第十話 しおり糸が巡る村 三
目を開ければ雨戸の隙間から明るい光が差し込んで、朝の訪れを知らせていた。
ベッドへ横になったまま眠気に抗い、昨夜の話を思い出す。イルネアとの会話、見つけられなかった手掛かり。ダグさんの家に帰ってふて寝をするくらいには、気持ちも落ち込んだ。あまり良い夜ではなかったと思う。
重い頭で起き上がり、部屋の扉をぼーっと見つめた。数分そのままでいたが、いつまでもこうしていても仕方がない。俺はゆっくりと足を動かして、床に置いた靴を履いた。
朝の空気に伸びをしてから部屋を出る。無人の廊下を不鮮明な頭で進んで、立ち塞がった扉を不慣れに開ければ、そこにはダグさんがいた。
「お、やっと起きたか、寝ぼすけ嬢ちゃん」
「おはようございます」
少しだけかすれた声で返事をすれば、笑い声が返ってくる。
「こんにちは、だ」
「……あー、はい。こんにちは」
やっぱりまた寝過ごしたようだ。恥ずかしさを苦笑いで誤魔化せば、「顔を洗ってこい」と背中を押される。
家の中から外に出ると、天高い日差しが青空から落ちてきた。決してアウトドア派ではないが、やはり太陽の光というのは気持ちがいい。少しだけ気分がマシになる。
玄関先でもう一度伸びをしてみる。そうしたら心無しか頭も冴えてきた。
僅かに軽い足取りで教えられたほうへ進むと、見えてきた井戸。その周りには村の女性数人が集まっていて、俺が声をかければ快く水を汲んでくれる。顔を洗って口をすすげば、渇いた身体もいくらかましになった。
そうしたら来た道を戻るため、足はダグさんの家へと向く。しかし土の地面を踏みしめて進む帰り道、誰かの声に呼び止められた。
「ねえねえ、もしかしなくてもノーラちゃんだよね?」
明るく甲高い声に振り向く。木の影から覗くのは、これまた眩しい快活な笑顔だった。
その主である小さな女の子は亜麻のワンピースを揺らし、ウサギを思い起こさせるような仕草で一つ跳ぶと、赤茶けた髪を揺らしながら駆け寄ってくる。
「やっぱりそうだよね? 私と同じくらいの歳で、それで猫みたいな癖っ毛でしょ、絶対そうだ!」
「えっと、まあ、そうだけど」
自分の特徴を羅列され、何だかくすぐったかったが返事をする。そうしたら彼女はただでさえ高いテンションを更に上げ、俺の手を両手で握る。
「私はリブっていうの。今日の朝ノーラちゃんのことを聞いてね、ずっと会いたかったんだ!」
「あー、うん、そうなんだ。ありがとう」
随分と明るい子だ。少し圧倒されながらそう思った。そして同時に、俺もこの子の名を聞いたことがあったことに気付く。
「私もミカルさんから聞いたよ。リブのこと」
「それってどんなこと?」
どんなこと。聞かれて思い出すが、そういえばそんなに大したことは聞いていなかった。
「……ああ、ごめん、名前だけ」
苦笑いを向けても、リブは笑顔を崩さない。文字通り同じ目線、同じ背丈の人物と話すのが久しぶりだからか、俺は少しだけ戸惑っていた。小さい子の相手があまり得意ではないというのも原因かもしれない。
何を話そうか探っていると、別の人物の言葉が背後から飛んでくる。
「お、もう友達ができたのか」
遅い俺を探しに来てくれたのか、そこにはダグさんが立っていた。
「そうだよ村長、私とノーラちゃんは友達だよ!」
「おう、そうか、良かったな」
リブは羽織ったケープの端を握って嬉しそうな表情を向ける。
一方の俺は友達という単語を柄にもなく心にとどめ、そしてそれを少しだけ嬉しく思ったり。妙に恥ずかしくなる。だから誤魔化すように、リブから目を逸らして口を開く。
「ダグさん、そういえばコニーさんはどこですか?」
咄嗟の話題転換ではあったものの、気になっていたことをぶつける。村長の家には姿が見えなかった。
「ああ、あいつは朝からちょっと出てるんだ。もう少ししたら戻るんじゃないか」
「そう、ですか」
「まあそんな落ち込むなって。それまではリブと一緒に村でも見て回るといい。大したものはないがな」
落ち込んだつもりはなかったのだけれど、どうやらそう見えたらしい。
俺が頷くと、ダグさんは念を押すように指を立てる。
「だが村の外には出るなよ。柵の向こうは危ないからな」
「わかりました」
「よし。リブもわかったか?」
「もちろん! いつもと同じでしょ?」
元気の良い返事を聞いて、ダグさんは満足気に笑った。
「ま、その前にノーラちゃんは昼飯だな」
言われてお腹が減っていることに気付く。だから素直に頷いて、踵を返したダグさんに続いた。
「じゃあノーラちゃん、また後でね!」
村の散策。まあ、気分転換にはなるだろう。傷心を慰めるには少しのんびりするのも悪くはない。
俺は手を振るリブにしばしの別れを告げ、一度ダグさんの家に戻ることにした。
「それで、ここが私のお気に入り!」
家々が並ぶ小さな通り、女性が集まる井戸端の広場に、村人が汗を流す畑。昼食を済ませた後でリブと合流し、村の様々な場所で彼女のちょっとした解説を聞いて回った。そして最後に行き着いたのは、小さな丘の涼しげな木陰だった。
「ほら、あそこに羊さんも見えるよ」
心地よい風が歩き疲れた身体に当たる。少し離れた前方にはリブの言うとおり、緑の原っぱを歩く羊たちが見える。青空と緑のコントラストが眩しい、素朴な農村の風景だ。
木陰の主である木に二人で背中を預け、息を吐いて座り込む。
「リブはよくここに来るの?」
「うん。お昼寝したり、ぼーっとしたり。綺麗な景色を見てたらさ、元気になるから」
少女はのんきな事柄を並べて嬉しそうに笑った。
会話の内容は他愛もなかった。相手の年齢が年齢だし、失礼だが幼稚とも呼べるのかもしれない。だけどそれをどこか心地良く感じているのに気付く。
ちらりと横を見れば、リブはその大きな瞳でこちらを見つめていた。
「ノーラちゃんはいつもなにしてるの?」
「そう聞かれても……」
「じゃあじゃあ、何で旅をしてるの?」
「旅?」
「うん、ミカルから聞いたよ。旅人さんだって」
まあ間違いではないのかもしれない。まだ数日とはいえ、目覚めたあの村からここまでやってきたのだから、旅人と呼べなくもない。
だけどその理由を問われるのは、正直言って困る。
「私はコニーさんっていう人にくっついてきただけだから」
そう、流れに流れて逃げてきただけだ。このメラン村だって、コニーさんの目的地であって俺のものではない。
「ふーん、でも羨ましいな。いろんなところに行けるの」
微笑むリブの気持ちもわからないわけではなかった。今目の前にあるような美しい景色が他にも見られるかもしれないというのは、大きな魅力なのだろう。だけどここまで来る道中の俺の根底には、確かにどんよりとしたものがあった。旅の目的が明確でない、それも理由の一つかもしれない。
前と同じ姿で安全が保障され、そして最後に元の場所へ帰れる、そういう確約があればうんと楽しいものなんだろうけど。
訪れた沈黙の中で、そんなことを考える。
「そういえばミカルさんは?」
そして何の気なしに聞いた。穴の空いた会話を埋めるためだった。だがそのせいで、少しだけ記憶の片隅に追いやっていた事柄が、頭の真ん中に戻ってくる。
「朝は村長の仕事を手伝わされてたよ。昼頃からは……そういえば見かけないかも」
小さく心臓が鳴った気がした。彼はやはりイルネアの元に行ったのだと思った。俺が教えた場所を探しに行ったのだと。
もやもやしながら俯いて、自らの手を見る。そうしたら視界の端から何かがこちらに伸びてきた。
「それよりノーラちゃん。さっきから気になってたんだけど、これは何?」
リブの小さな手に右手を持ち上げられる。彼女が指をさすのは、そこにある俺の小指。白く細い少女の指だ。
一見し、そしてくまなく見回したところでおかしな部分などない。
「指がどうかした?」
「指じゃなくて、これだよこれ」
次にリブの人差し指が向いたのは、俺の小指の根元。どうみても皮膚しかないそこをもって、指ではないというのはおかしな話だ。
俺はわけのわからないといった苦笑いを作る。
「これって?」
「この指輪みたいなのだよ。ぼわぼわしてるやつ」
「……私、指輪なんかしてないんだけど」
まだら模様の木陰に一つ小さな風が吹く。
何を言われたのかわからなかった。だが自らの指を見て、リブの言葉を否定することはできた。小指に何も無いというのが、明らかな事実だったからだ。
しかしリブは黙り、目を何度も瞬いてから顔を歪める。
「ノーラちゃん、見えないの?」
不安気な声で問われる。そして彼女はまるで、こちらがおかしなことを言っているような顔をする。
リブには見えて、俺には見えないもの。それは彼女曰く指輪のようなもの。会話を振り返ってそう推察できても、にわかには信じ難い。何度目を向けたところで、指輪など無いのだから。
疑問と共に再び訪れた沈黙は、唐突な足音によって消える。
「その指輪っていうのは、どんなものだ?」
丘を上がってきた足音は、コニーさんのものだった。風にそよぐ緑を踏みしめて、こちらへと歩み寄る。その表情はいつもより真剣味の増した、少し怖い顔。
またもやなにもやましいことなどないはずなのに、心臓が跳ねた。
「おじさん、誰?」
「悪い、急ぐんだ。質問に答えてくれると嬉しい」
視線を受けて、纏う空気とは相反した優しい声が向く。
リブは戸惑いながらも、掴んだ手をコニーさんのほうへ上げて答える。
「……ノーラちゃんの指に糸がぐるぐる絡まった、そんな感じかな」
そして俺の小指を何重にも囲うように、自らの人差し指をぐるぐると巻く。
絡まった糸。改めて見ても、俺の指にそんなものはない。
「そうか。じゃあ、他にもそういうのを見たことは?」
「うーん、パスの足に付いてたのと似てるかな?」
「パス?」
「ミカルのお爺ちゃんが飼ってた犬だよ。もう死んじゃったんだけどすっごい毛むくじゃらでね、それで……」
「わかった、ありがとう。おじさんは少しノーラと話があるんだ。いいかな?」
長々と続きそうな話を、コニーさんが似合わぬ口調で制す。するとリブは不満気な顔をしつつも、「また、後でね」と笑い、去って行く。
正直この場に残されるのは嫌だった。コニーさんがなんだか嫌な雰囲気をまとっているからだ。そしてその予感は案の定で、僅かに乱暴な手で腕を引かれる。
「妖精の糸、魔法だ」
木陰に立ち上がれば、そう言われた。なんのこっちゃという感じだった。でも茶化す雰囲気じゃない。
「それって……」
「妖精が会話に使う術だが、稀に使える人間も、そしてあの子みたいに見える奴もいる」
唐突に訪れた無機質の言葉が、不安に覆われた胸に刺さる。コニーさんの顔を見上げ、口を動かす。
「その魔法が、私の指に?」
「ああ、だが心配するな。魂と魂が繋がれただけで実害はない。人間が相手なら、生き死にが伝わるくらいだ」
その説明に少しだけ胸を撫で下ろす。よくわからない魔法だが、害がないのならば大丈夫だと。でもコニーさんの態度は変わらない。
「問題はお前の糸の反対側が誰に繋がっているのかだ」
「反対側?」
「ああ、覚えは?」
「覚えと言われても……」
威圧的な声に俯き、視線を自らの小指に落とした瞬間、ある光景が脳裏によぎった。
それは薄褐色と白のコントラスト。机に置いた俺の指に絡みつく女性の指。蜘蛛女イルネアの指。蜘蛛と糸。
確信は無かった。だが、どこか明確な心当たりだと思った。そしてそれは表情にも表れたらしい。
「言え。誰だ」
「……イルネア、さん」
見下ろすコニーさんに、絞り出した声で言った。
半ば尋問で吐き出させられたようなものだった。昨夜はミカルの言葉に怯え、そして今はコニーさんに対して俯いている。なんとも情けないと思った。
「なぜ会いに行った」
ため息混じりの声に、恐る恐る顔を上げる。木陰のまだら模様に染まるコニーさんは、腕を組んで顔をしかめる。
「すみません、その、ちょっとした興味で」
場に沈黙を作りたくはなかったからなのか、無意識にそう取り繕った。
男から女になった、違う場所から来た、それらを黙っていることには、もう既に意味がないのかもしれない。打ち明けてもいいのかもしれない。何度目かにそう考えても、なぜかやっぱり隠したかった。
やってきて欲しくはなかった沈黙が流れ、涼しい風が髪を遊ぶ。白髪の混じったコニーさんの髪も揺れる。そしてその、真一文字に結ばれた口が開く。
「どうせ魔法を使ったんだろうが、それはまあいい。問題はあいつに会いに行ったことだ。危険なことはするなと言わなかったか?」
「すみません。でもイルネアさんはそんなに悪い人では……」
昨夜聞いた彼女の優しい声色を思い出し、言葉を紡ごうとした。だがすぐに、口をつぐんで唾を飲み込む。
悪い人ではない。一体どの事実がそんな台詞を生むのか。ミカルとリブの台詞を思い出して自らの指を見ると、とてもそうは言えなかった。
「悪いか悪くないかじゃない。あいつは道化師と関係があった、危険だ」
コニーさんは最初からイルネアを警戒していた。俺だって、もちろんそうだったはずだ。
だけどいつしか、大きな危機感は薄れていた。ミカルの話を聞いたはずなのに、イルネアが殺人犯の可能性だって考えたはずなのに、早く情報を手に入れることを本心で一番に考えていた。
でも今それを理解して、心持ちは違った。
意図はわからないが、イルネアは俺の指に糸をかけた。大した実害がないとはいえ、魔法の正体を明かさず勝手にだ。
疑念は心の内壁にぶつかるくらいに膨らむ。いや、元からそこにあった。それが見えるようになっただけ。
「……危険かもしれないって、今はそう思います」
だから正直に吐露した。
真っ直ぐにコニーさんの瞳を見つめ返せば、彼は小さく頷く。
「お前が利口な奴だと信じてる。だから懲りたのなら、ダグのところで待ってろ。俺が糸を切ってくる」
こちらを向く背中。一歩一歩と丘を下っていくコニーさんの姿を、俺は立ち尽くして見守る。薄い下唇に歯が当たる。
頭ではミカルのことを思い出していた。ミカル・オーグレンという少年にした、昨夜のことを。
とりあえず問答を切り上げたくて、俺はイルネアの居場所を教えた。そして彼女が犯人であるかどうかを確かめるのは、ミカルであるべきだと考えていた。だが。
「……パス」
俺と同じ糸が付いていたらしい犬の名前を呟く。そこから導き出される結論は、昨夜の行動を後悔させるには十分だった。
簡単にイルネアの場所を教えるべきではなかった。彼女が殺人犯ならば、ミカルが会いに行くことには危険が伴う。疑いが色濃くなった今、強くそう思った。分かり切っていたはずのことだったが、そう思った。
息を大きく吸い込んで目をこする。胸をそらして太陽を見てから、涼しい風に乗せて息を吐く。時間がない。俺は走り出した。
湿った空気に土の匂い、枝葉を抜けて落ちる光。さっきまでの丘ではない、俺は森の中にいた。イルネアの家の近くの森だ。ローブの下、ズボンの腰元にあるナイフを確かめてから、辺りを見回す。
今日の魔法の使用は、村からここへの一回だけ。親指を折ってそれを確かめ、ローブの首元を上げて気合を入れる。
木に囲まれた周囲に人の影を探すが、そこには誰もいない。だが次の瞬間。
「なんでここに?」
背後から聞こえた声に振り返る。すると幹の間からミカルが姿を現した。帽子のつばを指で上げ、手には斧、無表情で問い掛ける。
俺はほっと胸を撫で下ろした。彼はまだイルネアに会ってはいない。
「……私の言ったこと、一応従ってくれたんですね」
「夜はやめたほうがいいってやつ? まあ、確かにその通りだからね」
ゆっくりと歩み寄り、ミカルは俺を見下ろす。
「それで、どうしてここに?」
「もう一度、私の言葉に従ってもらえないでしょうか?」
言葉をあえて無視して、俺は言った。場所が場所だ、きっと急いだほうがいい。
だがミカルはあからさまに顔を歪める。
「声は聞こえてるよね? さっきから俺、君に質問してるんだけど」
「わかってます。でも、その、村に帰りましょう。イルネアさんは危険です」
「……意味がわからない」
このままイルネアと会うのは得策では無いと思った。彼女が犯人である可能性が高い以上、二人が出会えばどう考えても穏やかなことにはならないからだ。だがそう考えるのと同時に、何を言ったところでミカルが納得しないこともわかっていた。
「それは承知で来てるんだ。君が何と言おうと、俺は蜘蛛女に会う」
やっぱりその通りだった。
はっきりとした声に僅かな苛立ちを含ませて、ミカルは案の定一歩を踏み出す。そしてそのまますれ違うように俺の後ろへと進む。
草を踏む足音を聞きながら、俺は息を吸った。これでもう、選択肢は一つになった。ゆっくりと振り返る。ミカルの背の向こうには、覚えのある大木が見えた。
「わかりました。なら私も一緒に行きます」
声を掛ければ足音は止まり、ミカルはこちらを向く。
「それも意味がわからない」
そして見下ろす顔を更に歪めた。苛つきが増したのだろう。喋っている本人の俺すら、自分の回りくどさに呆れているのだから仕方のないことだ。
だが大目に見て欲しい。今やっと心の整理がついたところだから。
「イルネアさんの居場所を教えたのは私です。万が一のことがあったら寝覚めが悪いので着いて行きます。それに私もあの人に用があるので」
ミカルを見上げ、その瞳に立てた小指を見せる。するともちろん、ぽかんとした顔が返ってくる。だがそれで良かった。俺は有無を言わせぬように、ミカルを追い越した。
自分の糸のことも、コニーさんにだけ任せておくわけにはいかない。だから足が向く先はイルネアの家だ。しかし決意を得た歩幅はすぐに、前方から現れた影に押し戻される。
大木を背景にして立つその影は、野生味のある衣装を纏った女性だった。見覚えのある黒髪が風になびいている。
「あんたが蜘蛛女?」
背後からミカルの声が飛ぶ。
立ち並ぶ木々の向こうに立つのは、紛れもなくイルネアだった。鼻をひくつかせながら、少し伏せた瞳でこちらを見る。そしてゆっくりと、八本の脚を蠢かせてこちらへと這い寄る。
「蜘蛛女じゃなくてイルネアだよ。あたしの名前」
褐色の頬を膨らませて、蜘蛛は一歩一歩と地面を刺す。
なんというタイミングで現れるのだと思った。心が決まった後とはいえ、いくらなんでも心臓に悪い。俺は頭を掻いた。ちらりと横を見れば、ミカルが拳を握る。
「あんたが殺したのか? この帽子を被っていた爺さんを」
「一体なんの話?」
「いいから答えろよ。見覚えがあるんだろ」
イルネアは忙しなく動く脚を止めた。辿り着いたミカルのそばに立ち、大きな瞳を戸惑いがちに向ける。そして両手を上げると、わざとらしく首を傾げた。
「だからなんのことだかわかんないって。それよりさ、どうしたのノーラちゃん。またあたしに用? でもあれ以上答えられることは……」
俺に飛んだ言葉はそこで遮られた。素早い音が巻き起こした風に、黒い髪の毛が散らばる。
一瞬は何が起きたのかわからなかった。だが驚いて横を見れば、ミカルが斧を振り抜いていた。そして風を切り終えた武器を手に、突き刺すように尖った眼差しでイルネアを射る。
「今日は質問を無視されてばっかりなんだよ。さっさと答えろ」
昨夜と同じ、迫力を感じさせる声だった。物々しく掲げられた斧の刃が、森の木漏れ日に光る。
俺は地面に立つ足に力を入れた。祖父の死に対するミカルの恨みは、やはり底が深い。だがイルネアはそれを向けられても、自らの調子を崩すことはない。
「危ないなあ、少年。あたしは殺してなんてないってば」
否定の言葉。ため息混じりの声が漏れると、ミカルは僅かに斧を下げる。だがイルネアの発言をまるっきり信じたわけではないのだろう。眼光は未だ鋭い。
そしてその目つきは、次の言葉で更に研ぎ澄まされる。
「……違う、殺したのはこいつ。イルネア」
自らを指差して、イルネアは言った。打って変わった悲し気な声色で紡がれるのは、意味のわからない言葉だった。前の台詞と意味が繋がらないものだ。だがそれでも少年には十分だった。
ミカルは一歩を踏み出し、既に斧を振りかぶっていた。