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空白の魔法  作者: 片岡 武路
一章
12/31

第十一話 意図を破る 一

 ごつごつとした両手に握られた斧。足を踏み出して腰を捻るミカル。その姿から予想する刃先の軌道は、確実にイルネアの元へと向かっていた。

 瞬間、止めなくてはと思った。だが同時に、このままでいいとも思い直した。イルネアは殺人を認めたのだから、ミカルが今やろうとしていることは正当なのだと。そう考えたから身体は動かず、立ち尽くして刃を見守ってしまった。

 森の中に金属音が響き、ミカルの腕が震える。


「お前は」


 すぐに声が聞こえた。そしてそれは、予想とは違う人物から発せられたものだった。

 俺の想像の中で斧に断たれていたはずのイルネアが、無傷の身で呟いたのだ。俯き垂れた黒髪の向こう、醜く歪んだ表情に視線が引きつけられる。だがそれ以上の驚きが、また別にあった。

 彼女は受け止めていたのだ。ピースサインのように広げた右手の人差し指と中指、そのか細い二つの指で、刃を挟むように捕らえていた。……最初はそう思った。だが目を凝らせば、その認識が間違いだと気付く。

 刃は彼女の指には触れていない。

 どうやって止めた? 魔法か? 驚きで目を開くと、苦しげな声が漏れる。


「――何度邪魔をすれば気が済むんだ」


 怒りを含んだ声色だった。イルネアは胸を反らし、大きく息を吸う。するとそれにしたがって彼女の頬が僅かに膨らみ始める。まずい、何かが来る。だが、思ったが遅かった。

 イルネアの口が鋭く尖り、そこから何かが飛び出した。

 弾丸のようだった。蜘蛛の口から射出された白い影が、一直線に飛ぶ。視界を横断した白い線が、ミカルの顔面に受け止められる。そうして分かった。粘着質に張り付いて彼の視界を奪ったのは、まさしく白い、蜘蛛の糸であると。

 イルネアは無防備な少年へと一歩を踏み出す。


「ミカルさん!」


 呼びかけても、彼は斧を地面に落とし、混乱の中で身を捩らせるだけ。きっと迫り来る攻撃を防ぐことはできないだろう。両者に存在する明確な攻撃の意思。もうこうなってしまっては話し合いの余地はない。

 ナイフを取り、駆け寄ろうとして目を閉じた。距離が近くともそのほうが早い。

 二回目、そう呟いて目を開ければ、目と鼻の先にミカルが現れる。危機に瀕した少年に手を伸ばし、ちらりと横を見た。そうすれば、イルネアが冷徹な瞳でこちらを見下ろしていた。

 感情のない顔を向け、彼女はコンパスのように突き立つ脚を一つ、ゆっくりと持ち上げる。心臓が跳ねて、そして凶器が振り下ろされる。

 間に合わない。ミカルを突き飛ばすが、俺はまだ脚の射程内に居た。瞬間移動をする余裕もない。だから針のような足先に向かって、苦し紛れにナイフを振るう。

 痺れるような手応えを感じ、顔を歪める。


「ミカルさん、走りますよ! こっちです!」


 だが点の攻撃は僅かに逸れ、俺は生きていた。肝を冷やす間も無くミカルを助け起こし、手を引いて逃げ出す。振り返ることもせずに、視界を失った少年を先導する。

 夢中で走った先で、木の影に身を滑り込ませた。


「い、今外しますから!」


 ミカルの目、張り付いた糸に慌てて手を伸ばす。正直、触りたくはなかった。だがそんなことを言っている場合ではない。

 怯える指先が触れると、糸は粘着質の身をひんやりと寄せる。爪を立ててそれを裂き、眉間の辺りから左右に開く。咄嗟の反射で閉じたのだろう、まぶたを下ろしたミカルの両目が顔を出した。

 くそ、べたべたする。心の中で悪態をつきながら両手を振るい、木の影からイルネアの様子を伺う。予想外、彼女は微動だにしていなかった。俺達を追ってきてはいなかった。森の中で虚空を見つめ、ただ立ち尽くしている。

 安心はできないが、これで距離を開けることはできた。息を吐き出して、もう一度ミカルを見る。少年はゆっくりと目を開け、そしてぼそりと唇を震わせる。


「死んだかと思ったよ」


 いつもの無感情な声、ではなかった。そこには確かな抑揚があった。僅かな震えもあった。大きく開かれ揺れる瞳もまた、彼の恐怖を語っていた。


「怖かったですか?」


 俺はわざと、分かり切っていることを聞いた。自分だって怖かったくせに。今だって少し、手が震えているくせに。


「うん……怖かった」

「じゃあ、その、逃げますか?」


 そして素直に返ってきた答えに、逃走を促した。それは俺の気持ちでもあった。

 今のイルネアから情報を引き出せるような自信は俺には無い。だからもう一つの目的である彼が逃げてくれれば、俺も逃げられる。しかしミカルは、震える拳を勢い良く握りしめた。


「爺ちゃんもこうだったのかもしれない。そう考えたら、より逃げたくなくなったよ」


 心臓がはっと冷たくなって、頭がじわりと熱くなる。そんな決意に満ちた言葉だった。ミカルは帽子を被り直して立ち上がる。俺と違って、彼の身体にはもう震えは無い。


「……わかりました」


 俺は自分に言い聞かせるように呟いて、凛々しい少年をじっと見つめた。その視線にはきっと、尊敬、驚き、そして少しばかりの落胆が混じっているのだろう。だがこれもまた分かり切っていたことだった。ミカルの目的は諦められるものではない。

 これで俺も、逃げられなくなった。


「助けてくれたのは、ありがとう。でも、君はもう逃げたほうがいい」


 そう心を固めれば、間髪入れずに正反対の勧めがやってくる。木の影からイルネアの様子を伺い、こちらに背を向けたミカルの言葉。でもそうはいかない。放っておくわけにはいかない。


「私も手伝いますよ、敵討ち」


 村人に知らせず、彼が自分だけで抱え込んだ本当の理由。俺はそれを口にした。自らの手で下したい鉄槌、この少年はきっと、最初からそれが目的だった。


「意味がわからない」


 ミカルは振り返り、疑問の声を漏らす。確かにその反応は普通だ。昨日出会ったばかりの小さな少女に加勢を申し出られたって、そう言うのが当たり前だ。

 だが俺の心に理由は一つ。蜘蛛女に襲われると知っていて、黙って置き去りにできるくらいの相手ではない。だから手伝う。少し照れ臭かったが、俺はそう言おうとした。

 しかし、頭上から響いた音に言葉は切り裂かれた。そして同時に視界が空へと向く。前方から駆け寄り触れたミカルの温もり、それでわかった。後ろに倒れていると。

 腰が草に埋もれ、背中が地面に抱かれる。押し倒すような形で覆いかぶさるミカル、その向こうに蜘蛛が見えた。

 木の上、枝が四方に伸び始める辺りに腰を落ち着け、こちらを見下ろす六つの瞳。彼女は糸の引く口角を上げ、幹の木皮に脚を突き立てる。そしてゆっくりと木を下り始めた。


「あんた、魔法使いだったんだ」


 言って、イルネアは自らの左手を乱暴に口へと入れる。そして手首までを飲み込んだ後、今度は逆再生のように引き抜く。気色の悪い粘着質な音を響かせ、身体から糸を引き摺り出す。その糸で、彼女は自分の髪を一本に括った。

 褐色のうなじが露わになり、どこか妖艶な雰囲気が現れる。


「しかも、私と同じ。アプシス様から――」

「ノーラちゃん、こっちだ」


 イルネアの言葉を遮り、ミカルが立ち上がった。俺も差し出された手を取って立ち上がる。ひとまず距離を取る、恐らくそういう考えであろうミカルに引きずられ、走る。

 とりあえずそこでじっとしていてくれ。俺達を追ってこないでくれ。背後の恐怖に言葉をかけながら足を動かす。森の中、陽だまりの草を踏んで、ちらり。握った拳に力を入れて一度、振り返った。

 下り終えた木の前でしゃがみ込み、草の地面に手を当てるイルネアが見えた。その足はどれもぴくりとも動いていない。願いが届いた。進む足にもう一度気合を入れて、反撃の手を考え……。


「ノーラちゃん?」


 ミカルの心配げな声が響いた。視線を上げれば、繋いでいた手がするりと抜ける。


「ああ、残念。踏んづけたのはあんただけか」


 背後からイルネアの声が聞こえ、一瞬身を震わせる。だがその声以上の恐怖が、俺の身には起きていた。

 真っ白になった頭で視線を下げれば、進むのを止めた自分の足が見える。そしてその片方、右足。親指と人差し指の間あたり、そこから刃が生えていた。下から伸びたそれに靴が貫かれ、破れ、血に濡れていた。

 痛みが頭を支配して、冷汗と涙が地面に垂れる。釘づけになった視線の中で、刃はなぜか草になった。まるで最初からそうであったかのように、とがった草になって根を張る地面に身を垂れたのだ。

 何が起こったのかわからなかった。狐につままれたような気分だった。ミカルが何かを言っていたが、それすらも耳に入らない。

 自ら戦いの場に赴いて、そして負傷。当然想定された事態のはずなのに、急速に萎んでいく戦意を感じる。

 どうしよう、どうしよう。痛みに押された頭が回転を始め、やがて辿り着いたのはひとつの方法だった。魔法を使って、この場から逃げ出す。そうすれば俺は死なずに済む。

 だが涙に濡れた視界にまぶたを下ろし始めた瞬間、身体が宙に浮いた。視線が高くなって、滲んだ視界の中をイルネアが遠ざかっていく。


「……ミカルさん」


 右足の痛みとともに揺れる身体。少年が俺を肩に抱え、走っているのだとわかった。それは息を切らし、イルネアに背を向けての逃走だった。目の端からじわりと涙が溢れる。足の痛みのせいだろう。だが、きっとそれだけではない。

 顔を上げ、もう一度イルネアを見る。彼女は足を動かさない。微動だにしない。しかし、もごもごと口を動かし始める。


「糸が、糸が来ます」


 そう声を絞り出してから、俺はまぶたを下ろした。飛来する糸自体に殺傷能力はない。万が一ミカルがかわすことができなくとも、それだけで死につながりはしない。だから今、この瞬間がチャンス。もう少しだけ、もう少しだけ戦う。このままでは情けなくて帰れない。

 三回目。歯を食いしばって目を開けば、そこは既にイルネアの背後。痛む足で踏ん張って、覚悟を決める、右手のナイフを勢い良く伸ばす。突き立てる。けれど切っ先が届こうとした時、ひどい頭痛に襲われた。それはつい最近経験したものと瓜二つ。おかしい、そんなはずはない。

 視界の中、ナイフが手のひらをすべり落ちていく。イルネアの姿がぐらりと傾く。地面に倒れまいとして咄嗟に出した右足、その苦痛に顔が歪み、声が漏れる。

 遠くでべちゃり、粘着質な音が響いた。その方向になんとか視線を向ければ、ミカルの足元に落ちた糸の塊が見える。彼は攻撃をかわしたのだ。それならイルネアは、彼女は次にどう動く? そしてチャンスを逃した俺はどう動くべきだ?

 こちらをちらりと見てから、蜘蛛女が走りだした。俺はその動きに呼応するように、ナイフを拾いなおしてから目を閉じる。最終的に気を失った道化師との戦い、あの時ほどの回数の魔法を俺はまだ行使していないのだから、この頭の痛みだってきっと何かの間違いだ。

 四回目。こちらに駆けてくるイルネアが見えて、魔法の成功を確認。後ろにはミカル、なんの問題もない。だが俺はまた、無意識に右足を踏み出していた。痛みに顔が歪み、自らの身体が揺らぐのを感じる。なんとか姿勢を保っても、目の前の景色が滲む。吐き気を催した胸が強く鼓動を打つ。自らが発する荒い呼吸の音が、まるで誰か他人の物のように耳元から聞こえる。

 一体どうした? 何が起こったのかわからず、視界は思考とともに沈んでいく。無意識に喉元を抑え、そして無意識に全身の力を抜く。ナイフがまた右手からすり抜ける。身体がゆっくりと倒れる。

 そのまま、視界はブラックアウトした。






 ふと、瞳に光が飛び込んだ。やがて空っぽの頭が記憶を取り戻し、上体を上げる。眼前の景色が脳へと焼きついていく。その光景の中、ひときわ目を引くのは赤だった。

 前方、色を変えた少年のシャツ、その腕部分からそんな色の雫が垂れた。ここから見えるミカルの背中が、荒く揺れている。どれくらいのあいだ気を失っていたのかは分からないが、すぐに理解できる状況だった。イルネアの攻撃で、ミカルが負傷したのだ。


「ああ、良かった。まだ生きてたんだ」


 僅かな痛みに頭を抑え、右足をかばいながら立ち上がると、ミカルの背の向こうで蜘蛛が笑う。その手にはナイフ、俺が持っていたものだ。

 どうしていいのかわからない、ならば時間を稼ごう。そんな考えが頭を埋め尽くす。だからゆっくり、口を開ける。


「……私が、私が生きていたほうがいいんですか?」

「そりゃあもちろん」


 俺はしっかりとした足取りを取り繕って、ミカルの前に出る。瞬間、血の匂いを感じて顔を歪めるが、精一杯前を向く。森の明かりが妙に眩しい。


「あんたは狼煙の火種だからね。……いや、導火線? 違うな、その設置人? まあ何でもいいや」


 イルネアは何やら訳のわからないことを言いながら、ちらりと目線を俺の後ろに向ける。そこにいるのはミカルだ。そして蜘蛛は視線を戻し、ゆっくりと口を開ける。楽しげな顔で。


「さっきあたしがそいつに脚を向けた時さ、あんた必死になって助けたよね。今だってそう、どうやったら二人とも無事でいられるかって、そう考えてるでしょう?」


 その言葉は俺の頭のなかの写しだった。が、特別驚きはしない。こんなものは、この状況で誰もが持つ考えだ。


「でもそんなに強張らなくてもいいって。あたしはさっきも今も、この少年の命を取ることなんて少しも考えてないから」


 俺はごくりとつばを飲んで、笑うイルネアの顔を見た。投げかけられた言葉を飲み込んで、歩み寄りの可能性が生まれたことに光明を見たのかもしれない。だが安易に気を許せるほど、彼女のこれまでの行いは軽くない。


「……一応それが本当だとして、それならあなたは色々説明しなくちゃならないんじゃないですか? 私に糸をかけた理由とか」

「ははっ、うるさいな。これからするつもりだっての」


 ガラの悪い返答に苦笑いで返せば、イルネアはなにか手元を動かす。何も持っていない手、何かが起こるはずもない行動。だがそれは、思いもよらぬ事態を引き起こす。


「よし、これでこいつは人質というわけだ。……じゃあ、説明を始めようか?」


 そう言ってイルネアが抱きとめたのは、紛れも無いミカルだった。彼の身体がまるで手繰り寄せられるように蜘蛛の元へと向かったのだ。よくよくと目を凝らせば、その瞳は虚ろ。口元は糸に覆われている。手元も今この瞬間、身体の前で糸によって拘束されてしまう。

 無意識に、身体が前傾姿勢をとった。助けねばならないとはやった気持ちのせいだろう。しかし武器のない拳を握り直し、イルネアの言葉を理解した。人質、それはすなわち何らかの対価を要求されているのだと。


「……何をしろと?」

「ほー、理解が早くて助かるね。じゃあ、まずは少し質問をしようか。昨晩あたしと会ってから今まで、あんたはどれくらいあの村の中を歩き回った?」


 その質問にどんな意味が? 言いたい言葉を抑えて俺は記憶を探る。昨夜イルネアに会い、ダグさんの家で床につき、今日。俺はリブに案内され、あの村の中を駆けずり回った。


「まあ、それなりには」

「……それなりって?」

「それほど大きなところではないですし、大体の場所は回ったかと」

「へぇ」


 そんな一言の後、沈黙。俺はその中で心地悪く自分の右足を睨んだ。こんな傷を負わせた張本人と何を呑気に喋っているのだろうと思った。

 薄っすらと、ミカルの荒い息遣いが聞こえる。


「それなら問題はないかもね。まあでもさ、昨日の今日なわけだし、念には念を入れて……」


 妙に腹の中が熱くなり、いらいらとし始めた瞬間、静けさはイルネアの言葉によって破られた。

続きを聞くため、顔を上げる。


「もう少しあの村の中を歩き回ってきてよ。できれば隅々までさ。あ、村の人達の家に遊びに行くのも面白いかもよ?」

「……どういうことですか?」

「どういうこともなにも、それがあたしの要求なんだってば。わかる? そうすればあんたもこの少年も無事に解放ってわけ」

「何のために、どういう理由があって私に村を散歩させるんですか」

「ったく、質問の多いやつだなー。いいから行ってこいよっ」


 イルネアはそう言うとナイフを持ち上げ、何気なく自然な動きでミカルの腕を引っ掻いた。事が終われば用済みなのか、イルネアはナイフを森の奥へと投げた。

 ミカルの肌、そこに薄く走った真っすぐの線から、粒上の血液が浮き上がる。それを見て、瞬間的な反射で一歩足を出す。が、その結果はただ痛みに顔を歪めるだけ。


「ほらほら早く行ってきなって。明日の昼にまたあたしの家に来てよ。もちろんここであったことは他の人に話しちゃ駄目だからね。いつだって監視してるんだから」


 俺はゆっくりと歩き出そうとした。とりあえずは従って、どうするかを考えようと思った。時間が経てば魔法もまた使えるようになる。そして何より、コニーさんがここに向かっているのだ。結局頼ることになるのは情けないが、彼が現れれば勝機もあるはず。

 他人に押し付ける思考が終わると、ふとあるものに目が行った。ミカルの指先と瞳だ。


「ちょっと、なにやってんの」

「いえ、なんでも。少し右足が痛むだけです。それと日差しが眩しくて」


 酷く露骨だとは思った。が、追う視線を悟られぬようにローブのフードを深くかぶる。

 拘束されたミカルの指先が器用に動き、もう片方の手の甲を這い始めた。その道筋に残るのは赤い線。そしてやがて形作られるのは、こちらに何かを伝えようとする文字、なのか? それとも何かのマーク? いずれにせよ、ミカルは俺に何かを知らせようとしている。だが、これはいけない。


「あっそ。まあとにかく、さっさと――」


 書かれた文字の意図もわからぬままで、事は起きた。

 左足で草の地面を強く踏み、その反動を受けたミカルの右足がイルネアの腹を蹴りあげる。少しだけ、ほんの少しだけだが蜘蛛の身体が揺らぐ。そして続けざまに繰り出されるだめ押しと言わんばかりの頭突き。

 自らの身体をひねり、ミカルはイルネアの手から抜け出した。だが未だにその腕、口は糸に囚われている。そして、巣からの強引な脱出を蜘蛛がそうやすやすと見過ごすはずはなかった。


「なに、今の? そんなんで逃げられると思ったわけ?」


 イルネアは目尻を吊り上げ、怒りを隠すこともなくミカルの肩を掴む。

 彼女の発言は全くもってその通り。もしかしたら俺に何かの役割があったのかもしれないが、今の出来事は少年の無謀な行動に映った。


「え? しかもあんた、今あたしのこと蹴ったでしょ。なんとか言いなさいって!」


 語気に相応しく乱暴に、イルネアはミカルの口元の糸を切り裂く。露わになった喉からは直ぐに声が漏れた。


「……従っちゃあ駄目だ、ノーラちゃん。どうせろくなことにはならない」


 俺は少し眉間にしわを寄せ、懇願するように絞り出された声を受け止めた。

 そして、そんなことはわかっている、と心の中で返した。わかってはいるが、じゃあ他に方法があるか? 打開策はあるか? そう聞きたかった。

 吹き始めた風と共に声を飲み込んで、自覚した。予想以上、俺もこの事態に苛ついているということを。


「うるさいなぁ。ただのガキがあたしの邪魔しないでよね」


 一言の悪態をついて、イルネアを表情を和らげる。が、それはへらへらと張り付く嫌な、腹の立つ笑み。彼女はそんな視線をゆっくりと俺の元へと向ける。早く行け、そういう意味なのだろう。

 俺は当初の予定通り、足を踏み出した。


「なっ」


 だが瞬間、そんな声が聞こえ振り返る。弦を弾くように短く切れた音、何かに驚いたような声。

 イルネアが、脇腹を抑えて顔を歪めていた。


「ちっ、さすが野生の蜘蛛か」


 そしてその向こうに見えたのは白の混じる髪、長身の男性。薄っすらと血のついた剣を片手に、素早い動きでミカルを奪還した男性は紛れもない、コニーさんだ。


「で、お前はなんでまたここにいるんだ?」


 投げかけられた言葉と鋭い視線。俺はフードを持ち上げ、薄ら笑いを返した。

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