六
# 第6章:水の下で
豪雨は渋谷の街を容赦なく叩きつけていた。
道路は小川となり、排水溝はあふれ、地下は水で満ちつつあった。夜10時を過ぎ、大半の人々は家路を急ぐか、バーやカフェで雨宿りをしていた。異常な雨量に、電車は遅延し、タクシーは長蛇の列となっていた。
7月末の予想外の豪雨。気象庁は警報を発令し、都市機能が麻痺しかけていた。
そんな中、六人の若者たちが、それぞれの理由で、渋谷の地下へと導かれていった。
***
三田陽介は、クリーニング店から出たところで豪雨に見舞われた。
明日の面接用のスーツを受け取った彼は、駅に向かおうとしたが、あまりの雨の激しさに足を止めた。スーツが濡れるのは避けたかった。彼はセンター街の入り口に避難し、雨が弱まるのを待った。
しかし雨は強くなるばかり。やがて地面の水位が上がり始め、陽介の足元まで水が迫ってきた。このままでは立っている場所も危険になる。
彼はクリーニング袋を頭上に掲げ、渋谷駅方面に走り出した。しかし、センター街の坂を下ると、そこは既に浅い川のようになっていた。足首まで水に浸かりながら、彼は前進した。
その時だった。水流の中に、カメラバッグが流されていくのが見えた。
「あっ!」
反射的に手を伸ばし、バッグをつかもうとした陽介は、勢いよく流れる水に足を取られ、転倒した。クリーニング袋が手から離れ、水の流れに飲み込まれる。
「くそっ!」
必死に立ち上がろうとした時、彼は激しい水の流れに巻き込まれていることに気づいた。道路の水が、どんどん排水溝へと流れ込み、彼もその流れに引きずられていた。
抵抗しようとしたが、水流は予想以上に強かった。彼は坂を転がるように流され、やがて大きな排水口へと飲み込まれていった。
真っ暗な空間。水音だけが響く。陽介は必死に何かにしがみつこうとした。
やがて彼の体は、渋谷川の暗渠へと流れ着いた。水は膝下ほどの深さになり、流れも穏やかになっていた。しかし、周囲は薄暗く、どこにいるのかわからない。
「ここは…?」
彼は立ち上がり、ずぶ濡れの体を震わせながら、周囲を見回した。薄暗い地下空間。天井からは水が滴り、壁には奇妙な記号らしきものが描かれている。どうやら渋谷の地下、渋谷川の暗渠に流されてきたようだ。
「誰かいませんか!」彼は叫んだが、反響するだけで返事はなかった。
陽介はスマホを取り出したが、水没して使えなくなっていた。彼は途方に暮れた。
その時、暗闇の奥から、かすかな光が見えた。
***
川原琴音は、渋谷のセレクトショップでのバイトを終え、帰ろうとしたところだった。
「琴音ちゃん、この雨だからタクシー代出すよ」店長が言った。「気をつけて帰りなさい」
「ありがとうございます」琴音は礼を言い、店を出た。
タクシー乗り場は長蛇の列。傘の海。琴音はため息をついた。明日は早朝から河川敷での撮影。インスタ映えする朝靄の写真を撮るための計画だった。でも、この雨では無理かもしれない。
「別の場所で待とう…」
琴音は人混みを避け、裏通りに向かった。そこなら人が少なく、タクシーを拾いやすいかもしれない。
裏通りに出ると、そこは既に水浸しだった。水は彼女の革靴を濡らし、足首まで達していた。琴音は立ち止まり、進むべきか戻るべきか迷った。
その時、背後から声がした。
「川原さん?」
振り向くと、同じバイト先の後輩、美月が立っていた。
「美月ちゃん、まだ帰ってないの?」
「はい、この雨で…あ、そっちの道危ないですよ。さっき警備員が通行止めにしてました。地下に水が溢れてるって」
琴音は振り返った。確かに、路地の先は水位が高くなっているように見えた。彼女は美月に感謝し、別の道を探すことにした。
「じゃあ、私こっちから行ってみる」
「気をつけてくださいね」
琴音は別の裏通りに入った。雨は一向に弱まる気配がない。彼女は立ち止まり、スマホで地図を確認した。現在地から最寄りの駅までの最短ルート。
彼女が画面を見ている間に、足元の水かさが増していた。気がつくと、水は膝下まで来ていた。そしてその水には、明らかな流れがあった。
「なに?これ…」
琴音は戻ろうとしたが、水流が彼女の足を引っ張った。彼女はバランスを崩し、叫び声を上げながら転倒した。スマホが手から滑り、水の中に消えた。
「やだ、助けて!」
しかし、雨音と雷鳴にかき消され、彼女の声は誰にも届かなかった。彼女は水流に引きずられ、路地の下の排水溝へと吸い込まれていった。
暗闇と水音。琴音は必死に何かに掴まろうとしたが、滑りやすい壁には手がかりがない。彼女は水路を流され、やがて少し広い空間に出た。
水の深さは腰ほどになり、流れも緩やかになっていた。彼女は何とか立ち上がり、周囲を見回した。昏い光の中、巨大な地下空間が広がっていた。古いコンクリートの壁と天井。壁には奇妙な記号が描かれている。渋谷川の暗渠だと気づくまでに時間はかからなかった。
「誰か…いる?」彼女の声は震えていた。
そのとき、彼女は水の向こうに人影を認めた。
「誰?」
「…琴音?」
見知った声。琴音は目を凝らした。
「陽介…さん?」
そこには確かに、三田陽介が立っていた。ずぶ濡れの姿で、彼も同じように流されてきたようだった。
「大丈夫?」彼は水を掻き分けて彼女に近づいた。
「ええ…でも、ここ…どうやって出るの?」
二人は困惑した表情で互いを見つめた。知り合いと出会った安堵感と、閉じ込められた恐怖が入り混じる。
その時、水音と共に、また別の人影が現れた。
***
鈴木健太は、雨が降り始めたとき、道玄坂の小さなバーにいた。
「真希、やっぱりバイト、やらせてもらうよ」
彼は友人の真希に告げた。親父との確執、クビになったバイト、バンド内の確執。すべてを抱えたまま立ち止まるより、前に進む方がマシだと思った。
「そう!良かった」真希は笑顔で言った。「じゃあ、明日マスターに紹介するね」
健太は頷き、店を出た。雨はすでに激しく、道は川のようになっていた。彼はフードを被り、渋谷駅に向かって歩き始めた。
途中、あの奇妙な女―田代悠との出会いを思い出した。彼女が言っていた「水の下での出会い」という言葉。そして彼女がくれた謎の「地図」。ポケットに手を入れると、濡れて柔らかくなった紙切れがまだあった。
健太は立ち止まり、その紙を開いた。雨で滲んではいるが、まだ図形は見える。迷路のような線と中心の音符のようなマーク。
「何だったんだろ、これ…」
彼は首を振り、歩き始めた。しかし数歩進んだところで、足元の水が突然増した。道路の排水溝から水が逆流しているのだ。
「マジかよ…」
健太は急いで高台に向かおうとしたが、足を滑らせ、転倒した。水流は予想以上に強く、彼は流され始めた。
必死で何かに掴まろうとしたが、滑りやすい路面では手がかりがない。健太はあっという間に水の流れに呑み込まれ、道玄坂を下っていった。
やがて彼は大きな排水口に流れ込み、渋谷の地下へと落ちていった。
暗い水路を流されながら、健太は諦めのような感覚に包まれた。「こんな終わり方か…」彼は思った。バンドも、バイトも、親父との関係も、何一つ解決できないまま―。
しかし、水路は次第に広がり、彼は大きな地下空間に流れ出た。水は腰ほどの深さで、なんとか立ち上がれた。
「ここ、どこだよ…」
健太は周囲を見回した。薄暗い空間、湿ったコンクリートの壁、天井からは水が滴り落ちている。
そして彼は壁に描かれた記号に気づいた。あの女、悠が描いていたのと同じ記号だ。丸と三角と直線。意味不明なパターン。
「まさか…」
健太はポケットから濡れた紙を取り出し、壁の記号と見比べた。似ている。いや、同じだ。中心のマークも同じ。
「これが…水の下?」
彼の声が空間に響いた。すると、返事があった。
「誰か、いるの?」女性の声。
「おい!こっちだ!」男性の声。
健太は声の方向に目を向けた。水の向こうに、二つの人影が見えた。
「誰だ?」健太は警戒しながら近づいた。
「鈴木…くん?」
声の主は川原琴音だった。セレクトショップでバイトをしている子。高校の時に少し知り合いだった女の子。そして彼女の隣には男がいた。健太は彼を知らなかった。
「川原…」健太は驚きを隠せなかった。「なんでお前がここに?」
「流されたの…」琴音は震える声で答えた。「あなたも?」
健太は頷いた。三人は奇妙な巡り合わせに言葉を失った。
***
西村真央は、オフィスビルの地下駐車場で雨宿りをしていた。
残業を終えて外に出たとき、想像以上の豪雨に驚いた彼女は、一度ビルに戻り、雨が弱まるのを待つことにした。駅までの距離を考えると、このまま出ていくのは危険だった。
地下駐車場で時間を潰している間、彼女は昨日出会った奇妙な女性のことを考えていた。「水の下で会える人がいる」という言葉。そして今日、桜井翔太と交わした会話。彼女は自分が「二つの顔」を持っていることを、彼にだけ打ち明けた。
「なんで彼に言ったんだろう…」
真央は自問した。会社では誰にも見せない自分の裏の顔。クラブで踊り、名前も素性も明かさず一晩だけの関係を持つこともある自分。それを会社の同僚に打ち明けるなんて、正気の沙汰ではなかった。
しかし、彼女はどこかで「本当の自分」を認めてほしかったのかもしれない。どちらも演じている自分ではなく、本当の自分を。
真央は地下駐車場の出口に近づき、外の様子を確認した。雨は一向に弱まる気配がなく、むしろ強くなっているようだった。地下駐車場の入り口付近には、すでに水が溜まり始めていた。
「まずいかも…」
彼女は駐車場から上の階に戻ろうとドアに向かったが、電源が落ちたのか開かなくなっていた。他の出口を探そうとした時、彼女は水の流れが急激に増していることに気づいた。
地下駐車場の排水溝から水が逆流し、床一面に広がっていた。あっという間に足首まで水位が上がる。
「助けて!誰か!」彼女は叫んだが、雨音にかき消された。
真央は必死に高いところを探したが、水は予想以上のスピードで増えていた。彼女は流されないようにコンクリートの柱に掴まった。しかし水流は強く、彼女の体は徐々に引きずられていった。
やがて彼女は柱から手を離し、水流に身を任せるしかなくなった。駐車場の排水システムに流され、彼女は渋谷の地下空間へと導かれていった。
「これが…最後?」暗闇の中、彼女は思った。「こんな終わり方…」
しかし、やがて彼女の体は大きな空間に流れ着いた。水の深さは減り、彼女は立ち上がることができた。
周囲を見回すと、古いコンクリートの壁と天井。薄暗い空間。渋谷川の暗渠だと彼女は気づいた。都市工学に興味があった友人から、かつての渋谷川が地下に埋められていることを聞いたことがあった。
「誰かいる?」彼女は恐る恐る声を上げた。
「こっちだ!」男性の声が返ってきた。
真央は声の方向に目を向けた。水の向こうに、三つの人影が見えた。近づいていくと、そこには見知った顔があった。
「桜井君?」
IT部門の桜井翔太ではなかった。しかし、その横には…
「西村さん?」
声の主は桜井ではなかった。知らない男だった。その横に立っていたのは、彼女が過去に社員研修でチームを組んだことのある田村という男性だった。そして、もう一人は…
「あ、セレクトショップの…」
真央は川原琴音を認識した。彼女が時々利用するセレクトショップの店員だ。世間は狭いとはいえ、こんな場所で顔見知りに出会うとは。
「みんな流されてきたの?」真央は尋ねた。
三人は頷いた。そして彼らは互いに自己紹介を始めた。三田陽介、川原琴音、鈴木健太、西村真央。四人の若者が、渋谷の地下空間で偶然出会ったのだ。
「ここから出る方法、あるかな…」陽介が周囲を見回した。
その時、また別の人影が水の中から現れた。
***
桜井翔太は、田代悠に導かれて渋谷の地下に入った。
「ここが…水の下の場所?」翔太は尋ねた。
悠は黙って頷き、先に進んだ。二人は狭い通路を進み、やがて広い空間に出た。かつての渋谷川の暗渠だ。壁には悠が描いたと思われる記号や図形がところどころに見える。
「ここで誰と会うの?」翔太は尋ねた。
「もうすぐ」悠は答えた。「水が彼らを連れてくる」
彼女の言葉通り、間もなく水の流れと共に人影が見えた。一人、また一人と。翔太は目を凝らした。
「西村さん?」
そこには確かに、西村真央の姿があった。そして、彼の隣にいた陽介も。カフェで会った写真家だ。
「桜井君?」真央は驚いた表情で言った。「どうしてここに?」
「彼女に導かれて…」翔太は悠を指差した。
そこには既に四人の若者がいた。互いに知り合いもいれば、初対面の者同士もいる。しかし、彼らは全員、渋谷という同じ街で生きる若者たちだった。
「君が…あの時の?」陽介が悠を見て言った。
悠は微かに頷いた。彼女は既に全員と何らかの形で接点があったようだ。
「水の下での出会い…」健太が呟いた。「これが、あんたの言ってた意味か」
悠は黙ったまま、彼らを見回した。
「私たちはどうすればいいの?」琴音が不安そうに尋ねた。「ここから出られる?」
「待つ」悠は短く答えた。「もう少し」
六人は奇妙な沈黙の中、互いの存在を確かめるように見つめ合った。全く異なる生活を送る彼らが、この異常な豪雨の夜に、渋谷の地下で偶然出会うなんて。それは統計的にほぼありえない確率だった。しかし、悠の言葉と行動を考えると、これは「偶然」ではないのかもしれない。
「なんでここに?」陽介が悠に尋ねた。「私たちをここに集めたの?」
悠は答える代わりに、壁に描かれた記号を指差した。
「繋がり」彼女は言った。「点と点が線になる。線と線が面になる。みんな繋がってる」
彼女の言葉は謎めいていたが、どこか真実を突いているようにも思えた。
「彼女、統合失調症かもしれない」翔太は小声で言った。彼は発達障害について調べる中で様々な精神疾患についても学んでいた。「でも…彼女の言うことには、独自の論理がある」
「あんたは私のこと分かってない」悠は鋭く言った。「でも、それでいい。誰も完全には分からない。西村さんは二つの顔を持ってる。鈴木くんは音楽を失った。三田くんは人を写せない。川原さんは偽りの自分を映す。桜井くんは繋がりを求めてる。みんな、何かを隠して、何かを探してる」
五人は息を呑んだ。彼女の言葉は的確に彼らの核心を突いていた。彼らが普段は誰にも見せない内面を、彼女はどうして知っているのか。
「あなた…私たちのこと、どうやって?」真央が震える声で尋ねた。
「見えるの」悠は静かに答えた。「みんなの本当の顔が見える。仮面の下の顔が」
地下空間に沈黙が広がった。六人は互いを見つめ合った。通常なら決して交わることのない彼らの人生が、この異常な夜に交差したのだ。
その時、突然、天井から大量の水が流れ込み始めた。豪雨がピークに達し、排水システムが限界を超えたのだ。
「やばい!水位が上がってる!」健太が叫んだ。
「あっちに階段がある!」翔太が指差した。「地上に上がれるはず!」
六人は急いで階段に向かった。悠だけが動かなかった。
「おい、早く!」健太が彼女の手を引っ張った。
「大丈夫」悠は微笑んだ。「これは終わりじゃない。始まり」
健太は彼女の手を引っ張りながら、「哲学してる場合じゃねえよ!」と叫んだ。
六人は急いで階段を上り、狭い通路を抜け、ついに地上に出た。彼らが出てきたのは宮下公園の端、普段は気づかれない小さな出入り口だった。
雨はまだ降り続いていたが、緩くなっていた。六人はずぶ濡れの姿で、深夜の公園に立っていた。
「無事でよかった…」陽介はため息をついた。
「みんな、大丈夫?」真央が周りを見回した。
全員が無事だったことを確認し、彼らはほっとしたように互いを見た。
「で、これからどうするの?」琴音が尋ねた。
「俺の家近いから、良かったら着替えとか…」健太が提案した。彼らしくない親切さだった。
「うちも近いわ」真央も言った。「女の子たちは私の家でいいんじゃない?」
彼らは互いの連絡先を交換した。普段なら決してそうしないはずの行動。しかし、この異常な体験を共有した後では、自然な流れだった。
「ねえ、悠は?」翔太が周囲を見回した。
六人であったはずが、いつの間にか五人になっていた。田代悠の姿はなかった。
「どこ行ったんだ?」健太も探した。
「さっきまで確かにいたのに…」陽介も不思議そうに周囲を見回した。
彼らは雨の中、公園を探し回ったが、悠の姿はどこにも見つからなかった。まるで最初から存在していなかったかのように。
「彼女、本当にいたよね?」琴音が不安そうに尋ねた。
「ええ、もちろん」真央は頷いた。「私たち全員が彼女と会った」
「彼女のおかげで、俺たちはここで出会った」健太は言った。
その言葉に、全員が黙って頷いた。
「渋谷ってさ」陽介がふと言った。「毎日何万人もの人が行き交ってるのに、誰とも本当には出会わないよね」
「でも、今日は違った」翔太は言った。「私たちは出会った」
五人は雨の中、互いを見つめた。全く異なる生活を送る彼らだが、この夜、彼らは何かを共有した。悠の言葉通り、点と点が繋がり、線になった瞬間だった。
「明日、会える?」琴音が提案した。「みんなで」
全員が頷いた。
彼らが別れる際、健太はポケットの中の紙切れを取り出した。悠が彼にくれた「地図」。雨でほとんど溶けてしまっていたが、中心の音符のようなマークだけはかろうじて残っていた。それは彼らが出会った場所を示していたのだ。
「水の下での出会い…か」健太は呟き、紙切れをポケットに戻した。
五人の若者たちは、雨の渋谷で別れ、それぞれの家路についた。彼らは自分たちが変わり始めていることをまだ自覚していなかった。
その夜、渋谷の地下で何かが始まった。点と点が繋がり、線になり、やがて面になる。彼らの物語は、まだ始まったばかりだった。