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# 第2章:健太―ノイズの中で


鈴木健太は、周囲の視線を無視するように頭を垂れたまま、センター街を歩いていた。


右耳に差したイヤホンからは、自分たちのバンド「NOISE COMPLAINT」の最新デモ音源が流れている。左耳はあえて空けておく。渋谷の喧騒と自分たちの音が混ざり合うのを聴くのが好きだった。街のノイズもまた音楽だ。


「くそっ」


ポケットの中でスマホが震える。また親父からだ。見なくてもわかる。出るつもりはなかった。三日前から実家に帰っていない。別に心配されるようなことはしていない。友達の家に泊まっているだけだ。まあ、「友達」と呼べるかどうかも怪しいが。


道玄坂を下りながら、健太は昨日のことを思い出していた。バイト先のライブハウス「CYCLONE」のマネージャーに「今日は来なくていい」と言われたこと。いつもなら月曜日は機材チェックの日だった。でも今月はもうシフトがないと告げられた。つまりクビってことだ。あのポンコツドラマーの忘れ物を勝手に使ったのがバレたのかもしれない。でもあいつ、使わせてくれるって言ったじゃねえか。マジうぜえ。


健太は道端の自販機で缶コーヒーを買った。財布の中身は500円玉と10円玉が数枚。バイト代が入るのは週末まで待たなければならない。いや、クビになった今、それも当てにならない。どうすんだよ、まじで。


夜九時を回った渋谷。ネオンと人の流れ。健太はふらりと路地に入り、知り合いのDJがよく出るクラブの前まで来ていた。火曜日だから空いているだろう。ドアマンに顔見知りのDJの名前を出せば、タダで入れるかもしれない。今夜は考えるのをやめたかった。音に身を委ねて、全部忘れたかった。


「健ちゃん?」


背後から声がする。振り返ると、高校時代の同級生、真希が立っていた。派手なメイクに金髪。でも目は優しい。不良グループのリーダー的存在だった彼女が、健太にだけは優しかった。いつも保健室で一緒だった。健太が学校に行けなくなった後も、LINEだけは続いていた。


「マキ…」


「久しぶり!元気そうじゃん」


健太は曖昧に頷いた。元気なわけがない。でも弱音を吐くのは違う気がした。


「バンドは?」


「ああ、まあ…」健太は歯切れの悪い返事をする。最近メンバーとうまくいっていない。ボーカルとベースはバンドの方向性で対立している。健太のギターはその間で宙ぶらりんだ。


「今夜、うちのバーに来ない?」


真希が言う。彼女は道玄坂の小さなショットバーでバーテンダーをしているらしい。健太は少し迷った後、頷いた。クラブで騒ぐ気分でもなかった。


うつむいて黙々と歩く健太の横で、真希は楽しそうに話し続けていた。高校時代の仲間の近況。自分が働くバーのこと。彼氏との同棲の話。健太は時々相槌を打つだけ。真希は気にせず話し続ける。彼女はいつもそうだった。無理に話させようとしない。ただそばにいてくれる。


「着いたよ」


真希に案内された先は、道玄坂の路地裏にある古いビルの2階。看板もないような小さなバーだった。中に入ると、カウンターに座る客は2人だけ。奥ではDJがローファイなビートを流している。照明は暗く、壁には地元アーティストの作品が飾られているようだった。


「マスター、友達連れてきたよ」


真希はカウンター越しの太った中年男性に声をかける。マスターは無愛想に頷くだけだった。


「今日はバイト?」健太が聞く。


「私はフリーよ。ただの常連」真希は笑いながらカウンターに座った。「なに飲む?」


「金ないから…」


「いいよ、おごる。ね、マスター」


マスターは何も言わず、カクテルを作り始めた。


健太は周囲を見回した。ここなら誰にも見つからない。親父にも、バンドのメンバーにも、バイト先のマネージャーにも。この暗い照明の中で、しばらく自分を消せる気がした。


マスターが出してくれたのは、琥珀色の液体が入ったショートグラスだった。一口飲むと、甘さの後に喉を焼くような辛さが広がる。少し息が楽になった気がした。


「健ちゃん、最近どう?」


真希の問いかけはいつも直球だ。高校時代から変わらない。健太は答えに詰まる。「最近」なんて言葉で括れるほど単純じゃない。でも、どこから話せばいいのかわからない。「バイト、クビになった」と口にした瞬間、胸の奥に溜まっていた何かがほんの少しだけ解けた気がした。


「そっか。大変だね」


真希は詮索しない。それがありがたかった。健太はグラスを傾け、残りを一気に飲み干した。


「もう一杯いい?」


二杯目を前に、健太は少しずつ話し始めた。クビになったこと。バンド内の対立。実家に帰れない理由。親父の再婚相手との折り合いの悪さ。高校を中退した後のフリーター生活。音楽への夢と現実のギャップ。


話せば話すほど、言葉が勝手に出てくる。普段は誰にも話さないことを、ここでは話せた。真希は時々頷くだけで、じっと聴いていてくれる。


「もう、どうしていいかわかんねえよ」健太は三杯目を前に呟いた。「このまま行けば、俺、親父みたいになるんじゃないかって…」


「ならないよ」真希は静かに言った。「健ちゃんは、健ちゃんだから」


あまりに単純な言葉なのに、胸に刺さった。健太は目を逸らした。泣きたくなかった。弱音を吐いた自分が情けなく思えた。


「あのさ、うちでバイトしない?」


唐突な真希の提案に、健太は目を丸くした。


「ここで?」


「うん。週3でいいなら。マスターに話しておくよ」


「でも、俺…」


「大丈夫、簡単な仕事だから。グラス洗ったり、在庫管理したり」真希は微笑んだ。「それに、たまにはDJブースも使えるよ。健ちゃんの音楽、聴かせてよ」


健太は言葉に詰まった。喉の奥が熱くなる。最近、誰も自分の音楽に興味を示してくれなかった。バンドのメンバーでさえ。


「考えとく…」健太はそう答えるのが精一杯だった。本当は今すぐ「やる」と言いたかった。でも、簡単に救われるのも違う気がした。自分はそんなに弱くない。そう思い込みたかった。


マスターが無言で四杯目を差し出す。健太はそれを受け取り、一気に飲み干した。喉を焼く感覚と共に、心の奥に灯る小さな希望。それが心地よかった。


「ところで、さっきから何見てんの?」真希が健太の視線の先を見た。


健太が無意識に見ていたのは、カウンター越しに見えるDJブースの近くに座る女性だった。黒髪をまとめ上げ、仕事帰りのような服装。でも表情は疲れている。一人で黙々と酒を飲んでいた。


「あの人、なんか…」健太は言葉を探した。「俺みたいな顔してる」


「へえ」真希は興味深そうに見つめた。「話しかけてみれば?」


「バカ言うな」健太は首を振った。「俺みたいなのが話しかけたら、引かれるだけだろ」


真希は肩をすくめ、「そんなことないと思うけどね」と言った。


その時、女性が席を立った。会計を済ませ、バーを出ようとしている。通りがかりに健太の肩が彼女のバッグに触れた。


「すみません」女性は小さく謝った。


健太は無言で頷いただけだった。女性の目が一瞬、健太と合う。疲れた目だった。でも強さもある。健太はその目が気になった。


女性がバーを出た後も、その存在感が残っていた。健太は何か言いたかったが、言葉にならなかった。


「あの人、たまに来るよ」真希が言った。「いつも一人で。名前は知らないけど」


健太は黙ったまま、空のグラスを見つめていた。この街には、自分と同じように何かを抱えている人がたくさんいる。それがなぜか、少し救われる気がした。ほんの少しだけ。


「そろそろ行くわ」真希が立ち上がった。「バイトのこと、考えといてね」


健太は曖昧に頷いた。真希は肩を軽く叩き、店を出て行った。


残されたカウンターで、健太は静かに五杯目を飲んだ。頭の中でメロディが浮かんでいた。久しぶりに浮かんだメロディ。真希のこと、今夜出会った女性のこと、自分自身のことを重ねたような旋律。


彼はスマホを取り出し、ボイスメモを起動させた。誰にも聞かせるつもりはなかった。でも、今の気持ちを残しておきたかった。


健太はマスターに会釈し、店を出た。夜の渋谷は相変わらず人であふれていた。彼は人混みに紛れ、行き先も決めずに歩き始めた。スマホに着信が入っていることには気付いていなかった。


画面には「親父」の文字と、留守電のマークが点滅していた。

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