第十二話 意図を破る 二
コニーさんはため息と共に素早く走り出すと、左にミカルを担いだまま今度は俺を抱き上げる。そしてイルネアから距離を取り、一本の木の下に俺達を降ろした。
ちらりとこちらの右足を見てから、コニーさんは真っ直ぐに視線をぶつけてくる。
「完璧に無事ってわけでもないらしいな。言い訳は?」
「……すみません、それは後で」
「まあ、そうだな。説教も後だ」
苦笑いの言葉をかろうじて返せば、コニーさんは涼し気な顔でミカルの拘束を解く。
顔を見る限り、何だか後が恐ろしい。まあそれも後があればの話なのだから、今はこの場に集中しよう。
コニーさんは立ち上がって、今度は少しイルネアとの距離を詰めた。足を止め、剣を空中で一振り。右足を下げて身体を横に向け、左の半身を相手へと晒す。だらりと垂れた右手の剣も相まって、随分と無防備な構え。そんな姿を見つめていると、ふいに激しい痛みが右足を襲った。
顔を向ける。ミカルが俺の傷口を、小さなハンカチで縛り付けていた。きっと応急処置なのだろう。
「あ、ありがとう、ございます」
痛みに顔を歪めてお礼を言っても、ミカルは目深な帽子の向こうで無言を貫くだけ。不思議に思ったが、俺はもう一度戦いの場へと目を向けた。
「来い、蜘蛛女」
そこにはこう着状態を破るように声を掛けるコニーさんがいた。隙だらけの構えに、安い挑発。普通ならば怪しいと思うはずの要素。だが、イルネアはそれを意に介さない。
細い足達が草の上を忙しなく動きだす。結われた黒い髪が揺れる。風を切るように縮む距離。そして次にイルネアが取ったのは、それを更に詰めるための行動。蜘蛛は飛び上がった。
上空の木漏れ日に飛び出した、頭上からの攻撃、当たれば針のような脚先に身体を串刺しにされるのだろう。しかし真正面からの跳躍、わかりやすい大振り。そして何より、今のイルネアには防御や回避の意思が見て取れない。
だからだろうコニーさんは右に飛び、突き上げるように剣を振るう。いや、振るおうとして止めた。理由は恐らく一つ、イルネアが口を尖らせたから。彼女が選んだのはもうひとつの攻撃法だった。
「おいおい、俺が驚かないからって自分で驚くなよ」
しかし一蹴。そんな軽口とともに、粘着質の白い塊が誰もいない地面に落ちた。降り立ったイルネアもまた、それに似た姿で背と瞳を丸める。だが彼女は直ぐに姿勢を正し、コニーさんへともう一度糸を吐く。
再びかわされ、木の幹へと無残に張り付いた糸を確認してもなお、イルネアは糸の射出を止めない。左から、右から、正面から。そして木の上から。飛来する糸をコニーさんは全てかわしていく。白い線が風を切る音、それだけが森に響く。しかし、やがてその音は止む。
代わりに聞こえ出すのは、肩を揺らして息を切らすイルネアの吐息。
「……わかった。こっちに来て、話し合いましょう?」
そしてそんな言葉だった。
彼女は自らの脇腹を手のひらで抑え、眉間にしわを寄せながら鼻をひくつかせる。ゆっくりと手を離すと、まるでガーゼのように、傷跡を白い糸が塞いでいた。
俺は木に背を預けて座りながら、目を開いた。イルネアの歩み寄り、それはつまり下手に出たということ。コニーさんを脅威に感じたということ。
森は、静寂。声は無い。コニーさんが選んだ返事は容赦のない無視。しかし、一つ風が吹き抜けると、彼はゆっくりと口を開く。
「こういうことをする奴と和解できるとは、到底思えんがな」
呆れたような声と共に、コニーさんは右手の剣を持ち上げる。垂れていた切っ先が地面を離れ、横、そして斜め上を見ようとして、止まる。
瞬間、森の中に風が吹いた。金属の小さな衝突音と共に。
「……鉄の糸だ」
「え?」
横にいるミカルが、掠れた声で言った。視線を向けてみれば、彼は帽子のつばの下、目を細めて戦いの場を見つめている。つられて顔を戻し、再びコニーさんへと目を凝らす。
もう一度、風が吹いた。そして同時に森が光る。散りばめられた星屑のように、また揺れる炎のように、コニーさんの周囲にいくつもの煌めきが見える。それが描くのは線。木の幹、枝、地面を伝って橋をかける銀色の糸は、木漏れ日の中を四方八方に練り歩く。
俺はようやく、ミカルの言葉を理解した。このイルネアの糸は、今までのようなものではない。
「お前みたいな奴と出会うのは二人目なんだ。もうあのときみたいには油断も驚きもしないさ。……いや、驚きはしたか。まさかこんな魔法が使えるとは」
コニーさんは剣を降ろしてイルネアを見た。堂々とした態度の通り、張り巡らされた糸は彼の元を避けている。そしてそれはきっと、偶然の結果ではないのだろう。
だが、俺の喉の渇きは一層に増していく。恐らくは殺傷能力を持つ鉄線、それに触れなかったのは良い。しかし囲まれ、囚われたのは事実。このままでは蜘蛛の巣にはまった蝶のよう、襲われるのを待つだけだ。
「それは結構だけどさ、あんた今動けないんだよ。あたしがここから糸を吐けば、あんたは避けるでしょ? そしたらどうなると思う? 糸が肉に食い込んでばらばら、わかる?」
イルネアは楽しそうに顔を歪める。
「じゃあ今度はじっとしててみよう! でもそうしたら今度は近付いて止めを刺されるだけ。あたしは魔法を自由に解くことができるの、わかる?」
小馬鹿にしたような口調で責め立てられても、コニーさんは動じない。身体をぴくりとも動かさない。しかしそれが、しないのではなくできない、なのかもしれないと考えたら、居ても立ってもいられなくなった。
俺は右足の痛みを抑えて立ち上がる。だが、コニーさんはこちらをちらりと見て、それを察知した。
「ノーラ! 座ってろ」
でもこのままじゃ。そう言おうとしても、コニーさんは構いもなくイルネアへ言葉を紡ぐ。
瞳にはしっかりとした光が宿っていて、周りの状況さえ無視すれば、コニーさんに負けは無い、そう思わせる姿。
「俺は確かに動けないかもな。少なくともこっちからお前に近付くのには手こずるだろう」
そして弾む言葉には、頼もしさ。
「でもまあ、俺達はお前を倒せるんだよ」
イルネアの馬鹿にした笑みを一瞥してから、コニーさんは素早く右手を動かす。そして親指と人差し指で作った輪を唇に当て、鋭い音を奏でる。
指笛、それは何かの合図。
「卑怯だなんて言うなよ?」
イルネアの背後の木、その影から現れるのは森に差す黒。馬、バート。
音も無く近付き、素早く上げた前脚で蜘蛛を踏み潰さんとする。振り返ろうとするイルネア。だがもう遅い。
「自慢の鼻なら、一度会った馬のにおいくらい嗅ぎ分けるんだな」
鈍い音が森の中に響き、蜘蛛は崩れ落ちた。頭から血を流して、仰向けに横たわる。
一瞬の出来事で、戦いは終わった。
「よくやった、バート」
愛馬へと礼を言いながら、コニーさんは辺りに向かって何度か剣を振るう。もう金属音はしない。代わりに薄っすらと、綿飴のような糸が刀身にこびり付く。
俺はそれを見て、預けていた背中を背後の木から離した。汗で張り付いていた服が、ひんやりと背を撫でる。コニーさんの元へ、ミカルの手を借りながら歩き出す。
足を止め、今度はバートに腹を踏みつけられながら血を流すイルネアを見た。大きな瞳は見開かれ、赤の縁取りと共にコニーさんの元を向いている。
まだ息はあるようだ。
「目的は? ノーラに糸をかけた理由は? いや、かけたのは本当にお前なのか?」
剣を納めてただ簡潔に、残酷に、コニーさんは尋問を始めた。
蜘蛛は黙りこくる。しかし次の瞬間には脚を何本か折られ、つんざくような悲鳴を上げる。俺はたまらず目を逸らした。
「か、妖精の糸を、か、かけたのはあたし」
「……目的は?」
どこか訝しげに声を漏らしてから、コニーさんは再度の質問を投げる。
「……あ、あいつ、あいつに会うため」
「あいつって誰のことだ? 道化師か?」
「違う。名前は、な、名前は知らない。道化師のところの、あいつ」
ただ地面だけを見つめて、途切れ途切れの声を聞く。イルネアがその顔を恐怖に染めているであろうことは、想像に容易い。
「ノーラに魔法をかけると、何故そいつに会えるんだ?」
視界の端からごくりと唾を飲む音が聞こえた。荒く切れたイルネアの息が、僅かに落ち着きを取り戻す。
「……あ、あんた、あたしを殺す気? 殺すなら、あんた達があたしを殺すんなら、話してやってもいいけど」
「いや、殺さない。お前には用が……」
「この人が殺さなくても、俺がお前を殺す」
言葉を遮ったのはミカルだった。顔を上げれば、拳を強く握り肩を震わせ、鋭い眼光で蜘蛛を睨みつけるその姿が見えた。
「……あっそ、じゃあ話す」
味気の無い、感情も無い返事だった。恐る恐る見ると、血に濡れた口が糸を引いて開く。
「魂を目印にすれば、あいつは必ずここに気付く。もちろん崖に落ちた爺さん、あんなしょぼい魂だけじゃあ全然足りない。もっと多く、それも同時に人が死ななきゃ駄目」
まるで生き急ぐように、イルネアは淀み無く口にした。傷を負った者とは思えない、打って変わったしっかりとした口調だった。
コニーさんに制止されるミカルを横目に、俺は頭を回す。突き当たるのは彼女が少し前に口にした狼煙という言葉、それがきっと魂のことだ。ならば火種、導火線、設置人の意味は?
思考は自らの手と共に、小指へと伸びる。背筋に冷たい汗が流れ、脳が震えた。
「わかった? ノーラちゃん」
「……妖精の糸を、鉄線に」
ごくりと唾を呑む。そんなことが可能なのかはわからない。だが頭の中に浮かんだ光景は、瞬間的に身体を切り裂かれる村の人々。
「大正解。見えないくらいのほっそーい糸で、村のみんなはバラバラ」
イルネアは立てた親指で首を引っ掻き、笑った。
心臓を冷たい手で鷲掴みにされたようだった。知らず知らずのうちに、俺は大量虐殺の片棒を担いでいた。
「そんなことを考えるやつなら、より適任だな」
妙な焦燥感の中でそんな声を聞く。コニーさんが、横たわるイルネアへと向けた言葉。意味はわからないけれど、どこか喜びを含んでいる。
「お前には用がある。だから俺と一緒に来てもらうぞ」
「……あたしが、あんたと? 笑える。まあ考えてあげないことも――」
息を切らしながら笑うイルネアの声、それを更に切り伏せたのはミカルの大きな足音だった。コニーさんの手を無理矢理に振り切って、握った拳を振り上げて、少年は蜘蛛へと近付く。
驚いたバートがいななき、イルネアの腹に乗せていた足をどける。コニーさんが剣を抜く。少年が、声を振り絞る。
「これ以上、喋るな。……笑うな」
馬乗りになって、ミカルは躊躇なく拳を振り下ろした。二度、三度、鈍い音が響く。四度目は、無かった。
「やめろ」
たった一言で、コニーさんはミカルの拳を受け止めた。制止した。そして家族を殺された少年の怒りは、復讐を止める者に対しても燃え上がる。
叫びと共に激しい怒号が響いた。
介入することはできない。だから目を逸らし、考えた。そしてその結果は一つ、俺にはどちらが正しいのかはわからないということ。ただ、それ以上にこのイルネアを生かしておく意味を探すほうが難しかった。殺しても、いや殺したほうがいいのでは。そんな冷ややかな思いが浮かぶ。
ふと、イルネアを見る。顔は更に酷い状態になっていて、大きかった目は薄っすらと虚空を見つめている。あらゆるところから血が流れ、痛々しい。口元もぶくぶくと泡を……いや、違う。これは。
「コニーさん! 糸が!」
一歩遅かった。射出された白い塊はミカルの目元に落ちる。そして蜘蛛の足が、肉体を貫く。溢れ出す血と漏れ出る声。一瞬だけ目を閉じて、開ける。
イルネアの脚が、イルネアの胸へと突き刺さっていた。目を疑った。が、事実だ。
折れていた蜘蛛の脚は無理矢理に捻じ曲げられ、ミカルの手にあった。彼は感触を確かめるように幾度か手のひらを握り、自らの顔の糸を剥がす。表情は笑みと、そして悲しみに見えた。
「やっと、やっと会え……」
か細い声と、鼻を鳴らして辺りを嗅ぐ音。それを最期にイルネアは動かなくなる。心なしか右手の小指が軽くなった気がした。
俺はゆっくりと目を開く。頭にこびり付いた血だらけの記憶は新しく、当分、いやもしかしたら一生の間はがれることはないかもしれない。だが俺は今、その舞台である森の中にはいなかった。
少しだけ痛む頭を抑えて、目の前の椅子に腰掛ける。ここはメラン村、ダグさんの家の一室。俺がここに戻ったのは、糸が切れ、事が終わったから。怪我の治療のために先に戻るようコニーさんに促された。
そう、つまりは魔法が使えたということになる。そしてそんなコニーさんの提案にも乗るほどに、戦いの後は魔法を使える気がしたのだ。戦闘中は気絶し、恐ろしいほどの頭痛に襲われたというのに、案の定いまは些細な頭痛で済んでいる。
疑問は湧く。が、考えてもわからないのだから仕方ない。俺は勢い良く背をもたれ、息をつく。嘘みたいにやって来た静かな時間。メラン村にダグさん、リブとミカルの声、そしてイルネアの姿と彼女が意図した未来、様々なことがごちゃまぜに浮かぶ。だから足の手当てをしてもらうよう言われたにも関わらず、ぼーっと中を眺めた。痛む足を投げ出して。
やがて少し経ってから、部屋の扉がゆっくりと開くのに気付く。
「ノーラちゃん、ここにいたのか。リブからコニーと一緒にいると聞いていたんだがどうして――」
現れたダグさんは、そこで言葉を詰まらせた。こちらに向けた視線を落として、驚いて目を開く。
「どうしたんだその怪我は!」
「すみません。ちょっと色々ありまして」
「い、いいか、ちょっと待ってろよ!」
ばたばたと音を立てながら外に出て、少し、ダグさんは何かを手にもう一度この部屋に戻ってくる。そして真っ先にこちらへと駆け寄って、心配気な瞳で跪くのだ。破けて滲んだ靴に手が伸び、それがゆっくりと脱がされる。
何だか王様にでもなった気分だった。
ミカルが簡易に縛ったハンカチが外され、濡らした清潔な布で血が拭き取られる。次に小瓶に入った油のような液体と薄緑のペーストが塗られると、傷口が痛みを増して叫ぶ。俺は歯を食いしばってそれに耐えた。
「……よし、とりあえずはこれでいいだろう。そこまで傷は深くない」
体格に似合わぬ繊細さで包帯を巻き終え、ダグさんは額の汗を拭う。
世話をかけるというのは、こういうことなのだろう。目の前の善人を見てそう実感しながら、俺はせめてもの礼を口にした。
「ありがとうございます」
「ああ、礼は受け取るさ。だが、説明もしてくれよ? どうしてこんな怪我をしたんだ」
沈黙が部屋の中に広がった。とは言っても、広げたのは紛れもない俺で、そしてそれを望んでいるのもまた俺。
「すみません。少し一人にしてもらってもいいでしょうか。怪我は……その、本当に大した理由ではないので」
思ったよりもか細かった声を受けて、ダグさんもまた、視線と共に沈黙を返す。そして一つ目を閉じて、ゆっくりと立ち上がる。
「……部屋は自由に使ってくれ。明日の昼まで寝てたって構わないぞ。だがコニーが帰ってきたら、せめてあいつには説明しろよ?」
小さく笑うと、大きな背中は扉の向こうに消えていった。気を遣われた、ということだろう。世話をかけるその二だ。
ため息混じりの息を吐き、背もたれに身体を預ける。目を閉じる。しばらく、何も考えずにそのままでいた。
どれくらい時間が経ったのかはわからない。気付けば、部屋の外がにわかに騒がしくなっていた。誘われるように足を引きずって、廊下を抜ける。居間に入る。すると、声が聞こえた。
「ダグ、領主の使いが来たらこれを渡せ。蜘蛛は追い払った」
ちらりとこちらに視線をよこす、コニーさんの声だった。
彼が差し出していたのは、千切れた蜘蛛の脚、イルネアの脚、その一本。大人の腕よりも長く黒いその脚を、ダグさんは戸惑いつつ受け取る。そして興味深気に見回した後、部屋に響くように唾を飲んだ。
「追い払ったって、お、お前がか?」
「……ああ。心配だったんでもう一度様子を見に行った。そうしたら襲いかかってきたんでな。仕留め損なったが」
「そうか、ま、まあお前が無事なら構わないが。……とにかく世話を掛けた。ありがとう。まさかこんなどでかい化け物が近くに潜んでいたとはな」
化け物、その言葉を聞いて、何だか妙に悲しくなった。
コニーさんは礼に手を払って返し、こちらを向く。そしてゆっくりと歩み寄ってくる。その表情は厳しい。
「ノーラ、大事な話だ」
屈み、向けられる真剣な眼差し。
このような雰囲気になることは理解できた。俺が勝手な行動をしたことへの説教だ。響かぬように息を呑み、黙って次の言葉を待った。
が、予想外にコニーさんはダグさんのほうを向く。
「ダグ、お前を友と見込んで頼みがある。無礼は承知だし、今回の件で恩を売ったつもりもない。だから気は使わずに、素直に答えてくれ」
「あ? なんだ急に。まあよくわからんが、とにかく言ってみろ」
「この子を、ノーラをここに置いてもらうことは可能か?」
目の前、コニーさんの横顔を見つめて、心臓が跳ねた。不思議に思った。何で今、そんな話をするのだろうと思った。
「そりゃあ、どういうことだ?」
「まだ可能性の話だ。選ぶのはノーラだからな。とにかく、答えて欲しい」
ダグさんは腕を組んで目を閉じ、唸る。
「どれくらいの間だ?」
「普通に子を育てるのと同じくらいまで、だな」
「……他ならぬお前の頼みだ」
「ありがとう」
話は肯定によって決着した。
よくわからない、それが本音だった。どういうことかわからずに戸惑って、こちらに向き直るコニーさんを迎える。
「さあノーラ、選ぶんだ。俺はすぐにでも王都へ発つ。着いてくるか、ここに残るか」
俺は視線を逸らした。口をつきそうな言葉は、「そんな急に言われても」だけだった。だがそれも、渇いた喉にへばりついて離れない。
「決めかねているなら、俺のおすすめにするか? ここに残れ。俺は確かに一度、お前の面倒を見ると言った。だが一緒に来ればまた、蜘蛛だか鳥だか道化師だか、そんな奴らに襲われるかもしれない」
足の包帯を見下ろしながら、コニーさんは小声で言った。ダグさんに聞こえないようにという配慮だ。
そんなことを言うのなら、はなから俺に選択などさせないでもらいたい。突き放して勝手に出て行ってくれれば、思考停止で良かったのだから。
黙りこくる俺を見かねたのか、コニーさんは立ち上がった。
「悪いが時間が無い。……ダグ、頼んだぞ」
そして急かすように、何かを振り切るように、踵を返して扉を開けた。
決めろと言っておいて、結局時間切れか? 何だかよくわからないうちに、こんな別れで終わりなのか? 去って行く背中を見て、妙に冷や汗が流れる。不安が溢れて、浮遊感がやってきて、肌が敏感に涼しくなる。
渇いた音で扉が閉まった。そしてその向こうで馬が地を踏む音、車輪が転がる音が聞こえ、やがて両者が共に去って行く。そこで、頭が停止した。だが代わりに、身体が動き始めた。
「ダグさん、いろいろありがとうございました」
「……行くのか?」
俺は首を縦に振った。半ば条件反射のような行動だった。だが視線をあげてみれば、どこかすっきりとした心持ちが残る。
「そうか。それじゃあ気を付けるんだぞ? もう怪我しないように。あいつをよろしくな」
優しく笑ったダグさんにもう一度、深く頭を下げる。そしてすぐに、扉を開けて外に出た。痛む足を引きずって、青空の下を進む馬車の背中を睨む。
目を閉じて魔法を……いや、やっぱり止めておこう。
「コニーさん!」
少し恥ずかしかったが、絞った声で叫んだ。
バートは足を止め、馬車はゆっくりと停車する。
「怪我してるんですから、歩かせないでください」
駆け寄って、冗談めかした言葉とともに席に上がった。が、コニーさんはこちらを一瞥しただけ、渋い顔で手綱を振るう。
乾いた地面を車輪が再び転がりはじめ、馬車は村の門へと近付いていく。これでメラン村とも別れとなるのだろう。沈黙は苦しかったが、そう考えたら聞かねばならぬことがあった。
「ミカルさんはどうしましたか?」
「あいつからは大体の事情も聞いた。村までは一緒に戻ってきたから、心配はない。怪我も大丈夫だ。だが、少し一人になりたいんだと。お前によろしくと言ってたぞ」
「そう、ですか。イルネア……さんは?」
「埋葬はした」
案外、気の張っていない返事が帰ってきた。
少し拍子抜けしていると、馬車が門を抜けた。俺は振り返り、遠ざかるメラン村を見る。ミカルと、それにリブ、別れの挨拶を言えなかったのは心残りだが、急ぐのならまあ、割り切るしかない。問題は解決した。その気になればいつでも会える。
「……どうしてついてきた?」
気持ちを切り替え、前を向いた瞬間、そんな言葉が飛んできた。
やっぱりそれを聞くよな。小さく息を吐く。目線はそのまま、前方の景色。
「リブに聞かれたんです。どうして旅をしているのかって」
そして巡らせていた考えを、ぽつりぽつりとこぼし始める。
「それでちょっと考えたんですよ。今まではただコニーさんについてきましたけど、やっぱり何か目的が必要だって」
「目的、か」
「はい。私は元に戻るために旅をします」
あえて、その言葉を選んだ。
この世界にやってきてから数日が経ったが、事態に改善の兆しはない。もう少し様子を見るのも、手としてはあるのかもしれない。だがじっとしていてもきっと、事は良いほうには進まないだろう。そんな予感がするのだ。
「……記憶のことか?」
コニーさんの問いに、俺は黙って頷いた。元に戻る、それはごまかしの効く言葉だが、決して嘘ではない。
「ついて行ったほうが、達成できるような気がするんです。それに私だってもう目をつけられているかもしれない、そう言ったのはコニーさんじゃないですか」
そして、イルネアもまた口にした言葉なのだ。こちらの心を代弁するように。それが唯一、光明に思える。だから。
「また、よろしくお願いします」
横を向いて、そう言った。
コニーさんは目元に手を当て、口角を歪める。
「……お前が俺の言うことを聞かない奴だってこと、もう忘れてたよ」
少しだけ太陽が傾いた空に、バートの足音が響いていた。