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《プリマ・マテリアの祝宴》の開催日が、少しずつ、けれど確実に近付いてくる。同時にアマーリエをはじめとした、王宮勤めの……いいや、王宮勤めに限らず、国中の衣装の衣装の製作陣達が、目が回るような忙しさの渦中にいた。

なにせ五年に一度の《祝宴》だ。誰もが普段はできないような美しい衣装で着飾ることを楽しみにしている。その期待に応えるのが仕立て屋というもの。衣装の制作に携わる者は、膨大な仕事を前にしても一着として手を抜くことなく、自らの腕を振るい続ける。

アマーリエもまた、王宮の片隅の作業場で、日々をあらゆる衣装を相手取っている、わけなのだが。


「アマーリエ、いつものお客様だぞ」


何やらにやにやとやけに楽しそうな、アマーリエよりも以前からこの作業場に勤める男性に、ちょいちょいと出入り口を示される。『いつものお客様』。その言葉に驚かなくなったのはいつだっただろう。わりとつい最近のことではあるのは確かだけれど、はたしてそれが喜ぶべきことなのか、そうではないのかは、正直なところ悩ましい。

気付けば周囲の同僚達が、作業の手を止めずとも、ちらちらとこちらを見遣っては、ある者はやはりにやにとしていたり、ある者は微笑ましげに頷いていたり、またある者は頬を染めてうっとりとしていたりしている。その反応は多種多様だが、共通するのは誰もがとても好意的にその『お客様』の来訪を受け入れており、同時にアマーリエを「早く行ってさしあげなさい!」と無言で急かしてくるところだろう。

もうそんな時間だったのね、と頷いて、ちくちくと大量に作っていた若草色のリボンの蝶結びをちらばらないように作業台の上にかき集めてから立ち上がる。

そんなつもりなんてないはずなのに自然と逸る足。そのまま出入り口から顔を出せば、そこには案の定、予想にたがわぬ人物が立っていた。


「こんにちは、プラネッタ嬢」

「ごきげんよう、守護者様」


洗練された所作で一礼してくれる青年、エストレージャに対し、アマーリエもまたお仕着せの侍女服の裾を持ち上げて一礼を返す。

そう、『いつものお客様』とは、何を隠そう、麗しの姫君の守護者たるエストレージャ・フォン・ランセント青年なのである。なにがなんだかどういうわけか、彼は、彼曰くの『お礼』の一件以来、たびたび作業場に現れるようになった。しかも信じられないことに、お目当ては、この自分――アマーリエ・リタ・プラネッタ、である、らしい。

ちょうど昼食を摂るべき休憩時間を見計らって、彼は自分用の軽食を手に作業場にやってきては、アマーリエをご指名だ。


「守護者様、本日はどんなご用件で?」

「……今日も訊くんだね?」

「当然ですわ」

「…………うん、そうだね。その、よかったら今日も、一緒に昼食をどうかな」


おずおずとこちらを見つめてくる鮮やかにきらめく黄色い瞳に、逆らえる者がいるならば、ぜひとも今すぐこの場に割り込んできてほしいものである。

「姫様のお側にいらっしゃらなくてよろしいのですか?」とか、「私などがご同伴にあずかるなんて恐れ多いことにございます!」とか。そういうことは、最初の数回で、それはもう飽きるほどに繰り返し口にしている。けれどそんなアマーリエの体のいい断り文句を、エストレージャはすべてひっくるめて「俺はあなたと一緒に食べたいんだ。もちろん、あなたが嫌でなければ、だけれど」なんて言って、いたいけな幼子のように期待と不安に揺れる瞳で見つめてくるのだからもうどうしようもない。勝てるはずがない。アマーリエは現状連戦連敗で、今日も今日とてせめてもの抵抗に”本日のご用件”を問いかけてはトドメを刺されている。


「私などでよければ、喜んで」


あらゆる方面から引く手あまたで、彼と昼食を摂る栄誉にあずかりたい、お近づきになりたいとこいねがう方々は数えきれないに違いない。

 それなのにその誉れ高き守護者様は、お針子風情との食事を、どうやらとても楽しみにしてくれているらしい。これは自意識過剰ではない。だってそのアマーリエが了承の言葉を口にした途端、彼の凛々しいかんばせに、明らかな喜色ににじみ、ぱあっと輝く笑顔が浮かんだからだ。

今日もなんてまあまぶしいこと……と内心で呟くアマーリエの心境を知ってか知らずか、エストレージャは「じゃあいつもの東屋で」とやはり嬉しそうな笑みを浮かべて続けた。

彼がアマーリエに花束とチーズクッキーを贈ってくれた東屋は、王宮の庭園においても人目から離れた場所にある。だからこそアマーリエは安心してエストレージャとの昼食を受け入れることができるのだ。同僚達はアマーリエとエストレージャのやりとりをあたたかく見守ってくれているけれど、何せエストレージャは、繰り返すが『麗しの姫君の守護者様』だ。お針子風情が彼とお近づきになるのを面白く思わない者なんてごまんといるに違いない。きっと、ではなく確実に、エストレージャ自身もそれを解ってくれているのだろう。いつだって人目を避けた道を選んで、なんなら人の気配を感じたらアマーリエごと身を隠してくれて、東屋まで連れて行ってくれる。


――ここまでしていただくこと、したかしら?

――というか、そこまで気を遣ってくださるなら、そもそも昼食のお誘いを控えてくださるとありがたいのだけれど。


別にエストレージャが嫌いだとか、迷惑だとか、そういうわけではない。ただなぜ彼がアマーリエに近付こうとするのかが、純粋に不思議でならないだけだ。もっと美しい本物のご令嬢やご婦人をお相手に、優雅なひとときを過ごすべきなのではないだろうか。何せ彼は適齢期の最優良物件であるくせに、未だに結婚もしていなければ、婚約者すらいないというのだから。虎視眈々とその座を狙う女性達の、水面下における争いは、うわさに疎いアマーリエに同僚が「だから気を付けなさいね」と心配そうに耳打ちしてくれるほどには熾烈であるらしい。

とはいえ、少なくともアマーリエは、自分の身の程、というものをわきまえているつもりだった。これでもう少し頭の中がお花畑だったら、「守護者様は私にご執心! やったわ玉の輿!!」なんて高笑いしたかもしれないが、それこそまさかだ。あり得ない。あまりにも住む世界が違いすぎる相手を、どうして未来の旦那様だなんて思えるだろうか。


――――でも。


あの花束と、チーズクッキーは、素直に嬉しかった。

花束は最後の一輪が力尽きるまで、寮の自室に、文字通り花を添えてくれた。窓辺に飾ったそれを見るたびに、なんだかどきどきして笑みがこぼれたものだ。

チーズクッキーは、初めて食べる味だった。甘いだけではなく塩気も利いていて、夜食代わりに一枚、二枚で済ませて大切に食べるつもりが、ついぱくぱくと手が伸びて食べ切ってしまい、「もったいないことしちゃった……」と大いに反省したものである。


――……勘違いしてはだめよ、アマーリエ。


到着した東屋で、エストレージャはいつものようにアマーリエを、それこそ高貴な身分の淑女を相手にするかのように手を取って先に座らせてくれる。これはアマーリエが相手だから特別であるわけではなくて、エストレージャの性格によるものなのだ。どんな女性を前にしても、きっと彼は丁重に、大切に、敬意すら払ってその相手を“レディ”として扱うだろう。彼と親交を深める中で、彼がそういう方であるのだと知った。アマーリエだけが特別であるわけでは、ない。

いつも通りの結論に至った途端、ずきん、と胸が痛んだ気がしたけれど、気が付かないふりをして、アマーリエは膝の上に本日の昼食であるサンドイッチの包みを開いた。

アマーリエに続いて隣に腰を下ろしたエストレージャもまた、早速自らの昼食の包みを開いている。彼の今日のメニューは……あれは、なんだろう? 淡い黄色のパンだ。おそらくはクッキー生地と思われるカリカリの生地で表面は覆われ、おしゃれにも格子模様が刻まれている。それから放たれるのは、優しい甘い匂い。まるでお菓子のようだ。青年期の食べ盛りである彼が昼食とするには、少々物足りないのでは、と見つめていると、その視線に気付いたのか、エストレージャの瞳がこちらへと向けられた。


「どうかした?」

「あ、い、いいえ。不躾に申し訳ありません。そのパンが気になって……」

「ああ、これ?」


合点がいったというように頷いたエストレージャは、「これはね」とためらうことなくそのパンを、両手で半分に割った。ぱちり、と目を瞬かせるアマーリエが見たのは、パンの中身だ。いかにもおいしそうな、照り照りと艶めく煮込まれた豚肉が、パンの中に閉じ込められていたのである。想定外の中身にそのまま何度も目を瞬かせていると、エストレージャはどこか得意げに笑った。


「母の手作りでね。いつも昼食は母が持たせてくれてるんだけど、今日はこれを久々に食べたいって言ったら作ってくれたんだ」

「守護者様のお母様の……」


姫の守護者ともあろう尊き身分にある方ならば、姫とともに昼食も、王宮の料理長がここぞとばかりに腕を振るったご立派な宮廷料理を口にされるはずだ。けれど彼は、アマーリエと共にこの東屋で昼食を摂るときは、いつも手軽な、それでいてとてもおいしそうな軽食を用意していた。てっきり王宮の厨房に特別に作ってもらっているのかと思っていたけれど、なんと自宅から持参していたのか。


――なんだか、意外だわ。


特別な方は特別な食事を摂るものだと思っていた。尊き身分にある方は、それ相応の手間暇がかけられた、とっておきの食事を摂るのだと。けれど、そうではないらしい。彼は母君の御手を借りつつ、王宮で働く多くの者と同じように、自分で食事を用意している、らしい。

特別な方のくせに、当たり前のように当たり前のことをする方なのだ。アマーリエのことを軽んじることなく相手にしてくれる彼は、特別な方だけれど、すべてが特別なわけではない、のか。

その事実がなんだかとても不思議で、何と言っていいのか解らなくて、ついアマーリエはそのままじいとエストレージャの手の中のパンと見つめた。その視線を、彼は違う意味で受け取ったらしい。


「よければどうぞ」

「えっ?」


なんと彼は、両手に持っていた半分に割ったばかりのパンの片方を、あろうことかアマーリエに差し出してきたのである。想定外の事態に硬直すると、エストレージャは柔らかく笑って「はい」とそのままアマーリエの手を取って、パンを握らせてきた。お断りする隙はなかった。しばし呆然と渡されたパンを見下ろしてから、遅れてハッと息を呑む。


「う、受け取れません! そんな、もったいない……! 守護者様のご昼食をいただくなんて!」

「でも、食べてみたいだろう? だからこれを見ていたんだろうなって思ったんだけど、もしかして違った?」

「そ、れは、その……」


まさか馬鹿正直に「意外と庶民派なんだなって思ってました」なんて言えるわけがない。他に言い訳が見つからず、朱色の瞳をうろうろと泳がせるアマーリエに、エストレージャは困ったように眉尻を下げた。


「……味は絶対に保証するけれど、迷惑なら、無理にとは……」

「なっ!? め、迷惑だなんてとんでもございません! ただ、私がこんなにも頂いてしまったら、守護者様のお腹には足らなくなってしまうんじゃないかと、あの、その……」


だから、と、もにょもにょと口ごもると、ぱちん、と、エストレージャの黄色い瞳が大きく瞬いた。「そんなこと?」と大きくその凛々しいご尊顔に書かれている。けれどアマーリエにとっては『そんなこと』程度ではない。次代の女王たる姫君の守護者様にはいつだって万全の状態でいてほしいと思うのは当たり前だろう。ううん、たとえ、そう、たとえ、”守護者様”じゃなくたって、この方には……と、そこまでアマーリエが思ったところで、「だったら」とエストレージャが口火を切った。

思考を断ち切られながらも改めて彼の顔を見遣れば、エストレージャは、ちょいちょい、と、アマーリエの膝の上を指差した。


「かわりに、それ、一つもらってもいい?」

「ええっ!?!?」


先ほどよりもよっぽど大きな声を上げてしまったのも無理はない。アマーリエの膝の上にあるのは、自分のための昼食のサンドイッチ。朝が早いアマーリエが、寮の厨房を借りて自分で作ったサンドイッチだ。この手にあるエストレージャのパンとは、どう考えたって釣り合わない。それなのに。


「……だめ、かな?」

「~~~~~~~~~~っ!」


まただ。またこれだ。期待と不安に揺れる、綺麗な綺麗な黄色い瞳。まるで星のようにきらめくその瞳に、勝てるわけがないのだ。


「…………出来合いのものと違って、私が作ったものですから、本当に大したものではありませんよ? 期待しないでくださいね?」

「……待って。あなたが作ったのか?」

「はい、ですから……」


やはり断ってくれて構わない、と、そう続けるつもりだった。けれどその前に、エストレージャが身を乗り出してくる。えっ? と思う間もなく彼の唇が動く。

 

「欲しい」

「え」

「ぜひ、譲ってほしい。食べたい」


なぜか驚くほど真剣な真顔で言われた。大真面目がすぎるそのかんばせの迫力に圧倒されつつ、アマーリエはほとんど反射的に、サンドイッチを一つ差し出した。

 

「え、あ、ど、どうぞ……?」

「っありがとう!」


守護者様はそんなにもサンドイッチがお好きなのかしら、と首を捻るアマーリエの前で、エストレージャは嬉しそうに、そして同時にどこか緊張した面持ちで、驚くほど丁寧な所作でサンドイッチを口に運んだ。彼が普段口にしているものとは比べ物にならないだろうに、それなのに彼は、ふんわりとその表情をやわらげた。


「とてもおいしい。ありがとう、プラネッタ嬢」

「こ、光栄です……」


お世辞だろうがなんだろうが、とりあえず他に言葉が見つからず、アマーリエは力なく笑い返し、そのまま、無意識に手に持っていたもの――つまりはエストレージャから渡されたパンを口に運んだ。


「――――!」


最初の歯ざわりは、さく。そのまま、ふんわりと。そして中身の豚の煮物は甘辛く味付けされており、とろとろと口の中でほどけていく。パンの表面を覆っていたクッキー生地がとてもいい仕事をしている。豚の煮物の甘辛さに、クッキー生地の優しい甘みが重なって、これはクセになりそうだ。まずは一口。そう思っていたはずだったのに、気付けば無心になって次の一口へと勝手に進む。

自分が実は空腹であったことを、ここに来て思い出し自覚した。けれどこのおいしさは、空腹によるものばかりではないことくらい解る。初めて食べる味だけれど、間違いなくとてもおいしい――――と、そこまで思ってから、はた、とアマーリエは固まった。こちらを見つめてくる視線に気が付いたからだ。エストレージャが、なんとも嬉しそうに、こちらをじっと見つめているのである。

そのまなざしに、かあっと顔が赤くなるのを感じた。淑女にあるまじきがっつき方で食べていた自分に気付かされ、ごくんと口の中身を飲み込む。ふふ、とエストレージャは笑った。


「おいしいだろう?」


その声の、なんて誇らしげなことだろう。こくこくと頷きを返すと、彼はより笑みを深めて、そうしてゆっくりと自身の昼食を再開する。彼の口に吸い込まれていく自分が作ったサンドイッチが、なんだかとてつもなく手間暇をかけた宮廷料理にも負けないものに見えた。そして、今、自分がかじりついていた、豚の煮込みが閉じ込められたパンも、また。

大層不思議な気持ちだった。残りのパンを再び口に運ぶ。やはりおいしい。これを、エストレージャもまたとてもおいしいと思っているのだろう。やはり大層不思議だった。


「守護者様は、いつもこんなにもおいしいものを食べていらっしゃるんですね」

「母が料理上手だから。貴族らしくないって言われてもぜんぜん気にしない人でね。……あのさ、プラネッタ嬢」

「はい、なんでしょうか、守護者様」

「それ」

「え?」


それ、とは。どれのことだ。首を傾げてみせると、エストレージャの顔に朱が走った。「ええと」だとか「その」だとか「あの、だから」だとか、あれそれと言いあぐねて、やがて意を決したようにきゅっと一旦唇を引き結び、そして再びそれが開かれる。


「守護者様、じゃなくて、名前で呼んでほしいんだけど……」

「まあ、守護者様。それは流石に無礼が過ぎますわ。私とてこれでもプラネッタ伯の娘。尊きお方のお名前を気安く呼ぶような真似はできません」


何を言い出すかと思ったらそんなことか。拍子抜けしたアマーリエは、あっさりとかぶりを振った。彼の名前を口にしたことはあるけれど、まさか本人に向かって直接呼びかけるなんて不遜な真似がどうしてできようか。女神に守護され、精霊の恩恵を受け、魔法が人々の生活に深く根付くこの国において、『名前』というものがどれだけ重要であるかということくらい、アマーリエも理解している。いくら親しくなりつつあるからとはいえ……いいや、親しくなりつつあるからこそ、礼儀はわきまえなくてはならない。

そうでしょう? という意味を込めて笑ってみせると、エストレージャはなぜかがくりと肩を落とした。


「守護者様?」

「なんでもない。うん、ごめん、変なことを言ったね」

「はあ……」


何を思って彼が名前で呼べだなんて言いだしたのかは解らないが、とりあえず納得してくれたらしい。気まぐれに言ってみただけでしょうね、当たり前だわ。そう結論付けてアマーリエは再び食事を開始して、エストレージャもまたもくもくと食べ始める。特に何を話すでもない、静かな時間だ。穏やかな時間でもあるそれは、不思議な居心地のよさに満ちていた。 

不意に風が吹く。秋の匂いが東屋を走り抜けていき、エストレージャの、うなじでまとめられた長いアッシュグレイの髪がさらりと流される。


「いい風だね」

「……はい、本当に」


涼やかな風に目を細めるエストレージャを、アマーリエはかろうじて同意の言葉を口にしながら、ただ見つめることしかできなかった。

かくしてその日の昼食は終了し、それからもたびたび、やはりエストレージャはアマーリエを昼食に誘ってくれた。彼はどうやらアマーリエが、彼が持参する昼食を気にかけるようになったことに気付いてしまったらしい。気付けばその後は、互いの昼食を半分ずつ交換するようになるだなんて、誰が想像したというのだろう。


「いいのかしら」


職人から届けられたばかりの新たな反物を抱えて王宮の回廊を歩きながら、アマーリエはぽつりと呟いた。呟いてから、ひとり、ふるりとかぶりを振る。いいはずがない。よくない。とてもとてもよくはない。

あの尊き守護者様と昼食をともにするばかりか、その昼食を交換し合うという、お針子風情にはあまりにも身に余るこの光栄。そうだとも、光栄だと思うべきことだ。それは解っている。よくよく解っているとも。だが、しかしだ。


「身の程知らずにもほどがあるじゃない……」


彼と親密な関係になってそれから……なんて考えられない。だって彼は雲の上のような人。住む世界の違う人。それなのに。ああ、それなのに。

考えれば考えるほど頭が痛くなり、歩む速度は遅くなり、腕の中の反物がずっしりと重くなっていく。常ならば作業場に直接届けられる反物だが、秋が深まりいよいよ《祝宴》が迫りつつあることで、もう一分一秒でも惜しくなり、王宮の入荷口にまでわざわざ足を延ばしたのだ。おかげで最短で受け取ることはできたものの、ちくちく縫い針を操っていないと、こうしてつい一人で悩んでしまう。

どうすればいいのだろう? そして、あの守護者様は、どういうつもりなのだろう?

いくら考えても答えが出ないその問いに深く溜息を吐き出して、とぼとぼと歩む。やっともうすぐいつもの作業場だ。仕事に没頭すれば余計なことで悩まなくてすむ。そうだ、こんな『余計なこと』なんて、考えている暇は今のアマーリエにはないのだから。

そう気を取り直して、よし、と今度こそ力強く足を踏み出した、そのときだ。


「――――何が、守護者様だ!」


そんな言葉が、聞こえてきた。お世辞にも穏やかとは言い難い、なんとも憎々しげな、もう罵声と表現しても過言ではないほどの声だった。いくら片隅であるとはいえ、王宮は王宮だ。この場においてはあまりにも不穏な声に、反射的に足を止める。

ちょうど作業場に向かう先の廊下に、二人の衛兵がいた。見かけたことのない二人だが、その軍服の襟の刺繍を見るに、紅薔薇宮の担当らしい。


――どうしてこんなところに?


王族の皆様が住まう宮。それが紅薔薇宮だ。そこを担当する衛兵ともあれば、より厳しく移動が制限されるだろうに、こんな王宮の片隅にまでやってきて、一体何の話をしているのだか。

二人はこちらにまだ気付いていないらしい。それをいいことに、不穏な雰囲気に割り込むのははばかられて柱の陰に身を隠す。どうしよう、と、今度は小さく溜息を吐き出したアマーリエにはやはり気付かず、衛兵二人は口々に怒鳴り散らし出した。


「どいつもこいつも『守護者様』、『守護者様』! もとは平民の生まれのくせに、えっらそうに!」

「ああ、まったくだ! どうして俺達のほうが頭を下げなきゃならないんだ」

「シャーロットのやつ、『守護者様のお近づきになりたいからなんとかして』だと!? 婚約者は僕だぞ!?」

「イザベルもだ! 『紅薔薇宮務めならなんとかできるでしょ』って……俺のことをなんだと思っているんだ!」


――あらぁ、これは……。


どうやら、あの二人の衛兵は、想い人の心が、我らが守護者様のもとにあることが許せないらしい。その愚痴を吐き出すために、持ち場である紅薔薇宮を離れて、わざわざ人通りのがほとんどないこの辺りまでやってきたということか。

なんというか、「お気の毒様」という気持ちである。姫君の守護者たるエストレージャが、その座に着任したのは、アマーリエが王都にやってくる前の話だ。守護者として努めてきた期間は、決して短くはない、と言っていいだろう。だが、長い、と断言するには、少しばかりまだ足りないかもしれない。

女神の巫女姫たる王国の至宝、未来の女王陛下たる姫君。彼女はかつて魔王討伐隊の一員として王都を離れたが、本来であれば、その時点では既にエストレージャは彼女の守護者として存在しているはずだったという。我らが女神は春を司り、神殿はそんな彼女を唯一神として尊んでいた。だが、そんな女神の守護神として、冬を司る古の神もまた存在するということが、古き伝承にはあるという。その冬の神の末裔がエストレージャであり、彼はかの神の役目を引き継いで、姫の守護者として生まれた時点で保護されるはずだったのだとか。けれど不幸が重なりそれはかなわず、ようやく数年前に彼は国に保護され、本来の役目を認知された。

何も知らなかった国民は、誰もが大層驚いたが、それでもエストレージャの存在の偉大さが知れ渡るとともに好意的に受け止められるようになった。そう、そのはずだったのだけれど。


――何事にも例外ってあるのよね。


特に、色恋沙汰においては。衛兵二人はまだ散々にエストレージャのことを罵っている。想い人の心を自らの元に取り戻そうともせずに、エストレージャを罵倒することで気を晴らそうとするだなんて、なるほどご立派な衛兵様だ。


――そんなお方じゃないのに。


少なくともアマーリエの知るエストレージャは、ここまであしざまに罵られていいような青年ではない。本当にご立派な守護者様なのだ。これ以上彼への悪口を聞いているのは苦しくて、アマーリエは作業場まで迂回して向かおうと、そっと足を踏み出した。だが。


「神の末裔だとかなんとか言って、結局、化け物ってことじゃないか!!」

「――――――っ!?」


その、言葉に。気付けばアマーリエの身体は動いていた。迂回するために踏み出した足の方向がくるりと反転する。そのまま柱の影を出て、ツカツカツカツカツカツカ! と足音も高らかに、アマーリエは衛兵二人の元へほとんど駆け寄るような速度で歩み寄る。

突然現れたアマーリエに、自分達の発言がまずいものであるという自覚はあるらしい衛兵達はさっと顔色を変えるが、かまってなんていられない。


「訂正してください」

「は?」

「なんだと?」

「守護者様が、化け物であるというその言葉。訂正を要求します」

「はあ?」


淡々と、だが力強くそう告げたアマーリエに、衛兵達の表情が、焦りをにじませたそれから、苛立ちを大いににじませたそれへと変わる。いかにも「お前も守護者様信者か」とでも言いたげな、今にもこちらを怒鳴りつけてきそうな雰囲気を放ち始める二人を前にしても、アマーリエは引こうとは思わなかった。思えるはずがなかった。


「守護者様は、確かに只人とは異なる方かもしれません」


そうだ。彼は違う世界に住む人だ。けれど、アマーリエは知っている。彼が、それだけの人ではないということを。


「守護者様は、私達とは違う世界を見ていらっしゃるかもしれません。ええ、間違いなく特別なお方でしょうとも。私達とは違う世界に住まわれるお方ですわ」


出会ったときから感じていた。その後、顔を合わせるたびにも。ああ、違うのね、と。彼はアマーリエには手が届かないお方なのだと、何度思い知らされたことか。そんなことはない、と、たわむれに思い込もうとすることすらおこがましい、特別な人。けれど、けれど。アマーリエは、知っているのだ。


「あの方は、私達と同じものを見て美しいと思われる方です」


初めて貰った雛菊と酢漿草の花束。


「同じものを食べておいしいと思われる方です」


チーズクッキーも。サンドイッチも。豚肉が閉じ込められたパンも。それからやりとりした、たくさんの昼食も。


「同じ風を心地よく感じられる方です」


秋風に目を細める彼の横顔の穏やかさ。そして、それから。何より。


「あの方は、エストレージャ様は、同じ言葉で笑い合ってくださる方です!」


アマーリエの前で見せてくれた、穏やかな笑顔。はにかんだ笑顔。嬉しそうな笑顔。何もかもを覚えている。だからこそ!


「そんなエストレージャ様の、どこが化け物だというのですか!」


彼は確かに姫君の守護者だ。特別な人だ。けれど同時に、エストレージャ・フォン・ランセントという、とても優しくて、とても繊細な、一人の青年でもあるのだ。どこにでもいる、穏やかな、普通の青年なのだ。

そんな『当たり前』のことを、自分こそが気付いていなかったことを、最初から特別だと決めつけて気付こうともしていなかったことに、やっと気付く。やっと気付けたからこそ、ここで黙ってなんていられるはずがない。


「どうか訂正を。エストレージャ様は……っ」


更に言葉を重ねようとしたのだが、それはかなわなかった。はたと気付けば、目の前の衛兵二人は、顔色を、完全に怒りに染め上げていた。憤怒の表情でこちらを見下ろしてくる二人に、ひゅっと息を呑む。でも、ここで引くなんて真似は、誰が許しても、たとえエストレージャに許されたとしても、アマーリエ自身が許せない。だからこそ「好き放題言いやがって!」と振り上げられた衛兵の手に、身構えることを選んだ。

そして。


「――――何を、している?」


襲い来るはずだった衝撃の代わりに降ってきたのは、低い声だった。まるで狼が唸るかのような声。圧倒的な、怒りに満ちた声だった。ぽかん、と口を開けて固まるアマーリエの前にある、細身だけれど、不思議と広く見える背中。その背に流された、まるでしっぽみたいなアッシュグレイの長い髪。


「エストレージャ、さま」


そう呆然と呟けば、彼は肩越しにこちらを振り返って困ったように微笑み、そしてそのまま視線を前方へと戻す。彼の視線の先にいる衛兵二人の顔は、先ほどまでの真っ赤とは大違いの真っ青、どころかもう、真っ白、いやいや、もはや土気色と言っても過言ではないそれになっていた。


「聞かなかったことにしよう」


静かな声で、彼は――――振り上げられた衛兵の手をようやく解放したエストレージャは、そう言った。

ひゅっと息を呑んだ衛兵達は、震えながら敬礼したかと思うと、揃って踵を返して走り去っていく。

残されたのはいまだ呆然としているアマーリエと、こちらに背を向けたままのエストレージャだ。


――助けて、くださった……。


それはいい。ありがたい。嬉しい。そう、とても。けれど喜んでばかりもいられない。


――いつから話を聞いていらしたの!?


まさかあの衛兵の、決して許してはならない、あまりにも許しがたい発言を、聞いてしまっただろうか。彼は優しくて繊細な『当たり前』の青年なのだとやっと気付けたからこそ、あの言葉にそのやわい心が傷付けられてしまったのではないかと思うと、アマーリエこそぎゅうと胸が潰れる思いだった。


「エ、エストレージャ様、あの……」


そっと呼びかけると、彼はゆっくりとこちらに身体ごと振り返る。その凛々しいかんばせに浮かぶ表情は、先ほどの声が嘘だったのではないかと思うくらいに、驚くほど穏やかで、アマーリエは小さく息を呑む。そんなこちらを見下ろして、彼は小さく笑った。


「名前」

「え?」

「名前。呼んでくれるんだね」

「え、あっ!? 申し訳ございま……!」

「謝らないで。嬉しい」


とても、と、噛み締めるようにそう続ける彼の、エストレージャの、その星のようなきらめく瞳から、ぽろりと。信じられないことに、そう、ぽろりと、涙がこぼれた。

目を見開くアマーリエの前で、その涙は留まることなく、次から次へと流れ落ちていく。あまりにも静かに彼が泣き出したことに、大きく動揺する自分がいる。


「エストレージャ様!? どうなさったのですか!? や、やっぱりさっきの衛兵さんの言葉を聞いて……!?」

「違う。違うんだ」

「でもっ」

「違うんだ、プラネッタ嬢」


抱えていた反物を取り落として慌てるアマーリエの右手を、エストレージャの両手が包み込む。へっ!? と身体を震わせるこちらに構わず、彼はそのまま、アマーリエの手を持ち上げて、自らの額に押し当てた。まるで祈りをささげるようなその姿に、どうしたらいいのか解らなくなってしまう。


「化け物って、言われることは慣れてるんだ。今更傷付きなんてしない」

「っ!」


そんな悲しいことを言わないでほしかった。化け物なんかじゃない。あなたは、とても優しい、素敵な人です。そう口を開こうとしても、できなかった。それよりも先に、彼のほうが口火を切ったからだ。


「俺はもう、大丈夫なんだ」

「で、でしたら、どうして泣いて……」

「うん、困らせて、ごめん。とまらなく、て。これはね、プラネッタ嬢。俺は、嬉しいんだ」

「え……?」


予想だにしなかったその言葉にまじまじとエストレージャの顔を見上げる。額にアマーリエの右手を押し当てたまま、今もなお涙を流してこちらを見下ろす彼の瞳が、きらきらきらきら、星のように輝いている。


「悲しくて泣いてるんじゃなくて、嬉しいんだ。あなたの言葉が、俺は、とても嬉しい」


そうして、彼は、ようやくアマーリエの手を額から離し、けれどなおも優しく、そして強く両手で包み込んだまま続けた。


「いずれ必ず、あなたの言葉に俺は報いよう。ありがとう、プラネッタ嬢」


涙に濡れるその笑顔の、なんてうつくしいことだろう。

アマーリエは、ただ、その笑顔に、あらゆる言葉を忘れて見惚れるのだった。

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