6
《プリマ・マテリアの祝宴》まで、いよいよあと一か月。アマーリエの戦いは、ほぼ終わったと言っていいだろう。山積みだった依頼の衣装のほとんどを仕上げ、あとは細かい修正と調整が残るばかりとなった。
アンデッドと遭遇した件は、周囲に広く知れ渡ることとなり、侍女長と作業場の同僚達から「必ず明るいうちに帰宅せよ」という厳命が下った。それも当たり前、無理もないことであり、アマーリエ自身もあんな恐ろしい思いはもうごめんであると、仕事を早めに切り上げるようになった。の、だが。変化は、そればかりではなかった。
「お疲れ様、アマーリエさん」
「もったいありませんわ、エストレージャ様。あなた様こそ、お疲れ様にございます」
時は夕暮れ、いわゆる『定時上がり』と呼ぶべき時間。
お互いにもう定型句となった挨拶を交わし、エストレージャはやはり凛々しく、そしてアマーリエはできる限り楚々と、相手に向かって一礼する。慣れたはず、だった。あのアンデッドとの遭遇、そして愛犬との別れの夜以来、エストレージャはこうしてアマーリエの帰り道を送ってくれるようになった。どうして、と思わないはずがない。実際に本人にも問いかけた。
――放っておけない、と、思って。
――だめ、かな?
恐れ多い、もったいない、そんな必要はないのだとなんとか固辞しようとするアマーリエに、そうおずおずとエストレージャが問いかけ返してきたことはまだ記憶に新しい。またあの、遠慮がちで不安げな、それでいて期待にきらきらと輝く黄色い瞳に、アマーリエはやはり白旗を上げるしかなかったのだった。
そして今日も、彼はアマーリエを迎えに来る。姫様の護衛はよろしいのですか。《祝宴》を前に、王宮ばかりか王都の警備体制にも協力なさらなくてはならないはずでしょう。そう何度も言おうとして、できなかった。だって嬉しかったのだ。喜んではいけないのに、そんなことは許されないのに、アマーリエはエストレージャと並んで帰宅する時間が嬉しくて、喜ばしくて、居心地がよくて、そしていつしか何よりも大切になっていたから、口を噤んだ。
――期待しちゃ、だめよ。
ーーねえアマーリエ。勘違いしちゃだめなんだから。
きっと誰に言われずとも、アマーリエ自身が一番そのことを解っている。それでも、夕暮れの帰り道を彼と並んで歩く時間が手放せない。この感情に名前を付けてはならない。本当はとうの昔にこれ以上なくふさわしい名前が付いていることだってもう気付いてる。けれど、それでもその名前から目を逸らして、アマーリエはたとえひとときの夢であろうとも――――いいや、ひとときの夢だからこそ、この時間を大切にしようと思った。この大切な時間は、いずれこの胸により残酷な傷を付けるだろう。けれどそれを乗り越えて、いつか大切な宝物だと思えるようになったらいい。そう、一人で決めた。
そうしてその『大切な時間』が、今日も始まる。エストレージャは当たり前のようにアマーリエと並んで歩いてくれる。彼の足の長さを考えれば、普通に歩くだけでもアマーリエは置き去りにされてしまうだろうに、決してそうはならない。彼がわざわざ自分の歩幅と速度に合わせて、ゆっくりと歩いてくれていることに気付いたのはいつだっただろう。いっそ気付かなければよかったのに、気付いてしまったときの胸の高鳴りは、今もなおアマーリエの中で続いている。
傾いた夕日が、帰路を染め抜いている。秋にふさわしい見事な橙色は、まばゆく、美しく、けれどどこか物寂しさを感じさせる。そっと隣を見上げると、エストレージャのかんばせも、当たり前だがその夕日に照らされていた。凛々しく、穏やかに、それでいてどこか甘く整った、麗しい顔立ちだ。アマーリエと同じ色に染められていても、彼はやはり違う世界に住む人なのだと思い知らされる。こんな風に隣に並んで歩いていることが、つくづく不思議で、けれどその『不思議』がいつしか『当たり前』になって、それがやっぱり『不思議』で仕方なくて。そう、だからこそ。
――『不思議』なことは、不意に消えるもの。
――『当たり前』のことは、突然終わるもの。
だからやはり勘違いしてはいけないのだ。こんなにも素敵な殿方が隣を歩いてくれる『不思議』な『当たり前』は、いつまでも続かないに決まっている。それでも、今だけは。
そうアマーリエが小さな吐息をこぼしたそのとき、不意に、エストレージャの瞳がこちらへと向けられた。ばちんっと唐突にかみ合った視線に思わず肩を揺らすと、彼は困ったように微笑んで、ことりと首を傾げる。
「どうかした?」
「え?」
「いや、ずっとこっちを見てるから。俺の顔、何かついてるかな」
「え、あ……っ」
指摘されるまで気付かなかった。不躾にも彼のかんばせを、それはもうじっくり、じいいいいいいっと見つめていた自分にやっと気付いて、カッとアマーリエの顔が赤く染まった。
「も、申し訳ありません……! なんでも、そう、なんでもございません!」
「そう? ならいいんだけど……その、もしかして何か悩みでもあるなら、よければ聞かせてほしい。俺なんかじゃアマーリエさんの力になれないかもしれないけど、でも、話すだけでも楽になれるかもしれないし……い、いや、もちろん無理にとは、その」
微笑みから一転して、大真面目な顔になったエストレージャは、懸命に言葉を探しながら、アマーリエに気を遣ってくれている。『俺なんか』だなんてとんでもない。この悩みは……そう、きっと『悩み』と呼んでいい、そうとしか他に呼び方が許されないそれは、アマーリエ自身にはもうどうしようもできなくて、本当はエストレージャにしか解決できないものだ。
だがそれを伝えるつもりはない。この悩み事が、この想いが、まだ手放しがたくて仕方がないものであるからこそ、なおさらアマーリエはそれをそっと胸の奥底に大切にしまって、顔に素知らぬ笑顔を貼り付ける。
「エストレージャ様が私の帰り道を送ってくださるようになってから、今まで私の護衛をしてくれていた子犬さん……いいえ、あの、信じていただけないかもしれないのですけれど、実は狼さんだったらしい子が、すっかり姿を見せなくなってしまったことを、改めて思い出しまして」
我ながら上出来のごまかしだと思ったし、事実、確かにそう思っていた。
そうなのだ。あの子犬、もといこれまた『不思議』すぎる狼の姿を見たのは、あの夜が最後だった。見事にアマーリエを守り抜いてくれた美しい白銀の狼の姿を、あれっきり、とんと目にしていない。アマーリエの帰宅時間が早まったからかもしれないが、だとするともしやあの子は夜遅くまでまだアマーリエが作業場に残っていると思い込んで、アマーリエが出てくるのを待っているのかもしれない。本当にそうならあまりにも申し訳なくて、アマーリエは確認するためにやはり夜遅くまで残ろうとしたのだが、同僚達に許してもらえず、最近はいつだって定時上がりである。だからこそそのかわりに、顔見知りの夜警の衛兵や、夜間当番の侍女に「子犬か狼の姿を見かけていないか」という旨の話を持ち掛けたりもしたのだが、誰も彼も、そんな子犬も狼も見てはいないという。
――そもそも、子犬が狼に変身するなんて、あれはなんだったのかしら。
そろそろあれは幻を見ただけだったのかと思えてくるが、自分がアンデッドから助けられた事実は確かであるし、そっと頬を舐めてくれたぬくもりだっていまだにまざまざと思い出せるのだから、あれは間違いなく現実だったと言えるだろう。
「お礼をしたいと、ずっと思っているんです。でも、どうやったら会えるのか解らなくて……」
ただの子犬ではなかったことは流石に理解している。だっていきなり狼に変身したのだ。話だけ聞けば、「アンデッドばかりではなくワーウルフにも遭遇したのか!?」と悲鳴を上げられるような事実である。
けれど、アマーリエはそうではないと思うのだ。あんなにも美しい、あんなにも神聖な光をまとった存在が、魔に属するモノであるはずがないという、根拠はなくとも絶対にそうだと言い切れる確信がある。もしかしたら彼は、精霊や妖精の眷属だったのかもしれない。彼もまた気まぐれでアマーリエに付き合っていてくれただけなのかもしれないとは思う。
それでもいい。アマーリエが彼に恩を返したいという思いに変わりはない。美しく、尊く、賢く、気遣い屋さんで、とても優しかった彼に、どうやったらお礼ができるだろうか。まずは再会しなくては話は何も始まらないのだが、誰に聞いても情報は得られず、アマーリエはもどかしい思いを抱えている。
――お礼できたのがソーセージだけだなんて、ものすごく失礼な気がするわ。
唯一できたお礼らしいお礼、というにはあまりにもお粗末なそれを思い出し、はあ、と溜息を吐く。
エストレージャは何も言わない。いきなりこんなことを言われても困るだけだろうから当然だ。彼はあの子犬、ではなく狼のことを知らないのだから。神族の末裔として魔法にも長けた彼に、「探すのを手伝ってほしい」なんて言う真似ができるわけもない。
「いつかもう一度会えたら、そのときはめいっぱいお礼をさせてもらわなくちゃ。申し訳ありません、エストレージャ様。急にこんなお話を……」
「か、彼は!」
「はい?」
「彼は……その狼は、きっと、あなたのその気持ちだけで、十分だと思う」
皆まで言わせてもらう前に、エストレージャに遮られた。あら? とそちらを見上げると、エストレージャが、なぜかその凛々しい顔に朱を走らせて、いかにも真剣な様子でそう言い切ってくれる。あまりにも確信に満ちた断言に、アマーリエはきょとんと大きく瞬いた。それはフォローのつもりか、はたまたなぐさめか。どちらであるにしろ、何も知らないくせにそれでもアマーリエの気持ちに寄り添ってくれようとするエストレージャの姿勢がくすぐったくて、つい噴き出してしまった。
「ふふ、ふ。はい、そうかもしれませんね。だってあんなにも紳士な殿方だったんですから。ナイトにも負けないような騎士様だったんですよ」
「そ、そうなんだ」
「はい、そうですとも。ただ、いよいよ肌寒くなってまいりましたし、寒い思いをしていなければいいのですが」
もしあの狼と再び出会えたら、アマーリエは自身がその身柄を引き取っても構わないとすら思っている。もう犬に対する恐怖心はない。いやあの子犬は犬ではなく狼で、しかもどう考えても普通の狼ではないわけなのだが、それでも、これからやってくる凍える冬の前に、一緒に暮らせたらといいのに、と思うくらいには、我ながらだいぶあの狼に傾倒している自覚があった。
あの狼はナイトではない。ナイトのかわりはどこにもいない。その上で、また心から愛し愛される家族を見つけられるのだとしたら、それはとても幸せなことなのではないかと、ようやくそう思えるようになった。
そのきっかけとなってくれたのは、間違いなくエストレージャだ。
「ありがとうございます、エストレージャ様」
「え? そんな、送るのはいつものことだし、俺がやりたくてやってることで……」
構わないのに、と眉尻を下げる彼の表情に、またふふと笑う。そういう意味で言ったわけではないのだけれど、そういうことにしておこう。
ああそれにしても、今日は随分と冷える。一口に秋と言っても、夏と冬のあわいのこの季節は、日差しは鋭くとも風は冷たかったり、逆に日差しがやわらかであったとしても風は妙に生ぬるかったりする。今日は風が冷たくて、アマーリエはぶるりと身震いしてから、両手を口の前に持って行って、はあ、と息を吐きかけた。気休め程度にしかならないが、それでも何もしないよりはマシだ。
「寒い? 俺の上着を貸そうか?」
「いいえ、大丈夫です。私よりエストレージャ様がお風邪を召されたら大変ですもの」
「これでも俺は人よりは頑丈にできてるから、気にすることな……」
「それでも、です。油断は禁物ですよ、エストレージャ様」
来たる《祝宴》において、彼は王宮の警備の責任の一端を担っているという。重要で重大なお役目だ。そんな彼から上着を奪って風邪をひかせたりなんかしたら、各方面から非難ごうごうだろうし、何よりアマーリエ自身が間違いなく自分を許せなくなる。
だから、というわけではないのだけれど、とにかくこれくらい大丈夫なのだという気持ちを込めて笑ってみせる。エストレージャは何故か残念そうに「そっか」と肩を落とした。けれどそのままでいたのはほんのわずかな間だけで、すぐに彼は「だったら」と片手を差し伸べてくる。え、と固まるアマーリエに、彼はいかにも名案を思い付いたとばかりに瞳を輝かせて笑った。
「手が冷たいなら、俺の手をどうぞ」
「……え、あ…………ええ?」
どうぞ、とは。何がどうしてどうなってどういう意味での『どうぞ』なのか。意味が解らず彼の顔と差し伸べられた手を見比べると、エストレージャはなんでもないことのように続ける。
「女性の手は冷やすべきじゃないって教えられているんだ。特にアマーリエさんみたいな、たくさんの素敵な作品を生み出す大切な手は、あたたかくしておくべき……って」
ふ、と。エストレージャの言葉が途切れる。続いて、見る見るうちに、そのかんばせが先程までとは比べ物にならないくらいに、夕日の中でもそうと解るほど明らかな真っ赤に染め抜かれていく。その顔を見ていると、自分の顔までどんどん赤らんでいくのが、アマーリエには解った。
そのままお互いに見つめ合うこと数秒。先に口火を切ったのは、エストレージャだった。
「ご、ごめん! いきなり不躾なことを……! あああああの、その、弟と妹が、この時期は手袋じゃなくて俺と手を繋ぎたがるから、だからその、それと同じ感覚でついっ! け、決してやましい思いがあったわけじゃなくて……いやちょっとあったかもしれないけどあのそのでもそれだけじゃなくて、だからっ!」
「は、はい、さようでございますか」
エストレージャが慌てふためきながら必死に言い連ねるその言葉は、最後のあたりはほとんど聞こえなくなっていたけれど、とりあえずアマーリエはこくこくと頷いた。そしてやっと理解したのは、つまるところ、エストレージャはアマーリエに、「手を繋ごう」と提案してくれた、ということだ。その提案を改めて受け止め、噛み締めたアマーリエは、顔を赤らめるを通り越して、ボンッと一気に、今現在進行形のエストレージャの顔色のように、これ以上ないほど顔を真っ赤に染め上げた。
――わ、私が、エストレージャ様と!?
そんな夢みたいなことが現実に起こりうるものなのか。信じられないことだが、起こりうるものらしい。エストレージャは、自分で言い出しておきながら、もう見るからにおろおろと狼狽し切っているけれど、その片手はいまだにアマーリエの前に差し出されている。いいのかしら。本当に、私がこの手を取っても、いいのかしら。そんな自問が脳裏をよぎったけれど、その自問に答えを返すよりも先に、アマーリエは自らの手を、エストレージャの手に重ねていた。
彼の黄色い瞳が大きく見開かれ、真っ赤な顔が硬直する。きっとアマーリエの顔色も同じようなものだろう。エストレージャは信じられないと言わんばかりに、アマーリエの顔と、重なり合った手を何度も見比べる。まさかアマーリエが本当に手を繋ごうとしてくるとは思ってもみなかったらしい。その姿に、なぁんだ、と落胆する。やっぱり恐れ多いわよね、身の程知らずよね、とそっと重ねた手を引こうとする。引こうとした、のだけれど。
――――ぎゅっ!
「!」
エストレージャの手が、アマーリエの手を、強く握りしめた。痛くはない。けれど逆らい難い力だ。はっと息を呑んで改めて彼の顔を見上げると、夕日に照らされてもなお赤い彼は、緊張をにじませながらもはにかんだように微笑んだ。
「それじゃあ、帰ろうか」
「は、い」
頷くより他に、何ができたというのだろう。そうして二人は、手を繋いで歩き出す。
アマーリエの心臓は、もう限界だった。どきどきを通り越してばくばくと高鳴るその音がうるさくて仕方がない。緊張のあまり言葉が出てこない。繋いだ手に汗がにじんでしまいそうで、気持ち悪がられないか不安で仕方なくて、それでもその手を振り払うことができずにいる。
この手を放せない、放したくないと思う自分がいる。あたたかいどころか熱くて仕方がない手に、おそるおそる力を籠めると、それ以上の力でぎゅっと力強く、そして同時に優しく握り返してもらえる。それだけでどうしようもなく嬉しくて、なぜだかいっそ泣き出したくなってしまうくらいだった。
お互いに、何も言わない。秋の虫がりりり、りりりと鳴く声ばかりが耳朶を打つ。それが嫌だということはない。緊張感はとんでもないほどであるけれど、それ以上に心地よい。ああ、でも、黙っているだけでは、なんだかもったいないような気がしてきた。なんてことだろう。自分はこんなにも強欲になれるものなのかといっそ感心してしまう。心地よい沈黙を取るか、弾む会話を取るか。なんて贅沢な二者択一だろう、と思いながら、そっと隣を見上げる。そして息を呑んだ。エストレージャもまた、こちらを見下ろしていたからだ。
あ、と吐息のような声をもらしたのは、どちらだっただろう。見つめ合うことしばらく。吸い込まれそうな綺麗な黄色い瞳に、魅入られる。エストレージャにまじまじと顔を見つめられるのはどうにもこうにも気恥ずかしくて、もっとお化粧を頑張ればよかった、なんて、頭のどこかで想うけれど、現実はそれどころではない。
「「あのっ」」
そして、二人の声が重なった。お互いに想定外だったのか、ぱちぱち、とアマーリエの朱色の瞳と、エストレージャの黄色い瞳が大きく瞬いて、最終的に揃ってぷっと噴き出した。何が面白いというわけでもないのに、一緒にいられるだけで笑みがこぼれるだなんて、なんて不思議なことなのか。目配せを送り合うと、エストレージャに「どうぞ」とばかりに促されたので、アマーリエはありがたく自分の方から口を開くことにした。
「エストレージャ様にも、ご弟妹がいらっしゃるのですね」
「ああ、うん。だいぶ年が離れているけれどね。世界で一番かわいいんだ。アマーリエさんにも会わせてあげたいくらい」
ふわり、と。自身の弟妹のことを口にするエストレージャは、あまりにも優しく穏やかに、そして誇らしげに微笑んだ。彼はよっぽどその弟妹のことを大切に思っているらしい。お門違いだと解っていながら、少しだけうらやましいと思ってしまった自分を恥じつつ、「あら」とアマーリエもまた誇らしさを胸に笑ってみせる。
「まあ、光栄ですわ。でも、エストレージャ様。私にも弟妹がおりますの。あの子達だって、世界で一番かわいいんですよ」
もう長く顔を合わせていないが、弟も妹も、薄情な姉を責めることなく、いつだって愛情たっぷりの手紙を頻繁に送ってくれる。その手紙はアマーリエにとってこの上ない喜びとなったし、それ以上に一人で暮らす王都における心強い支えとなってくれた。エストレージャの弟妹ともあれば、それはもうさぞかしかわいらしいお方達であろうが、アマーリエは、自分の弟妹だって決して負けないくらいにかわいいに違いないと断言できる。
そんな思いは、エストレージャにしっかり伝わってくれたらしい。彼は笑みを深めて頷いた。
「かわいい弟妹がいて、俺もあなたも、幸せ者だね」
「はい。本当にそうですとも」
「あなたのご弟妹は、いつか俺に会ってくれるかな」
「まあ、きっととても喜びますわ」
「そうかな。だったらとても嬉しいのだけれど」
仮定ばかりを重ねるこの会話は、たわむれでしかないのだろう。社交辞令でしかないことくらい、アマーリエはよく解っている。けれどそれでも喜びに浮き立つ心を押さえきれない。いつか。本当に、いつか。エストレージャの弟妹に、自分が会えたら。自分の弟妹に、エストレージャを会わせてあげられたら。そうしたらどんなに嬉しいことか。それが叶うはずもない望みであると解っているからこそ、アマーリエはこの会話を忘れないでいたいと思うのだ。いつか弟妹に笑って話してあげられたら。きっとそれだけで、アマーリエは満足できることだろう。
そうしてようやく、二人はアマーリエの寮までたどり着いた。繋いでいた手が、ほどかれていく。それでもなおその手にはぬくもりが残っているようで、じわりとまた胸が熱くなったけれど、懸命にいつものように微笑んで「ありがとうございました」と頭を下げた。
いつもならばそこで、内心で名残惜しく思いながらも解れるだけなのだが、今日のアマーリエは違っていた。
「それじゃあ、アマーリエさん。また明日……」
「あ、あの!」
「え?」
未婚の淑女を相手にいつまでも長居する真似はよろしくないと、きちんと弁えていらっしゃる我らが守護者様は、今日も今日とてさっさと踵を返そうとしたが、そこに、覚悟を決めて声をかける。予想外だったのか、エストレージャが首を傾げる。それを視界に入れつつ、アマーリエは手荷物から小さな箱を取り出した。
それをそのまま、エストレージャの前にバッと勢いよく差し出す。彼がますます不思議そうに首を傾げるのを見ながら、アマーリエは懸命に言葉を紡ぐ。
「こ、これっ! よかったら、受け取ってくださいませ」
「え、いやでも、受け取る理由がな……」
「いつも送っていただいておりますし! ナイトのこと、やっぱりちゃんとお礼をさせてもらいたくて! だから、だからあのっ」
どうか受け取ってください、と、声にならない声で続けて、震える両手でその箱をエストレージャに捧げる。彼は本当に驚いている様子だった。瞳を見開いて箱を凝視している。なんの飾り気もない、シンプルな、アマーリエの手に収まる程度の本当に小さな箱だ。ラッピングしている時間がなくてこんな状態だけれど、包装紙で包むとか、せめてリボンをかけるとか、それくらいはすればよかったと今更ながら後悔する。
こんな粗末な見た目の贈り物なんて、エストレージャにはふさわしくないだろう。これはアマーリエの自己満足だ。それでもどうか受け取ってくださいと願う自分の身勝手さがいよいよ情けなくなってきてこうべを垂れる。アマーリエの両手から、箱がそっと持ち上げられたのは、その時だった。
ハッと息を呑んで顔を上げると、エストレージャが、じっと自らの手に取った箱を見下ろしている。そのまなざしのあまりの真剣さにおじけづきそうになったところで、彼は口を開いた。
「今ここで、開けてもいい?」
「は、い」
「ありがとう」
かすれる声で頷けば、エストレージャはためらうことなく箱を開けた。そして彼は目を見開く。
「――――リボン?」
しゃらり、と、音が聞こえた気がした。もちろん気のせいだ。けれどそんな音が聞こえても不思議ではないと思いたくなるような、上質な生地で作られた太めの長いリボンが、エストレージャの手によって箱から取り出される。夕日の中でつやつやとそれの色は、鮮やかな黄色。エストレージャの瞳と、同じ黄色だ。アマーリエが王宮のお針子としてのコネを使って手に入れた、最上級の生地。それを使って作った、髪を飾るためのリボンだった。
「エストレージャ様は、綺麗な長い髪をしていらっしゃるから、その髪を飾らせていただけたら、と、思ったんです。いつもほとんど装飾を身にまとわれないので、だから、ええとその……」
それ以上は言葉にならなかった。何を言っても言い訳にしかならないと気付いたからだ。エストレージャは何も言わずに、しげしげとリボンを見つめ、その長い指で、驚くほど丁寧に、慎重に、そのリボンの流れをゆぅるりと辿っていく。そして彼は、アマーリエが、気付いてほしかったけれど、同じくらいに気付いてほしくなかった『それ』に、その指先を滑らせた。
「わざわざ、刺繍を入れてくれたのか?」
「……はい」
そう。決して目立たないどころか、ほとんどの者は一見では気付かないだろう。アマーリエがエストレージャに渡した黄色のリボンには、同色の絹糸で、精緻な花の刺繍がほどこされていた。アマーリエが夜なべして刺した、ありったけの心を込めた刺繡だ。とはいえ花の刺繍だなんて、エストレージャのような男盛りの青年には気恥ずかしいものかもしれない。いやそもそもリボンで髪を飾るという行為自体、好まれないかもしれない。今更そう気付いて、自分の独りよがりの贈り物が恥ずかしくて仕方がなくなる。それなのに。
「ありがとう」
「え」
「ありがとう、アマーリエさん。大切にする。絶対に使う。本当に、嬉しい」
「あ……」
それなのに、エストレージャは、笑うのだ。心の底から、本当に本当に嬉しそうに、頬を上気させて、笑って受け取ってくれたのだ。アマーリエのリボンなんて、彼の身分や立場を思えば、お世辞にも大したものではないだろう。にも関わらず、彼はリボンを、それはそれは丁寧に畳んで再び箱に収め、その箱を何よりも大切な宝物であるかのように、自らの懐に丁重に収めてくれた。
「またお礼をしなくちゃならないことが増えてしまったね」
「そ、そんな! もう十分でございます……!」
「そう? それは残念だな」
とても、と、神妙な顔で強調するエストレージャに、今度こそアマーリエは言葉を失った。どういう意味ですか、と、問いかけたくても問いかけられない。そんなアマーリエに一礼して、今度こそエストレージャは去っていった。こちらに向けられた後ろ姿。その背中でしっぽのように揺れる長い髪。あの美しい髪を、アマーリエが作ったリボンが飾る日なんて、本当に来るのだろうか。信じられない。信じてはいけない。けれど。
「期待、しちゃうじゃない」
ぽつりと呟いたその声を、聞き拾う者は誰もいなかった。
そうして、それからもエストレージャは、アマーリエの帰路を送るたびに作業場に迎えに来る――――ことは、なくなった。
何せ、《プリマ・マテリアの祝宴》まで、もうとっくに一か月を切っているのだ。エストレージャは姫君の守護者であるという立場から忙しく王宮で采配を振るうことを求められるようになり、彼からは「《祝宴》が終わるまでは送れなくなってしまったんだ」となんと頭を下げられた。
謝らないでくださいとんでもございません! と悲鳴を上げたのはアマーリエである。
そもそも彼がアマーリエの護衛役を担ってくれていたことそのものがイレギュラーな事態だったのだ。本来ありえない事態である。だからこそ彼が彼の本来の仕事に従事するにあたってアマーリエのそばにいられなくなるのはごもっともな話であるし、アマーリエの帰宅時間はもうばっちり定時の、比較的明るい時間帯なのだから、問題はない。
それをそのままエストレージャに伝えたところ、彼は何やら「そ、そうだね……」と肩を落としていた。きっとお疲れなのだろう。ならばこそ、余計に彼がアマーリエに構っている暇などないことは明らかだった。というわけで、アマーリエは日々の業務をこなしつつ、一人で安全に帰宅する日々を過ごした。
そうして、いよいよ《プリマ・マテリアの祝宴》がやってきた。
七日間、昼夜を問わずに開催されるお祭り騒ぎに、誰も彼もが浮足立つ。子供はそのまま、大人は仮面で顔を隠して、あらゆる仮装を身にまとい、精霊達とのひとときの逢瀬を楽しむのだ。アマーリエももちろん、その浮かれた大人の一人として、お祭り騒ぎに繰り出す――――なんて、ことは、なく。
「一応間に合ったけれど……やっぱりこれじゃ、お針子の名が泣いちゃうわね」
ほう、と吐き出した溜息が、アマーリエ以外に誰もいない、いつもの王宮の作業場に響き渡る。そんなアマーリエが身にまとうのは、シンプルなワンピースだ。全面にやはり精緻な花の刺繍が施されているが、ワンピースそのものはとても簡素で飾り気のない、伯爵令嬢が《祝宴》でまとうべき仮装からは程遠いお粗末さだ。これが、アマーリエが自ら作り上げた、此度の衣装だった。顔の上半分は、《祝宴》近くになると王都に並ぶ仮面を売る出店から買った、翡翠色の、光の加減でオーロラのように色を変えるちょっとばかり洒落たものだが、この時期珍しいものではない。いつもバブーシュカに収めている波打つ小麦色の髪は背に流し、あちこちをワンピースと同じ生地のリボンで飾っているけれど、ヘアアレンジとしてはやはり目新しいものではない。
まあ、仕方ないのだ。何せアマーリエには、自分の衣装を用意できるような余裕なんて、ほとんどなかったのだから。山積みの依頼はこなしたけれど、その分必然的に自身の衣装は後回しにすることとなり、それでもなんとかならないかと頑張ってはみたけれど、ぎりぎり間に合わせるにはここまでが限度だった。
《祝宴》の仮装に貴賤はない。何せ禁色すら許されるくらいだ。どんな衣装であろうとも、誰も気にしないだろう。それでもアマーリエは、姫君の衣装まで担当したお針子の矜持として、もっと実力の限りを尽くした衣装を作りたかった。つまらない意地だ。そう、矜持と意地、なのだ。それだけだ。そうに決まっている。そういうことに、しておかなくては。
町は大盛り上がりの様子で、その喧騒がここまで聞こえてくるけれど、やはり《祝宴》そのものの賑わいからは一線を画している。このまま七日間、作業場でぼんやりしているつもりはないのだけれど、町に一人で繰り出すような浮かれた気持ちにもなれず、アマーリエはまた溜息を吐いた。そのときだ。
コンコンコン、と、出入り口の扉がノックされる。思い当たる相手がいなくて、アマーリエは思わず身構えた。こちらの反応を待たずに、扉は開かれる。一体誰が、と、仮面の下で眉をひそめたアマーリエの表情は、そうして、ぽかん、と、仮面越しですら解るまぬけ面になった。
「――――ああ、やっぱり。ここにいたんだね」
その、穏やかな声。聞き間違えることのない、その、声は。
「エストレージャ、さ、ま」
たとえ顔を仮面で隠されていても、どうして彼のことが解らないでいられようか。
呆然とその名前を呟けば、彼のまとう雰囲気が、緊張ばかりではなく、喜びが入り混じるそれになる。
「うん、アマーリエさん。その……久しぶり、に、なるのかな」
彼もまた、アマーリエのことを、呼んでくれた。ぶわりと胸が熱くなる。思わず両手を胸の前でぎゅっと握り締めるアマーリエに対し、白銀の狼を模したハーフマスクの向こうで、彼は、エストレージャは、はにかんだ笑みを浮かべた。
その姿の、なんて凛々しいことだろう。なんて麗しいことだろう。お針子として従事するアマーリエの目から見ても、一級品を飛び越した特級品、再現なんて不可能に違いないと断言できるような、その礼装の色は高貴なる深い紫。彼のアッシュグレイの髪によく映えるその色。そしてその、いつもとは違って高い位置でまとめられた長い髪を飾るのは、黄色いリボン。そう、アマーリエが贈ったリボンだ。
――王子様、だわ。
そう思わずにはいられなかった。彼は王子様だ。絵物語に出てくるような、理想の王子様。アマーリエには手の届かない、とうといお方。それを《祝宴》でもまた思い知らされるなんて、と、自分でも驚くほどショックを受けているアマーリエのもとに、彼は静かに歩み寄ってくる。
慌てて腰かけていた椅子から立ち上がると、彼はしげしげと仮面越しにこちらの姿を見つめてきた。かぁっと顔が熱くなる。恥ずかしくて仕方がなかった。時間がない中で自分なりに頑張った衣装だけれど、でも、こんなにも立派なエストレージャを前にしてしまったら、何もかも悪手であったとしか思えない。
あまりの情けなさに俯くと、肩からリボンで飾られた自らの髪が滑り落ちる。あ、と、思う間もなく、そのひとふさを、エストレージャの手が持ち上げた。
「この、リボンとか、そのワンピースの生地って、もしかして、あなたがくれた俺のリボンと同じもの、で、合ってる?」
「っ!」
ためらいがちな問いかけは、疑問ではなく確認だった。びくりと肩が跳ねた。そうだ、その通りだ。アマーリエのワンピースも、髪を飾るリボンも、エストレージャに贈ったリボンの生地と同じ、鮮やかな黄色のそれ。生地としては最上級のものだが、最上級だからこそ、お針子扱いの伯爵令嬢のためのワンピースや、小さなリボンにするには、あまりにも過ぎたものだ。
「も、うし、わけありま……」
「綺麗だ」
「…………え?」
今、何を言われたのか。短くはっきりと言われたその言葉が理解できずに、気付けば俯いていた頭を持ち上げる。そんなアマーリエの髪のひとふさを優しく持ったまま、エストレージャはそれを、そっと自らの唇へと寄せる。そうしてようやく髪を放してくれた彼は、その口元に優しく穏やかな、どこか恍惚とした笑みを刻んだ。
「刺繍も、同じ花だよな。俺はそういうのに詳しくなくて……なんて花なのか、聞いても?」
「……ミモザアカシア、です」
「ミモザアカシア。ありがとう、覚えた。絶対に忘れない」
そう言ってまた嬉しそうに笑う目の前の彼は、一体誰なのだろう。本当に、エストレージャなのだろうか。もしかして、精霊界からやってきた精霊にからかわれているのではないだろうか。そう思わずにはいられないほどに、現実が信じられない。
ただただ呆然とするばかりのアマーリエのただならぬ様子に、エストレージャは気付いたらしい。そっと身を屈め、仮面越しにこちらの顔を覗き込んでくる。
「あなたはずっと忙しそうにしていたから、《祝宴》の初日から町に繰り出さなさそうだなって思って。あなたのことだから、きっとここにいる気がしたんだけど、よかった。正解だった」
「……私を、探してくださったんですか?」
「…………あ、その…………………………うん」
小さく問いかけると、それ以上に小さな声と共に頷きが返ってくる。彼の仮面で隠れていない部分の顔は、いつぞやと同じくやはり赤くて、アマーリエもまたぶわりと顔が……いいや、全身が熱くなる。だって、探してくれるなんて。自らの出自を隠し精霊の目から逃れるために仮装をする《祝宴》で、それでもなお誰かを探すと言うその行為。その意味を、アマーリエは知っている。
――《祝宴》で、仮面をつけたパートナーを見つけられたならば、それは精霊すらも認めた運命の恋人。
エストレージャは、知っているのだろうか。そのつもりで、探してくれたのだろうか。だとしたら、とても嬉しいのに。嬉しいだなんて、思ってはいけないのに、それでも嬉しいと、思わずにいられるはずがないのに!
そう立ち竦むアマーリエの耳に、不意に、優美な旋律が聞こえてくる。は、と無意識に忘れていた呼吸を思い出すと、ああ、とエストレージャが窓の外へと視線を向けた。
「宮廷楽団の演奏が始まったみたいだ。今日は音声拡張魔法で、大広間だけじゃなくて、王宮のあちこちで聞こえるように設定されてるから」
「そ、う、なんですね」
ぎこちなくそう返せば、エストレージャは頷いて、それから、改めてアマーリエを見下ろしてきた。白銀の狼の仮面の向こうから届く熱いまなざしに、身も心も焼かれてしまいそうだ。自分でも制御できない歓喜と戸惑いに震えるアマーリエにエストレージャはいたずらげな笑みを向けた。
「ちょっと、ごめん。今だけだから」
「え?」
何を、と思う間もなく、エストレージャがパチンと指を鳴らす。次の瞬間、作業場にところ狭しと並んでいた作業台や椅子、あれこれこまごまとした道具、材料が、一斉に整然と片付けられ、すべて部屋の四方へと押しやられる。
声を上げることもなく驚きをあらわにするアマーリエの前に、そうしてエストレージャは、本当の王子様のように跪いた。
「どうか私と踊っていただけませんか、プリンセス・ミモザ」
「――――ッ!」
差し伸べられた手。切なる響きを宿した声。仮面の向こうから贈られる熱いまなざし。何もかもがあまりにも嬉しくて、幸せで、『お姫様』なんて柄じゃないのに頷いてしまった。その手に自らの手を重ねてしまった。
そうして始まったのは、二人きりのワルツだ。
――本当は。
――本当は、ドレスを、作りたかったの。
窓の向こうから聞こえてくる旋律を頼りに、三拍子を踏む。お互いがお互いしか見ていない中で、アマーリエは内心で呟く。
――とびっきりのドレスを作って、あなたを探したかったの。
《祝宴》の間だけは、エストレージャに釣り合う姫君になって、そうして自ら彼のことを探したかった。実際はそんな真似はかなわなくて、結局ワンピースしか用意できなくて、諦めるより他はなかったけれど。でも、エストレージャは、そんなアマーリエのことを見つけてくれた。『お姫様』と呼んでくれた。
――いち、に、さん。
――いち、に、さん。
ワルツは続く。いつまでも。この時間がずっと続けばいいのにと願わずにはいられない。でも。
――ミモザアカシアの花言葉は、『秘密の恋』。
その秘密を、エストレージャにあばいてもらうことを、今のアマーリエは望んでいる。どうか、どうか。口にすることができない想いが、ステップを踏むたびに降り積もっていくのを、アマーリエは夢見心地のまま、感じていたのだった。