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空白の魔法  作者: 片岡 武路
一章
15/31

第十四話 王都シストリア

 王都シストリア。そこはアプリシア王国で一番大きな都市であり、女神の腰、大きな湖の傍らに鎮座する街。大陸の中ほどに存在するが故に、方々から人や物が集まる賑やかな場所だ。……というのはコニーさん談。

 丘を登る馬車の上で言葉を振り返れば、どうにも心が跳ねる。俺はそんなガラではないだろう? そう強がろうとしても、楽しみなものはしょうがない。ダグさん達には悪いが、今までに訪れた場所とは恐らく規模が違うのだ。


「よし、もうすぐだ」


 今はアーシュさんとファンヌさん、あの二人との遭遇からしばらくした午後。コニーさんの言葉と太陽の光を斜めから受けて、俺は姿勢を正した。

 もうすぐ、もうすぐで大きな街に着く。流石にビル群を抱えた、見覚えのある大都市とは違うに決まっている。だけどそれでも頭の中に広がる想像図は、また別の魅力を持っているのだ。

 やがてバートが前足を出して、馬車が丘を登りきる。そして見えた。城壁に囲まれた都市、シストリアが。


「……お、おおー」


 すごい。思わず小さく声を上げれば、酷く幼稚な感想だけが頭を占めていく。

 薄っすらとかかる霧の向こう、壁に囲まれた都市には人が溢れていた。この世界にやってきてから見た人間の総計と比べても……いや、それは馬鹿馬鹿しい比較だろう。それほどまでの街なのだ。そしてそんな人混みよりも目を引かれるのは、都市の奥にそびえる王城。

 城は荘厳かつ美しい姿を湖に映し、尖塔を空に向けながら堂々と鎮座している。きっとあそこには綺麗な冠を被った王様やお姫様が暮らしているのだろう。目の前に広がるのはそんな、お伽話に迷い込んだかのような景色だった。


「そうはしゃぐな、危ないぞ」


 気付けばどうやら身を乗り出していたらしい。俺は少し俯きながら、もう一度姿勢を正す。

 まあ確かに少し子供っぽかったが、これも大目に見てもらいたい。なんたって今の俺はれっきとした子供なのだ。心のなかで言い訳をすれば、馬車は丘を下り始める。

 街の外にも人の営みがあり、ぽつぽつと立ち並ぶ農家や畑の間を抜けていく。馬車は人の流れを進む。やがて俺達は街の入り口までたどり着いた。

 ゆっくりと視線を上げる。開け放たれた大きな門扉の上には石造りのアーチ。そしてよくよくと見てみれば、そこには紋章のようなものが掘られているのがわかる。虹のようなアーチと細やかな細工を背景に横たわる猫のような動物。今朝の自分の姿を思い出す、そんな紋様だった。

 今度は視線を下ろしてみる。すると門の両脇に幾人かの衛兵らしき人がいた。検問のようなことがあるのか? そう思ったが、意外にもすんなりと通ることができた。

 そうしたらいよいよだ。次に広がるのは、趣きのある石畳の大通り。雑踏の音、話し声、人々の生活音。そして心地よく流れて来る様々な香りを楽しみながら、辺りを見回す。

 両脇には二階建てや三階建ての木造住居が立ち、傾斜のある屋根を仲良く寄せあう。時折一階にカウンターのようなものがある建物を見かけるが、何やら看板も下がっているし、恐らくはお店なのだろう。元の世界でショッピング好きであったわけではないが、こういった場所のお店には少年心がくすぐられる。何か格好良い武器や防具が売っていそうだし。まあ、今の俺にはどれも似つかわしくない物たちなんだろうけど。

 後ろ髪を引かれるような思いで人の間を縫い、大通りを抜けていく。コニーさんが手綱を繰れば、バートは進行方向を変えて路地に入る。道が少しだけ細くなる。俺は横を向いて、コニーさんに声をかけた。


「リネーアさんが住んでいる所、わかるんですか?」

「ああ、この街であいつが住む所なんざ一つだからな」


 なるほど。よくわからないけれど、そういうことならば街を彷徨うこともない。残念だが。

 少しして、馬車は一件の家の前で止まる。三階建てで薄いベージュの粘土壁、これまで通ってきた道にあったもの達と大差はない。ここがリネーアさんの家。

 コニーさんが何だか妙なリズムで扉をノックすると数秒後、そこから一人の女性が現れた。


「……義兄さん」

「久しぶりだな、リネーア」


 扉を開けて出てきたのは、茶色の長い髪をした女性、コニーさんの亡き奥さんの妹、リネーアさんだった。彼女は毛織の布を羽織り、少し猫背気味に三つ編みを揺らして俺達を向かい入れる。

 声色も表情も、どこか元気がないように思えた。もしかして、コニーさんが奥さんを亡くしたのは比較的最近なのか? 先入観と彼の振る舞いから大分昔の話と考えていたが、ふとそんなことを思った。


「どうして急に?」

「それはこっちの台詞だ。なぜ何も知らせずにメラン村を出た?」


 乾いた音で扉が閉まり、部屋の中は静まり返る。コニーさんとリネーアさんが、難しい顔で向かい合う。とてもじゃあないが、家族の久し振りの再会といった雰囲気ではなかった。

 俺はもはや蚊帳の外だろう。しばらくは大人しく、二人の会話に耳を傾ける。少しの沈黙、その後に口を開いたのはリネーアさんだ。


「それは、その……わかるでしょう?」

「全くわからないな」


 歯切れの悪い言葉を受けて、コニーさんは少しいらついたようだった。リネーアさんはそんな彼の表情を見ると、俯いたまま黙りこくる。

 小さな舌打ちが部屋の中に響いた。コニーさんのものだ。俺は意外だと思った。事情はわからないがここまでの、半ば怒りといった感情を表す彼を初めて見たから。


「……まあ、その話は後だ。用はわかるだろう? 預けていた本を受け取りに来た」


 コニーさんは右手を差し出し、リネーアさんへと催促をする。

 本? 馬車の中に山ほどあるというのに、まだ何かの本が必要なのだろうか。それにただ会いにきただけではなく、そんな用があったのか。俺はどうせ読めないしと思いながらも、一体どんな本であるのか期待する。だがリネーアさんは佇んだまま、その場から動こうとしない。


「おい、どうした? 急いでるんだ」

「……ったの」

「え?」

「あの本は売ったの!」


 彼女の中で何かが切れたのか、部屋に大声が響き渡る。

 びっくりした。俺は身体を小さく揺らしてから、恐る恐るリネーアさんの顔を見た。そしてはっと息を呑む。

 彼女の茶色の瞳に浮かんでいるのは、涙だった。眉を下げ、悲しげな視線が頼りない軌道でコニーさんの元へ向かっている。数度の瞬きに押し出され、涙が頬を伝う。


「あなたは」


 そして視線は、こちらへと向いた。

 俺は黙って言葉を待った。尋常ならざる場の雰囲気と、何らかの意思を持ったリネーアさんの瞳。ならば彼女がこれから口にすることも、きっと重大なことだ。


「あなたは知らないと思うけど、私達は……」


 だけど、その先の言葉は紡がれなかった。奥の部屋から、大きな音が鳴ったから。何かが割れるような、そんな音が。

 身体をずらして覗き見れば、そこには割れた花瓶のかけらが散らばっていた。


「ご、ごめんなさい、すぐに片付けるから」


 リネーアさんは慌てて奥の部屋へと向かっていく。

 まったく、随分と図ったかのようなタイミングで割れる花瓶だ。そう思って、俺はちらりと横に立つコニーさんを見た。そしてもしかして、と問う。


「風で倒れたんですかね?」

「風で花瓶が吹き飛ぶか? だがまあ、間接的にはそうかもな」


 そうしたらコニーさんは奥の部屋を指差す。そこには開いた窓の前で揺れるカーテンと、散らばる破片を横断して倒れる一本の箒があった。

 考えすぎか。俺はため息を吐いた。

 やがて、片付けを終えたリネーアさんが戻ってくる。間髪入れずに、コニーさんが口を開く。


「リネーア、よく考えて、よく思い出せ。今のこの状況を見て、あの本を売ったことは正解だったと思えるか?」


 俺はその言葉を半ば脅迫めいたものとして聞いた。コニーさんの持つ雰囲気は今までとどこか変わってしまっていて、居心地が悪い。俺が一言、「家族なんだから仲良くしてくださいよ」などと言うこともできるが、無駄だろうからやめておく。

 ちらりと、リネーアさんが俺を見た。そしてごくりと唾を飲み、か細い声を絞り出す。


「……思えない、かもしれない」


 言葉の内容は、考えを改めるもの。何かのきっかけで彼女の思考が変わったのだ。俺はどうにも気持ちが悪い胸元をさする。


「なら、茶でも淹れよう。積もる話もある」


 そしてそんな一言で場の雰囲気も変わった。コニーさんの声が僅かに軟化して、張り詰めていた糸が緩む。

 俺は正直、その流れに取り残されていた。リネーアさんはまだ少しだけ表情が暗いが、先程までの険悪な態度はどこ吹く風、コニーさんと一緒になって呑気にお茶の準備なんかし始めているのだから、そう思うのも無理はない。

 半ば呆然と奥の部屋に入り、大きなテーブルの前に座る。向かい側にはリネーアさん。表情はなんとまあ、穏やかな笑み。


「自己紹介、遅くなってごめんね。私はリネーア、あなたは?」

「え、ああ……ノーラです」


 呆気に取られて返事をすれば、リネーアさんは俺の前にカップを差し出す。そして注がれる茶。色は薄い赤茶色で香りも高く、心地良い。もちろん、こんなもてなしは大歓迎だ。大歓迎なのだが……それよりも気になることがある。


「リネーアさん、さっき何を言いかけたんですか?」


 カップを持つ彼女の手が一瞬止まる。だがそれは、本当に一瞬だった。リネーアさんはすぐにこちらへと笑いかける。


「さっきの私の顔、凄い暗かったでしょう? だからその理由を話しておこうと思って」

「……それならコニーさんから聞きました。だからえっと、その、無理しなくても大丈夫ですよ」


 俺はそう言って、なるほどと納得した。涙までも流していたのは、亡き姉の姿を思い出してのことなのだろう。

 リネーアさんは一言「ありがとう」と言ってから、言葉を続ける。


「本っていうのは、姉さんとの思い出の品なの。だけど手元にあると気が重くなっちゃうから、いっそ売ってしまおうと思って……。そう簡単には忘れられないのにね」


 言葉は穏やか、表情は悲しげ。気持ちは理解できないわけではない。が、コニーさんが預けていた物を勝手に売るのはいかがなものか。

 俺はそんな風に考えながら、カップに口をつける。コニーさんも、続いてリネーアさんもだ。午後の茶会は、そんな風に過ぎていった。

 そして、しばらくが経ち。


「ごめん、義兄さん。私これから仕事で出なくちゃいけないの」


 ハーブティーとクッキーが無くなった頃合いに、リネーアさんがそう切り出した。何だか妙に所帯染みたというか、元の世界でも普通に使えそうな台詞だ。

 しかし、リネーアさんの仕事とは一体何なのだろう。疑問を抱いていると、立ち上がった彼女を追うようにコニーさんが玄関先へと向かう。もちろん、俺もそれに続いた。


「じゃあ、これが鍵ね。本、探しに行くんでしょう?」

「お前は?」

「大丈夫、合鍵があるから」


 なんか同棲中のカップルの会話みたいだなとくだらないことを考えながら、リネーアさんを見送る。扉が閉まれば、コニーさんがこちらに向き直った。

 お茶の席で聞いた情報によれば、紫色の装丁で古ぼけたその本は、ある書店に売られたらしい。これからそこに向かうのだろう。俺は一つ伸びをして、コニーさんの言葉を待った。


「これから本を探しに行く」

「はい、わかりました」

「いや、お前は留守番だ」

「え?」


 普通についていく気でいたんだけど、どういうことだろう。疑問の視線を向ければ、コニーさんは腕を組む。


「馬車は中庭に停める。街を回るのは歩きだ。一人のほうが動きやすい。お前は足の怪我もあるしな」


 そしてそう言い残すと、有無を言わさず出て行ってしまった。まあ、納得の行く理由ではある。が、もう怪我は大したこと無いと思うのだけど。右足を上げて覗きながら、眉を顰める。すると何故か、もう一度扉が開いた。

 現れたのは再びコニーさん。扉の隙間から顔だけ出して、渋い表情を向けてくる。「おかえりー」とふざけてみようかと思ったが、彼が先に口を開く。


「……お前、どうせ俺の言うことは聞かないだろ?」

「え、いや聞きますよ、別に」


 どもりながら苦笑いを返した。別に前回だって逆らいたくて逆らったわけじゃないんだけど。コニーさんの中での俺は、既にわがまま自分勝手野郎らしい。まあ、迷惑をかけたのだから文句はないが。

 扉の隙間から、大きなため息がやってくる。


「出歩くんなら、せめてこの決め事を守れ。その一、くどいようだが人目に付く場所で魔法を使うな。もちろん緊急時は除く。その二、街には傭兵共の自警団や衛兵がいて外よりは安全だ。だが決して気は抜くんじゃない。その三、日が暮れる前にはここに帰れ。以上」


 扉がバタンと閉まって、鍵がガチャリ。

 俺は呆気に取られながらも、矢継ぎ早の忠告を整理する。つまりそれさえ守れば、公認で街を探索できるということだ。魔法を使うなと言っておいて結局コニーさんが鍵を閉めたのは引っかかるが、窓から通行人を確認して、人通りの無いタイミングで飛び出せばいい。要するにこれは異世界の街を見て回るチャンス……。


「……はあ」


 しかし、ため息を一つ。ふらふらと壁際に向かい、長椅子に腰を下ろす。

 やっぱり外に出るのはやめておこう。心の中で決断した答えはそれだった。いくらコニーさんに譲歩されたとはいえ、俺は道化師とウインダル、そしてイルネアとわけのわからない奴らに関わってきたのだ。しかもそのうち、鳥人間はまだ生きている可能性がある。


「やっぱ、危険だよなぁ」


 メラン村ではリブと呑気に出歩いていたものの、考えてみればあれだって迂闊な行動だったのかもしれない。糸に気付けたという点では結果オーライだったが。

 そんな風にもやもやして、とりあえず伸びをする。暇なのは確かだが、俺は大人しく家にいることにした。






 決意は案外長く続いた。あれから二日、コニーさんの探している本が既に売られた後であったという事実も手伝って、俺はろくに外にも出ずにセルフ軟禁生活を続けていた。

 リネーアさんは仕事だし、帰ってきてもなぜだかあまり俺とは話してくれない。だから今日もまた部屋をうろちょろしてみたり、棚にある読めもしない本をめくってみたり。そして退屈が最高潮に達した昼頃に、最良の時間浪費法である眠気がやってくるのだ。テーブルに置いたあの髪飾りを眺め、長椅子へと横になって身を委ねれば、今日こそは本を持ち帰ってきたコニーさんに出会えるはず。しかし。


「返してよ!」


 な、なんだ? 誰だ? うとうとと夢の世界に吸い込まれる瞬間、びくりと身体が震え、嫌な浮遊感に頭が覚醒する。危ない。だが、そう思った時には遅かった。


「いってぇ……」


 眉をひそめて顔を歪め、腰をさすりながら振り返る。すると記憶に新しい長椅子が目についた。どうやらそこから無様にも転げ落ちたということらしい。何という間抜け。

 心の中で自嘲しながら立ち上がり、寝ぼけ眼をこする。しかし、考えてみれば俺は理由もなく醜態を晒したわけではない。どこからか聞こえた声に驚いたからこそ、長椅子から落下したのだ。

 さて、声の主は一体どこのどいつだ? 睡眠を邪魔された苛立ちも相まって、その正体を探す。家の中にはもちろん誰もいない。だから探すべきは外。俺は通りに面した窓に近付く。そうしたらやってくるのは。


「やめてよ! 返してってば!」


 そんな言葉だった。壁越しにこもって届くのは変声期前の少年の声で、くぐもった窓の向こうでは二つの人影が踊っている。そのどちらもが通りをぐるぐると走り回っているようだが、一人がもう一人を追いかけている、そのような構図に見えた。

 子供のじゃれあいか。踵を返そうとする。しかし、その瞬間に窓の向こうで影が一つ倒れた。すると残りの一つが小さく何かを言いながら、倒れた影に軽い足蹴りを食らわす。じゃれあい、ではなさそうだった。

 俺は窓から少し離れる。どうする? 止めに入るか? 今現在目の前で起きているのは、俺が元の世界で恐れていたようなことだ。いや、それよりも更に暴力的で、そして胸糞が悪くなること。どうする?

 悩む時間は長かった。だから二つの影は俺に気付くこともなく、通りを去って行く。


「……はぁ」


 小さく息を吐いた。どこかほっとしたのかもしれない。

 俺はもやもやした気分でもう一度椅子に座る。頭はいつのまにかはっきりと冴えていて、リネーアさんの部屋の中も鮮明な視界で捉えることができる。だが心は暗かった。そして気分が悪かった。だからかもしれない、頭の中に一つの選択肢が、二日ぶりに現れた。

 それは、街に出るということ。そうすればきっと気分は紛れるだろう。退屈の最高潮の中、考えてしまえばもう、それを選び取ってしまいたかった。思考は理由付けに巡らされ、そして見つける。

 俺は元に戻りたいという目的を持ったはずだ。ならばこんなところで二日もじっとしていて良かったのか? 方々から人が集まる街は、手掛かりの宝庫じゃないのか? 見て回るだけでも、何かの発見があるんじゃないのか? 多少の危険を犯さなければ、目的は達成できないんじゃないのか? そんな理由だった。

 もう一度窓に近付き、通りを見る。人影は無い。だから目を閉じて、開く。本日一回目の魔法であっさりと、外に飛び出した。

 新しい空気で深呼吸をする。上を見れば雲と空、少しだけ心が晴れる。二日のタイムロス、掲げたはずの目標の忘却。それを取り戻すためにもさて、とりあえずは適当に街を周ろう。まずは左だ。粘土壁の通りを左に進み、角を更に左へ。しかしそうしたら、いきなり目の前に人が飛び出してきた。


「カール、いい加減に返してくれよ!」


 すんでのところで踏みとどまれば、聞き覚えのある声。現れたのは俺と同じくらいの少年二人組。いや、見たところの勢力図は一体一だろう。お前らまだやってたのか。そして何で戻ってきた。


「うるさいぞ、ハンス! お前はいつもこんなもんを持ってるからそんななんだ。おまえみたいな奴からあいつにやられるんだぞ」


 カールと呼ばれた少年は、大きな声でハンスを見下す。短く切りそろえられた金髪は綺麗に撫でつけられ、その下にある表情は随分と意地の悪そうな笑み。上等なジャケットにスカーフを巻いて、生まれだけは良さそうな少年だ。


「だからって、君がどうこう言うようなことじゃないだろ!」


 一方弱々しい表情で声を上げるのは、恐らく相当に着慣れているであろうベージュのシャツに、チョッキを着た少年、ハンス。明るい茶色の髪を汗に濡らしながら、懇願にも似た言葉を繰り返す。

 俺はそんな少年の視線を追って、ちらりとカールのほうを見た。彼が掲げた手には、古ぼけた人形、ぬいぐるみのようなものが握られている。恐らくハンスは、これを取り上げられたのだろう。そこまで考えたところで、カールもまたこちらに目を向けた。


「誰だ、お前?」


 そしてそう言う。初対面の人物に対しては、随分と乱雑な声掛けだ。

 いやしかし、どうする? さっきは結局見て見ぬ振りをしたが、この少年達に対して俺はどう接する。ハンスを助けるか? まあ悩んで黙っているのも怪しいので、とりあえず声を出そう。


「えっと、私はノーラだけど。……その、よろしく」


 しまった。全然よろしくするつもりもないというのに、口をついた。二人の少年は、俺の言葉を聞いて少し黙り込む。だがしかし、カールのほうはすぐににんまりとした笑みを浮かべ、俺に詰め寄った。


「ハンス、こいつの良い処分方法を思いついたぞ」


 そしてそう言うと汗ばんだ手で俺の両手を無理矢理に引っ張って、さっきのぬいぐるみを握らせてくる。こっちも良いことを思いついた。だから不本意ながら、なすがままにそれを受け入れる。


「やっぱりこういうのは可愛い女の子が持ってないと。さあ、ノーラ。それは君への贈り物。ほら、行った行った」

「わ、わーい、ありがとう」

「あ、ちょ、ちょっと!」


 自分で言っていて恥ずかしいが、妙に気取って微笑むカールに感情の無い声を返す。そうして俺はその場を離れた。リネーアさんの家を通り過ぎて反対側の曲がり角へ。もちろん、このまま街の探索に向かうわけではない。

 壁に背を預けて身を潜め、ちらりと二人の少年を伺う。やがて項垂れていたハンスは俺を追って走り出した。カールは明後日の方向に消えていく。良かった。一息をつき、ぬいぐるみの持ち主がやってくるのを待つ。

 しかし、この犬だか熊だかをどこかに捨ててしまわない分、カールも詰めが甘いというものだ。そんな風に考えながら、角を曲がってきたハンスを迎える。彼は驚いて、目を丸くしていた。


「はい、これ返すよ」


 そして俺がぬいぐるみを差し出せば、まるでこの世の絶頂のような笑みを零す。よほど大事なものなのだろう、ハンスはぬいぐるみを大切に丁寧に受け取って、まじまじと眺める。

 そこまで喜んでくれるとなればこちらも気分が良いものだ。でもまあ、あのカールとかいう奴がまたいつ戻ってこないとも限らない。俺はさっさと自らの目的に戻ろう。


「じゃあ、私はこれで」


 そう踵を返して数歩、足を止めるのは背後からの声。


「あ、あのノーラちゃん、だったよね? その、本当にありがとう!」

「ああ、いや……どういたしまして」


 根本は解決していないのだから、そんなに大したことをしたわけではないのだけど。少年の無邪気な礼に振り返ってから、もう一度背を向け歩き出す。だがしかし、今度は目の前に現れた影に足を止めた。


「あ、えっとその、さ。ノーラちゃん、これからどこに行くの?」


 立ち塞がったのはもちろんハンス。彼は何だか小さく顔を俯けて、ぬいぐるみを握りしめながらつっかえつっかえに話す。こういう喋りに関しては俺も人にとやかく言えたものではない。が、何だか嫌な予感がする。だから少しだけぶっきらぼうに答えた。


「ま、まあ、散歩かな」

「そっか、散歩か。うん、散歩ね」


 何かを確認するかのように中を見つめながら、ハンスは顔を上げる。俺はそれを見て目を丸くした。何だか風向きが怪しい、嫌な予感がする。そう言った考えが、僅かに真実味を帯びていく。


「それじゃあ私は……」

「あ、あのさ」


 振り切るように言葉を紡いでも、ハンスがそれを許さない。


「そ、それさ、僕も一緒に行ってもいい?」


 自意識過剰であってくれ。俺はそんな風に思いながら、ほんのりと頬を紅く染めるハンスを見つめていた。

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