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空白の魔法  作者: 片岡 武路
一章
16/31

第十五話 誰かさんのお話

「ノーラちゃん、こっちだよ!」


 先に駆けていったハンスは片手を上げて、楽しそうに俺の名前を呼んだ。

 ここは雑踏が蠢くシストリアの大通り、道行く人達がこちらをちらりと見ながら歩き去って行く。何だかはしゃぐ子を連れた、休日の親の気分だ。経験も無いくせにそんなことを考えながら、渋々とハンスの元に歩いて行く。

 結局、俺はハンスと共に行くことになった。もちろん最初は断ったけれど、彼は引き下がらなかった。無理やりに逃げることも容易いと言えば容易い。しかし、コニーさんから魔法は使うなと言われている。つまり俺は、街はいくらか安全、そんなコニーさんの言葉を安定剤にして、妥協を図ったのだ。

 ため息を一つ吐いて、ハンスを見る。散策の主導権は、今や彼の元にあった。理由は一つ、一体なんなのかは知らないが、俺に見せたいものがあるらしい。逆らってもきっと意味は無い。


「それで、見せたいものっていうのは?」


 だからそんな言葉をハンスに投げかけた。


「もう少し先!」


 そうしたら返ってくる返答。いや返答とは呼べないか。俺は見せたいものの場所ではなく、内容を聞いたつもりだったから。

 苦笑いで路地裏へ。ハンスの後を追いながら、考えた。この少年、さっきカールにいじめられていた時とはまるで別人のように思える、と。今の彼は常ににこにことした笑みを称えていて、足取りも軽く活気がある。

 そうしたら、頭の中に先ほどの景色が思い浮かんだ。俺がぬいぐるみを返した後のハンスの表情。今になって思えば、その理由はきっと単なる初対面の照れだったのだろう。現に今は、正反対の態度で俺に接してきている。なら、別に問題はない。考えかけたことは、単なる自意識過剰だろう。

 少し息を吐き出してから、ハンスの背中を追いかけて進む。道が段々と細くなり、そして僅かに汚くなっていく。何だか治安の悪そうな裏通り。もう少し奥へ進むのならば止めよう。そう思う寸手のところで、前を行く足音が止まった。


「……ここ?」

「うん、ここだよ」


 身体と視線を右に向け、ハンスが指差す建物を見る。

 古ぼけて剥がれ落ちた粘土壁。そこに嵌って立つ一枚の板扉。簡素な彫り細工の向こうはしんと静まり返っていて、何だか人が住んでいるのかどうかさえも怪しい。少なくとも、誰かの案内なくしては決して足を踏み入れないような、そんな建物だろう。


「おじさーん!」


 だが少年が臆することはない。こんこんと二つ叩いて、ハンスは声を上げる。どうやら人は住んでいるらしい。

 やがて軋む音と共に扉は開き、現れたのは一人の老人だった。潤いなく伸びた白い髪に、それと同じ色であごを覆う豊満な髭、そして濁ったように光る視線がこちらを向く。随分と建物の外観に似つかわしい人物が出てきたものだ。失礼ながらもそう思った。


「ミレアスさん、今日は友達を連れてきたんだ。だから楽しい話をお願い」

「ど、どうも。その、はじめまして」


 ミレアスと呼ばれた老人に恐る恐る礼をする。そして、二人目。ハンスが口にした友達という言葉に対して、心でそう呟いた。どうにも虚しい気がするが。

 振り払うように顔を上げる。このまま家にあげてくれるのだろう、そう思いながらミレアスさんの反応を待つ。が、いくら待っても言葉はひとつも返ってこない。返ってくるのは小さな瞳が送る視線だけ。ミレアスさんは上下に数往復俺を見て、やっと口を開いた。


「……入りなさい」

 

 だが、それだけ。ぶっきらぼうに言うと、彼はドアを開け放したまま家の中へと消えていってしまう。どうやら内面も家の外観に似つかわしいものらしい。またもや失礼なことを考えながら、ハンスを見る。本当に入るの? そんな感じの問いかける視線で。


「さ、行こうノーラちゃん!」


 しかし、扉を抑えながら得意気にハンスは微笑む。今更帰れるような状況ではない。まあ仕方なくとはいえ、着いていくと決めたのは俺だ。どうせ情報収集の当てもないのだから、とりあえずはいろんなことに首を突っ込むとしようか。

 建物の中を見つめながら、足を踏み出す。外と中の境界線を超えれば、鼻を突くどこか懐かしい臭い。乾いた埃の臭いだ。背後で扉の閉まる音がすれば、外の明かりは入らない。一直線に続く細い廊下を壁の蝋燭たちだけが照らしている。

 俺は身体をずらして壁際に身を寄せた。ミレアスさんの姿は既に消えていて、どこに進むべきかわからなかったから。ハンスはそんな俺の意図を理解したのか、先導を引き受ける。


「ちょっと怖そうに見えるでしょ、ミレアスさん。……あ、こっちだよ」


 廊下の中ほど、分かれ道で左に曲がりながら、そんな問いを投げかけられた。


「え? ああ、うん」

「でも大丈夫。見た目と違って良い人だから」


 愛想がない人というだけだろうか。その点に関しては、俺も人のことは言えないが。

 そんなふうに考えていると、前を行くハンスの身体が沈み込んだ。覗き見てみれば地下へと下る階段。怪しい……が、言われたことを信じることにしよう。薄暗い中、気を使いながら階段を下りきると、随分と広い部屋に出た。石の床の上にはいくつかの大きな丸いテーブルと、イス。部屋の隅にはカウンターがあり、その向こうの棚には無数の瓶が並んでいる。酒場、一言で表すならそんな場所だ。

 ハンスの背を追いながら、更に部屋の中を見回す。すると違和感という程でもないが、一つ目を引かれるものがあった。それは舞台。部屋の奥、床よりも一段高くなった場所にある木張りのステージだ。

 酒を飲みながら、客達が踊りや演奏を楽しむ。そう考えればまあ、あっても不思議なものではない。だけどそもそも、ここに客なんか来るのか?


「さ、ノーラちゃん、座って」


 頭を捻っていると、どうやら部屋の中心にたどり着いていたらしい。ハンスがそこらから二脚の椅子を引っ張ってきて並べると、片方の座面をぽんと叩く。よくわからないまま座る。何も異常はない。膝に手を置き前を見れば、先ほどの舞台が目に映る。人影は無く、ミレアスさんも見当たらない。


「すぐ始まるよ」


 こちらに身を寄せ囁かれる、少年のつぶやき。一体何が始まるのか。少しの不安と期待を背もたれに預け、舞台を見る。やがて薄暗い淀んだ地下室、その一角に淡い蝋燭の明かりが灯った。そして舞台奥の壁に、天井から降りてきた幕がかかる。そこには森林の景色が描かれていた。


「初めての奴には、まずこの話」


 舞台袖の扉から、声とともに人影が現れる。腰のあたりをベルトで絞り、影のように黒い衣装。フードを目深に被り顔は伺えないが、その人物はミレアスさんだとわかる。彼が手にしているのは複数体の人形で、四肢から伸びる糸を見るに操り人形。

 やがて舞台中央で立ち止まったミレアスさんは、人形のうちの一体を自らの足元に置く。長く白い髪をした人形、生気のない人形が舞台にぺたりとへたり込む。代わりに、別の人形が動き出した。


「……一人の怪物の話だ」


 神妙な声とともに、人形の黒い髪が揺れた。俺はこれから行われることを理解して、息を呑む。舞台へと向く視線に意識を傾ける。だが、一つ疑問が。「怪物の話」それは本当に楽しい話か? 

 ミレアスさんが口を開き、ゆっくりと語り始める。人形劇が始まった。






 ――今から少し前のお話。我らが女神、アプシスの身体のどこか。濃緑の森を抜けて清らかに流れる小川を渡った先に、とある小さな村があった。

 建ち並ぶ木組みの家々には温厚な人々が住んでいて、互いを家族のように助け合う。争い事といえど些細な言い争い。次の日になれば皆けろっとしているような、そんな平和な場所。だが今そこに、影が近づいていた。


「うえ、川かぁ……」


 時刻は真夜中、月はてっぺん。明かり少なに浮かび上がる森の中に、声が響く。思ったより面倒なところに来てしまった。そう考えながら橋を見つめるのは、一人の女だった。

 美しい黒髪を肩まで伸ばし、同じ色の長いコートを着た長身の女。二十も半ばを過ぎたであろうその容姿は、真夜中の森には不釣り合い。だから彼女には、もちろん目的があった。この橋を渡った先にある村に、大事な用が。

 行こう。心のなかで呟いてから、意を決したように女は足を踏み出す。一歩、また一歩。まるで害虫の群れを抜けるかのごとく歩みを進め、小さな橋をすぐに渡り終える。それは赤子の這いずりでも苦労をしないような距離だったが、不思議なことに女は頬を紅潮させ、額に脂汗をかいていた。


「まったく、もう。……えっと、ありがとう。モニカ」


 自分以外誰もいない森。そんな場所で誰かに礼をこぼしてから、女は再び足を進め始める。何度やってもなれない、次はもう少し楽なところを選ぼう。そんな後悔を抱きながら歩く。やがて、前方に立ち並ぶ家々が見えてきた。

 女は舐めるように、その景色を見渡した。そしてすぐに、宝石のように濡れ光る瞳をまぶたで隠す。ぼんやりと点在する、静止したもや達を感じ取る。家々の窓は閉められ、漏れる明かりもない。時間も時間、村人たちが寝静まっているのは明白だった。

 さて、大きな野望の第一歩、気合を入れていこう。目を開いて準備体操、咳払い。女はゆっくりと歩き出す。目標として定めた家の玄関先に立ち止まり、拳の甲を扉に打ち付けようとして、やめた。


「夜更かしがいる」


 女は耳をぴくりと震わせて、苛立ち混じりに言った。どこからか小さく話し声が聞こえたのだ。

 まったく、昼を生きられるくせにこんな時間まで起きているなんて、一体どんな不真面目な奴だろうか。嫉妬が混じった心でそう考える。だが同時にこうも思った。最初の獲物にはそんな奴こそが相応しい。

 家の角を回り込み、声の聞こえた方向へ。もう一度角を曲がると予想外。すぐに声の主は見つかった。


「……夜は嫌い、つまらない」


 何とも辛気臭い言葉を呟くのは。開け放たれた窓から顔を出し、項垂れる少女。伸ばした手をまるで釣り糸のようにだらりと落としている。女はにっこりと笑った。こんな時間に起きている子供、やはりこれは格好の相手だ。しかも幸いなこと、まだこちらに気づいていない。

 更に口を歪めて、近付く。だが一歩、また一歩と歩みを進める途中で、女はふと思った。この少女がいま言ったことは、自分がいつも思っていることだ、と。

 だから足が止まった。地面の草を強く踏みつけてしまった。音に気付いてこちらを向いた少女と、女は視線をかわす。一秒、二秒。少女が先に口を開く。


「あなた、こんな時間になにをしているんですか?」


 幼さを残した顔とは違う、落ち着いた声色だった。いや、声色だけではない。

 女は目を凝らし、よくよくと獲物を見回す。大きな目にこけた頬、小さな鼻、十代の半ばくらいだろうか、僅かに成長の余地を残した少女の顔。だが、そんなところよりもある一点に目が止まる。それは幼さとは無縁に思える潤いのない白髪だった。

 げ、不味そうな奴。女はとっさにそう思った。だから返事をするのを忘れ、腕を組んで考え始める。どうしようか、他の奴にしようか。いやでも……。しばらく唸っていると、再び声が飛んできた。


「この村に住んでる人、ですか?」


 住んでるわけないじゃん。口だけ尖らせ、心の中でそうぽつり。女はまたも声は返さず、今度は少女の首元へと目をやる。そこにあるのは、伸びた白髪の隙間から覗く青白い肌だった。血が通っているのか疑わしいほどのそれを見て、女は酷く病的だと思った。

 やっぱり不味そう。あっさりと踵を返して、女は別の獲物を探し始める。が、またふと思った。好き嫌いは良くない、それが野望への近道だ、と。だからやっと、女は少女に声をかけた。


「んー、ちょっと動かないでね」


 少女は驚いたようで、大きな目を丸々と見開いた。それに伴い、白い肌に刻まれたくまが下へと追いやられる。

 女は両手を顔の高さまで上げ、手のひらを少女へと向けた。布へ向かう針のように、人質を脅す剣のように、十本の指先が前を向く。そして一歩、また一歩と進み始める。

 だがあと少しで届く、そんな寸手のところで、少女が家の中へと身を引いた。同時にぴたりと、女の歩みが止まる。


「もー、何で動くかなぁ」


 女は腕を組んで顔を歪め、少女へと向けていた視線を僅かに下げた。そうして見つめるのは、こちらとあちらの隔たり、開かれた窓の下にある、乗り越えるのも容易い一枚の壁。はたから見ればちんけなそれも、女にとっては鍵穴もノブも無い扉に見える。こちらから開けることは決してできない代物だ。

 どうしたものか。そう悩む暇もなく、更に追い打ちをかけるように少女が動いた。少しの恐怖が混じったような顔で、窓を閉めようとしている。このままではまずい。女は急いで声を上げた。


「あ、あたしもさ、嫌いだよ。夜」


 それは特に考えのない発言だった。ただ注意を引ければいいと、そう思っただけのこと。だけど、言葉に偽りはなかった。

 一瞬の静寂。少女の手が止まり、伏し目がちの視線が女へと向く。場を繋げ。女はすかさず口を開く。


「でもまあ、起きてるしかないんだけどね」


 少女は窓へとかけた手を、降ろした。


「……どうして?」


 食いついた。少女の問いかけに対し、女はにやりと笑う。尖った犬歯の片方が、月明かりの下に覗く。

 そしてゆっくりと口を開いた。


「あたし、吸血鬼だから」


 二人の間に吹いていた夜風が、ぴたりと止んだ。辺りには虫の声と水の音。しばらくの間、両者は口を開くことなく見つめ合う。

 しまった。女――吸血鬼は、心のなかでそう思っていた。うっかり本当のことを口にしてしまった、と。これじゃあ怖がって逃げられるに決まっている。だがそんな心配とは裏腹に、小さな笑い声がその沈黙を破った。


「……こんな状況じゃ、あんまり面白くない冗談ですね。吸血鬼なんてお話の中だけの存在ですよ? それに吸血鬼が嫌いなのは昼じゃないですか?」


 少女は話を全く信じていないようだった。何とかなったのは良い。だけど冗談呼ばわりされるのは、少しだけ腹が立つ。だから口に手を当て笑う少女に向かって、吸血鬼は首を傾げた。吸血鬼の、そして自分の何たるかを教えてやる。


「え、昼? 別に嫌いじゃないよ。嫌いになるほど知らないから」


 見たこともないものを嫌いにはならない。むしろ未知であるが故の憧れ、そういった感情のほうが彼女の心の中では大きかった。それを伝えたら、なぜだか胸がざわついた。

 だが一方の少女は話半分で聞いているのか、細い指で呆れたように頬を掻くだけ。


「えっと、その、私も夜は嫌いです。昼は……両方、ですかね。好きだけど、嫌い」

「なにそれ、どういうこと?」

「……見てわかると思うんですけど、私、病気なんです」


 そんな風に、不思議と会話は繋がった。少女は自称吸血鬼という怪しい人物に話をさせるよりも、自分が話したほうが良いと考えたのかもしれない。それとも単なる気まぐれか。どちらにしろ少女は渇いた笑みを浮かべ、両手を広げる。

 吸血鬼は、そんな獲物をもう一度眺めた。ゆったりとした白い衣服、襟ぐりから覗く青い肌、それを押し上げる鎖骨、枝のように細い腕。そのどれもが、少女の発言に説得力を与えているように思える。


「ふーん、まあ確かに不健康そう」


 気遣いといったものを微塵も感じさせない言葉。少女は目を大きく開ける。だがそれを、吸血鬼が気にすることはない。


「こんな夜中まで起きてるからじゃない?」

「昼間に起きてると、その、今よりもっと虚しくなるから」


 指摘を上書きするように、塗りつぶすように、少女は今までよりも大きな声を上げた。そして啜り泣きにも似た呟きを漏らす。


「私は、この家からあまり出られないんです。出られたとしても、短い時間だけ。走り回ることなんて到底できない。それに村の人達は優しいけれど、やっぱり私とはあまり話したくないみたい」

「病気だから?」

「……はい」


 吸血鬼の気のない返事に怒ることもなく、少女は傍らの窓に手をかける。


「ここにいると小さく聞こえるんですよ。子供達の楽しそうな声と、お隣さん同士の仲の良さそうな……」

「ねえ、回りくどくてよくわかんないんだけどさ。何が言いたいわけ?」


 吸血鬼はあからさまに眉をひそめて、そして心の中でこう思った。この子、案外めんどくさい、と。だから急かすように切り込んだ。

 少女は真っ直ぐに前を向いて、吸血鬼の瞳を見る。


「そういうのを聞いていると、虚しいってことです。私も外に出たいから。小さい時からずっと、そう思ってきたから」

「ふーん」


 吸血鬼は腕を組んだ。そして斜め上を見て少し悩み、笑った。


「そういうことなら先に言ってよね。羨ましいのが嫌で昼夜逆転生活ってことでしょ?」


 自分は起きていること自体が不可能で、この子は自ら昼を避けている。違いこそあれどお互いはよく似ている。吸血鬼はそう思った。なら、せめて。


「あたしに任せて!」


 何故だか気分が良かったから、弾む声で言った。彼女には考えがあったのだ。この少女を外に連れ出す考えが。

 吸血鬼は走りだし、夜の闇に消える。場に残されたのは冷たい夜風と、少女の息遣いだけだった。






 それから、少女と吸血鬼にとっての夜を一つ挟んで、もう一度暗い昼が来た。辺りは闇に染まり、厚い雲の隙間から差す月明かりも少ない。昨夜の場所にはまた、吸血鬼の姿があった。


「あっれー? いないじゃん」


 だがしかし、窓辺に少女の姿はなかった。あんなよぼよぼで一体どこに行ったのか、外には出れないんじゃなかったのか。吸血鬼はもやもやとし始めた胸に手を当てて、目を閉じる。


「んー、あっちかな?」


 そしてある方向に向かって走りだした。いくつかの魂の、ぼんやりとした集まりを感じ取ったのだ。その中に少女がいるとは限らないが、確かめるほかない。

 吸血鬼は細い足には似つかわしくない早さで村を走り、やがて一つの建物の前で足を止めた。そしてもういちど目を閉じてから、建物を回りこむ。


「ここかな?」


 独り言を漏らしながら見つめるのは、一枚の扉。建物の脇に斜めについた、地下室への扉だ。吸血鬼は頭を悩ませた。これじゃあ、あたしは入れない。

 しばらく腕を組んで悩んでいたが、吸血鬼は何かを思いついて動き出す。また胸に手を当て、それを今度は拳にして喉へと当てる。


「ありがとう、ジョン」


 何者かに礼を呟き、扉をノックする。一時の静寂。だがすぐに、声は返ってきた。


「だ、だれだ!」


 怯えた男の声に、吸血鬼は何の戸惑いもなく口を開く。


「俺だ! 助けを連れてきた、ここを開けてくれ!」


 だが飛び出した声色は、前までとは違うものだった。深みのある、低い男の声。そして、吸血鬼にとっては記憶に新しい声。


「あ、ああ、やっときてくれたか、入ってくれ」


 扉の施錠が解除される。その瞬間、吸血鬼は扉を蹴破った。外れた木の板に巻き添えを食らった男が、深い階段を転げ落ちる。


「あたしだよー。昨日の吸血鬼!」


 女性らしさを取り戻した声で叫びながら、吸血鬼は階段を下っていく。蝋燭の明かりに浮かび上がる地下室からは、複数人の叫び声が聞こえる。倒れた男の身体を跨いで吸血鬼がそこにたどり着くと、人々の声は更に大きくなった。見れば部屋の隅で石壁に肩を寄せ、村人たちが肩を震わせている。

 まったく、うるさいなあ。吸血鬼は鬱陶しげに目を細めつつ、人の塊からある人物を探す。昨日の少女だ。しかし、一向にその姿は見つからない。だからすぐに、蹂躙が始まった。

 床を蹴って、吸血鬼が駆け出す。腹を、顔を殴り、腕と足を折って村人たちの自由を奪う。だが死への抵抗を受け、吸血鬼もいくらか傷つく。女子供を守る男たち、我が子をかばいながら叫ぶ女達。命を賭した村人たちの最後の抗い。やがて吸血鬼は、それら全てを殺さぬ程度にねじ伏せた。


「やっぱり、いないじゃん。どこ行ったのかな」


 血の匂いの充満した地下室で、吸血鬼は寂しげに呟く。そしてうめき声の中でしばらく立ち尽くしてから、重い足取りで転がる村人の一人へと近付いた。

 腰をかがめ膝をつき、首元に牙を突き立てて血と魂を啜る。それを幾人にもくり返し、やがて最後の一人となった女性へと口を開ける。だがその村人は、涙声で呟いた。


「……ソフィ、ジョン」


 力を振り絞った声、それが最後の言葉になった。


「ふう、やっぱり足りないか」


 吸血鬼は涼しい顔で立ち上がり、血に濡れた口を拭う。この地下室に来る前、村人の助けを受けて町から来たという兵士たちを何人か頂いたが、それでも足りない。まあ、仕方がないか。

 結局あの女の子はどこだろう。とりあえず今は、それだけで頭がいっぱいだった。だからもういちど部屋の中を見渡す。脳裏に焼き付いた少女の姿を求めて。すると地下室の奥、更に扉があるのを見つけた。思わず口角を上げて、吸血鬼はそれをノックした。


「誰かいますかー?」


 返事は返ってこなかったが、すぐに扉は開いた。物置として使われていた小部屋、そこから現れたのはあの少女だった。白いスカートの下から覗く細い足で、ふらふらと吸血鬼に近付く。そして感情の消え失せたような声を漏らす。


「……これ、あなたが?」


 吸血鬼は少女の肩に両手を置き、満面の笑みで頷いた。


「もちろんそうだよ! でも病気を治すにはさ、もう少し掛かりそうなんだ」

「私の、病気?」

「うん! あたしがもっと魂を集めて強い吸血鬼になれば、あなたも吸血鬼にしてあげられる。そうしたら病気なんてすぐに治っちゃうよ? 最初は昼に外には出られないけど、夜なら大丈夫! いくらでも走り回れるし、話し相手はあたしがいるでしょ?」


 まくし立てた。本当は今すぐにでも吸血鬼にしてあげたかったけれど、足りなかったのだからしょうがない。吸血鬼の頭にはもう、夜の森で少女と遊ぶ景色が流れている。なぜだか弾む胸と、軽くなっていく身体。こんな気分は初めてだ。

 しかし、そんな感情とは対照的に、目の前の少女は無表情だった。少女は目線を動かして、床に転がった先ほどの女性の亡骸を見つめる。そして一筋の涙を流した。


「なに? なんで泣いてるわけ?」


 吸血鬼が問う。少女は答えを返さずに、吸血鬼の胸元に手を当てる。


「お母さん、お父さん、ここにいるの? なんでこんなことになっちゃったんだろう。……ごめんね」


 少女は顔を上げ、まっすぐに吸血鬼の顔を見た。涙を流しながら、無表情で。


「吸血鬼さん、私の血も吸って」


 何を言ってるんだ、この子は。あたしがした説明が理解できなかったのだろうか。


「私、夜も昼も、全部が嫌いになったから」


 少女は白い髪をかき上げて、青白い首元をさらす。吸血鬼はそれを見て、膨らんでいた不思議な気持ちが急速にしぼんでいくのを感じた。今までと同じ心が帰ってきた。つまらない。


「もう少しで病気が治るのに?」


 少女は喋らない。


「あたしがいるのに?」


 少女は喋らない。


「そっか」


 吸血鬼は牙を突き立てた。

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