七
# エピローグ:交差点で
豪雨から二週間後、渋谷スクランブル交差点。
午後六時半、人々が行き交う。プロローグと同じ場所、同じ時間帯。しかし、何かが違っていた。
三田陽介はいつもの場所でカメラを構えていた。しかし今回、彼のレンズは人々の顔に向けられていた。彼は一人の女性にカメラを向けた。
「いいですか?」彼は声をかけた。
女性は少し驚いたように見えたが、笑顔で頷いた。陽介はシャッターを切った。かつての彼なら決してしなかった行動だ。
「ありがとうございます」
彼はディスプレイで撮った写真を確認した。そこには女性の素直な表情が捉えられていた。三日前の面接で内定をもらった彼は、卒業制作の準備を始めていた。テーマは「交差点―人と人との出会い」。以前の彼なら決して選ばなかったテーマだ。
陽介は腕時計を見た。もうすぐ七時。彼は約束の場所に向かった。
***
川原琴音は渋谷駅前のベンチに座り、自分のインスタグラムを見つめていた。
「投稿しますか?」という表示の下には、彼女が先ほど撮った写真。いつものような加工された自撮りではなく、渋谷の裏通りで見かけた野良猫の姿。特に「映える」写真ではないが、彼女はその猫の表情に心を奪われた。
「本当に投稿していいのかな…」
彼女は躊躇っていた。しかし、そのまま「投稿」ボタンを押した。キャプションは「ありのままの渋谷 #nofilter」。
たった二週間で、彼女のアカウントは少しずつ変わり始めていた。完璧に見せるための投稿だけでなく、素のままの日常も混ざるようになっていた。フォロワー数は少し減ったが、コメントは以前より温かいものが増えた。
「琴音ちゃん!」
声がして顔を上げると、真央が手を振っていた。琴音は笑顔で立ち上がった。
***
鈴木健太は、道玄坂のライブハウス「CYCLONE」の前に立っていた。
「本当にいいのかよ」彼は隣に立つマスターに言った。
「ああ、いいんだ」真希のバーのマスターは渋い声で答えた。「空いてる日だけでいいから。お前のバンド、聴かせてみろよ」
健太は深呼吸した。真希のバーで働き始めて一週間。マスターは彼の音楽の話に興味を示し、空きがある日にライブハウスを使わせてくれると言った。元バイト先から追い出された同じライブハウスだ。
「今度は自分の音を鳴らせるんだな」
彼はポケットに手を入れた。そこにはもう悠の「地図」はない。雨で溶けてなくなってしまった。しかし、彼女の言葉は残っていた。「また弾くよ」。その言葉は現実になろうとしていた。
健太は時計を見た。「行くか」と呟き、マスターと共に歩き始めた。
***
西村真央は、会社帰りの電車の中で、スマホの画面を見つめていた。
画面には「辞表」というタイトルの文書。彼女は二週間考え抜いた末、決断した。大手保険会社を辞め、大学時代から興味のあった出版業界に転職する。内定は既にもらっていた。小さな編集プロダクションだが、彼女の書いた記事が気に入られたのだ。
「本当にいいのかな…」
彼女は不安もあった。しかし、もう後には引けない。昼の顔と夜の顔。二つの人格を使い分ける生活に、彼女は疲れていた。これからは「本当の自分」として生きたかった。「本当の顔を探せ」という悠の言葉が、彼女の決断を後押しした。
渋谷駅に着くと、彼女は深呼吸し、通勤バッグからハイヒールを取り出した。会社用のパンプスを脱ぎ捨て、ハイヒールに履き替える。地味なジャケットも脱ぎ、カラフルなストールを巻いた。
これが本当の西村真央。昼と夜を統合した、一人の女性。
彼女は約束の場所に向かって歩き始めた。
***
桜井翔太は、ノートパソコンの画面を見つめていた。渋谷のスターバックスの窓際の席で。
画面には新しいコードが並んでいた。「ConnectShibuya」と名付けられたプロジェクト。渋谷に住む人々のための地域SNSアプリ。この二週間で彼が作り始めたものだ。
```javascript
// 偶発的出会いを促進するアルゴリズム
function suggestEncounters(userData, locationData) {
// 共通の関心や経路に基づいて、偶然の出会いを設計
const potentialConnections = findPotentialConnections(userData);
// 地理的・時間的交差点の特定
const intersectionPoints = calculateIntersections(
potentialConnections,
locationData
);
return designMeaningfulEncounters(intersectionPoints);
}
```
彼の人間関係アルゴリズムは、形を変えていた。以前は「分析」のためのコードだったが、今は「繋がり」を作るためのコードになっていた。
翔太はコードをコミットし、ラップトップを閉じた。時計を見ると、約束の時間が近づいていた。彼は立ち上がり、カフェを出た。
***
田代悠の姿は、豪雨の夜以来、誰も見ていない。
彼女が本当にいたのか、五人の共通の幻想だったのか、それとも別の何かだったのかは、誰にもわからない。しかし、彼女の残した影響は確かだった。
渋谷の壁や電柱に描かれていた彼女の「標識」は、雨で洗い流された。しかし彼女の言葉は、五人の心に残り続けた。「点と点が線になる。線と線が面になる。みんな繋がってる」
時々、五人は渋谷の街で、フードを被った痩せた女性の後ろ姿を見かけることがある。しかし振り返ると、その姿はいつも人混みの中に消えていた。
***
スクランブル交差点のカフェ。
陽介、琴音、健太、真央、翔太。五人の若者たちが一つのテーブルを囲んでいた。豪雨の夜から二週間、彼らは時々こうして集まるようになっていた。
「で、健太くんの新しいバンド、いつライブあるの?」琴音が尋ねた。
「来週の土曜」健太は少し照れくさそうに答えた。「来てくれるなら、タダで入れるようにしとくよ」
「行く行く!」琴音は笑顔で言った。「インスタでも宣伝するね」
「翔太のアプリの進捗は?」陽介が訊いた。
「プロトタイプはできたよ」翔太はスマホを取り出し、画面を見せた。「でも、ユーザーテストしてくれる人が必要で…」
「私、手伝うよ」真央が手を挙げた。「出版社でアプリのレビュー記事も書けるかも」
「俺も協力するわ」陽介も言った。「写真の部分とか」
五人の会話は自然に流れた。たった二週間前までは互いを知らなかった彼らだが、今は確かな絆が生まれていた。表面的な付き合いではなく、互いの内面を知った上での関係。「水の下」での出会いが、彼らを変えたのだ。
「不思議だよね」翔太が言った。「僕の計算だと、私たち五人がああいう形で偶然出会う確率は、ほぼゼロに等しい」
「偶然じゃなかったのかもしれないね」陽介は写真を整理しながら言った。「悠さんがいたから」
「彼女、本当に実在したのかな」真央はコーヒーカップを回しながら言った。「みんなで見た集団幻覚とか…」
「実在したさ」健太は断言した。「あいつがくれた地図。あれがなかったら、俺たちは出会わなかった」
「でも、どこを探しても見つからないよね」琴音が言った。
五人は黙った。悠の謎は、彼らにとって共通の疑問だった。
「ねえ、もしかして…」琴音が突然言った。「あそこじゃない?」
彼女が指差した先、カフェの窓の外。スクランブル交差点を渡る人々の中に、フードを被った痩せた女性の姿があった。
五人は急いで立ち上がり、店を出た。しかし、信号が変わり、女性の姿は人混みの中に消えていた。
「見失った…」陽介が言った。
五人は肩を落とした。しかし、それはほんの一瞬だけだった。
「また会えるよ」健太が言った。「この街のどこかで」
「そうだね」真央も頷いた。「渋谷は意外と狭いから」
「それに、私たちはもう繋がってる」琴音が言った。「線になったんだから」
「面になるのはこれからだ」翔太が付け加えた。
陽介はカメラを構えた。目の前に広がるスクランブル交差点。無数の人々が行き交い、すれ違い、時に交わる。そこには目に見えない無数の「線」が存在する。人と人との繋がり。
「みんな、写真撮ろう」陽介は提案した。
五人は信号待ちの横断歩道で並んだ。背景はスクランブル交差点の人の波。陽介はカメラをセットし、タイマーをセットして仲間の輪に加わった。
シャッターが切られる瞬間、五人は笑顔を見せた。それは仮面のない、本当の笑顔だった。
写真には、スクランブル交差点を行き交う人々の中に、フードを被った女性の姿が小さく写り込んでいた。五人が気づくことはなかったが、彼女は確かにそこにいた。微笑みながら彼らを見守るように。
渋谷の街は、今日も無数の物語で満ちている。表面的には孤独で、退廃的に見える若者たちの中にも、確かな絆と優しさが存在する。それは時に「影」の中に隠れているが、確かにそこにある。
点と点が線になり、線と線が面になる。物語は終わらない。むしろ、始まったばかりだ。
(終)