空白の犠牲者
ゲームのような世界。つまりは誰もが想像するような剣と魔法の世界に、俺だって興味がないわけではない。行ってみたいと思った事だってあるし、布団の中でそんな妄想をして、枕に顔をうずめた事だってある。だけど、いくら空想の世界にのめり込んだところで、実際にそこに行ける訳ではない。夢から覚めれば、辛い現実が目の前に転がっているのだ。
もはや恒例となってしまったように苦手な授業を聞き流しながら、そんな考えを巡らせる。昨日やったゲームのせいだろうか。確かにあの世界は、こちらの世界よりも随分と魅力的だったように思う。
「おい、柏木。余所見するな」
「……はい」
窓の向こうに広がる空を眺めながら、視線を動かさずに答える。
注意をした数学教師は俺の態度に不満があるようだったが、呆れたため息を吐くと、直ぐに授業を再開した。流石に今のは俺が悪い。幸い今は六時限目、あと少しぐらい真面目に授業を受けてもいいだろう。
教師の態度を見て少しばかり改心した俺は、窓から目線をそらし、前方の黒板を見つめた。だが、人生はやる気を出したときにはもう手遅れだったり、その有り余るやる気を削ぐ出来事が起こるようにできているのだ。今回も例に漏れず、そのようである。
「……はい、今日はここまで」
無情にも鳴り響く終業のチャイム。とは言ってみたものの、内心は別にそこまでがっかりはしていない。やる気を出したのだって、単なる気まぐれなのだ。
ぼーっと数学教師を見ていると、入れ違いに担任の教師が入ってくる。すると生徒の帰りたいオーラを感じ取ったのか、必要最低限の連絡をしただけで、担任は早々にホームルームを終了させた。それは俺にとっても嬉しいことではあったけれど、友人と呼べる人がいない者にとっては、帰りの道すら単なる苦行だ。
寂しく帰り支度を整える俺に、話しかける人はいない。かといって、自分から話しかける勇気など持ち合わせていないので、自然と一人で帰るしかない。
荷物をまとめた鞄を背負い、教室を後にする。
廊下では皆、勉強という呪縛から解き放たれ、級友、もしくは恋人との放課後を存分に満喫していた。俺にとっては羨ましい光景。そして同時に異世界のように遠い景色。
横目に通り過ぎて階段へと急ぐと、上の階から流れてきたのだろう、綺麗な楽器の音色が僅かに廊下の窓から聞こえてきた。嫌な記憶に少しだけ顔を歪める。そんな音を振り切るように階段を下り、一階の下駄箱へとたどり着く。そして上履きから履き替えるために、履きなれた運動靴を取り出した。
いつも通りの行動。登校時と下校時に靴を履き替える瞬間、俺はいつも確かめる。靴の中、画鋲が入っていないか。靴の裏、ガムが張り付いていないか。今時、そんな古典的なことをする奴がいるのかはわからないけれど、それだってれっきとしたいじめの一例だろう。
しかし、かといって俺は今までの人生において、いじめられたことは一度もない。ならば、なぜこんなにも警戒しているのかというと、俺は今、いついじめられてもおかしくない状況だ。そう自ら思っているからである。
今日もそういった理由から、運動靴の中をゆっくりと眺める。その結果、いつも通り異常なし――とはいかなかった。
「なんだこれ……?」
入っていたのは一枚の紙。小さく折りたたまれたそれは、なんとも可愛らしい薄桃色をしていた。いじめではないことは確かだ、むしろこれは……。
頭の中に浮かんだのは何とも嬉しい言葉だった。自然と綻ぶ口元を押さえ込みながら、ゆっくりと紙を広げる。
柏木正一さんへ。
突然のお手紙申し訳ありません。唐突ではありますが、あなたにどうしても伝えたいことがあり、筆を取りました。ぜひ直接お会いして伝えたい、とても大事なことです。
お待ちしています。
文章はそれだけだった。文体とは不釣り合いな、お世辞にも綺麗とは言えないような字。だけどその下には簡単な地図と、記された赤いバツ印。ここに来てくれということなのだろう。
先程浮かんだ、ラブレターという可能性は、完全には排除できない。
俺は下駄箱の周囲を見回す。下校を急ぐ学生達が靴を履き替えて、外へと歩き去る。その幾人かは立ち止まる俺へと怪訝な視線を向けている。
「……よし」
そんな眼差しに急かされてか、俺は急いで運動靴を履いた。そして他の生徒達と同様に歩き出す。
もう一度落とした目に映る手紙に、俺は桃色の未来を描いていた。酷く安易な未来を。
十分ほど歩いただろうか、たどり着いたのは駅前の入り組んだ路地裏。午後五時の駅前広場は夕焼けに照らされた人でごった返していたが、少し道をそれるだけで人はぱったりといなくなる。だから俺を呼び出したと思われる人物もいない。
しかしそれなら、この後どうしたらいいのか。
「いやいや、まさか本当に来るとはね。やっぱりあいつに書いてもらって正解だったな」
突如聞こえた背後からの声。急いで振り向くと、そこには目を疑うような人物が佇んでいた。いや、それを人物と形容していいのかはわからない。何せそれには牛のような顔に角、尻尾、馬のように細い足。とても現実とは思えないようなものが盛りだくさんのてんこ盛りだったから。
「そりゃあ固まるよな。でも指示に従ったっていうことは、了承ってことなんだろう?」
首元の黒い毛を風に揺らしながら、牛の顔が歪む。そしてその口が開かれるのと同時に、言葉が俺の耳に飛び込んでくる。
現実だった。夕日に照らされる濡れた鼻先。自然な動きで可動する牛の前足と尻尾、そして馬の後ろ足。表情を読む事は難しいが、しっかりとした質感を持つ牛の顔。その全てを染める黒は、まるで闇だ。
「な、なんだよお前……?」
「悪魔、とでも言っておこうかな」
俺の問いに、牛は気取った答えを返す。その表情は変わらない。敵意を向けられているのかどうかも分からない。だけど名乗られたその名前に、決して良いイメージは無い。
気付くと僅かに、膝が笑っていた。小刻みに揺れる足元に、視界も揺さぶられる。
「お、武者震いか? 頼もしいな」
一歩一歩、悪魔が近付く。きっと笑っているのだろう。
動けぬままされるがままに、腕に蹄を押し当てられる。死人のような冷ややかさが俺の体を駆け巡り、恐怖が辺りを支配する。
反射的に顔を逸らせば、鎮座する灰色のビル。換気扇が音を立てて回り、その足元には無数に転がるゴミ袋。じーっとこちらを見つめる、小さな猫。小汚い夕暮れの路地裏。
ここが俺の死ぬ場所なのか。相応しく無い、とも言い切れないが、やっぱり相応しくはない。
「それじゃあ頼んだぜ」
最後に聞いた声は、地獄よりも深い色をしていた。