7
終わってみれば、あっという間の七日間だった。ヒトと精霊が入り混じる此度の《プリマ・マテリアの祝宴》は、何事もなく無事に、盛況のうちに幕を閉じた。
その間、アマーリエがエストレージャと顔を合わせることができたのは一度きり。初日だけだ。けれどそれだけで十分だった。残りの六日間のことなんてほとんど覚えていない。ずっと夢を見ているような気持ちで、アマーリエは残りの《祝宴》の日々を過ごし、そうしてまた日常が戻ってきた。
今日も今日とてアマーリエは、お針子として作業台に向かい、ちくちくと縫い針を動かしていく。やはりお針子という仕事は、自分にとても向いているのだと思う。「伯爵令嬢たる者が、貴族の誇りを捨ててお針子風情に身をやつすなんて!」と面と向かって言われたこともあるが、正直なところまったく気にしていない。自分が作った衣装が誰かの喜びになれるのならば、それはとても素敵な、大層素晴らしいことだと思えるのだ。
だからこそ今日もおしゃべりな同僚達のにぎわいの中で、黙々と針を動かしている。そう、《祝宴》を前にしたときの、目の回るような忙しさは、もうとっくに解消されている。それなのに、自分でも驚くほど根詰めて、なんなら同僚の仕事を奪いかねない勢いで次から次へと仕事に臨む、その原因は。
――エストレージャ様……。
その名前を思い浮かべるだけで、胸がぎゅうっと締め付けられる。必死になって考えないように、思い出さないようにしているのに、ふとした拍子に彼の優しい微笑みや穏やかな声、それからあの熱いまなざしがよみがえり、もうどうにもこうにもならなくなってしまう。
――本当に、期待しても、いいのかしら。
――勘違いじゃないって、思っても、いいかしら。
彼が、自分のことを、もしかして好ましく思ってくれているのではないかと、そう、うぬぼれてもいいだろうか。そんなとてつもなくおこがましい想いが、彼のことを想うたびに首をもたげるのだ。アマーリエは自分のことを敏い人間であるとは思っていないが、同時に鈍い人間であるとも思ってはいない。エストレージャの一挙一動が、『もしかして、もしかしなくても』と、アマーリエの切なる願いを裏付けていく。
ミモザアカシアに託した秘密を、彼に打ち明けたい。彼にその秘密を、受け止めてもらいたい。そんな御大層な想いが募りに募って、何もかも手につかなくなりそうだからこそ、仕事に没頭するより他はないのである。
――こんな不埒な理由で仕事に臨むのは、不謹慎よねぇ……。
それでもこの針仕事だけが、今のアマーリエを癒しなぐさめてくれる、唯一の相談相手だった。ちくちくと針を動かすたびに心が落ち着いていくのを感じる。やはり天職だ。これでも一応伯爵令嬢なのでそろそろ、もう本当にそろそろ縁談相手を見つけて帰郷しなくてはならないことは解っているが、この仕事は手放しがたい。
――未来の旦那様を見つけて帰ってきます、って、啖呵を切ったんだっけ。
この調子ではやはり帰郷する日はまた遠くなりそうだ。それに王都を離れがたい理由はそればかりではないのだから。その『未来の旦那様』という立場に、エストレージャが立ってくれたら……なんて、途方もない望みを抱いてしまう。かなうはずがないのに。彼は姫君の守護者で、王都を離れられない。けれど、それでもなお、あのまなざしを思い出すと、「もしかして」と期待してしまう。彼もまた、アマーリエを、なんて、勘違いしてしまう。ああもう、針仕事すら手につかなくなってしまいそうだ。勝手に一人で盛り上がっている自分がいかに滑稽なのか、自分が一番理解している。それでも、それでも――――……。
「……リエ、アマーリエ。こら、アマーリエ、戻ってこい!」
「あたっ!? え、あ、はいっ!」
突如頭を軽く何かで叩かれて、アマーリエは反射的に姿勢を正した。何事か、とそちらを見上げると、アマーリエの頭をはたいたらしき帳簿を片手に持ったこの作業場における監督が、あきれ顔でこちらを見下ろしている。どうやら彼は随分と長らくアマーリエに呼びかけてくれていたらしい。そのことにやっと気付いて、慌てて立ち上がって一礼すると、上司は「仕事熱心なのはありがたいがな」と苦笑した。
「あんまり頑張りすぎるんじゃないぞ。それで身体を壊したら元も子もないじゃないか」
「だ、大丈夫です! 丈夫さには自信があるので!」
「それでも、だ。それに、お前さんが身体を壊したら、悲しむお方がいらっしゃるだろう。いつもの帰り道をお一人で歩かせるなんて真似、俺達は許さないからな?」
「っ!」
からかいまじりに続けられた言葉に、一気に顔が赤くなる。監督の言う『そのお方』が誰なのかなんて、名指しされなくたってすぐに解る。周囲の同僚達が、「そうよ、アマーリエ!」「あの方を悲しませたら僕達は黙ってませんからね」なんてヤジを飛ばしてくるのがまた恥ずかしくて、ついうつむいてしまう。
そんなアマーリエを微笑ましげに見つめてくる監督は、そうしてその手の帳簿を開き、アマーリエの目の前に突き出してきた。ぱちりと瞳を瞬かせてそれを見遣れば、そこにはこの作業場の従業員達の名前と、勤務時間が記されている。もちろんアマーリエの名前も、そこにある。
「アマーリエ。お前さんが申請していた長期休暇、通ったぞ」
「えっ?」
「……まさか忘れていたのか?」
「あ、いえその……はい」
こっくりと頷くと、またしても溜息を吐かれてしまった。しかし反論の余地はない。
そういえばそうだった。もともと《祝宴》が終わったら長期休暇を取って里帰りをしようと思っていたのだ。山積みの依頼をこなす中で走り書きで提出したその休暇申請が、いよいよ受理された、ということらしい。そんなことすっかりさっぱり忘れていた。
改めて差し出された帳簿を受け取って、自身の名前の欄を見ると、休暇の日程はもうすぐそこに迫っていて、しかももともと申請していた期間よりも長い。あら? と首を傾げると、また監督は苦笑した。
「四年間もほとんど休んでいなかったんだ。伯爵令嬢サマにそうさせてしまった俺達に非があるからな、色を付けておいた。もちろん有給だ。帰郷するつもりなんだろう? 久々にゆっくりしてこい……と言いたいところだが、そのままこっちに戻ってこなくなるのはやめてもらいたいな。お前さんの腕は、王都から出すには惜しすぎる」
うんうんと頷く監督に、今度はアマーリエが苦笑する番だった。随分と買ってくれているものだ。ありがたく面映ゆく、そして素直に嬉しい。
それにしても、そうか、長期休暇で帰郷する、のか。久々に家族に会えるのはもちろん喜ばしいことだけれど、同時に王都を離れがたいと思う気持ちもあるのは事実だった。だって……と、そう内心で続けようとしたアマーリエのその台詞をすくい上げるように、くつくつと監督は喉を鳴らす。
「守護者様との帰り道デートの機会が減ってしまうのは、お前さんにはさびしいことだろうがな」
「ちょっ! 監督!」
「ははは、若いとはいいことだ。お前さん達を見ているとしみじみ感じるよ」
再び赤くなって声を上げるアマーリエの肩を叩いて、楽しげに監督は笑う。周囲を見回せば、同僚達も似たようなものだ。《祝宴》以来、アマーリエの様子がおかしいことに、彼らは気付いていたらしい。これはもう完全に、「《祝宴》をきっかけにとうとうアマーリエが守護者様と……!」と思われているようだ。実際はまったくそんなことはないのに。まだ想いを伝えてすらいない。ただアマーリエが「もしかして」と期待しているだけなのに、それなのに。
「~~~~っ!」
顔を真っ赤にして言葉を失う自分のことを見つめる誰もが祝福ムードだ。だからまだそんなところにまで至っていないというのに。いっそ反対したり邪魔したり嫌味を言ってくれたりしてくれたほうがよっぽど楽なのに、善良な彼らはいつだってアマーリエのことを応援してくれている。それを嬉しいとかありがたいとか思うよりも先に、「ただただ恥ずかしいから勘弁してください」と思ってしまう自分は間違っているのだろうか。というかそもそも。
――エストレージャ様とは、まだそういう関係じゃないし。
――大体、釣り合わないじゃない。
そう何度も自分に言い聞かせているのに、もう、この善良すぎる同僚達ときたら!
怒ることも嘆くこともできずにいると、ぽん、と軽く頭を叩かれる。落ち着け、と言わんばかりに微笑んだ監督は、もう二度、三度とぽんぽんと繰り返してから、「とはいえ」と続けた。
「いい加減、ご家族に顔を見せてさしあげろ。いくらなんでも四年はないぞ」
お前に頼ってばかりいた俺達に言えることではないがな、と、眉尻を下げて言われたその言葉。あまりにもごもっともなその台詞に、ただ頷く。そうだ、そうだとも。最近とみに故郷からの手紙が増えているし、いよいよその時が来たということだ。ありがとうございます、と、深々と頭を下げると、「ご家族によろしくな」と監督は笑みを深めてくれた。
そうしてその日の業務は終了し、定時を迎えたアマーリエは、一人で帰路に就く。エストレージャは、隣にはいない。ほんの数日前に、「しばらく隣国からの使者の方と姫の晩餐の場に同席しなくちゃいけなくて」と言われたばかりだからだ。ご成婚され、御夫君とともに外交官としてバリバリ政務に勤しんでいらっしゃる姫君。彼女により彩りを添えるためにも、『古き神の末裔である守護者』の存在は欠かせないのだという。当然よね、とアマーリエは、少しだけさびしく思いながらも納得している。だからこそ、今日も一人でこうして帰り道を歩いているわけだ。
とにもかくにも、かくして、アマーリエの帰郷が決定する運びとなったのは事実である。何せ四年ぶりだ。両親はどうしているだろうか。弟や妹は、どれだけ大きくなっているだろうか。
もう風は秋風と呼ぶよりも、冬の気配を運ぶそれになっている。冬が来るのだ。雪深くなる前に帰郷できるのは幸運であると言えよう。
「エストレージャ様とは当分お会いできそうにないけれど……帰郷の件だけでもお伝えできたらいいのに」
彼とは約束したわけでもなく、帰り道をともにしていた。いつだってエストレージャの方から、アマーリエが働く作業場にわざわざ迎えに来てくれたからだ。帰郷の日は、想定外にもすぐそこに迫っている。それまでに彼と顔を合わせる機会が得られるかは、アマーリエには判断できない。
アマーリエが帰郷している間に、彼がわざわざ作業場にまで足を運んでくれたとしたら、それこそ文字通り無駄足となってしまう。もちろん、彼がこのままずっと作業場に迎えに来てくれるだなんて保証は、どこにもないのだけれど。でも、きっと、彼なら。エストレージャなら、きっと、アマーリエのことを……。
「っだから! だめよアマーリエ!!」
考えるだけで顔から火が出そうな想像を振り払うために、誰にともなく一人で叫び、アマーリエは帰路を急いだ。
そうして、帰郷の日が近付く中で、アマーリエは国民の祝日である休日に、花の王都の繁華街へと繰り出した。故郷の家族へのお土産を用意するためだ。帰郷が決定したその日のうちに、プラネッタ領には「長期休暇を頂いたから久々に帰る」という旨の手紙は出している。その返信は、それはもうとんでもなく早かった。早馬どころか、わざわざ商業ギルド所属の魔法使いの転移魔法を使って、できうる限り迅速にアマーリエのもとに届けられた手紙には、家族のありったけの喜びが記されていた。どうやら本当に心配されていたらしいし、よっぽど会いたがってくれていたらしい。その手紙を読んだとき、改めて自身の薄情さを反省したものである。
だからこそ、せめてもの償いに、一人一人にお土産を用意したいと思った。幸いなことに金子に不安はない。この四年間、お針子仕事一辺倒で無駄遣いをする暇なんてなかったし、アマーリエがようやく久々の一時帰郷を決めたことを侍女長に報告したところ、彼女から「餞別です」と臨時収入を頂戴したからである。侍女長は、アマーリエがここまでお針子として働きぬくこと、そしてそのために帰郷をはじめとした他のことをほとんど後回しにしていたことを、気に病んでくれていたらしかった。「ご家族には私が心より謝罪していたと伝えてくれますか?」と言われた時、アマーリエは彼女の優しさに胸がいっぱいになったものだ。
と、いうわけで、アマーリエは余裕たっぷりの金銭をともに、王都で話題の店をあちこち回った。父には魔宝玉のループタイ。母には同じく魔宝玉のイヤリング。十歳になる弟には王都で流行りのボードゲーム。七歳になる妹にはささやかな貴石があしらわれたネックレス。きっと誰もが喜んでくれるだろう。そして何より、アマーリエ自身が帰ってきてくれたことを、何よりも喜んでくれるに違いない。
そうやって家族と抱き締め合って、それから。
――ナイトの、お墓参りに行かなくちゃ。
プラネッタ領の屋敷の裏庭にある大切な家族の墓に、アマーリエは一度も訪れたことがない。どうしても、足を運べなかったのだ。墓を前にして、墓石に刻まれた名前を見て、本当にナイトを失ってしまったことを思い知らされるのが怖かったから。けれど、今ならば、もう、大丈夫。その勇気を、くれたのは。
「エストレージャ様のおかげね……って」
あ、と。思わず息を呑む。脳裏に思い描いたその姿だけで胸が高鳴る彼が、そのまま、アマーリエの視線の先にいたからだ。
いくら本日のアマーリエの財布が余裕たっぷりであるとはいえ、それでもなお足を踏み入れるにはためらうような、一流宝飾店の前。普段王宮で目にするような、いつ何時であろうとも機敏に行動できるように仕立てられた騎士服に似た装いとは異なり、尊い身分の子息らしく優雅な礼服に身を包んだ彼が、ショーウィンドウを覗き込んでいる。久々に目にした彼の姿は、まるで知らない人のようで、けれどやはりこの心は大きく波立ち、鼓動が速くなる。
彼が麗しの姫君の尊き守護者様、であることを知らないであろう周囲の人々は、それでもなお彼の見目麗しさに目を引かれるのか、ちらちらと彼の様子を窺っている。エストレージャ自身はそういうたぐいの視線に慣れているのか、はたまた本当にさっぱり気付いていないだけなのか、胃に会した様子もなく、ただショーウィンドウに見入っている。だからこそ余計に、なんだかアマーリエのほうが鼻が高くなった。
そうだろう、そうだろうとも。エストレージャは、誰もが目を奪われずにはいられないような、本当に素敵な殿方なのだ。そして彼の魅力は、その凛々しい見目ばかりではない。本当の魅力は、彼の内面にこそあることを、アマーリエはよく知っている。だから、アマーリエは彼のことを……と、そこまで思ってから、ふるりと首を振る。いけないいけない、まだ、まだ認めたくない。認めてしまったら、今度こそ後戻りできなくなってしまう。
――――でも。
ここで、声をかけることくらい、許されるのではないだろうか。だって彼は、友人……とはちょっと違うかもしれない。ならば、そう、そうだ、顔見知りだ。それなりに親しい顔見知りなのだから、軽く声をかけることくらい許されてもいいはずだ。だって久々に会うのだから。だから、と、そう自分に何度も言い聞かせ、うん、と頷く。よし。覚悟は決めた。
「エ、エスト……」
「エージャ!」
「……っ?」
レージャ様、と、アマーリエが皆まで言い切って彼の元へ駆け寄るよりも早く、ちょうどアマーリエの目の前を、小走りに駆けていく存在がいた。
反射的に息を呑んで固まるアマーリエの視線の先で、その存在――アマーリエと同じくらいか、少し年上かもしれない、と思われる、どちらにせよまだうら若い貴婦人が、エストレージャの隣に当たり前のように並ぶ。
え、と、ますます硬直するアマーリエのことなど当然ながら気付かずに、その貴婦人は、エストレージャに穏やかに笑いかけた。取り立てて美人であるというわけではない、のだろう。けれど不思議と魅力的な優しい微笑みを浮かべるその人は、何故だかとても綺麗な人だった。
「待たせてしまってごめんなさいね、エージャ。花屋さんでおしゃべり好きのマダムに捕まってしまって」
「大丈夫、ぜんぜん待っていないよ。俺はこっちを見ていたし、今日はあなたに付き合うって約束していただろう?」
「それはそうだけれど、わたくしばかりが楽しんでしまったら意味がないじゃない。せっかくあなたの休日をもぎ取れたのだもの」
ふふふ、と嬉しそうに笑う貴婦人に、エストレージャもまた嬉しそうに、そして気恥ずかしげに笑い返している。穏やかで、優しくて、幸せそうな微笑みだ。アマーリエだってその笑顔を知っているはずなのに、何故だろう、あの貴婦人の前の彼は、アマーリエがまったく知らない人のように見えた。
――エージャ、って。
それは、誰のことだろう。遠目で見ても、あの貴婦人の衣装は、決して派手ではないが、大層質のいい生地で作られた、上品なものだ。それは彼女にとてもよく似合っている。そう、王宮では見られない、着飾った姿のエストレージャの横に並んでも、何一つ見劣りしないくらいに。
不意に、無性に自分の姿が恥ずかしくなる。アマーリエもまた、今日は伯爵令嬢としてドレスに身を包んでいるが、流行のそれとは程遠い、四年前に故郷から持ち込んで少しずつ調整しながら着続けているだけの古いもので。こんな姿では、今のエストレージャには、近付くことすらおこがましい。だからこそ、ただ、見つめていることしかできないでいる。
アマーリエの視線の先で、エストレージャと貴婦人は、さも親しげに会話を続ける。
「あなたが装飾品を見ているなんて珍しいこと。お目当てはあって?」
「ええと……そうだな、これとか、あなたにとても似合いそうだと思ったよ」
「あら、お上手ね」
「……本気なんだけど。俺がお世辞でこんなこと言えるわけがないって知っているだろう?」
「ふふ、ええ、解っていますとも。わたくしの輝けるお星様は、本当にわたくしを喜ばせるのがお上手なんだから」
くすくすと楽しそうに笑った貴婦人は、そうして、そっとエストレージャの肩に手を乗せて、もう一方の手でちょいちょいと彼を手招いた。どうやら長身の彼に身をかがんでほしいと願っているらしい。
立ち竦んだまま動けないアマーリエを置き去りに、エストレージャがためらうことなく身を屈める。至近距離になる彼と彼女。そして貴婦人は、エストレージャの耳元で、何事かをささやいた。その瞬間、ボンッとエストレージャの顔が赤くなる。
「そ、そういうわけじゃない!」
「まあ、そうなの? それは残念ね。でも、照れ屋さんなエージャもかわいくて素敵よ?」
――――――――――限界、だった。
それ以上はもう聞いていられなくて、見ていることすらできなくて、アマーリエは買い込んだお土産を抱き締め、踵を返して走り出す。
走って、走って、走って。どれだけ息が乱れても、足が痛くなっても、構うことなく走り続けて、そうしてアマーリエは、逃げ込むように……いいや、真実『逃げてきて』、寮の自室に飛び込んだ。抱えていた荷物をその手から取り落とし、ぜえはあと荒く呼吸を繰り返しながら、乱暴に閉めた扉を背にして、ずるずると座り込む。
――エージャって、誰のこと?
――『わたくしの』輝けるお星様?
――あれは、いったい、誰だったの?
いくつも疑問が降ってわいて、けれどそれらの疑問の答えは、どう考えたってたった一つしかない。どれもこれも、エストレージャのことだ。アマーリエの知らない、彼のことだ。
知らない。知らなかった。あんな穏やかな声で、優しくあの貴婦人を気遣い、そして幸せそうな微笑んで、顔を真っ赤にして照れて慌てる、エストレージャのことなんて。
あんな姿を見せられてしまったら、今までアマーリエが見てきた彼のすべてに、常に緊張感が宿っていたことが解る。ああそうだ、きっと警戒されていたのだ。だってアマーリエは、《祝宴》において、かの姫君の衣装に暗器を仕込む役割を仰せつかった。その機密事項を知るアマーリエが他言しないように、もしかしたらエストレージャは、姫君の守護者としてアマーリエを見張っていたのかもしれない。きっとそうだ。そういうことだったのだ。
「やっぱり、期待なんてしちゃ、いけなかったんだわ」
よかった。やはり勘違いだったのだ。この想いの名前を認める前に気付けてよかった。そう心から安堵して、そうしてアマーリエは、たった一人で、その夜、ひとしきり泣きじゃくったのだった。
とはいっても、休日は過ぎ去り、次の日も出勤だ。明らかに泣きはらしたと解る顔で作業場に現れたアマーリエに、同僚達は大層驚き、事情を聞こうとしてくれたし、そうでなくともなんとか慰めようとしてくれたが、アマーリエは「大丈夫だから」と笑って返した。気にしないで、と繰り返すアマーリエの強がりなんてばればれだったけれど、同僚達は、やはり善良だった。それ以上アマーリエの傷口に塩を塗り込むような真似はせず、いつも通りに振る舞ってくれた。それなのに。
「お疲れ様、アマーリエさん」
それなのに、こんな日に限って、エストレージャがまた定時に作業場に現れた。どうやら長く続いた姫君に同伴しての晩餐は終わりを告げたらしい。だからこそこうして、アマーリエのことを、以前のように迎えに来てくれたのだろう。
そうぼんやりと思うアマーリエの反応が鈍いことに、エストレージャは気付いたらしい。ことりと首を傾げて、不意打ちで顔を覗き込んでくる。急に近くなった距離に、それでもなおどきりと跳ねる心臓。ぐっと唇を噛み締めたアマーリエの顔をしげしげと見つめた彼は、整った眉を下げた。
「もしかして、何かあった?」
未だに引かない泣きはらした跡に気付かれている。きっと何を言っても言い訳になる。何もなかったと言っても信じてもらえないだろう。けれどアマーリエは、それでもなお首を振った。
「いいえ、何もございませんわ」
精一杯の虚勢だ。意味のない抵抗だ。自分でもよく解っている。エストレージャはやはり納得していないようであったけれど、こちらがこれ以上何も言う気がないことにも気付いたのだろう。「そっか」と頷くにとどめて、「じゃあ送るよ」といつものように穏やかに笑ってくれた。
そのまま二人、並んで歩く帰り道は、もうすっかり暗くなっていた。ついこの間までは、この時間はまだ明るかったのに。いよいよ冬が来るということなのだろう。
――これが、最後。
そう内心で呟きながら、実際の口は黙りこくったまま何も言わないアマーリエの方を、隣のエストレージャは幾度となくちらちらと、気遣わしげに見つめてくる。けれどやはりこちらが口を開く気がないことが解るらしく、もの言いたげにしながらも彼もまた口を閉ざし、そのままあっという間に寮の前へと辿り着く。ようやく「ありがとうございました」と口にして、深々と頭を下げるアマーリエに、エストレージャはいつものようにすぐに去っていくものかと思われた。だが。
「あ、あの」
「……はい」
「実は、その、話があって」
「まあ、さようですか。奇遇ですね。私も、話がございますの」
「そ、そうなんだ」
エストレージャの凛々しくも穏やかな顔立ちに、いつにない緊張が走る。その顔を見上げて、アマーリエはほうと内心で吐息をもらした。ほら、やっぱり。自分には、あの貴婦人の前でこの方が浮かべていたような表情を、させてあげることができないのだ。そう改めて思い知らされ、続いてやってきたのは圧倒的な無力感。あまりの息苦しさに圧し潰されてしまいそうだ。でも、黙ったままではいられない。
「その、アマーリエさん。実は、渡したいものが……」
「エストレージャ様。送っていただくのは、今夜限りで結構です」
「え」
エストレージャの言葉の続きを遮るようにアマーリエがぴしゃりと言い切ると、彼の黄色い瞳が大きく瞬いた。そしてその薄い唇が、声なく「どうして」と呟く。どうやらショックを受けてくれているらしい。なんだか意趣返しが成功したようで、少しだけ嬉しくなる。私、こんなにも意地悪になれたのね。そう他人事のように思いながら、アマーリエはいびつに笑った。
「私、退職して、帰郷するんです。実は今日、もう退職届は出していまして、私物は後から故郷に配達してもらう手筈を整えてもらいました」
そういう、ことだった。突然の辞表提出に、善良な同僚達はどよめき、慌てふためいたが、アマーリエの決意が固いことを知ると、やはりそれ以上踏み込んでこようとはせずに、「お疲れ様」と肩を叩いてくれた。その気遣いにまた泣きたくなってしまったけれど、なんとか耐えた自分は褒められていいはずだと自画自賛する。
エストレージャは呆然とこちらを見下ろしている。冬の訪れを感じさせる冷たい夜にすら、きらきら輝く鮮やかな黄色い瞳。その輝きが、好きだった。
「今までありがとうございました。さようなら、エストレージャ様」
「あ、待……っ!」
伸ばされた手をよけて、男子禁制の寮へと飛び込む。視界の最後に、門扉の前で立ち竦んだまま動かない彼の姿が映ったけれど、振り返るような真似はしなかった。できなかった。だってこんな泣き顔が彼に見せる最後の顔だなんて嫌だったから。
「うまく、わらえてた、わよね?」
自室にやっとたどり着いて、一人呟く。震える声が自分のものではないようで、なんだか無性におかしくて、くすくすと笑い声がこぼれ、ぼろぼろと涙があふれた。
――エストレージャ様。
――あなたのことが、好き、でした。
ミモザアカシアは、その花言葉の通りに、アマーリエの胸の内に秘匿されたまま散る。もうきっと、二度と咲くことはないだろう。そんな確信めいた予感を抱いて、アマーリエは帰郷の決意を新たにするのだった。
そうして、それから一週間後。諸々の手続きを終えたアマーリエは、いよいよ故郷であるプラネッタ領へと旅立つことになった。見送りは誰もいない。アマーリエ自身が断ったからだ。もうこれ以上、王都に未練を残すつもりはなかった。アマーリエの帰郷が、一時的なものではなく、本当の意味での帰郷であることは、既に家族には伝えてある。彼らは突然のアマーリエの決定に驚いていたものの、素直に心から喜んでくれた。それだけが、救いだった。
「いい天気ね」
最後の日がこんなにも美しく晴れ渡ってくれてよかった。アマーリエの新たな門出を精霊が祝福してくれているのかもしれない。そうだったらいいのに、と思いながら、たった一つの旅行鞄を片手に、侍女長が手配してくれた馬車へと乗り込もうとした、その時だ。
「…………あら?」
遠くから、こちらに向かって何かが駆けてくる。その白銀のきらめきに、まさか、と思ったのはほんの一瞬。気付けばアマーリエは、旅行鞄を放り出し、馬車の入り口にかけていた足を地面へと下ろして、地面に両膝をついて、両腕を広げていた。
「あなた……! ああ、久しぶりね!」
アマーリエが広げた両腕に飛び込んできたのは、大きな白銀の狼だ。もう子犬の姿ではない。明らかに聖なる領域に属する存在であることを、もう隠す気はないのかもしれない。けれどそんなことはどうだってよかった。久々に会えた、この王都におけるアマーリエの騎士様。彼を抱き締め、その頭や顔をめいっぱい撫でさする。
「もしかして、見送りに来てくれたのかしら。ふふ、あなたはなんでもお見通しね」
アマーリエが満面の笑みを浮かべてそう語り掛けると、ぱたぱたと狼は長いしっぽを振って、それからまじまじとこちらを見上げてくる。その黄色い瞳がじいと見つめる自身の姿を思い出し、アマーリエはくすくすと笑った。
「素敵でしょう? 作業場のみんなが、餞別だって作ってくれたドレスなの」
故郷に凱旋するのだからと、善良なる元同僚達は、アマーリエのためだけに、忙しい中、この美しい黄色のドレスを作ってくれた。《祝宴》のときに、アマーリエこそが本当は作りたかった、見事なドレスだ。この黄色をまとうのは、やっぱり胸が痛んだけれど、それでも優しさが込められた餞別をむげにすることはできなくて、これっきりだと決めて、袖を通したのだ。
自慢げにアマーリエが胸を張ると、オン、と勢いよく前のめり気味に同意してくれた狼は、やがてクウンと切なく鳴いた。別れを惜しんでくれているのか。そうだったら嬉しいのに。
「ありがとう。何もかもあなたのおかげよ。私はもう故郷に帰るけれど、どうか元気でいてちょうだい」
この狼がいてくれたからこそ、アマーリエは《祝宴》を無事乗り越えられたのだ。今となってみれば、どうしてこの子をあんなにも恐れていたのかと、申し訳なくなってくる。お礼がしたいとは常々思っていたが、この場では何も手持ちがない。だからこそその代わりに、言葉を尽くす。この狼には、自分のことを覚えていてほしかった。
「あのね、あなたに私の秘密を打ち明けるわ」
そっとその頭を撫でながら語り掛ける。狼は神妙な顔になって姿勢を正してくれて、それがやっぱり人間臭くて噴き出してしまいそうになったけれど、そこを耐えて言葉を続ける。
「私ね、エストレージャ様が好きだったの。ううん、『だった』じゃなくて、今でも好き。あの方に、恋をしてしまったの」
ずっと、ずっと、目を逸らしていたその感情の名前を、ようやく口にする。そうして改めて、エストレージャに恋に落ち、今もなお恋をしている自分を自覚する。
「だからこそ、もう王都にはいられないの。大丈夫、大丈夫よ。もう十分すぎるものをあの方からは頂いたわ。これ以上は贅沢すぎるでしょう? ね、あなたもそう思……っ!?」
それ以上は、続けられなかった。目の前の狼の身体がひときわ大きく白銀に輝いたからだ。そして。そうして。
アマーリエは、ぎゅうぎゅうと、これ以上はないのではないかと思われるほどに強い力で、誰かに抱き締められた。うそ、と、唇がわななくのを他人事のように感じる。だって、今、アマーリエを抱き締めているのは。この、ぬくもりは。
「エストレージャ様……?」
「俺もあなたが好きだ」
「え」
「あなたが、好きなんだ」
耳元でささやかれたその声。その台詞。何もかもが信じられない。どういうことなのだろう。だって目の前にいたのは、狼さんだったはずだ。けれど今こうしてその場所にいるのは、狼ではなく、エストレージャだ。絶対にもう会いたくなくて、けれど本当は一番会いたくて仕方がなかった、人。
どうすることもできずに硬直するアマーリエの顔を覗き込んでくる黄色い瞳は、間違いなく、エストレージャのものだ。アマーリエが恋し続けている、星のように輝く瞳だ。
「ど、して」
これは一体、どういうことなのだろう。何一つ解らないままエストレージャを見つめ返すと、彼は「どこから話したらいいのかな」ととても切なげに笑った。
そして、数拍の後に、彼は語り出した。そもそも彼――エストレージャは、古き神の末裔である。古き神の中でも『善き冬の狼』と呼ばれる冬を司る獣神の先祖返りであり、その姿は人間のものばかりではなく、子犬や狼のものにもなれるのだと。夜遅くに帰宅する時は、獣の姿の方が速いからと、あえてそちらの姿になることがたびたびあるのだそうだ。
「そんな時、あなたが騎士に襲われるのを見たんだ」
「あ……」
あのときの、と、初めての出会いを思い出すアマーリエに頷いて、エストレージャは更に続ける。
「放っておけなかった。あんな遅くまで一人で頑張っているあなたを。だから帰り道くらいは送ってあげられたら、って。最初はそれだけだった」
「そ、れは、ありがとうございま……」
「でも、気付いたら、それだけじゃなくなっていたんだ」
「え」
「あなたと会うたびに、あなたを知るたびに、あなたに惹かれていく自分がいた。あなたを……アマーリエ・リタ・プラネッタ嬢を護るのは、俺でありたいって、思うようになっていた。俺は姫の守護者なのに。あとは家族と、親しい人達を守れたら、十分だと思っていたはずなのに」
それなのに、と困ったように笑う彼は、本当に困っているのだろう。自身の感情を扱いあぐねている様子のエストレージャは、じいとこちらを見つめてくる。
「あなたがいい。あなたじゃなきゃ、駄目なんだ。故郷になんて返したくない。わがままだって解ってるんだ。でも俺は……」
「っ嘘つき!」
「え?」
「嘘、嘘をつかないでくださいませ! い、いくら私が、これが最後だからって、そんな、私のことが好きだなんて、そんな、そんな、ひどい嘘を……っ」
「嘘なんかじゃない」
「だったら、あのご婦人は誰なんですか!?」
先達ての休日の折、いまだかつてなく親しげに、親密に、お互いに大切なものを見る目で見つめ合っていた、あの貴婦人は。彼女がいるくせに、それでアマーリエのことが好きだなんて、そんなこと、信じられるはずがない。とうとう我慢していた涙がこぼれて、それでもなおエストレージャをにらみ付けると、彼は本当に……そう、本当に、不思議そうな顔になった。あまりにもきょとんとした顔なものだから、一周回って毒気を抜かれて脱力してしまうアマーリエを前にして、エストレージャは「……もしかして」とようやく思い当たる節を見つけたらしく口を開く。
「この間の祝日、俺と一緒にいた女性のこと?」
「そ、そうです! 本当は、あの方が、あの方こそがエストレージャ様の……!」
「あの人、俺の母なんだけど」
「…………………………え?」
ハハ。はは。母。……母?
アマーリエの思考は、その単語を前にして停止した。やっとの思いで、うそ、と呟けば、即座に「嘘じゃない」と返ってくる。それでも信じられなかった。嘘に決まっているではないか。
「お、お母様だなんて、下手な嘘すぎるでしょう! あんなお若い方がお母様だなんて!」
「うん、確かに母は実際に若くて、俺と少ししか年が離れていないんだけど…………って、待って。アマーリエさんって、俺の事情、どこまで知ってる?」
「え? そ、れは、もともと市井のお暮しで、守護者になられてから貴族籍に入られた、と……」
「ああうん、それはその通りなんだけど……ああ、そうか、それだけしか知らないなら、勘違いされても仕方ないのか……」
勘違い、とは。ぱちん、と涙に濡れる瞳を瞬かせると、エストレージャは苦笑した。
「俺は、まあその……色々あって、市井暮らしだったんだけど、守護者の任に就くにあたって、王宮筆頭魔法使いのエギエディルズ・フォン・ランセントさんに後見人になってもらった。ここまではいい?」
「……!」
その名前は聞いたことがある。むしろたびたび耳にする名前だ。歴代でも最強とうわさされる、圧倒的な魔力を持つ証である純黒の王宮筆頭魔法使い。姫君と共に魔王討伐隊に名を連ねるお方だ。
そのお方が、エストレージャ様の後見人……と、そこまで受け止めてから、ふとアマーリエは気付いた。エギエディルズ・フォン・ランセント。フォン・ランセント。その家名は、目の前の彼と同じ――そう、エストレージャ・フォン・ランセントと同じではないか!
「後見人になる同時に、養子縁組もしてもらってね。俺の両親は、エギエディルズ・フォン・ランセントと、その妻、フィリミナ・フォン・ランセントだ。このあいだの祝日に一緒に出掛けたのは、そのフィリミナさん。俺は『母さん』って呼ばせてもらってる。年が近いのに、『むしろ嬉しい』って笑ってくれる人でね」
「そ、それじゃあ、ぜ、ぜんぶ……」
「……言いにくいけれど、アマーリエさんの勘違いと早とちりかな」
「!!!!」
情報量の多さもさることながら、それ以上に、自分のあまりの愚かさに、アマーリエは倒れ伏したくなった。というか実際に身体がぐらりとかしいで、それをエストレージャが難なく受け止めてくれる。ひゃ、と顔を赤らめるアマーリエの、その涙をたたえたまなじりを、エストレージャが指先でぬぐい、そして彼は、いつかと同じようにパチンと指を鳴らした。次の瞬間彼の手に現れたのは、小さな箱だ。アマーリエが贈った簡素な箱とは異なる、上質なビロードに包まれた箱。それを、いっそうやうやしいとすら言えるような丁寧さで、彼はアマーリエの目前で、自ら蓋を開く。
その箱に収まっていたのは、髪飾りだ。可憐な白い花が貴石で見事に作り上げられている。この花は、と、息を呑むアマーリエに、エストレージャはすっかり緊張し切った、そう、アマーリエと同じように、恋する相手を前にした時のどうしようもない緊張感をまとった顔で、そのまま差し出してくる。
「この花は、アザレア。白のアザレアの花言葉は、『あなたに愛されて幸福』。あなたがくれた『秘密の恋』が、俺を幸せにしてくれる」
「――――――あ」
ようやく気付いた。エストレージャの長い髪をまとめているのは、アマーリエが贈ったリボンだ。『秘密の恋』を閉じ込めたミモザを刺繍した、黄色いリボン。それに対する答えが、この、白いアザレアだというならば。『あなたに愛されて幸福』だと、言ってくれるのならば。ならばもう、アマーリエは。
「……あり、が、とう、ございますっ!」
受け取らないわけには、いかないではないか。胸の内で散ったはずのミモザが新たに、もっと瑞々しく香り高く咲き誇る。秘密なんかじゃない。もっと誇らしく自慢げに、自身は隠されるべき花などではないのだと言いたげに。
先ほどまでとは異なる歓喜の涙を流すアマーリエに、エストレージャが心から安堵したように、そしてそれ以上に、この上なく嬉しそうに、幸せそうに微笑んでくれた。その手が髪飾りを持ち上げて、そっとアマーリエの髪を飾ってくれる。
「あなたが、好きです。アマーリエさん」
「私も、エストレージャ様。あなた様を、お慕いしております」
そうして自然と唇が重なって、至近距離で笑い合う。
そのまま圧倒的な幸福感に酔いしれる二人の物語は、すっかり忘れ去られ状況に置いてきぼりにされていた馬車の御者を発端にして、王都中どころか国中に知れ渡る運びとなるのだが、それはもう少し先の話だ。