7話 因果応報
私は二人の話し合いの経過など無視して、穂之木君の隣に座った。彼は私を見て待ちかねたぞと言いたげな表情をしている。もう少し、急いで来るべきだったか。
一方で父親といえば、苦虫を噛み潰したような顔だ。久しぶりに見る顔だったが、これほどの不機嫌さも珍しい。そうさせたのは私だけれど。
そう思っていると父親が重々しく口を開いた。
「どうしてお前がここにいる? 呼んだ覚えはないのだがな」
「車が停まっておりましたので、家人に問いただすと白状したのですよ。お父様からの薫陶が行き届いている証拠でしょうね」
皮肉をこめて私が返すと、不満げに父親が鼻を鳴らす。
本当は違う。私は家人に問いただしたりなどはしていない。契約婚を結んだあの日の夜に、私は動いていただけなのだ。
あの時、出かけた時より、さらに暗い夜道を一人で歩いていたが、行きとは違って、帰りは心が浮き立っていた。
定められた道筋を走らされるだけだった私が、自分で進む先を決めることができる。あれほど晴々とした気分を覚えたことはない。
足取りが軽くなるなかで、すぐに屋敷が見えてきたのを覚えている。そうして、出かけた時と同じように、私は木戸の中へ呼びかけたのだ。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「ああ、今戻ったよ。ご苦労様」
出掛けたときとは違う門衛が姿を見せる。彼は私の顔を見るなり、夜間の外出、支払いをツケる不行状をたしなめてくる。
「お嬢様、ご当主様に逆らうような真似はお止めになった方が……お為になるとは思えません」
「大丈夫。それにその甲斐があってね。今日はいい気分だよ」
「それでも心配です……」
気の置けない門衛が木戸に閂を掛けながら私に言った。昔からそうだったが、彼は相も変わらず心配性らしい。
表だって、周りの意に反して、動いてくれるわけではないが、自分のできる範囲で昔から手助けをしてくれている。
幼かった私がどれだけ勇気付けられたか、彼は知っているのだろうか? いつかお返しできればいいのだけれど。だけどお返しの前にもう一つ貸しを作らなければならない。
「すまないが折り入って頼みがある」
「私にできる事であれば……」
そう自信なさげに言う彼に私は頼み事を話す。
「恐らく二、三日以内にお父様を訪ねて客人がやってくる。その時、私に教えてほしい」
「それは大事な……ご用件なのでしょうか?」
言葉に出さず、私は黙ってうなずく。
「承知しました。ではもうお行きください。誰かに見られてはお互いに不都合でしょう」
確かに誰かに見られては面白くない。悪巧みなんて知るものが少ないほうが良いのだから。頭を下げて番小屋に戻る門衛を一瞥してから部屋へと戻った。
寝支度を調えて床に入ったが、心がそわそわと落ち着かない。年甲斐もなくというのか、それとも年相応なのか。不安や高揚するものが忙しなく湧き上がっているのだ。
穂之木君は恐らく数日以内にやって来るだろうと言っていた。結婚への賛同は無理としても、最低限、婚約は狙いたい。だが場合によっては門前払いもあり得る。その間に、別の話をねじ込まれれば、私たちの謀りはご破算だ。
それでも対面さえ叶えば、やり様はあるとは思う。例えば、私を除け者にして断ろうとしても、その場に直接乱入して押し通すなどだ。その場合、穂之木君は本人、つまり私から承諾を得ていると言い張ることができるだろう。
父親を前にしたわずかの間、私は数日前のことを思い返していた。
今の所、私たちの目論見は思うように進んでいる。ならば、もっと勝ち筋を引き寄せるべきだ。
「お父様、席を立たれるにはまだ早いかと。それともこの結婚にご承知、ということでよろしいでしょうか?」
「馬鹿な、お前の勝手な行動を許すはずがなかろう。今お引取りを願っていたところだ。お前が来たとて結論は変わらぬ」
父親から私へと不同意が投げかけられる。しかし、私はそれには応えない。応えたのは、
「斎木殿、先ほどは香耶さんのお気持ちを慮るような言い様でありましたが、不承知ということは先ほどの発言は虚言で?」
穂之木君がすかさず父親の揚げ足を取りにかかった。可ならばそのまま隙に、否でも穂之木を軽んじたとこじつけることができる。なかなか上手いと、口角が上がりそうになる。
「そうではない、もちろん私とて娘の気持ちは尊重したい。なれど家を、当主の意向を軽んじることは穂之木家でも許されないはずだ」
しかし、そうと認めるわけがない父親の、可否のどちらでもない言葉を受けて、今度は私が切り返す。
「あら、お父様は私を家族と思われていたのですね。幼きあの日の折より、とうに娘とは思っていないものと」
そう突きつけてやると父親の顔が硬直した。父親は私がやらんとすることに気付けるだろうか?
「香耶さん、それは?」
どういう扱いを受けていたか、半ば知ってはいるだろう穂之木君があえて聞いてくる。私の過去を詳らかにすることで、私たちは流れを一気に掴むことができるはずだ。
「他人に聞かせるものではない!」
父親の制止しようとする言葉が差し挟まれるが、今さら私の口が止まるわけもない。
私は父親の十年前の発言を思い返す。
過去の発言が失言となって返ってくることを誰が予想できるだろうか。私の脳裏に、あの日、投げかけられた言葉が蘇った。
「香耶、お前など娘ではない。お父様はそう仰ったのですよ」
場がシンとする。二人に言葉はなかったけれど、思うものはそれぞれの顔に浮かんでいる。父親は顔を引きつらせ、穂之木君は驚いたような顔をしている。
そして、固まった空気の中、切り出したのは穂之木君だった。
「斎木殿! これはどういうことですか!? 先ほどから娘大事を理由にしておきながら実際には虐待していたという! 私を愚弄されるおつもりか!」
父親の非を鳴らすかのように穂之木君が食って掛かった。
「い、いや、それは…………の、娘の誤解なのだ」
ここに至って、平静を保っていた父親がようやくうろたえ始める。けれど出てくる言葉は途切れ途切れで、言い訳にならないものばかり。
「それから私はお父様の意を受けた使用人たちから侮られ、時には暴力を受ける日々でした」
「私はそのような事を指示していない!」
「ではお母様の指示でしたでしょうか?」
確かに指示をしてはいないかもしれない。両親の私に対する態度で、使用人たちが勝手をした可能性もある。けれど、実際に行われていた以上、両親がそう指示をした可能性も否定できない。
「妻もそんなことは、していない……」
弱々しく否定する父親に説得力は感じられなかった。
父親のそんな姿を見て、私はもう、十分だろうと隣の穂之木君に眼を向ける。彼も私の意を解したように頷いた。
「お話はよく分かりました。斎木殿が香耶さんをどう扱っていたかも。ひとまず香耶さんを当家で預からせていただきます。よろしいですね?」
「勝手な真似を……!」
「では斎木の醜聞を表沙汰にしますか? 私は構いませんよ」
名家は体面や名分を重んずるという。この父親にもやったことが暴露されることを忌避したい気持ちがあったらしい。今度こそ父親は沈黙する。恨めしげに私と穂之木君を睨み、それから何も言えないかのように顔を伏せた。
「行こう、香耶さん」
差し出された手を取って、私と穂之木君はその場を後にする。
最後に振り返ると、父親は私たちを見ることなく、最後まで顔を伏せていた。