一
## プロローグ:交差
午後七時十三分、渋谷スクランブル交差点。
信号が変わった。
人の波が、それぞれの方向から一斉に流れ出す。交わり、すれ違い、時に衝突する。スマートフォンの青白い光が顔を照らす無数の表情。誰も見上げない空には、夕暮れの名残りがまだ薄紫色に滲んでいた。
陽介は定点観測するように人混みの中央に立ち、ファインダー越しに人々を切り取っていた。無意識に脳内でシャッタースピードを計算する。光の加減と雑踏のざわめき。ピントの合う瞬間。そのどれもが、彼の目の奥の虚ろさを埋めてはくれなかった。
「あと三社、明日までには…」
真央は群衆をかき分け、スマホを片手に急ぎ足で横断歩道を渡っていた。左手にはコンビニの袋。中身は適当に選んだサラダとプロテインバー。エントリーシートの推敲に深夜までかかるかもしれない。そのことを考えると、胸がぎゅっと締め付けられる感覚。彼女は無意識に足早になった。午後十一時からは、別の顔を持つ自分の時間が始まる。
健太はハチ公前に座り込み、誰かを待っているふりをしていた。実際は誰も来ない。黒く染めた前髪が目元を隠す。バンドのメンバーにラインしても既読無視。バイト先からは「今日は来なくていい」と一方的に告げられた。どうせ誰も自分なんか—。タバコを咥えて火をつけようとし、禁煙標識に気づいて舌打ち。
「残り三つのバグを修正して、あとはデプロイするだけ…」
翔太は人の流れに逆らわないよう気をつけながら、頭の中でコードを組み立てていた。目の前の現実よりも、頭の中のロジックの方が理解しやすい。渋谷という街のアルゴリズムは複雑すぎる。彼は急いでセンター街の方へ歩を進めた。いつものカフェなら、落ち着いてコードが書ける。
琴音はハチ公口の柱に寄りかかり、自撮りのベストアングルを探していた。背景にスクランブル交差点の夜景を入れて、「今日も渋谷で撮影会 #photography #shibuyacrossing #nightview」。インスタにアップすれば、少なくとも100いいねは稼げるだろう。そう計算しながら、彼女は誰にも見えないため息をついた。
五人は、それぞれの道を行く。交差し、すれ違い、気づかない。渋谷の風が、彼らの間を吹き抜けていった。
## 第1章:陽介―シャッターの向こう側
三田陽介は、渋谷の雑踏の中に立って、誰も撮らないカメラのシャッターボタンを押していた。
ファインダーをのぞく。構図を決める。シャッターを押す。そのルーティンが、彼を現実に繋ぎとめていた。宮益坂を上る人々の後ろ姿。センター街の喧騒。タワーレコードに並ぶ若者たち。どれもが彼にとっては風景でしかなかった。
自分も風景の一部になれたら楽なのに。
「あれ、三田くん?」
声の主は大学のゼミの友人、工藤だった。髪を七三に分け、黒縁眼鏡をかけている。すでに内定をもらっているらしい。胸元の就活用ネクタイが微かに緩んでいる。
「やっぱり写真撮ってるんだ。就活は?」
言葉の裏側に見える視線。焦りへの同情と、自分はもう安泰だという安堵。それらが混ざり合った微妙な表情を、陽介は一瞬で読み取った。カメラマンの習性だった。
「まあ、そこそこ。来週また二社ほど面接」
口から出る言葉は薄っぺらいと自分でも思う。実際には落とされ続けている。しかし表面上の会話は、いつもどおりのなぞりをたどる。
「そっか。がんばれよ」
工藤の言葉に頷いて見せる。お互い適当な言葉を交わし、別れを告げた。
陽介はスマホを取り出し、新しく届いたリクルーターからのメールをチェックする。今度はデザイン系の企業。写真が活かせるかもしれない。その一行に、かすかな希望を見出す自分が情けなかった。本当は風景写真で食べていきたいと思っていた学部二年の夏。あの頃の熱は、いつの間にか冷めていた。
「意味あんのかな、これ」
ボソリとつぶやき、カメラのSDカードをチェックする。今日撮った写真は132枚。どれも似たような渋谷の風景。どれも人の顔にピントは合っていない。下北沢の小さなギャラリーで個展を開いた先輩は、「お前の写真には人がいないな」と言った。人を撮らないのではない。撮れないのだ。
渋谷駅に向かって歩きながら、陽介は就活用のスーツが入ったクリーニング袋の存在を思い出す。明日の面接に着ていくつもりだった。取りに行くのは今しかない。面倒くさい気持ちを振り払い、駅前のクリーニング店に向かった。
店内は蛍光灯の白い光で満ちていた。カウンターに近づくと、見覚えのある後ろ姿が目に入る。黒髪を肩上でまとめた女性。クリーニング店のアルバイト店員と何か話している。
「いや、これ私のじゃないです。私が出したのはグレーのワンピースで…」
女性の声は落ち着いているようで、微かに震えていた。店員は困惑したように頭を掻き、「お預かりした記録がありますが、現物が見つからなくて…」と言葉を濁す。
女性は深く息を吐いた。「明日どうしても必要なんです。就職の面接で…」
陽介は無意識に一歩前に出ていた。彼女の横顔が見える。きれいな横顔だった。困惑と焦りが入り混じっている。陽介は彼女の表情を瞬時にカメラに収めたかった。でも、それは無神経すぎる。そう思いとどまるが、何かしなければという気持ちは消えない。
「あの、すみません」
自分の声が聞こえた。女性と店員が同時に振り向く。
「もし明日スーツが必要なら、僕も明日面接で…その、何か力になれるかも」
言いながら、自分の行動に驚いていた。なぜ見知らぬ人に声をかけたのか。普段の自分らしくない。
女性は一瞬、戸惑ったような表情を見せたが、すぐに微笑んだ。
「ありがとう。でも大丈夫です。なんとかなりますから」
そう言って彼女は軽く頭を下げ、店を出ていった。陽介はその後ろ姿を見送り、何か言葉をかけようとしたが、結局は何も言えなかった。彼女が見せた微笑みの裏側にある感情を読み取れなかった自分が、急に不甲斐なく思えた。
陽介は自分のスーツを受け取り、駅へと向かった。電車の中で携帯のギャラリーを開く。今日撮った写真の中に、渋谷スクランブル交差点の雑踏の中で一人だけぼんやりと立ち止まっている女性の姿があった。顔ははっきり写っていないが、クリーニング店の彼女に似ている気がした。ただの偶然だろうか。
彼はその写真を拡大して、彼女の表情を探った。ピントが合っていなくてよく見えない。だが、どこか虚ろな表情をしているようにも見えた。誰にも気づかれない孤独を抱えているような—。まるで自分と同じように。
東急田園都市線の窓に自分の顔が映り込む。疲れた表情。誰にも見せない素顔。陽介はカメラの電源を切った。明日の面接のことを考えなければならない。しかし頭の中は、あの女性の表情でいっぱいだった。
***
深夜二時十三分。川原琴音はベッドに横たわり、インスタグラムの通知を眺めていた。
今日投稿した渋谷の写真には、すでに136のいいねがついている。ちょっとした達成感と空虚さが同時に押し寄せる。「いいね」の向こう側には、何があるのだろう。本当の自分を見ている人は、誰一人としていないのに。
琴音はスマホを胸の上に置き、天井を見つめた。明日のセレクトショップでのバイト。再来週の美大の課題提出。それから例のオーディション。全部こなせるだろうか。そもそも、何のためにこれらのことをしているのだろう。
彼女は横を向き、枕に顔を埋めた。インスタに投稿していない、この瞬間の自分の表情。誰にも見せられない、弱さと疲れの入り混じった素顔。
スマホの画面に、明日のアラームが表示されていた。「6:30 AM - 朝の撮影 渋谷川沿い」
琴音はため息をついて目を閉じた。投稿用の完璧な朝の一枚を撮るため、また早起きしなければならない。演じ続ける自分に、少しずつ疲れていた。
今日クリーニング店で見かけたカメラを持った青年の姿が、ふと脳裏をよぎる。彼の目には何が映っているのだろう。きっと自分の見ている世界とは違うものが—。
琴音は考えるのをやめた。眠りに落ちるまでの間、彼女は誰でもない自分でいられる。それだけが、今の彼女の救いだった。