三
# 第3章:真央―二つの顔
西村真央の一日は、完璧に区切られていた。
平日の朝七時から夜六時までは、西村真央、24歳、大手保険会社の営業事務。ベージュのジャケットに膝丈スカート、控えめなパールのイヤリング。髪はきっちりまとめ、メイクは薄め。電車では『日経ビジネス』のアプリを開き、オフィスではExcelと向き合う。昼休みは同期の女子と500円のランチセット。上司には「はい、承知しました」と笑顔で頷く。
そして夜十時以降は、MAO、年齢不詳、渋谷のクラブに出没する自由人。派手なアイシャドウに真っ赤な口紅。髪は解き放ち、服はモノトーンで攻める。ハイヒールの音を響かせて歩き、バーカウンターではテキーラをストレートで飲む。知らない誰かと踊り、朝までノリ続けることもある。
二つの顔を持つ彼女は、どちらも「本当の自分ではない」と思っていた。
***
「西村さん、このデータ集計、明日の朝イチでお願いしてもいい?」
課長代理の本間が、一見笑顔を浮かべながらも、それが命令であることを暗に示す表情で言った。時計は午後5時50分。定時まであと10分。
真央は頬の内側を噛み、「はい、もちろんです」と澄んだ声で答えた。同時に頭の中では、見積もりを立てていた。約3時間はかかる作業。つまり9時にはここを出られない。今夜の予定は…
「すみません、本間さん。今夜は少し予定が…」
「あぁ、そう」本間はわずかに表情を曇らせた。「でも明日の経営会議に必要なんだよね。他に頼める人がいなくて…」
言葉の裏にある意味を読む。「他に頼める人がいない」は「お前しかいない」ではなく、「断れば評価に響く」という意味だ。入社2年目の真央には選択肢がなかった。
「わかりました、対応します」彼女は微笑んだ。メイドのような笑顔。自分でもうんざりする。
本間が去った後、真央はスマホを取り出し、LINEを開いた。
```
真央: ごめん、今夜行けなくなった。急な残業…
YUKI: マジか〜残念 (;´Д`) じゃあまた今度ね♡
真央: うん、ごめんね
```
YUKIは週末のクラブで知り合った友達だった。本名も素性も知らない。ただ音楽の好みが似ていて、時々一緒に遊ぶ関係。それでいいと思っていた。深入りしない関係。会社の人間関係とは切り離された、もう一つの世界。
真央はため息をつき、Excelを開いた。セルが無限に広がる白い画面。データを一つ一つ入力しながら、彼女は考えた。大学時代の自分は、こんな人生を想像していただろうか。文学部で村上春樹を読み、卒論では「現代社会における孤独と共感」というテーマで書いた。就活では「人の役に立つ仕事がしたい」と面接官に語った。今、人の役に立っているだろうか。Excelのセルに数字を入力することが、誰かの役に立っているのか。
「西村さん、お疲れ様」
部署の先輩、加藤が声をかけてきた。彼女は30代半ば、結婚指輪を光らせている。真央がこの会社で少しだけ心を許せる相手だった。
「残業ですか?」
「はい…」真央は曖昧に笑った。愚痴りたい気持ちをぐっと抑え込む。
「大変ね」加藤は少し声を落とした。「最近、体調とか崩してない?」
真央は一瞬、動きを止めた。そんなに顔に出ているだろうか。確かに最近は疲れがたまっていた。ウィークデイの仮面と週末の仮面、その狭間で本当の自分が少しずつ消えていくような感覚。時々、夜中に目が覚めて、自分が何者なのかわからなくなることもあった。
「大丈夫です」真央は習慣的に答えた。「ちょっと忙しいだけで」
加藤は何か言いかけたが、やめたようだった。「無理しないでね」そう言い残して、彼女は帰っていった。
オフィスはしだいに静かになっていく。残業組は真央を含め、数名。蛍光灯の下で、彼女は黙々とデータ入力を続けた。
ふと、スマホが震えた。LINEではない。Instagramの通知だった。
週末に出会ったDJ、TOMOからのDM。「今度の金曜、ageHaでプレイするよ。よかったら来ない?」
真央は小さく微笑んだ。金曜日は残業さえなければ行ける。真央は返信するのを少し待つことにした。すぐに返事をすれば、熱心すぎると思われるだろう。夜中に「ちょっと考えてみる」と返信しよう。駆け引きのようなものだ。それもまた、MAOという仮面の一部。
仕事に戻ろうとして、真央は自分の反射した姿をモニターに見つけた。昼の光で見る自分と、クラブの照明で見る自分。どちらが本当の自分なのか。もしかしたら、どちらも偽物なのではないか。
「お疲れ様です」
真央は反射的に振り向いた。ITサポート部門の桜井君だった。彼はいつもオフィスの片隅で静かに仕事をしている。同じ大学の後輩だということは知っていたが、会話らしい会話をしたことはなかった。
「あ、お疲れ様です」真央は社内モードの微笑みを浮かべた。
「あの…」桜井は少し言葉に詰まり、「プリンターのトナー交換したので、使えるようになりました」
「ありがとうございます」
桜井は何か言いたげな表情で立ち尽くしていた。真央は少し戸惑う。彼には何か特別な反応が必要なのだろうか。
「西村さん、同じ大学だったの、覚えてますか?」
突然の質問に、真央は動揺した。もちろん覚えていた。桜井翔太、文学部の後輩。一度だけゼミの合同発表会で彼のプレゼンを聞いたことがある。独特の視点と論理的な展開で、真央は密かに感心していた。でも直接話したことはなかった。会社では知らないふりをしていた。
「ええ、文学部でしたよね」真央は淡々と答えた。
「はい」桜井は少し嬉しそうに頷いた。「西村さんの卒論、拝見しました。図書館にあったんです」
この展開は予想外だった。会社の同僚が自分の学生時代に興味を持つなんて。真央は居心地の悪さを感じた。二つの世界が交わるような感覚。
「そうなんですか…」真央は曖昧に答えた。「もう内容もあまり覚えてないんですけど」
嘘だった。「現代社会における孤独と共感」。村上春樹とカート・ヴォネガットの作品分析。SNSがもたらす疑似的な繋がりと本質的孤独について。今の自分の生き方を予言するかのような内容だった。
「すごく面白かったです」桜井は真摯な表情で言った。「特に、仮面の下にある本当の自己を見出すことの難しさについての考察が…」
真央は内心で凍りついた。彼の言葉が鋭く胸に刺さる。仮面の下の自分。それを探している途中なのに、それを知っている人が目の前にいる。
「桜井君」真央は話を遮った。「ごめんなさい、急ぎの仕事があるので…」
「あ、すみません」桜井は慌てて引き下がった。「お邪魔しました」
彼が去った後、真央はキーボードに向かったまま、しばらく動けなかった。学生時代の理想に燃えていた自分と、今の二重生活を送る自分。その間には何があったのか。いつから自分は仮面をかぶり始めたのか。
その夜、真央は10時過ぎまで残業し、疲れ果てて帰宅した。自宅のドアを開け、玄関の靴を脱ぐ瞬間、昼の仮面を外す。でも、夜の仮面に変える元気もなかった。彼女はウィスキーのボトルを取り出し、小さなグラスに注いだ。
明日も同じ日常が繰り返される。そして金曜日の夜、彼女はまたMAOになる。
どちらの仮面も、少しずつ重くなっていた。