第1話 地下零階
築五十年以上は経っているだろうか。
外観だけで、そう直感できるほど、このマンションは古びていた。灰色の外壁には大小のひびが走り、錆び付いた手すりは風が吹くたびに小さく揺れる。
家賃は、相場の半分以下。
「……まあ、仕方ない」
仕事の都合で急遽引っ越し先を探していた自分には、選んでいる余裕などなかった。
エントランスと呼ぶには寂しすぎる入口をくぐると、カビの匂いと湿った空気が鼻を刺す。
管理人らしき老人が、事務所の奥から無言で鍵を差し出してきた。
「……あの、このマンション、何階まで……?」
問いかけても、老人は視線を合わせず、口元だけがかすかに動いた気がした。
返事らしい返事はなかった。
荷物を運び込むため、奥にあるエレベーターへ向かう。
錆びの浮いた鉄製の扉。黄色く変色した蛍光灯が、かすかに点滅している。
内部に入ると、壁の鏡は歪み、薄暗いせいで自分の顔がぼやけて見えた。
そして――ボタン列に目が留まる。
「……B0?」
並んでいるのは「1」「2」「3」「4」「5」。その上に「▲」と「▼」。
だが、1階の下にぽつんと「B0」と刻まれたボタンがある。
間取り図にも、マンション案内にも地下の記載はなかった。
古い建物だから昔はあったのかもしれない……そう思い、押さずに「5」を選んだ。
扉が閉まる。
ぎし、と軋む音とともに上昇が始まるが、すぐに耳が詰まるような感覚が襲った。
微かに、人の声のような……囁くような音も混じっている。
部屋に荷物を置き、夜を迎えた。
眠れず、外廊下の方から「カタン」と金属音が響く。
恐る恐る覗くと、誰もいない廊下の奥でエレベーターが動いていた。
数字表示は「4 → 3 → 2 → 1 → B0」。
その瞬間、廊下の蛍光灯が一瞬だけ消え、すぐに点いた。
翌朝、管理人に地下について尋ねたが、返ってきたのは「そんなものは無い」という一言だけだった。
夕方。買い物帰りに再びエレベーターへ乗り込むと、昨日と同じボタン列が目に入る。
だが今日は、B0のボタンが淡く光っている。
なぜか、手が勝手に伸びる。指先が、スイッチを押し込んだ。
――ぎしぎし、と鈍い音と共に下降が始まる。
階数表示は消え、真っ暗な箱の中で、冷気だけが足元から忍び寄ってきた。
扉が開く音がして――闇が、広がった。
(つづく)