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ネタバレとなりますが、この第5話には『犬が死ぬ描写(過去)』が含まれます。なにとぞご注意ください。

ちくちくちく。ちくちくちく。ちくちくちくちくち……ぶすっ!


「あいたっ!」


勢いよく指先に刺さった縫い針に、アマーリエは悲鳴を上げた。慌ててその指を見下ろせば、ぷっくりと赤い血がにじむ。またやっちゃった、と溜息を吐いて、自分以外には誰もいない作業場をなにとはなしに見回した。

来たる《祝宴》に向かって、いよいよアマーリエも大詰めを迎えていた。山積みになっていた衣装の依頼書は、残すところあと数枚。この調子ならば無事に締め切りに間に合うだろうが、その『この調子』は、それすなわち、今夜もこうしてたった一人作業場に残って針仕事にいそしむことを意味する。

同僚達は誰しも「手伝うからいい加減休め」「あなたのほうが倒れちゃうわ!」と口々に心配してくれたが、アマーリエは「大丈夫よ」と差し伸べられた彼らの手を丁重にお断りした。確かに頑張りすぎているかもしれない自覚はあるが、無理をしているつもりはない。むしろこれくらい頑張りすぎないと、アマーリエは落ち着いていられないのだ。


「……っだめだめ、また思い出しちゃったじゃない、やだ、落ち着きなさいアマーリエ!」


脳裏をよぎるのは、涙に濡れながらもきらきら輝く、星のような黄色の瞳。この手をぎゅっと包み込んでくれた、剣だこであちこちが硬くなった、それでもなお優しいぬくもり。そして、それから。


――ありがとう、プラネッタ嬢。


心からの感謝が込められたやわらかな声と、どこか甘やかさすら感じられる、あの、うつくしい微笑み。

何もかも忘れられない。どれだけ思い出さないようにしても、ふとした拍子にあの輝きが、あのぬくもりが、あの声が、あの微笑みが、アマーリエを惑わせる。


「エストレージャ、様」


彼の名前を口にするだけで、不思議と胸が熱くなる。あの衛兵達との一件があってから、彼のことを今度こそ『守護者様』ではなく、『エストレージャ様』といよいよ名前で呼ぶようになった。ためらいはもちろんあったけれど、名前を口にするたびに彼があまりにも嬉しそうに微笑んでくれるものだから、もうアマーリエに勝ち目なんてなかったのである。

あれからも、彼は変わらずアマーリエを昼食に誘いに来てくれる。そのたびにいつだってアマーリエは、この高鳴る鼓動の音が彼の耳に届いてしまっていないか不安にさせられる。

彼の一挙一動に一喜一憂する自分がいることになんて、とうに気付いていた。その理由なんて、この想いの名前なんて、本当はとっくに理解している。けれど。


「期待するだけ無駄よねぇ……」


ふふ、と思わず笑ってしまった。解っているのだ。いくら彼が『当たり前』の青年であることに気付けたとはいえ、それでもやはり彼は同時に『特別』な守護者様でもあるということを。アマーリエが手を伸ばしていいお方ではない。もっとふさわしい貴婦人こそが、彼の隣に立つべきだ。

そう言い聞かせ続けたのがここ数日の話であり、考えれば考えるほど落ち込んでしまうものだから、アマーリエは仕事に没頭することを選択した。当初は「いくらなんでもこれはないんじゃないかしら」と頭を抱えた山積みの依頼も、今となっては感謝している。余計なことを考えずに済むからだ。

ああでも、その依頼も、そろそろ終わりが見えてきている。その後、自分はどうすればいいのだろう? エストレージャの来訪を気付けば心待ちにしている自分。けれどそれはきっと彼の気まぐれによるもので、いつかその気まぐれは終わりを告げるに違いない。そのとき、アマーリエは、どうなってしまうのか。


「やっぱり《祝宴》が終わったら、長期休暇を申請しましょ」


そうだ、それがいい。一度帰郷して、頭を冷やすべきだ。

大切な家族と顔を合わせたのはもう随分と前の話になるし、アマーリエのことをそれはもう大層心配してくれている彼らのことを思えば、いい加減王都で遊び惚け……ているわけではなく仕事に勤しんでいるのだが、とにかくそろそろ年貢の納め時だ。かわいい弟妹はもうどれだけ大きくなっていることか。ちっとも帰ってこない薄情な姉のことを、忘れてしまっているかもしれない。いや、頻繁に送ってくれる手紙には、いつだってこれでもかとたっぷり親愛が込められているから、その心配はさすがにないだろう。


「離れてみたら、勘違いだったって納得できるかもしれないし」


なにせあんなにも素敵な殿方なのだ。近くにいるからこそ、ついつい浮足立って調子に乗って、そう、ただの勘違いを、取り違えてしまっているのかもしれない。そうだ。そうだとも。そういうことに、しておこう。

ちくんと胸が痛んだけれど、やはりそれもまた気のせいだと思うことにして、あとは仕上がりを確認するだけになった衣装をトルソーに着せて、手荷物をまとめた。

今夜もとっぷり日が暮れた、真っ暗な遅い帰り道だ。けれど、たった一人の帰り道、ではない。


「……ありがとう、今夜も待っていてくれたのね」


手荷物を片手に通用口から出ると、そこにはやはり例の子犬がいた。ぎこちなく笑いかけると、「当たり前だ」とでも言いたげに、子犬は小さく一声鳴いた。その声についぎくりとしてしまうけれど、それでも逃げ出そうとは思わなかった。この子犬は、アマーリエに害をなす存在ではない。本当はずっと解っていたのに、一生懸命馬鹿みたいに必死になって目を逸らしていたその事実を、ようやく受け入れられた自分がいる。


――だからって、完全に怖くなくなったわけじゃない、けど。


そう小さく溜息を吐くアマーリエの隣に、子犬はてててと駆け寄った。

いつも背後からそっとついてくるだけだった子犬は、今ではもう当たり前のようにアマーリエの隣に並ぶ。当初は遠慮がちであったけれど、今となってはすっかりそこが定位置であると言わんばかりだ。

アマーリエが自身の隣を許したことに、子犬は敏く気付いている。だからだ。いまだにびくついてしまうことは多々あれど、それでもいつまでも後ろをついてこられるよりも、隣にいてもらったほうがいいと、そうアマーリエが思ったから、子犬はその望みの通りに隣に並んでくれる。


「じゃあ、帰りましょう? 今夜もお願いね」


一丁前にアマーリエの騎士を気取っているらしい子犬は、嬉しそうにまた鳴いて、一緒になって歩き出す。

当たり前だが、もう季節はすっかり秋だ。この時間ともなれば肌寒さすら感じる。そろそろ上着を重ねるべきね、と思いながら、空を見上げた今宵は新月。月はその青く輝く美しい姿を夜のとばりに隠し、かわりに星々が天に敷かれた闇色のビロードを彩っている。


――あの星、エストレージャ様の瞳みたい。


黄色というよりも金色と呼ぶべきまぶしい色で、一際大きく輝く一等星の名前は、なんと言ったのだったか。夜の女王と称される月よりも身近で、けれど月と同じく決して手が届かない、あの星の名前は。

不意にぎゅうと胸が詰まった。同時に歩みもぴたりと止まって、そのまま隣とててててと歩いていた子犬が、数歩先から不思議そうに振り返る。


――どうしたんだ?


不思議そうに小首を傾げる子犬の姿に、「なんでもないの」とかぶりを振る。子犬はじっとこちらを見つめてくる。綺麗な黄色の瞳だ。そういえばエストレージャ様と同じ色なのね、とはたと気付いて、余計にぎゅうぎゅうと胸が締め付けられた。まさかエストレージャも、こんなにもいとけない子犬を通して自分のことを思い出されているとは思ってもみないだろう。これはアマーリエのひとりよがりだ。滑稽なダンスを、たった一人で踊ろうとしている。


「住む世界が、違う方なんだから」


自分に言い聞かせるようにそう呟けば、なぜか子犬が駆け寄ってきた。ひえっとやはり反射的に身を竦めるアマーリエの足元まで近寄ってきた子犬は、そのままじいっとこちらのことを見上げてくる。その瞳に宿るいかにも心配そうな光は優しく、やはりエストレージャの瞳を思い出させ、アマーリエは苦く笑った。


「そんなことないって言ってくれてるのかしら。あなたは優しい子ね」


誰のことを言っているかも解っていないだろうに、それでもアマーリエのことを慰めようとしてくれている子犬は、とても優しく賢い子だ。もう怯える必要なんてないことは、本当は解っている。それでもこの子犬を前にすると、未だに身体が強張るのだ。ここでその小さな頭を撫でてあげられたらいいのに、どうしてもできない。


「……ごめんなさいね」


そう小さくささやけば、子犬はなんとももどかしげに、アマーリエの周りをうろうろと歩き回る。愛らしい仕草に、ようやくアマーリエの顔にほのかな笑みが宿った、そのときだ。

ぴたり、と子犬の足が止まる。ぴくぴく、とそのぴんと立った耳が動き、すんすんと鼻が鳴る。そのままぶわりと全身の毛を逆立たせる子犬の姿に、きょとんとアマーリエは瞳を瞬かせた。


「ど、どうしたの? 私、何か変な臭いでもしたかしら?」


今日は特に特殊な染料を扱ってもいないし、いつも通りのつもりなのだけれど、子犬は、アマーリエのような人間には解らない、犬だからこそ解る変化を感じたのだろうか。


――いつも通りよね?


そう自らの身体を見下ろすアマーリエを後目に、子犬がアマーリエから離れた。そのままこちらを背後にして、低く唸り始める。こんな小さな子に、こんな声が出せたのか、と、恐怖よりも先に驚愕が立つほどに、険を帯びた唸り声だ。

子犬の視線はまっすぐに、ちょうど進行方向にあたる道の先、街灯のない夜の闇の奥を睨み付けている。尋常な様子ではない。出会ってから今日までの子犬からは考えられないような、あまりにも攻撃的な様子に、息を呑んで固まることしかできずにいる。やっぱり犬なんて! と逃げ出したくなるけれど、でも、この子犬は、いつだってアマーリエのことを護ってくれた。そんな彼が、こうして姿勢を低くして夜闇を睨み付けているその姿、何か理由があるに違いなかった。


「ねえ、どうし……ひっ!?」


問いかけるよりも先に、すべての疑問は氷解した。アマーリエの目には捉えられていなかったが、子犬の目にははっきり見えていたに違いない『ソレ』が、夜闇から這い出てきたからだ。


「ア、アンデッド……ッ」


――『ソレ』は、かつては、確かに人間であったのだろう。だが今の姿は、あまりにも生ける人間のそれからは程遠いものだった。

その身体は、腐敗した肉をかろうじてまとってはいるものの、薄汚れた骨があちこちから覗く。その骨はところどころがおかしな方向に折れ曲がっていて、一歩進むごとにぐらりぐらりとよろめいている。かろうじて残った髪は血と泥でべたつき、こちらを見つめてくる瞳は既に片方は失われ虚無が宿り、もう片方もまた生命の輝きなどとうに燃え尽きていた。

アンデッド。かつての魔王との戦いにおいて、魔王軍が主に尖兵として用いた魔物だ。かつて確かに生ける人間であった者の死体に、無理矢理魔力を注ぎ込んで作られる魔物。死者の尊厳を踏みにじられた、あまりにもおぞましく、どこまでも哀れな存在。


――ど、して、王都に!?


女神の守護をより強く受けたこの王都は、黒蓮宮の魔法使い達によって、強固な結界が張られている。魔王が討伐された後もまだ残る、魔物の侵入を防ぐためだ。それなのに、どうして。いいや、どうしても何も、一応話には聞いたことがある。下位の魔物であれば、結界の穴を通り抜けることが可能であると。特にアンデッドは、かつて『ヒト』であったという性質から、時に結界が関知しないことがあるのだと。

それは夜になっても眠ることを嫌がる子供に言い聞かせるための話だと思っていた。けれど、そうではなかったことを、まさかこんな風に想い知らされるなんて!

どうしよう。どうすれば。いくら考えても答えは出ない。いいや、もう、考え込む余裕なんてなかった。がくがくと膝が笑って、そのまま、がくん! と崩れ落ちるようにへたり込む。


「ひ、い、いやぁっ! こな、来ないでっ!」


ずるずると足を引きずりながら近づいてくるアンデッドは、完全にアマーリエのことを獲物であると見なしたようだった。逃げなくてはならないのに、逃げるどころか立ち上がることすらかなわない。尻餅をついたままなんとか後退しても、そんなものは抵抗にもならない。


――私、死んじゃうの?


すとんと落ちてきたその予想に、ぞっと全身が粟立った。けれど、もう、どうしていいのか解らないのだ。ああ、誰か。誰か助けて。誰か、誰か――――……。


――エストレージャ様……!


胸に宿る星のまたたきのような響きを、内心で叫ぶ。その叫びに答えるかのように、ひときわ大きな吠え声が上がる。

え、と固まるアマーリエを背後にして、それまでただ唸るばかりだった子犬が、アンデッドに飛び掛かったのは、その次の瞬間だった。

大きく目を見開いて固まるアマーリエの目の前で、子犬は勇猛果敢にアンデッドに襲い掛かる。アンデッドは基本的に不死だ。だからこそ『アンデッド』なのだ。彼らを屠るには、女神の力を借りて行使する浄化魔法か、あるいは精霊の力を借りて行使する火魔法が必要とされる。間違っても、小さくいとけない子犬が、たった一匹で倒せるような相手ではない。

それでも子犬は諦めない。何度振り払われ、何度殴り飛ばされ、何度蹴り飛ばされても、それでもなおアンデッドに躍りかかる。その様子を、アマーリエは座り込んだまま呆然と見つめる。


「ぐるぅあぁっ!」


アンデッドにとっては、子犬はわずらわしい羽虫のようなものでしかないのだろう。顔に飛びついてきた子犬を両手で掴んだかと思うと、ぶん、と腐臭をまき散らしながらそのまま地面に叩きつける。

それでも、それでも。それでもなお、子犬は諦めない。逃げればいいのに、逃げないのだ。それがどうしてなのかなんて、誰に言われなくたって、子犬自身に説明されなくたって解る。子犬は。彼は。


――わ、たしを、まもる、ために……!


冗談ではなかった。アマーリエのことなんて置いて、自分だけ逃げればいい。そうするのが一番いい。だって勝てるわけがないのだから。それなのに決して逃げようとはせずにアンデッドに立ち向かう子犬の姿に、ぶわりと涙がにじむ。


「やめ、て! やめてよぉ!」


それは、どちらに対する制止だったのか。子犬を痛めつけるアンデッドに対してか、それとも、自らの身を顧みずアマーリエを護ろうとする子犬に対してか。ああそうだ、きっと、どちらかではなく、どちらにも対してだ。

ああ、ああ、ああ。過去の記憶がよみがえる。思い出したくない記憶。けれど、決して忘れてはならない記憶。

心の奥底にかたく封印していたそれが一気によみがえり、その衝撃にめまいがする。だからこそ願わずにはいられない。お願い、お願いだから。


「逃げて、逃げてちょうだい! 私のことなんていいから!」


心からの叫びだった。涙に濡れるその叫びとちょうど同時に、とうとう子犬は、今度こそ大きく蹴り飛ばされ、街路樹に叩きつけられる。そのままずるずると地面に伏せる子犬の元へ駆け寄りたかったけれど、やはり足は動かず、そしてそれ以前に、アンデッドのほうが動いていた。

いよいよ眼前に迫りつつある魔物の姿を、座り込んだままただ見上げる。


――これは、報いなのかしら?


あのときの。そうアマーリエが、とうとう覚悟を決めてしまったそのとき。変化は、起きた。



――――――――――ォオン!



大きな、けれど決してやかましいというわけではない、威厳ある吠え声が響き渡った。気付けば硬く閉じていた目を開く。そしてそのまま、その目を見開いた。

伏せていたはずの子犬が、いつの間にか再び勇ましく、四肢を地に着けて立っている。もしかして今の声は彼の? と瞳を瞬かせれば、それにこたえるように、子犬の身体が淡い光に包まれる。優しい白銀の光だ。


「ぐ、あ、ぁ」


その光におじけづいたようにアンデッドが呻く。光はより強くなり、同時に子犬の身体が変化していく。

短かった四肢は太く長くなり、愛らしいしっぽもまた優美にすらりと長く伸びる。その身体そのものが大きくなって、そう、一般的な成犬と比べても一回りは大きな姿になる。愛らしかった顔立ちは凛々しく、そして雄々しくなり、瞳がまばゆく金色に輝く。


「お、お、かみ?」


呆然と呟く声に応えるように、子犬は……いいや、子犬と思い込んでいた、今は大きな白銀の狼の姿となった彼はオンと鳴いた。

そして彼は地を蹴った。ほとんど一足飛びでアマーリエとアンデッドの間に割り込んできた狼は、そのまま、アンデッドを金色のまなこで見上げる。


――――――――――オォン!


鋭い牙が覗く口から放たれた咆哮は、一条の光となってアンデッドを貫いた。白銀の光がアンデッドを包み込む。その朽ちた顔に浮かんでいた、怒りと恨みと憎しみが、ほどけていく。同時にアンデッドの身体が、かつての人間の姿を取り戻す。かつて生を謳歌していたに違いない優しげな面持ちの青年が、深く狼に向かって一礼する。そうしてそのまま、彼は光の粒子となって夜闇の中に溶けていった。

その姿を最後まで見届けた狼が、くるりとこちらを振り返る。ただただ一連の様子を見守るばかりだったアマーリエがびくっと肩を揺らすと、彼は困ったような雰囲気をまといつつも、ゆっくりとこちらに近付いてくる。

アマーリエは動けない。恐怖ゆえではない。ただ、あまりにも神聖な存在を前にして、どうしたらいいのか解らないのだ。気付けばすぐそこまで来ていた狼は、アマーリエの涙に気付いたらしい。ぺろり、と、慰めるように、彼は濡れた頬を舐めてくれて、そうしてそのまま、流星のような軌跡を残して、夜闇に飛び込んでいった。

残されたのはアマーリエただ一人。座り込み立つこともできないまま、どれほどの時間が経過したことだろう。

ほんの数分だったのかもしれないし、もしかしたら何時間もそうしていたのかもしれない。風が吹く。秋の風だ。もう冷たさすら感じる風にさらされて、身体もまた冷え切っている。帰らなくちゃ、と、ぼんやりと思う。それなのにどうして自分は動けないのだろう?


「――――プラネッタ嬢!」

「……え?」


今、不思議と、一番聞きたくて仕方なかった声が、けれども聞けるはずがない声が、何故か、自分を呼んだ。

のろのろとそちらを見遣ると、長いアッシュグレイの髪を乱しながら、エストレージャが駆け寄ってくる。どうして、と思う間もなく、彼はすぐそばまでやってきたかと思うと、そのままアマーリエの前にひざまずいてくれた。どうして、と声なく唇をわななかせれば、彼は一瞬言葉に詰まってから、すぐに真剣な表情になった。


「魔物の気配を感じたから、もしかして、と思って。プラネッタ嬢、大丈夫だった?」

「あ、は、はい……。アンデッドに遭遇しましたが、不思議な狼さんが、助けてくれて……」

「そうか。それはよかった」

「は、い。よかった、です。そう、よかったんです、よ、ね」


そうだとも。よかったのだ。これで、よかったはずなのだ。もう安心していい。もう怖くない。エストレージャだって来てくれた。彼はいかにも心配そうにこちらのことを見つめてくれる。綺麗な黄色い瞳だ。夜闇の中でも星のように輝くその瞳は、先ほどの子犬と同じ色をしている。そう、アマーリエを護るために、全力で戦ってくれた、勇ましき騎士様。


「プラネッタ嬢? 大丈夫、じゃないよな。身体もすっかり冷えてるし、とりあえず俺の上着を……プラネッタ嬢?」

「わたしの」

「え?」

「私の、せい、なの」

「……?」


不思議そうに首を傾げるエストレージャを前にして、とうとうアマーリエの瞳は決壊した。ぶわりと涙があふれだし、次から次へと止まらない。エストレージャがぎょっと目を見開くけれど、でも、どうしても止められなかった。


「私、私のせい、なんです……っ! 私を、まもった、せいで、あの子は、ナイトは、死んじゃった……!」


今でもまざまざと思い出せる。思い出さないようにしていたけれど、本当は忘れたことなんてなかった。ずっとずっと、『あの子』はこの胸の中にいた。


「――『ナイト』っていうのは、あなたの家族?」


エストレージャの静かな問いかけに、滂沱の涙を流しながら何度も頷く。

ナイト。それはアマーリエが、九歳の時まで飼っていた犬の名前だ。

アマーリエの髪の色と同じ小麦色の毛並みの、大きな犬だった。いつだってアマーリエのことを追いかけ回すやんちゃ坊主だった。大きな彼に追いかけ回されて、何度アマーリエは泣かされたことか。でも。


――ナイト、ナイト!

――ほら、こっちよ……ってきゃああっ!

ーーもうっ! ナイト! やぁだやめてちょうだい、くすぐったいったらぁ!


それ以上に、幼いアマーリエを笑わせてくれたのが彼だった。怖いときもあったし、腹が立つときもあったけれど、それ以上に大好きだった。大切な家族だった。

けれど、その家族は、アマーリエのせいで死んでしまった。あれは、弟が生まれたばかりのときだった。

跡継ぎたる嫡男の誕生に両親も使用人も領民もおおいに盛り上がり、それが面白くなくて、九歳のアマーリエは家出をした。家出といっても、領地の雑木林の狩人小屋に向かうだけという、ささいなものだったけれど、当時のアマーリエにとっては立派な家出だった。その家出に、当たり前のようについてきたのがナイトだった。いつもだったら無理矢理にでも追い返すところだったけれど、そのときばかりは、自分のことを弟よりも優先してくれるナイトの気持ちが嬉しくて、一緒になって雑木林に足を踏み込んだ。

それが、いけなかったのだ。当時、魔族の出現率が、国中のあちこちで上昇していた。今ならばそれは、魔王の復活に伴う魔族全体の活性化だと解るけれど、そんなことはどうだっていい。問題は、その魔族が、プラネッタ領も例にもれず出現するようになり、あろうことか家出中の幼いアマーリエに襲い掛かってきたことだ。


「勝てるわけ、なかった、のに。それなのに、ナイト、魔族から、さいごまで私のこと、まもってくれてっ」


いつだって陽気なナイトが、信じられないほどの勇ましさで、アマーリエを護り、庇い、そして魔物を追い返してくれた。けれど、そのかわり。


「あのこ、血で、まっかに、なって、そのまま、そのまま……っ!」


それ以上は言葉にならなかった。アマーリエの大切な家族は、そのまま天の国に旅立った。アマーリエはその後、見回りに来た狩人に保護されたが、以来、犬が駄目になった。怖かった。かわいがればかわいがるほど、いつか自分のせいでその犬も命を落としてしまうのではないかと思うと、目にすることすらためらわれた。そして、ナイトを自分のせいで失ったくせに、ナイト以外の犬をかわいがるなんて、とんでもない裏切りであるように思えて仕方なかったのだ。

だから犬を避けた。大嫌いだと言ってまわり、天敵であると見なした。そうして、今日まで、アマーリエは『犬嫌い』であり続けた。


「私、私がっ!」


全部いけなかったのだ。何もかも。だからナイトを失った。大切な、愛しい家族を。

そのまま泣きじゃくるアマーリエを、エストレージャはじっと見つめてくる。困らせているのは解っていた。いきなり何を言い出したのかと、さぞかし戸惑っていることだろう。早く泣き止まなくてはならない。困らせてはいけない。そんなことは解っているのに、先程の子犬の姿が、最後まで戦い抜いてくれたナイトの姿と重なって、涙があふれて止まらない。

とうとうしゃくりあげ始めたアマーリエの肩に、そっと、あたたかなぬくもりが乗せられた。不意打ちにびくりと身体を揺らして顔を上げると、そこには、驚くほど穏やかで優しい微笑みがある。思わず泣くのを忘れて息を呑めば、エストレージャは、アマーリエのことをそのまま自らのほうに引き寄せてくれる。

驚きのあまり、今度こそ涙が引っ込むアマーリエの耳元で、エストレージャはささやいた。


「大丈夫。彼は……ナイトは、後悔なんてしていない」

「そ、んなことありません! 勝手なこと言わないでください……!」


いくらエストレージャが相手であるとはいえ、その発言だけは許せなかった。ナイトのことを知らないくせに、何が解るというのだろう。後悔していない? ナイトが? そんなはずがあるものか。アマーリエが馬鹿だったせいで死んでしまったあの子は、もっともっと、長生きして幸せにすごすはずだったのに。それなのに後悔していないなんて、そんなはずが……。


「じゃあ、本人に訊いてみようか」

「……え?」


思ってもみなかった言葉に、ぱちん、と瞬く。ぽろりと涙がまたこぼれた。その涙をそっとぬぐってくれたエストレージャは、その濡れた指先を宙へと向ける。導かれるようにその先を視線で追いかけるアマーリエを抱き寄せたまま、エストレージャは続けた。


「《おいで》」


短い言葉だった。けれど不思議と力ある言葉だった。その呼び声に応えるように、エストレージャの指先から白銀の光が紡がれて、それはそのまま犬の形となる。忘れもしない。忘れられるはずがない。この大きさ、この輪郭、この白銀の光に包まれながらもなお懐かしい小麦色の毛並み。それは。


「ない、と?」


恐る恐る問いかけると、アマーリエの目の前に突如として現れた犬――半透明の姿ではあるが、間違いないナイトでしかないその犬は、嬉しそうに一声鳴いた。うそ、と音なく呟くアマーリエのことを、黒々としたつぶらな瞳がじっと見つめてくる。その瞳に、その姿に、また涙があふれた。


「ナイト、ナイトッ!」


半透明の彼に触れることは叶わないけれど、それでもかまわずにその姿を抱き締める。なんの感触もぬくもりもないはずのそこに、確かにナイトがいた。かつて失ってしまった大切な家族が、確かにこの腕の中にいる。それだけでもう十分だった。


「ごめん、ごめんね、ごめんねぇナイト……! 私のせいで、私が馬鹿だったせいでっ」


ごめんね、ごめんね、と、ナイトを抱き締めたまま、幾度となく繰り返す。くぅん、と、なんだか悲しげに鼻を鳴らす音が聞こえてきた。ほら、やっぱり。ナイトは死にたくなんてなかったのだ。当たり前だ、そんなこと。それなのにアマーリエのせいで死んでしまったこの子に、どうやったら償えるだろう。赦してもらえるなんて思わない。けれど謝らずにはいられなかった。


「ごめんなさい、ごめんね、ごめ……」

「違うよ」


更に謝罪を重ねようとしたアマーリエの唇に、そっと自分のものではない指先が押し付けられる。え、と反射的に口を噤めば、アマーリエの言葉を封じたエストレージャは、「よく見て」と困ったように微笑んだ。そうして彼が向けた視線の先には、アマーリエの腕の中のナイトがいる。


「彼はあなたに、謝ってほしいわけじゃない」

「……え?」

「ほら、見てごらん。彼の顔」


促されるままに、そっと身を離してナイトの顔を覗き込む。そして息を呑んだ。だってナイトは、笑っていたのだ。アマーリエの記憶と寸分変わらぬ笑顔で、きらきらとその木の実のような瞳をきらめかせ、期待に満ちあふれた様子でぶんぶんとしっぽを振っている。


「――――ッ!」


そう、か。そういう、こと、なのか。ナイトのそんな顔を見せられてしまったら、もう、理解せずにはいられなかった。ナイトが望んでいるのは、アマーリエの謝罪なんかではない。そうでは、なくて。


「あり、がとう、ナイト」


どうしても声は震えてしまう。もっと涙が込み上げてくる。それでもなお、アマーリエは笑った。だってナイトが、それを望んでいてくれるから。


「いい子ね、ナイト。あなたは私の誇りよ。さすが、私の、最高、の、騎士さま、ね」


ぶんぶんぶんぶん、ナイトのしっぽが揺れている。「そうでしょ、そうでしょ!」「もっと褒めて!」と、彼は全身全霊で訴えてくる。

ああ、変わっていない。そうだ。ナイトはこういう子だった。アマーリエのことを恨むはずがない。憎むはずがない。だって彼は、アマーリエのことを誰よりも愛していてくれた……ううん、今もなお、霊魂の姿になってもなお、愛し続けてくれている子なのだから!


「大好き、だいすきよ。ありがとうね、ナイト」

――――わんっ!


それが、最後だった。嬉しそうに、満足げに一声元気に鳴いたアマーリエの大切な家族は、そのままふわりと掻き消えた。

夜のしじまが戻ってくる。今度こそ本当に逝ってしまった家族を見送って、もういい加減にしたいのに、それでも涙がまたぽろぽろとこぼれた。そんなアマーリエにそっと寄り添って、エストレージャは穏やかに口を開く。


「彼はずっとあなたのそばにいたよ。心配だったっていうのもあるし、それ以上に、褒めてほしかったんだって。他の誰でもない、大好きなあなたに」


勘弁してほしかった。そんなこと、今言われたら、もう、もっと泣かないわけにはいかないではないか。なんていじわるな方なのかしら、あんまりだわ。そう吐き捨ててしまいたくなったけれど、できなかった。込み上げてきた嗚咽に、何もかも飲み込まれてしまう。

そのままアマーリエは、ひとしきり泣きじゃくった。ナイト、ナイト、と、何度も大切な家族の名前を繰り返して。

エストレージャは、今度こそそれ以上は何も言わなかった。ただ黙って、アマーリエのそばに寄り添ってくれていた。

そのまま、また、時が流れて。いつまでも泣いているアマーリエのことなんて捨て置いてくれたってかまわなかったのに、泣き止むまで待ってくれたエストレージャは、「さて」と、立ち上がりつつ、アマーリエに手を差し伸べてくれた。


「送っていくよ。まだ魔物が潜んでいるかもしれないしね」

「あ、ありがとうございます……」


さすがにこれ以上お世話になるのは気が引けたが、とはいえ彼の言う通りどこかにまた魔物がいるかもしれないと思うと、大人しく甘えるより他はない。彼の手を借りて立ち上がり、隣に並んで歩き出す。お互いに何かを言うでもない、静かな時間が流れていく。

不思議と居心地の良い時間はあっという間で、アマーリエ達はすぐに寮に到着した。「それじゃあ」とあっさりと去っていこうとするエストレージャの上着のすそをつい掴んでしまったのは、アマーリエ自身も予想だにしない行動だった。


「プラネッタ嬢?」


どうかしたのかとこちらを見つめてくる彼に、はっと息を呑んでから、アマーリエは「ええと」と言葉を濁す。急かすでもなくこちらを見つめてくる彼に、ほとんど勢いで、そのまま続けた。


「な、何かお礼をさせてください!」

「お礼?」

「はい。ナイトの、こと。本当に、本当に、ありがとうございました。だから、その……」


とはいえ、相手は地位も金も名誉もある守護者様である。伯爵令嬢であるとはいえ、今はお針子扱いのアマーリエが、彼に対して大したお礼ができるはずがない。


――言わなきゃよかったかも……。


早くも自らの発言を後悔し始めるアマーリエを、驚きをあらわにして見下ろしてくるエストレージャは、「でも」と口火を切る。


「俺だって、お礼をしただけだから」

「え?」

「言っただろう。あなたの言葉に、必ず報いると」

「あ……」


だから必要ないのだと笑うエストレージャに、それ以上何も言えなくなる。でも、何かさせてほしかった。お針子でしかない自分にできることなんてたかが知れているけれど、それでも、彼がしてくれたことは、アマーリエにとって途方もない救いとなったのだから。

そんなアマーリエの想いに、エストレージャは気付いてくれたらしい。彼の凛々しい顔がきりりと引き締まる。「だったら」と続ける彼のその顔は、赤い。


「俺も、あなたを、名前で呼んでもいい?」

「名前?」

「そう。アマーリエ……さん、って」


だめかな? と、これ以上なく遠慮がちに問いかけられ、アマーリエは考えるよりも先に頷いた。何度も何度も頷いた。そんなことくらいお安い御用なのだから。アマーリエの了承に、明らかに解りやすくほっと安堵の吐息をこぼした彼は、嬉しそうに顔を赤らめたまま笑った。


「ありがとう。それじゃ……アマーリエさん。また」

「は、はい。また」


今度こそ本当に、エストレージャは去っていった。その後ろ姿を最後まで見送ってから、アマーリエはぺたん、といつぞやと同じようにその場に座り込む。顔が熱い。鼓動がうるさい。


「名前で呼ばれるだけなんて、お礼になっていないじゃない」


――そんなの、私が嬉しいだけなのに!


色んな意味で今夜は眠れそうにないと、ほてる顔を覆ってアマーリエは呻くのだった。

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