第十五話 誰かさんのお話
「ノーラちゃん、こっちだよ!」
先に駆けていったハンスは片手を上げて、楽しそうに俺の名前を呼んだ。
ここは雑踏が蠢くシストリアの大通り、道行く人達がこちらをちらりと見ながら歩き去って行く。何だかはしゃぐ子を連れた、休日の親の気分だ。経験も無いくせにそんなことを考えながら、渋々とハンスの元に歩いて行く。
結局、俺はハンスと共に行くことになった。もちろん最初は断ったけれど、彼は引き下がらなかった。無理やりに逃げることも容易いと言えば容易い。しかし、コニーさんから魔法は使うなと言われている。つまり俺は、街はいくらか安全、そんなコニーさんの言葉を安定剤にして、妥協を図ったのだ。
ため息を一つ吐いて、ハンスを見る。散策の主導権は、今や彼の元にあった。理由は一つ、一体なんなのかは知らないが、俺に見せたいものがあるらしい。逆らってもきっと意味は無い。
「それで、見せたいものっていうのは?」
だからそんな言葉をハンスに投げかけた。
「もう少し先!」
そうしたら返ってくる返答。いや返答とは呼べないか。俺は見せたいものの場所ではなく、内容を聞いたつもりだったから。
苦笑いで路地裏へ。ハンスの後を追いながら、考えた。この少年、さっきカールにいじめられていた時とはまるで別人のように思える、と。今の彼は常ににこにことした笑みを称えていて、足取りも軽く活気がある。
そうしたら、頭の中に先ほどの景色が思い浮かんだ。俺がぬいぐるみを返した後のハンスの表情。今になって思えば、その理由はきっと単なる初対面の照れだったのだろう。現に今は、正反対の態度で俺に接してきている。なら、別に問題はない。考えかけたことは、単なる自意識過剰だろう。
少し息を吐き出してから、ハンスの背中を追いかけて進む。道が段々と細くなり、そして僅かに汚くなっていく。何だか治安の悪そうな裏通り。もう少し奥へ進むのならば止めよう。そう思う寸手のところで、前を行く足音が止まった。
「……ここ?」
「うん、ここだよ」
身体と視線を右に向け、ハンスが指差す建物を見る。
古ぼけて剥がれ落ちた粘土壁。そこに嵌って立つ一枚の板扉。簡素な彫り細工の向こうはしんと静まり返っていて、何だか人が住んでいるのかどうかさえも怪しい。少なくとも、誰かの案内なくしては決して足を踏み入れないような、そんな建物だろう。
「おじさーん!」
だが少年が臆することはない。こんこんと二つ叩いて、ハンスは声を上げる。どうやら人は住んでいるらしい。
やがて軋む音と共に扉は開き、現れたのは一人の老人だった。潤いなく伸びた白い髪に、それと同じ色であごを覆う豊満な髭、そして濁ったように光る視線がこちらを向く。随分と建物の外観に似つかわしい人物が出てきたものだ。失礼ながらもそう思った。
「ミレアスさん、今日は友達を連れてきたんだ。だから楽しい話をお願い」
「ど、どうも。その、はじめまして」
ミレアスと呼ばれた老人に恐る恐る礼をする。そして、二人目。ハンスが口にした友達という言葉に対して、心でそう呟いた。どうにも虚しい気がするが。
振り払うように顔を上げる。このまま家にあげてくれるのだろう、そう思いながらミレアスさんの反応を待つ。が、いくら待っても言葉はひとつも返ってこない。返ってくるのは小さな瞳が送る視線だけ。ミレアスさんは上下に数往復俺を見て、やっと口を開いた。
「……入りなさい」
だが、それだけ。ぶっきらぼうに言うと、彼はドアを開け放したまま家の中へと消えていってしまう。どうやら内面も家の外観に似つかわしいものらしい。またもや失礼なことを考えながら、ハンスを見る。本当に入るの? そんな感じの問いかける視線で。
「さ、行こうノーラちゃん!」
しかし、扉を抑えながら得意気にハンスは微笑む。今更帰れるような状況ではない。まあ仕方なくとはいえ、着いていくと決めたのは俺だ。どうせ情報収集の当てもないのだから、とりあえずはいろんなことに首を突っ込むとしようか。
建物の中を見つめながら、足を踏み出す。外と中の境界線を超えれば、鼻を突くどこか懐かしい臭い。乾いた埃の臭いだ。背後で扉の閉まる音がすれば、外の明かりは入らない。一直線に続く細い廊下を壁の蝋燭たちだけが照らしている。
俺は身体をずらして壁際に身を寄せた。ミレアスさんの姿は既に消えていて、どこに進むべきかわからなかったから。ハンスはそんな俺の意図を理解したのか、先導を引き受ける。
「ちょっと怖そうに見えるでしょ、ミレアスさん。……あ、こっちだよ」
廊下の中ほど、分かれ道で左に曲がりながら、そんな問いを投げかけられた。
「え? ああ、うん」
「でも大丈夫。見た目と違って良い人だから」
愛想がない人というだけだろうか。その点に関しては、俺も人のことは言えないが。
そんなふうに考えていると、前を行くハンスの身体が沈み込んだ。覗き見てみれば地下へと下る階段。怪しい……が、言われたことを信じることにしよう。薄暗い中、気を使いながら階段を下りきると、随分と広い部屋に出た。石の床の上にはいくつかの大きな丸いテーブルと、イス。部屋の隅にはカウンターがあり、その向こうの棚には無数の瓶が並んでいる。酒場、一言で表すならそんな場所だ。
ハンスの背を追いながら、更に部屋の中を見回す。すると違和感という程でもないが、一つ目を引かれるものがあった。それは舞台。部屋の奥、床よりも一段高くなった場所にある木張りのステージだ。
酒を飲みながら、客達が踊りや演奏を楽しむ。そう考えればまあ、あっても不思議なものではない。だけどそもそも、ここに客なんか来るのか?
「さ、ノーラちゃん、座って」
頭を捻っていると、どうやら部屋の中心にたどり着いていたらしい。ハンスがそこらから二脚の椅子を引っ張ってきて並べると、片方の座面をぽんと叩く。よくわからないまま座る。何も異常はない。膝に手を置き前を見れば、先ほどの舞台が目に映る。人影は無く、ミレアスさんも見当たらない。
「すぐ始まるよ」
こちらに身を寄せ囁かれる、少年のつぶやき。一体何が始まるのか。少しの不安と期待を背もたれに預け、舞台を見る。やがて薄暗い淀んだ地下室、その一角に淡い蝋燭の明かりが灯った。そして舞台奥の壁に、天井から降りてきた幕がかかる。そこには森林の景色が描かれていた。
「初めての奴には、まずこの話」
舞台袖の扉から、声とともに人影が現れる。腰のあたりをベルトで絞り、影のように黒い衣装。フードを目深に被り顔は伺えないが、その人物はミレアスさんだとわかる。彼が手にしているのは複数体の人形で、四肢から伸びる糸を見るに操り人形。
やがて舞台中央で立ち止まったミレアスさんは、人形のうちの一体を自らの足元に置く。長く白い髪をした人形、生気のない人形が舞台にぺたりとへたり込む。代わりに、別の人形が動き出した。
「……一人の怪物の話だ」
神妙な声とともに、人形の黒い髪が揺れた。俺はこれから行われることを理解して、息を呑む。舞台へと向く視線に意識を傾ける。だが、一つ疑問が。「怪物の話」それは本当に楽しい話か?
ミレアスさんが口を開き、ゆっくりと語り始める。人形劇が始まった。
――今から少し前のお話。我らが女神、アプシスの身体のどこか。濃緑の森を抜けて清らかに流れる小川を渡った先に、とある小さな村があった。
建ち並ぶ木組みの家々には温厚な人々が住んでいて、互いを家族のように助け合う。争い事といえど些細な言い争い。次の日になれば皆けろっとしているような、そんな平和な場所。だが今そこに、影が近づいていた。
「うえ、川かぁ……」
時刻は真夜中、月はてっぺん。明かり少なに浮かび上がる森の中に、声が響く。思ったより面倒なところに来てしまった。そう考えながら橋を見つめるのは、一人の女だった。
美しい黒髪を肩まで伸ばし、同じ色の長いコートを着た長身の女。二十も半ばを過ぎたであろうその容姿は、真夜中の森には不釣り合い。だから彼女には、もちろん目的があった。この橋を渡った先にある村に、大事な用が。
行こう。心のなかで呟いてから、意を決したように女は足を踏み出す。一歩、また一歩。まるで害虫の群れを抜けるかのごとく歩みを進め、小さな橋をすぐに渡り終える。それは赤子の這いずりでも苦労をしないような距離だったが、不思議なことに女は頬を紅潮させ、額に脂汗をかいていた。
「まったく、もう。……えっと、ありがとう。モニカ」
自分以外誰もいない森。そんな場所で誰かに礼をこぼしてから、女は再び足を進め始める。何度やってもなれない、次はもう少し楽なところを選ぼう。そんな後悔を抱きながら歩く。やがて、前方に立ち並ぶ家々が見えてきた。
女は舐めるように、その景色を見渡した。そしてすぐに、宝石のように濡れ光る瞳をまぶたで隠す。ぼんやりと点在する、静止したもや達を感じ取る。家々の窓は閉められ、漏れる明かりもない。時間も時間、村人たちが寝静まっているのは明白だった。
さて、大きな野望の第一歩、気合を入れていこう。目を開いて準備体操、咳払い。女はゆっくりと歩き出す。目標として定めた家の玄関先に立ち止まり、拳の甲を扉に打ち付けようとして、やめた。
「夜更かしがいる」
女は耳をぴくりと震わせて、苛立ち混じりに言った。どこからか小さく話し声が聞こえたのだ。
まったく、昼を生きられるくせにこんな時間まで起きているなんて、一体どんな不真面目な奴だろうか。嫉妬が混じった心でそう考える。だが同時にこうも思った。最初の獲物にはそんな奴こそが相応しい。
家の角を回り込み、声の聞こえた方向へ。もう一度角を曲がると予想外。すぐに声の主は見つかった。
「……夜は嫌い、つまらない」
何とも辛気臭い言葉を呟くのは。開け放たれた窓から顔を出し、項垂れる少女。伸ばした手をまるで釣り糸のようにだらりと落としている。女はにっこりと笑った。こんな時間に起きている子供、やはりこれは格好の相手だ。しかも幸いなこと、まだこちらに気づいていない。
更に口を歪めて、近付く。だが一歩、また一歩と歩みを進める途中で、女はふと思った。この少女がいま言ったことは、自分がいつも思っていることだ、と。
だから足が止まった。地面の草を強く踏みつけてしまった。音に気付いてこちらを向いた少女と、女は視線をかわす。一秒、二秒。少女が先に口を開く。
「あなた、こんな時間になにをしているんですか?」
幼さを残した顔とは違う、落ち着いた声色だった。いや、声色だけではない。
女は目を凝らし、よくよくと獲物を見回す。大きな目にこけた頬、小さな鼻、十代の半ばくらいだろうか、僅かに成長の余地を残した少女の顔。だが、そんなところよりもある一点に目が止まる。それは幼さとは無縁に思える潤いのない白髪だった。
げ、不味そうな奴。女はとっさにそう思った。だから返事をするのを忘れ、腕を組んで考え始める。どうしようか、他の奴にしようか。いやでも……。しばらく唸っていると、再び声が飛んできた。
「この村に住んでる人、ですか?」
住んでるわけないじゃん。口だけ尖らせ、心の中でそうぽつり。女はまたも声は返さず、今度は少女の首元へと目をやる。そこにあるのは、伸びた白髪の隙間から覗く青白い肌だった。血が通っているのか疑わしいほどのそれを見て、女は酷く病的だと思った。
やっぱり不味そう。あっさりと踵を返して、女は別の獲物を探し始める。が、またふと思った。好き嫌いは良くない、それが野望への近道だ、と。だからやっと、女は少女に声をかけた。
「んー、ちょっと動かないでね」
少女は驚いたようで、大きな目を丸々と見開いた。それに伴い、白い肌に刻まれたくまが下へと追いやられる。
女は両手を顔の高さまで上げ、手のひらを少女へと向けた。布へ向かう針のように、人質を脅す剣のように、十本の指先が前を向く。そして一歩、また一歩と進み始める。
だがあと少しで届く、そんな寸手のところで、少女が家の中へと身を引いた。同時にぴたりと、女の歩みが止まる。
「もー、何で動くかなぁ」
女は腕を組んで顔を歪め、少女へと向けていた視線を僅かに下げた。そうして見つめるのは、こちらとあちらの隔たり、開かれた窓の下にある、乗り越えるのも容易い一枚の壁。はたから見ればちんけなそれも、女にとっては鍵穴もノブも無い扉に見える。こちらから開けることは決してできない代物だ。
どうしたものか。そう悩む暇もなく、更に追い打ちをかけるように少女が動いた。少しの恐怖が混じったような顔で、窓を閉めようとしている。このままではまずい。女は急いで声を上げた。
「あ、あたしもさ、嫌いだよ。夜」
それは特に考えのない発言だった。ただ注意を引ければいいと、そう思っただけのこと。だけど、言葉に偽りはなかった。
一瞬の静寂。少女の手が止まり、伏し目がちの視線が女へと向く。場を繋げ。女はすかさず口を開く。
「でもまあ、起きてるしかないんだけどね」
少女は窓へとかけた手を、降ろした。
「……どうして?」
食いついた。少女の問いかけに対し、女はにやりと笑う。尖った犬歯の片方が、月明かりの下に覗く。
そしてゆっくりと口を開いた。
「あたし、吸血鬼だから」
二人の間に吹いていた夜風が、ぴたりと止んだ。辺りには虫の声と水の音。しばらくの間、両者は口を開くことなく見つめ合う。
しまった。女――吸血鬼は、心のなかでそう思っていた。うっかり本当のことを口にしてしまった、と。これじゃあ怖がって逃げられるに決まっている。だがそんな心配とは裏腹に、小さな笑い声がその沈黙を破った。
「……こんな状況じゃ、あんまり面白くない冗談ですね。吸血鬼なんてお話の中だけの存在ですよ? それに吸血鬼が嫌いなのは昼じゃないですか?」
少女は話を全く信じていないようだった。何とかなったのは良い。だけど冗談呼ばわりされるのは、少しだけ腹が立つ。だから口に手を当て笑う少女に向かって、吸血鬼は首を傾げた。吸血鬼の、そして自分の何たるかを教えてやる。
「え、昼? 別に嫌いじゃないよ。嫌いになるほど知らないから」
見たこともないものを嫌いにはならない。むしろ未知であるが故の憧れ、そういった感情のほうが彼女の心の中では大きかった。それを伝えたら、なぜだか胸がざわついた。
だが一方の少女は話半分で聞いているのか、細い指で呆れたように頬を掻くだけ。
「えっと、その、私も夜は嫌いです。昼は……両方、ですかね。好きだけど、嫌い」
「なにそれ、どういうこと?」
「……見てわかると思うんですけど、私、病気なんです」
そんな風に、不思議と会話は繋がった。少女は自称吸血鬼という怪しい人物に話をさせるよりも、自分が話したほうが良いと考えたのかもしれない。それとも単なる気まぐれか。どちらにしろ少女は渇いた笑みを浮かべ、両手を広げる。
吸血鬼は、そんな獲物をもう一度眺めた。ゆったりとした白い衣服、襟ぐりから覗く青い肌、それを押し上げる鎖骨、枝のように細い腕。そのどれもが、少女の発言に説得力を与えているように思える。
「ふーん、まあ確かに不健康そう」
気遣いといったものを微塵も感じさせない言葉。少女は目を大きく開ける。だがそれを、吸血鬼が気にすることはない。
「こんな夜中まで起きてるからじゃない?」
「昼間に起きてると、その、今よりもっと虚しくなるから」
指摘を上書きするように、塗りつぶすように、少女は今までよりも大きな声を上げた。そして啜り泣きにも似た呟きを漏らす。
「私は、この家からあまり出られないんです。出られたとしても、短い時間だけ。走り回ることなんて到底できない。それに村の人達は優しいけれど、やっぱり私とはあまり話したくないみたい」
「病気だから?」
「……はい」
吸血鬼の気のない返事に怒ることもなく、少女は傍らの窓に手をかける。
「ここにいると小さく聞こえるんですよ。子供達の楽しそうな声と、お隣さん同士の仲の良さそうな……」
「ねえ、回りくどくてよくわかんないんだけどさ。何が言いたいわけ?」
吸血鬼はあからさまに眉をひそめて、そして心の中でこう思った。この子、案外めんどくさい、と。だから急かすように切り込んだ。
少女は真っ直ぐに前を向いて、吸血鬼の瞳を見る。
「そういうのを聞いていると、虚しいってことです。私も外に出たいから。小さい時からずっと、そう思ってきたから」
「ふーん」
吸血鬼は腕を組んだ。そして斜め上を見て少し悩み、笑った。
「そういうことなら先に言ってよね。羨ましいのが嫌で昼夜逆転生活ってことでしょ?」
自分は起きていること自体が不可能で、この子は自ら昼を避けている。違いこそあれどお互いはよく似ている。吸血鬼はそう思った。なら、せめて。
「あたしに任せて!」
何故だか気分が良かったから、弾む声で言った。彼女には考えがあったのだ。この少女を外に連れ出す考えが。
吸血鬼は走りだし、夜の闇に消える。場に残されたのは冷たい夜風と、少女の息遣いだけだった。
それから、少女と吸血鬼にとっての夜を一つ挟んで、もう一度暗い昼が来た。辺りは闇に染まり、厚い雲の隙間から差す月明かりも少ない。昨夜の場所にはまた、吸血鬼の姿があった。
「あっれー? いないじゃん」
だがしかし、窓辺に少女の姿はなかった。あんなよぼよぼで一体どこに行ったのか、外には出れないんじゃなかったのか。吸血鬼はもやもやとし始めた胸に手を当てて、目を閉じる。
「んー、あっちかな?」
そしてある方向に向かって走りだした。いくつかの魂の、ぼんやりとした集まりを感じ取ったのだ。その中に少女がいるとは限らないが、確かめるほかない。
吸血鬼は細い足には似つかわしくない早さで村を走り、やがて一つの建物の前で足を止めた。そしてもういちど目を閉じてから、建物を回りこむ。
「ここかな?」
独り言を漏らしながら見つめるのは、一枚の扉。建物の脇に斜めについた、地下室への扉だ。吸血鬼は頭を悩ませた。これじゃあ、あたしは入れない。
しばらく腕を組んで悩んでいたが、吸血鬼は何かを思いついて動き出す。また胸に手を当て、それを今度は拳にして喉へと当てる。
「ありがとう、ジョン」
何者かに礼を呟き、扉をノックする。一時の静寂。だがすぐに、声は返ってきた。
「だ、だれだ!」
怯えた男の声に、吸血鬼は何の戸惑いもなく口を開く。
「俺だ! 助けを連れてきた、ここを開けてくれ!」
だが飛び出した声色は、前までとは違うものだった。深みのある、低い男の声。そして、吸血鬼にとっては記憶に新しい声。
「あ、ああ、やっときてくれたか、入ってくれ」
扉の施錠が解除される。その瞬間、吸血鬼は扉を蹴破った。外れた木の板に巻き添えを食らった男が、深い階段を転げ落ちる。
「あたしだよー。昨日の吸血鬼!」
女性らしさを取り戻した声で叫びながら、吸血鬼は階段を下っていく。蝋燭の明かりに浮かび上がる地下室からは、複数人の叫び声が聞こえる。倒れた男の身体を跨いで吸血鬼がそこにたどり着くと、人々の声は更に大きくなった。見れば部屋の隅で石壁に肩を寄せ、村人たちが肩を震わせている。
まったく、うるさいなあ。吸血鬼は鬱陶しげに目を細めつつ、人の塊からある人物を探す。昨日の少女だ。しかし、一向にその姿は見つからない。だからすぐに、蹂躙が始まった。
床を蹴って、吸血鬼が駆け出す。腹を、顔を殴り、腕と足を折って村人たちの自由を奪う。だが死への抵抗を受け、吸血鬼もいくらか傷つく。女子供を守る男たち、我が子をかばいながら叫ぶ女達。命を賭した村人たちの最後の抗い。やがて吸血鬼は、それら全てを殺さぬ程度にねじ伏せた。
「やっぱり、いないじゃん。どこ行ったのかな」
血の匂いの充満した地下室で、吸血鬼は寂しげに呟く。そしてうめき声の中でしばらく立ち尽くしてから、重い足取りで転がる村人の一人へと近付いた。
腰をかがめ膝をつき、首元に牙を突き立てて血と魂を啜る。それを幾人にもくり返し、やがて最後の一人となった女性へと口を開ける。だがその村人は、涙声で呟いた。
「……ソフィ、ジョン」
力を振り絞った声、それが最後の言葉になった。
「ふう、やっぱり足りないか」
吸血鬼は涼しい顔で立ち上がり、血に濡れた口を拭う。この地下室に来る前、村人の助けを受けて町から来たという兵士たちを何人か頂いたが、それでも足りない。まあ、仕方がないか。
結局あの女の子はどこだろう。とりあえず今は、それだけで頭がいっぱいだった。だからもういちど部屋の中を見渡す。脳裏に焼き付いた少女の姿を求めて。すると地下室の奥、更に扉があるのを見つけた。思わず口角を上げて、吸血鬼はそれをノックした。
「誰かいますかー?」
返事は返ってこなかったが、すぐに扉は開いた。物置として使われていた小部屋、そこから現れたのはあの少女だった。白いスカートの下から覗く細い足で、ふらふらと吸血鬼に近付く。そして感情の消え失せたような声を漏らす。
「……これ、あなたが?」
吸血鬼は少女の肩に両手を置き、満面の笑みで頷いた。
「もちろんそうだよ! でも病気を治すにはさ、もう少し掛かりそうなんだ」
「私の、病気?」
「うん! あたしがもっと魂を集めて強い吸血鬼になれば、あなたも吸血鬼にしてあげられる。そうしたら病気なんてすぐに治っちゃうよ? 最初は昼に外には出られないけど、夜なら大丈夫! いくらでも走り回れるし、話し相手はあたしがいるでしょ?」
まくし立てた。本当は今すぐにでも吸血鬼にしてあげたかったけれど、足りなかったのだからしょうがない。吸血鬼の頭にはもう、夜の森で少女と遊ぶ景色が流れている。なぜだか弾む胸と、軽くなっていく身体。こんな気分は初めてだ。
しかし、そんな感情とは対照的に、目の前の少女は無表情だった。少女は目線を動かして、床に転がった先ほどの女性の亡骸を見つめる。そして一筋の涙を流した。
「なに? なんで泣いてるわけ?」
吸血鬼が問う。少女は答えを返さずに、吸血鬼の胸元に手を当てる。
「お母さん、お父さん、ここにいるの? なんでこんなことになっちゃったんだろう。……ごめんね」
少女は顔を上げ、まっすぐに吸血鬼の顔を見た。涙を流しながら、無表情で。
「吸血鬼さん、私の血も吸って」
何を言ってるんだ、この子は。あたしがした説明が理解できなかったのだろうか。
「私、夜も昼も、全部が嫌いになったから」
少女は白い髪をかき上げて、青白い首元をさらす。吸血鬼はそれを見て、膨らんでいた不思議な気持ちが急速にしぼんでいくのを感じた。今までと同じ心が帰ってきた。つまらない。
「もう少しで病気が治るのに?」
少女は喋らない。
「あたしがいるのに?」
少女は喋らない。
「そっか」
吸血鬼は牙を突き立てた。