第5話 もう一人
黒い水溜まりの中に立つ“それ”は、確かに自分の顔をしていた。
だが、表情は何も浮かべていない。
目は焦点を結ばず、口元だけがわずかに動いている。
「……お前は……誰だ」
問いかける声は、自分でも驚くほどかすれていた。
水面が小さく揺れ、“それ”の口がはっきりと開く。
「……上に、帰るな」
低く、湿った声。
耳に入った瞬間、全身の皮膚が粟立つ。
それは警告のようにも、命令のようにも聞こえた。
「どういう意味だ?」
思わず一歩踏み出す。
靴底が水を踏み、冷たさが足首を包む。
その瞬間――視界がぐにゃりと歪んだ。
裸電球の光が赤く滲み、廊下の壁が脈打っている。
水面に映る自分の顔が、にやりと笑った。
だが、目の前の“それ”は依然として無表情のまま、じっとこちらを見ている。
「……俺は……」
喉から声が出ない。
頭の奥で、何かを忘れている感覚が広がる。
名前、住所、仕事――一つずつ霧に包まれていく。
“それ”が、足元の水を波立たせながら近づいてくる。
距離はもう、数十センチ。
同じ顔が、目の前に迫る。
そして――その口が、もう一度だけ囁いた。
「ここは……お前の部屋だ」
耳元で響いた瞬間、背後から何かが自分の肩を掴んだ。
(つづく)