくれ!』
喉元に拳を当てた後の吸血鬼が、それまでとは違う声で口にした言葉。今のこの状況と似ていると思った。ミレアスさんがあの吸血鬼かもしれない女と知り合いであるということも考えれば、なおさらに不安は募っていく。
どうすればいい? 縋るようにアーシュさんを見つめるが、彼は天井ただ一点を見つめるのみ。玄関の向こうにいるであろう人物には反応を示さない。
俺ももう一度上を見る。四又に分かれた鳥の足が、砕けた天井の梁へと踏み出していた。